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みずたまりのほとり(ゆたか視点・3日目)

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だれでも歓迎! 編集
次の日の朝…。
お姉ちゃんは、苦しそうにベッドに寝ていました。

「…38度7分」

おじさんが、体温計の数字を読みました。

「学校行くの…無理かな…?」

「無理に決まってるだろ。静かに寝てなきゃ」

お姉ちゃんの苦しそうな言葉を、おじさんが即座に打ち消しました。

「ゆーちゃん、ごめん…学校、一人で大丈夫かな…」

こんな状態でも、私のことを心配してくれるお姉ちゃん。

「大丈夫だよ。だから、ゆっくり休んで」

学校に行く準備はもうできていました。

「行ってきまーす」

私は一昨日の朝までと同じぐらい元気に見えるように、家を出ました。
…元気に、見えるように。

家から見えないところまで来たとたんに、足が重くなりました。

(大丈夫なの?本当は、いじめられて我慢できなかったら
 お姉ちゃんのところに行って泣き付こうって思ってたでしょ?)

『私』の言葉をきっぱり否定できない自分が…嫌でした。

(代わりはふゆき先生かな?…でも、保健室に行ったら
 『あらあら、またおもらしですか?』って迷惑がられたりしてね)

「………」

重い足取りで駅まで行って、電車に乗りました。
引き返さなかったのが、自分でも不思議なぐらいです…。

電車から降りて、バスに乗って…。
周りに同じ制服の人が多くなってきました。

(同じクラスの人は今のところいないね。
 でも、おもらしのこと、知ってる人はいると思うよ。
 そういう噂はすぐ広がっちゃうからね…)

私はずっと、顔が見えないように下を向いていました…。

バスが学校前のバス停に着いて…バスから降りました。

「ゆたか…」

バス停の前に、一番会いたくて…一番会わなきゃいけない人。
みなみちゃんが立っていました。

「み…」

喋ろうとした、そのとき。

(『近付かないで…おしっこくさくなっちゃう』)

『私』が、あの夢の中のみなみちゃんの言葉を繰り返して…。

「……!」

…気が付いたら、私はみなみちゃんを置いて駆け出していました。

………

「はぁ…はぁ…」

校舎の前までぱたぱた走っただけで、疲れ切ってしまいました。
この前は学校のマラソン大会も完走できたのに…。
自分がどこまでも弱気になってるってことを、実感しました。

振り向いてみても、みなみちゃんはいませんでした。

(追いかけてきてくれると思った?
 せっかく待っててくれたのに、話もしないで逃げといて…)

おもらししたのはみなみちゃんのせいじゃないって、伝えなきゃいけなかったのに。
私は、せっかく訪れたチャンスを自分で蹴飛ばしてしまいました。

…学校にいれば、またチャンスはあるよ。

自分をそう慰めながら、一人でとぼとぼ教室まで行きました。
教室に一歩入ると…みんなの視線が集まってくるのを感じました。

(『おもらし女』…『きたない』…『出て行け』…)

『私』がまた、夢の中で聞いた言葉を繰り返して…
私は鞄を投げ出すように机に置いて、教室から駆け出しました。

誰もいない空き教室の、外から見えない隅っこに座り込んで、
気がつくと、HRが始まるチャイムが鳴っていました。

先生がいれば…いじめられない…たぶん。

恐る恐る教室の前に戻ると、ちょうど先生が来るところでした。
先生と同時に教室に入って、席につきました。
席についてからも、ずっと下を向いて息を潜めて、気配を消そうとしました。
石ころみたいに、誰も私の存在を気にしないでくれるように祈り続けました。

………

1時間目の授業が始まって…終わりました。

すぐ教室から出て、さっきの空き教室の、さっきと同じ隅っこに座り込んで、
2時間目のチャイムが鳴るまで時間を潰しました。
チャイムが鳴ると、教室に戻って…先生と同時に中に入りました。

………

2時間目の授業が終わると、すぐまた同じ空き教室に行って、座り込みました…。

(こんなので、みなみちゃんと話すチャンスがあるの?
 一昨日は保健室で会いたくないって言って、今朝は待っててくれたの無視して、
 それでもみなみちゃんが諦めないで探しに来てくれるとか、思ってる?)

「………」

『私』の声に何も言えないでいるうちに…3時間目のチャイムが鳴りました。

………

3時間目が終わって…また休み時間。
また空き教室にいると…。

がらっ。

突然、誰かが入ってきました。
もしかして…。

「小早川さん…こんなところにいたんだ」

入ってきたのは…田村さんでした。
田村さんが近づいてきます。

「あのね…小早川さん…」

(『小早川さんのおもらしイラスト描いてみたんだ。見てくれる?』)

『私』がまた、あの夢を思い出させる言葉を繰り返して…
私は慌てて立ち上がって…。

「あ、待って…!」

田村さんの声も無視して、空き教室から駆け出しました。
空き教室が見えなくなる辺りまで走って、振り返ってみると…
田村さんは追いかけてきてはいませんでした。
そのままあてもなく廊下を歩いていると、4時間目のチャイムが鳴りました。

………

4時間目が終わって…昼休みです。
お弁当を持って、私は教室から駆け出しました。
あの空き教室はもうだめだと思って…屋上に行ってみることにしました。

屋上には誰もいませんでした。
お弁当を食べて、5時間目のチャイムが鳴るまでそのまま時間を潰しました。
次の休み時間も、ここで時間が潰せるかもしれません。

………

5時間目も終わって、屋上で時間を潰して…。6時間目が始まりました。
黒井先生の授業でした。
このまま一日が終わる…そう思っていました。

でも…その授業中に、今までと違うことが起きたのです。

誰かが、私の背中をつっつき始めました。

(とうとう、授業中でもいじめが始まったかな…?)

やめて…。
私は石ころだよ…相手にしないで…。

気付かないふりをしていると…その誰かが、もっと背中を強くつっつきました。
そのつつき方は、遊んでいるんじゃなくて、まるで助けを求めるかのようでした。
恐る恐る振り向くと…田村さんでした。
田村さんは下を向いたまま、震える片手で私に1枚のメモを差し出していました。
田村さんは、もう片方の手で顔を覆っていたので表情は分かりませんでしたが、
全身が苦悶に震えていて…ものすごく追い詰められているのが分かりました。

メモを受け取ると…乱れた走り書きでこうありました。

『いわさきさんがおもらししちゃう』

「!?」

みなみちゃんを見ると…、
顔が青白くて、視線が虚空をさまよっていて、
全身ががたがた震えていて、呼吸も苦しそうで…。
あの時の私と同じ…いえ…もっとひどい状態に見えました。
スカートは濡れてなくて、まだ手遅れではないようでした。
でも…いつそうなってもおかしくない状態でした…。

それだけのことを即座に見て取った、その直後。
みなみちゃんも私の方を見て…視線が合いました。

みなみちゃんは、視線で私に『何かをして』と訴えていました。
でも…どうしても『何をしてほしいか』が分からないのです。
普通、こんな状況だったら『助けて』だと思います。
なのに『助けて』じゃないことだけが分かるのです…。

みなみちゃんの視線が『早く…もうあんまり待てないよ…』と訴えてきます。

待てないのは分かるの…。でも、どうしてほしいか分からないんだよ…。
『助けて』じゃないなら…何をしてほしいの?
こんな状況で、他にしてほしいことなんて、思いつかないよ…。

…焦っているうちに、周りの人がみなみちゃんの様子に気付き始めました。
少しずつ、視線がみなみちゃんに集まっていきます…。

「…ん?」

黒井先生もとうとう気付きました。もう考えてる余裕はありません。

がたっ!

黒井先生が言葉を発する前に、私は大きな音を立てて立ち上がりました。
みんなの視線が、みなみちゃんからこちらに移りました。
みんなに見られるのは嫌だったけど、今はそんなこと気にしていられません。

「先生…みなみちゃ…岩崎さん、具合が悪そうなので、保健室に連れて行きます」

とっさに考えた、無難な言葉。

「…あー、ウチもちょうど今気付いた。
 めっちゃ顔色悪いし、震えとるし…岩崎、無理せんと早く行っとき。
 言いだしっぺやし、小早川、頼めるか?」

黒井先生はすぐに許可してくれました。
私は急いでみなみちゃんに駆け寄りました。
みなみちゃんは震えながら、切なげに私を見つめてきます…。
さっきはびっくりしていて気付きませんでしたが…かわいいです。
いつもクールなみなみちゃんが、おしっこしたくて震えてる。
そのギャップが、さらにかわいさを後押ししてて…。

このまま、みなみちゃんがおもらしするの…見たい…。

一瞬だけ…本当に一瞬だけ、そんないけないことを考えてしまいました…。

「…行こう、みなみちゃん」

いけない考えを振り払って、そう言うと…みなみちゃんは首を振りました。

「だめ、行けない…」

「無理しちゃだめ、行こう!抱っこはできないけど、支えるから…!」

このままここにいたって、いずれ限界が来ておもらししてしまうだけです。
みなみちゃんは私なんかよりずっと意思も体も強いから、
こんな状態になっても、まだ動けるかもしれない。
その可能性に賭けるしかありません。
私はそっと、みなみちゃんを立たせるために手を伸ばしました…。

…みなみちゃんの表情が変わりました。
目が潤んで…幸せな夢を見ているような、不思議な微笑が浮かびました。
その微笑を見たとき…一つの予感がしました。

私が触ったら…みなみちゃんはおしっこをしちゃう…。

思わず、伸ばしかけた手を止めました。
すると…みなみちゃんは困ったような表情になって…。

『どうしたの…ゆたか、早く触って…』

視線でそう訴えてきました。
さっきと違って、今訴えていることははっきり分かりました。

だめだよ…触れないよ…。だって、触ったら…。

『…早く、ゆたか…』

…どうしたらいいの?
このまま諦めたら…みなみちゃんはここでしちゃう…。
でも…連れて行くために触れば…それでも…。

『時間をかけるなんて、残酷だよ…』

みなみちゃんが懇願するように見つめてきます…。
その視線は、ずるいって思うぐらい魅惑的で…。
気が付いたら、操られたように手が動いていて、
みなみちゃんの腕をそっと掴んでいました…。

「あ……」

吐息交じりのぞくっとするような声と共に、
みなみちゃんが目を閉じて…おなかの緊張を解いたのが分かりました…。

「だめえええっ!」

「!!」

私の絶叫で、みなみちゃんがびくっと体を震わせて…、
気を失いかけたように一瞬よろめいて…、
放心したように再び私を見つめました。

そのときの私は、みなみちゃんがおしっこをしてしまう気配で
パニックになって叫んでしまっただけでした。
それが、予想外の奇跡を起こしました。
びっくりしたことで、みなみちゃんの体のおしっこを出す動作が
止まってしまったようなのです。

(だめ…ここでしちゃだめだよ!トイレ行こう…みなみちゃん!)

私は、誰にも聞こえないように囁きました。

夢から覚めたように、みなみちゃんの瞳に生気が戻って、
触ったらもらしちゃうという予感が消えました。
今ならみなみちゃん、動けそうです…。

「立たせて、いい?」

「…うん」

私はそっとみなみちゃんを立たせました。

「歩ける…?」

みなみちゃんは、私の言葉で恐る恐る一歩を踏み出しました。

「歩けそう…少しの間なら」

「じゃあ行くよ。ゆっくり、急いで」

私は、みなみちゃんを支えて教室から出ました。
教室でざわめきが始まって…ここまで聞こえてきました。

「トイレだったよな、どう見ても…」

「間に合うかな、あんな状態で…」

「そういや岩崎、5時間目から様子変だったような…」

「今日、岩崎さん、席から離れたの一回も見てない…」

「じゃあ、もしかしたら一回もトイレ行ってないってこと?」

「どうして…?」

「……もしかして、小早川…」

「はいはい、つまらん詮索すな。授業続けんでー」

黒井先生がざわめきを鎮めて、何も聞こえなくなりました。
…今は余計なことを考えてる暇はありません。
お手洗いまでゆっくり、急がなきゃ。

………

無事にお手洗いに着きました。
個室のドアを開けて、みなみちゃんを中に入れました。

「もう大丈夫…離していい…外に出てて…」

みなみちゃんの言葉に従い、そっと体を離して、
お手洗いの外まで駆け出しました。

お手洗いの前で一人になって…さっきの続きを考えました。

聞こえた言葉が本当なら…
みなみちゃんは、わざとおしっこを我慢していたことになります。
最後の、途中で遮られた言葉を思い出して、どきっとしました。

『……もしかして、小早川…』

もしかして…みなみちゃんは…
私のために、私と同じようにみんなの前でおもらしするつもりだったの?

…そんなの、何の意味もない。
おもらしした人が増えたって、私はしたことは消えない。
みなみちゃんも私のとこまで落ちちゃうだけ…誰も救われない。

みなみちゃんも同じように傷付いて…いじめられる…。
想像しただけで、悲しくなって…、
どうしてそんなばかなことするのって、理不尽な怒りも湧いてきて…。

…待って。落ち着こう。
周りの人の言葉から、私が勝手に想像してるだけ。
みなみちゃん本人に聞かなきゃ、本当のことは分からない…。

何とか心を落ち着けたところに…みなみちゃんが、お手洗いから出てきました。
つい、気になって下の方を見て…、
みなみちゃんが素脚なのに気付いて、どきっとしました。

「みなみちゃん…タイツ、もしかして…」

「今日は、はいてきてない」

「そ、そうだっけ…。じゃあ…大丈夫だった?」

「うん」

「少しも?」

「うん。確認した…」

ひとまず、安心です…。

…でも、みなみちゃんの顔色はおしっこを我慢していたときと同じぐらい悪くて、
その上…どこか痛いのを我慢しているように見えました。

「みなみちゃん…どこか痛いの?」

「…う、うん。おなかが…ちょっと」

ちょっとには、見えませんでした。

「もしかして…膀胱、傷めちゃったのかも…」

私よりずっと意志の強いみなみちゃんが、歩けなくなるほど我慢したのです。
膀胱にかかった負担は私の場合とは比べ物にならなかったはずです。

「そうかもしれない…でも、どうでもいいから…」

「どうでもいいって、そんな…!」

「え…。あ…ごめん、大丈夫だから、って言いたかった」

そう言って微笑んで見せるみなみちゃんは、大丈夫になんて見えませんでした。
話をするのも辛そうで、本当に保健室に行って休んだ方がいいぐらい…
それどころか…今すぐ病院に行かなきゃいけない状態にだって見えました。

「…みなみちゃん」

なのに私は、みなみちゃんに本当のことを聞きたい気持ちを抑えられませんでした。

「教室から出た時、みんなが話してたの聞こえたんだけど…。
 5時間目から…もしかしたらもっと前からずっと我慢してたみたいだって。
 …本当なの?」

「…うん」

みなみちゃんは少しためらってから、肯定しました。

「どうして?」

「………」

みなみちゃんは何も言いませんでした。
それは、私の『どうして?』が聞こえなかったからじゃなくて、
理由がなかったからでもなくて、私が悲しむような理由だから言えないのです。

「みなみちゃん…みんなの前でおもらしするつもりだったんだね。
 私がしちゃったからって…同じようにって…」

みなみちゃんは…さっきより長い間ためらって…そっと肯きました。
さっきの悲しみと、理不尽な怒りが心の中にまた燃え上がって…。

「……ばかあっ!」

気が付いたら叫んでいて、みなみちゃんがびくっと体を震わせました。

「みなみちゃんまでおもらししたって、何にもならない!
 私がしちゃったことは消えないよ!
 私と同じように傷付く人が、もう一人増えちゃうだけだよ!」

「でも……でも……」

弱々しいみなみちゃんの声。

私は…ゆたかに…おもらしさせて…傷付けた…だから…。
 私も…同じように傷付けば…ゆたかが…少しは…」

「みなみちゃんが傷付いたらどうだっていうの?
 もっともっと悲しくなるだけだよ!
 みなみちゃんが傷付くのなんか見たくない!
 そんなの、想像するだけでも悲しくなっちゃうよ…!」

悲しみと理不尽な怒りに突き動かされ、一方的にまくし立てる私。

「………」

みなみちゃんはおびえたように黙り込んでしまいました。
私の中の怒りはしぼんで、悲しみだけが残りました。

「みなみちゃん…。みなみちゃんがおもらしして傷付いたら…
 仲間ができて嬉しいって、私が喜ぶと思ったの?
 みなみちゃんが、私と同じところまで落ちてきたらいいって…
 そんなこと考えてるって、思ってたの?」

それでも…声のトーンが落ちただけで、私は止まりませんでした。
残った悲しみだけでも、私を突き動かし続けるのには十分だったのです。

「………」

みなみちゃんは、何も言わないで黙っているだけでした。
でも、その追い詰められた表情は、言葉と同じようにはっきり告げていました。
『否定できない』…と。

そのとき…やっと分かりました。
教室で、私が立ち上がる前、みなみちゃんが視線で訴えていたことが何なのか。
あのときみなみちゃんが、私に何をしてほしかったのか。

「みなみちゃん…教室で私が立ち上がる前に伝えようとしてたことって…。
 一昨日の仕返しにおもらしさせて、ってことだったんだね?
 おもらしのことでみなみちゃんを恨んでて、仕返ししたがってるって…
 私のこと、そんな自分勝手で意地悪な人だって…思ってたの?」

「………」

みなみちゃんは、黙っているだけでした。

「みなみちゃん…どうして何も言ってくれないの?
 違うんだったら、違うって言ってよ…」

「………」

みなみちゃんは、それでも黙っていました。
『違う!そんなわけない…!』って言いたそうに見えました。
でも、声にして言わないのは…やっぱり否定できないということです。
みなみちゃんの中で…私はそういう子だったのです。

「そうなんだ…私のこと…そんな風に思ってたんだ…。
 ひどい…ひどいよ…みなみちゃん…」

涙が浮かんできて…下を向いた、一呼吸の後。

……ぽたっ。

足元で、涙の雫が弾けました。
…私の涙は、まだあふれていないのに。

「え…」

顔を上げると…同じように下を向いていたみなみちゃんの瞳から
二粒目の涙が落ちていって…。

……ぽたっ。

足元で、同じ音を立てて弾けました。

「みなみちゃん!?」

私の驚いた声に、みなみちゃんは顔を上げました。
顔を上げたことで、またあふれた涙は、すぐに落ちないで頬を伝いました。

「え…」

みなみちゃんは手でさっと目の辺りを拭って…。
また、涙が伝って…。

「……!」

みなみちゃんはそのとき初めて、自分が泣いているのに気付いたのでしょう。

目をぎゅっと閉じて…。
閉じた目から、また涙がこぼれて…。

「……っ!」

両手で顔を押さえて…。
それでも、押さえた手から涙がこぼれ落ちていきました…。

「みなみちゃん…」

(泣かせちゃった…みなみちゃんが泣くなんて、どれだけ傷付いたんだろう…)

『私』の声で、みなみちゃんを泣かせてしまったことを今頃になって自覚しました。

「みなみちゃん…あ…あの…ご…ごめん…私…言い過ぎた…」

(今さら何言ってるの?出した言葉は戻せないよ)

『私』の言ったことを裏付けるように、
みなみちゃんが顔を押さえたまま、無言で首を横に振りました…。

(ほら、『今さら謝るのなんて聞きたくない!』って言いたいんだよ、きっと)

「みなみちゃん…そんなつもりじゃなかったんだよぉ…」

(そんなつもりじゃなかった?じゃあどういうつもりだったの!言ってみてよ!)

『私』の声が今までで一番冷たく、そして強く頭の中に響きました。

「………」

どういうつもりだったって言われても…分からないよ…。
かっとなって、よく分からないうちに言葉が次から次に出てきちゃっただけで…。

(分からない?認めなくないだけだよ。
 みなみちゃんのこと、いじめてただけだって。
 みなみちゃんが弱ってて抵抗できないから、面白がって泣くまで追い詰めた。
 ただそれだけだからだよ)

そんな…。

(学校でいじめられるのやだってずる休みまでして、
 学校に来てもいじめられるの怖くてずっと逃げ回ってたくせに。
 抵抗できない相手を見つけたとたんにいじめっ子に早変わり…勝手すぎだよ)

そんな…そんなつもりじゃなかったんだってば…!
みなみちゃんが無茶なことしたのが悲しかったから…!
みなみちゃんを恨んでるなんて思われてたのが悲しかったから…!

(みなみちゃんのせいなの?全部みなみちゃんが勝手にしたことだって言うの?)

……!

(私が学校休んだり、逃げ回ったりして、みなみちゃんに心配かけてなかったら?
 みなみちゃんのせいじゃないんだよって早く伝えてたら?
 みなみちゃん、それでもこんなことしたって言うの?)

それは…。

(それに…支えようとした手を振り払われて、
 保健室まで会いに行っても『顔見たくない!』って追い返されて、
 バス停で待ってて話しかけようとしても口もきいてもらえないで…。
 そこまでされても、恨まれてるって『勝手に思い込む』方が悪いんだ?
 ほんとの気持ちを読み取ってくれないみなみちゃんの方が悪いんだ…?)

そんなわけ…ない……。

(…みなみちゃんに無茶なことさせたのも、恨まれてるって思わせたのも、
 全部、私だよ。それなのに……)

そこまで言って、不意に『私』は言葉を切りました。
聞こえるのは、みなみちゃんのかすかな嗚咽と、涙が足元で弾ける音だけ。
私は…自分でそうさせたことなのに、みなみちゃんを責めて…泣かせてしまった。
そのことを噛み締め、絶望が心を覆い始めて…、
それを待っていたように『私』は言葉を続けます…。

(…最後に残ってた希望、自分で壊しちゃった。
 ずっと見捨てないでくれてたみなみちゃんの心まで踏みにじって…
 もう味方になってくれる人なんていない。本当に一人ぼっち。
 あの夢、やっぱり本当になった…というより、自分で本当にしたんだよ)

もう…もういいよ…わかった…わかったから……。

絶望に呑み込まれて…私自身のこと、消したいぐらい嫌になって…
みんなの前から消えてしまおうって…駆け出そうとした、そのとき。
みなみちゃんが顔から手を離して…涙できらきら輝く瞳と視線が合いました。
すると…私は動けなくなってしまいました。

その視線は…こう言っているような気がしたのです。

『ゆたか…いなくなっちゃやだ…』って。

みなみちゃん…
もしかして、私のこと、今でも…。

(ありえないよ。自分のしたこと、もう忘れたの?)

…そうだよ。そうだよね。
私への優しさ、何度も何度も踏みにじって…。
あげくに勝手に怒って、追い詰めて、泣かせて…。
それでもまだ見捨てられてないのかも、って…。
呆れるよ。私、どこまで…。

「違う…違うの…」

え…。

「ゆたかのせいで…泣いたんじゃないの…」

みなみちゃんは、涙が止まらないまま喋り始めました。

「どうして…泣いてるのか…自分でも…分からないの…。
 私…泣きたいなんて思ってない…。
 頭…真っ白になって…気が付いたら…涙が出てて…止まって…くれないの…」

その声は震えて途切れ途切れだけど、涙声じゃなくてはっきり聞き取れました。
泣いていても、完全には自制を失っていないのです。

「ゆたかの…言う通りだよ…おもらしさせたこと…もう…消せない…。
 せめて…ゆたかが…立ち直るきっかけ…作りたかった…。
 そうできたら…私は…どうなってもよかった…。
 なのに…私のしたことは…ゆたかの気持ち…考えないで…また悲しませただけで…、
 今度は…泣き出して…困らせてる…。ばかだよね…訳…分からないよね…。
 全部…私が自分でまいた種で…泣く資格なんか…ないのに…」

みなみちゃんが、喋れば喋るほど辛くなっているのが分かりました。
涙がもっといっぱい出てきて…体が小刻みに震えて…。
それでも感情を懸命に抑えて、喋り続けるみなみちゃん。

「私……本当に……ばかだ……。
 どんどん……頭……真っ白になって……何も……考えられない……。
 もう……どうしたらいいのか……分からない……分からないよぉ……!」

『分からないよぉ……!』でとうとう涙声になって…、
みなみちゃんはそれっきり何も喋れなくなりました。

みなみちゃんを泣かせたのは…やっぱり、私でした。
みなみちゃんはあのときからずっと、
どうしたらいいのか分からなくて泣きたいのを抑え付けてきて、
今、とうとう抑え切れなくなったのです。
そして…どうしたらいいか分からなくさせていたのは、私なのだから。

みなみちゃんが今言ったことは、みんな逆。
みなみちゃんの気持ちを考えないで、ずっと悲しませ、困らせ続けたのは私。
ばかで、訳が分からないことばかりしてたのは私。
全部の種をまいたのも、私だったのです…。

みなみちゃんへの罪悪感はさらに大きくなって、胸がずきずき痛みました。
なのに、さっきのような駆け出したい衝動はもう起きませんでした。
心が落ち着いて…というより、目の前のみなみちゃんに心を奪われてしまって
余計なことが考えられませんでした。

泣いているみなみちゃんは…そのぐらい綺麗だったのです。
きらきら輝く涙は、流れ落ちて宝石に変わってる…。
足元に視線を向けたとき、半分ぐらい本気でそう思っていました。

…もちろん、足元にあったのは、小さな水たまりだけでした。
でも、それはただの水たまりじゃなく、みなみちゃんの心が溶け込んでいて、
私の嫌な心も優しく溶かしていく、魔法の水たまりでした。

みなみちゃんに言葉をかけることも、涙を拭いてあげることも忘れて、
私は、少しずつ大きくなり続ける水たまりのほとりで立ち尽くしていました…。

………

どのぐらいの時間が経ったのか…。
みなみちゃんの涙が止まって…私はようやく我に返りました。
すぐにハンカチを出して、みなみちゃんの涙を拭きました。

「みなみちゃん…ごめんね。ずっと誤解させたままでいて…」

言わなきゃいけなかったこと、ようやく言えました。

「あのとき…おもらししたの、みなみちゃんが触ったからじゃない。
 あの時にはもう、少しもれてて、スカート濡れちゃってた。
 あのとき、私が言ってたのは、動いたらもれちゃうって意味じゃなく、
 動いたらもらしたおしっこが見られちゃう、って意味だった…。
 みなみちゃんが来なくたって、あのまま全部もらしてた。
 みなみちゃんが責任を感じる必要なんて、全然なかったんだよ…」

「………」

みなみちゃんは私の顔を見て、嘘じゃないことを分かってくれたようでした。
でも、みなみちゃんは首を横に振って…、

「私は保健委員なのに、ゆたかの事、注意してなかった。
 ちゃんと休み時間にトイレ行ってるかな、おしっこしたくないかな、って
 いつも注意してなきゃいけなかった。
 授業中におしっこしたそうな素振りを見せたら、すぐに気付いて
 連れ出してあげなきゃいけなかった…」

…真顔で、そう言ったのです。


☆☆☆☆☆☆☆

休み時間に、みなみちゃんが来て…。

「ゆたか…おしっこない?」

「ないよぉ。お昼休みに行ったもん」

「でも、お昼にカフェオレ飲んだし…行っておいた方がいいと思う」

「大丈夫だよぉ」

そして、授業中…

「…んっ」

ぎゅっ。

「…んん…」

もじもじ…。

私がそわそわし出すと、みなみちゃんがすぐに立ち上がって…。

「ゆたか、行こう」

「うん…」

私はみなみちゃんに連れられて教室を出て、小走りにお手洗いに向かいます…。
すっきりしてお手洗いから出ると、みなみちゃんが待っていました。

「…ほら、さっき休み時間に行っておいた方がよかった」

「うん…ありがとう、連れ出してくれて…」

みなみちゃんは微笑みました。

「私がいつも注意してる。ゆたかは、おしっこの心配なんかしなくていい…」

☆☆☆☆☆☆☆


……ぼんっ。

頭から煙が出て、そんな想像を振り払いました…。

「う~~……」

私は、真っ赤になって、変な声を出してしまいました。
ちょっとだけいいかもと思ってしまった自分が、すごく恥ずかしいです。
でも、みなみちゃんに真顔で言われたら、何だか心がほわほわして、
怒ろうとしても、ぷーってふくれるだけになっちゃって…。

「あのね~、みなみちゃん…。
 私、おしっこしたくても言えない赤ちゃんじゃないんだよ…?
 そこまでいつも注意されてたら、すごく恥ずかしいんだけど…」

「そ…そうかな…?」

みなみちゃんの声の調子も、何だか和らいでいました。

(一昨日『おしっこしたい』って言えないでおもらししたのは誰だっけ…)

『私』がそうつぶやいた気がしましたが、スルーできました。
そのぐらい、ほわほわしていたのです…。

「そうだよっ!もうっ!今回のことだって、
 私が自分で言ってトイレ行かせてもらえばよかっただけだよっ!
 みなみちゃんに責任なんか全然ない!
 みなみちゃん、私のこと、子ども扱いしすぎだよぉ!」

「ご、ごめん…」

何だか雰囲気が和んでしまって…。
このまま笑い合って終われたらって、思いました。
でも、そんなわけにもいきません。

「昨日の夜、お姉ちゃんから聞いた…。
 みなみちゃんが自分のせいだって誤解して思い詰めてたってこと」

私は話を戻しました。

「違うんだよ、って伝えなきゃって思って、今日、学校に来たのに…
 みなみちゃんを見たとたんに逃げて…もっと誤解させちゃった。
 その後だって…みなみちゃんのところにいけば話せたのに、
 夢と同じようにいじめられるのが怖くて、休み時間は誰もいない所に逃げて…
 先生がいればいじめられないと思って、授業の時だけ戻って…
 そんなこと、繰り返してた…」

「夢?」

「一昨日の夜、見たの…。
 おもらしのことでみんなにいじめられて…
 最後にみなみちゃんにも嫌われて…一人ぼっちになっちゃう夢。
 きっとほんとになるんだって…ずっとおびえてた…」

「………」

みなみちゃんは少しの間の後、安心したように微笑みました。

「夢は…夢だよ。本当になる場合もあるけど…間違っている場合だってある。
 その夢で、絶対に間違ってる所、一つ、すぐに言える。
 …私は、ゆたかの事、嫌いになったりなんかしない。
 ゆたかの事、ずっと好きなままだよ。今も、これからも」

「あ……」

一瞬だけ、幸せに包まれそうになりましたが…。
その幸せは、すぐに悲しみへとひっくり返りました。

自分勝手で、弱虫で、みなみちゃんの優しさも踏みにじった私。
みなみちゃんに好きって言ってもらう資格なんかないから…。

……でも。
みなみちゃんの微笑みは、私の勝手さ、弱さ、それに今したこと、
全てを受け入れてくれていて…
『これ以上、何も悲しまなくていいんだよ』と告げてくれていたのです。

悲しみが…幸せにまたひっくり返って…。
今度こそ、幸せに包み込まれて…また涙が浮かんできました。
一昨日から何度も流してきた涙とは、違う涙。
あの時からずっと忘れていた笑顔が、戻ってくるのを感じました。

「みなみちゃん…ありがとう…。
 私…どんなにいじめられたって、負けないで頑張っていける…。
 みなみちゃんが見捨てないでいてくれる…それだけでいい…」

「…ゆたか」

みなみちゃんは、首を横に振りました。

「私だけじゃない。ひよりだって、他の人だって、みんなゆたかの事を心配してる。
 ゆたかをいじめるのは…ゆたかだけだよ」

「え…」

「おもらしのことで自分を責めたり、自分がいじめられるって想像したり…、
 そうやって、自分で自分のこと、いじめてる。
 もし他の誰かがおもらししたって、ゆたかはそんな風にいじめたりしないよね。
 それと同じように…ゆたか自身のこともいじめないであげて。
 私や他の人に優しいのと同じように…自分にも優しくしてあげたらいい…。
 それで、もう、ゆたかをいじめる人はいない…」

「………」

みなみちゃんの言葉が、胸に染み込んできました。

(…みなみちゃんの言いたいこと、分かるね?
 みなみちゃんが言ってるのは、今、このときだけの話じゃないよ)

『私』が言いました。
その声は、みなみちゃんの声と変わらないぐらい温かくなっていました。

『私』は、私自身。
『私』があの夜からずっと冷たかったのは、
私が自分のことを嫌になっていたのに呼応していただけ。

今は、もう違います。

(みんなから今回のことの記憶を消せるわけじゃない。
 だから、これから先、今回のことを話題にされることはきっとある。
 軽い気持ちでからかわれることだってあるかもしれない。
 だからって、またすぐさっきまでの私に戻っちゃだめ…ってことだよ)

「…うん。分かった」

私は、はっきりと言いました。
それは、みなみちゃんへの言葉でもあり、『私』への言葉でもありました。

(…よし。もう大丈夫。元通りの私に戻ったよ)

『私』が、去った…いえ、私の中に戻っていったのを感じました。

元に戻れたっていうのを実感して…、
みなみちゃんがくれた幸せが、今は包むだけじゃなく
心の中までいっぱいに染み込んでいました。

「ありがとう…みなみちゃん。本当に…」

私はみなみちゃんの手を取って、ありったけの想いを込めて言いました。
本当はぎゅ~って抱きつきたかったけど…自重しました。

しばらくそうしていて…
ふと、みなみちゃんの顔色がさっきより良くなっているのに気付きました。

「みなみちゃん…おなか痛いの、大丈夫?」

「…うん。本当は、さっきまで破れてるみたいに痛かったけど…。
 今はもう和らいだ。ゆたかが…治してくれた」

「私が…?」

「ゆたかが本当の笑顔になってくれて…手を取ってくれて…
 すごく幸せで…痛いのが飛んで行っちゃった…」

照れたようにそう言うみなみちゃんは、こぼれるような笑顔でした。
今の私も、こんな素敵な笑顔になれてるのかな…。














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  • 文章のミスを一つ訂正しました。 -- 64-285 (2012-10-05 01:44:22)
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