カタカナ語翻訳の標

(ハシガキ)

そもそも、翻訳とは「何の為、誰の為なのか」という話で、それは、その民族が用いる言葉にすることで、それ共に、一民族に対する民族及び文化、言語の尊重の為である。
翻訳か音訳かのどちらにするかで、手前の自己満足の言葉を選んでいる時点で、翻訳の働きを成していないということ。
日本語という言語は、言わずとも、英語話者の為の言語ではなく、日本人の為の言語であるということ。また、英語話者も英語であるなら仮名文字よりラテン文字(alphabet)による表記のほうが分かりやすいということは、小学生でも分かる話であるがなぜそれを理解できる脳が無いのか不思議である。
また、それに伴って、日本人も含め、外国人も日本の国の言語として、日本民族を尊重し、これを学ばなければならない使命及び義務があるということ。これは日本語に限らず全ての言語に言えることである。
その使命は、侵掠者の言語を学ぶことは、当然含むものとせず、その侵掠者に我等の言葉を課すが如く、国の民はその 肝魂 (きもだましい)を示すべきものである。

音訳は翻訳ではないし、助詞以外の名詞・動詞・形容詞・副詞などの諸々が「唯、耳で聞いた英語の(おと)をカタカナで記しただけの言語」なんぞが、到底、日本語だと言えるはずもない。
他国・他言語の例を出さないと納得しない、ひねくれた日本人の性格に合わせて、英語での翻訳の例を挙げるが、実際に「翻訳」と「意訳」はどちらも同じ言葉が用いられ「translation」といい、即ち「翻訳」とは「意訳」のことである。「音訳」は「transliteration」となり、ここで初めて別語・別の概念となる。
音訳は自国あるいは民族の間で全くその概念が無い場合の最後の切り札であってそれは主に、固有名詞や(料理を含む)発明品、学術用語に限って行うことであり、むやみにするものではないというのは、言語すらも未発達な発展途上国でも無い限り、これは常識としてあるものである。
その理由は、言語を理解できるホドの智能を持つサルなら誰でも分かることで、自分ら(同じ社会の中の人々)が分からない、伝わらないからである。
この話を通り越して、発達した自国語がありながら、ある事柄の呼び名が人々で定まっている物事を、故意にどっかの知らない余所の言語の音訳語にするというその行為は、公序良俗を乱す非合理的且つ非生産的な行為で、普通に国の人からは到底理解できないものであり、自国民(日本語母語話者)の尊重云々を述べなければならない、日本は先進国の中でも、並外れて、異常である。
この話は、ラテン語などの流入を経て発達していった歴史がある言語、英語に於いて、そのものの呼び名が定まっている「Door」というものを、なぜ今になって「Tobira」と改称してそれを用いなければならないのかという話で、こんな非生産的な行為は普通の国の人からは露ほども理解できない行為であるということ。実際に全くその通りである。
他言語に於けるその言語の言い方・呼称を母語話者からそうと学ぶのになぜ日本語だけはそれを行わないのか甚だ奇奇怪怪で不可思議。

生物学的にカラスが時々で鳴き方が違うのは言語の獲得として知られるが、カタカナ語に於いては語彙力低下に伴った智能低下も指摘され、愚民化・低俗化などのため、その過程で形成された愚かな混成言語たる『カタカナ語』は生物学的退化そのものである。

そもそも、なぜカタカナ語(日本語モドキ)が目の敵にされているのかは、長い歴史の中で漢字と共に多くの漢語というもの渡来してきても、元ある和語と共に併用してきた歴史があるからで、今それが(おびや)かされているということが昔からの日本語の歴史の中で覆されようとしているということ。
カタカナ語話者は潜在意識(ウラ)の中で「反日本語・英語崇拝」というものをコジラセしている一方で、日本語母語話者は日本語を自由に好きなように使いたいのにそれを押さえつけ排斥し、或は、学ぶココロバセを示さない僻心から、日本語を目の敵に制限しているのとどう違うのか。なぜ日本語ではなくどこぞの未開の言葉を用いるのかという話。
併用という形ではなく、丸っ切り日本語を無くして、さも英語が公用語かのようにしてしまおうと企み、それを実行し、日本語という言語を(おびや)かしている者共がウヅテの居る一般人の他、信じがたいことに翻訳家などにも多く居るということ。
これは妄想などではなく、実際に今の日本語モドキ或はその話者共は数多の日本語になんらかの言い掛かりを付けて、規制している事実があるということ。
その一つとして分かりやすいものでは、近年になって顕著な漢字の規制である。しかし、これは第二次世界大戦の敗戦時の規制でいつまでその愚民化を引きずっているのかと思うと腹がよじれてくるが、これによって漢字の訓によって伝えてきた古き和語、例えば「(ひつ)」「(いささ)か」「(せがれ)」などが消え去ってしまい、それが 代代 (よよ)まで伝わらず滅びてしまうという話である。
その例として、近年、急に 蔓延 (はびこ)った言葉で「ウィッグ」という字面を見ても全く意味不明の語があるが、これは元々使われ、又、その物の呼び名が日本人達で定まっていた「(かつら)」という語に値するが、上述の通り、漢字が難しいものと見なされ、言葉狩りされたものと思われる言葉の一つである。
ここでの疑問は、「難しい漢字の使用を控える」という(もと)で行われ、これに代わる語を用いるにしても日本語には難しい漢字を用いずに「()(がみ)」「()(がみ)」など日本語母語話者が直ちに分かる言葉があるにも拘らず、日本人がよく知らないどこぞの難しい単語を使うという矛盾が生まれているのは明らかに道理に反しており、勘の鋭い人が「日本語排斥、英語公用語化」などの理説を囁いても当然のことと言えよう。
英語公用語化は(かつ)ての時代よりは聊か穏やかになり今では極論に過ぎないだろうが、日本語排斥という点では、紛れもない事実である。

古代の日本人が分からなかった文字、「漢字」に於いて母語の(よみ)というものを当ててそれを母語として理解し、言語の一部として日本人達でそれを扱える形にし、それが(こなれ)て多くの和語と共に「重箱読み」や「湯桶読み」等々の併用という日本語の形ができたからであり、現在のカタカナ語(日本語モドキ)に於いては、ただ英語圏で用いられている英語の音をそっくりそのままカタカナにしているだけな上に、隣り合う語も全てカタカナ語になろうとしているのだから、「併用」などいうもののそれには全く非ず、また、日本語を学ぼうとしない日本語モドキの話者共が一方的に言語の形を崩して優り様ともなれば、日本語は簡単に消滅しかねないということ。
今や、英語圏の頭字語をそのまま輸入なども酷く、当然その頭字語の理解に英語の読解が必要になるなど、既に日本文化云々のそれではもう無いし、日本語母語話者が理解できない言葉を押して用い、またそのような話者に限って日本語の学習しない、或は、尊重せずしまいには排斥などの行為から「言語の変化」などという軽い言葉では済まず、「日本語の排斥」「日本語の消滅」という嘆かわしい事実の他ならないということ。はっきりと言うが、紛れもない日本語母語話者の敵である。

英語において、日本の競技である「柔道」の「黒帯」は「kuroobi」ではなく、直訳した「black belt」と称され、ここで日本の競技であるのになぜ「kuroobi」ではないのか、或はなぜ「black belt」という呼び名を使うのか、などという疑問が出てくるのであれば、寧ろ英語話者(英語に限らず日本語(日本人)を除く全ての言語)にとってそのような疑問が湧いてくることが疑問或は異常であり、ではなぜ「kuroobi」とは言わずに訳すのかというのは、英語に限らず万国共通として自国語ではない言葉で意味が分からないからであると共に、その物を母語話者として普通、何と言うのかが当たり前のように出て来ているというだけであるという、至って正常な思考によるものであるということ。
よく日本人が翻訳時に見せる異常な思想に基づく「外国の事物だから音訳する」だのいうしょうもない翻訳理念は普通、行わない理由はこれであり、そこで翻訳しないで音訳語を用いるなどという選択肢は上で述べた通り、無く、全く新しい物事でもなければ、その物事の何というのかが母語話者として、当たり前のように出て来るというだけのことである。
或は、その在来・外来程度の違いだけのことで本質的に同じであれば母語だけで事足り、外国語を安易に輸入するなどの母語を乱す行為は普通の人種ではやらないというだけの話である。 この程度の借用すべきかどうかのワイタメすらも決められないアタマの持ち主か、又は、母語を持っていない未開人か、或は、何かに毒されて母語を用いないようにするという告げを受けて音訳している瘋癲か。

英語に於ける日本語の借用語の「Tsunami」は、欧州では地震が少なく*1、またそれにより発生する「 津波 (つなみ)」というものを知らない(概念が無い)為、これが借用語として英語の中で用いられているということ。
また、発明品で翻訳が比較的難しくないとされたものは、概ね、明治期に訳語が作られ、今もそれが用いられている。
日本国の古い音訳語の代表に「梵語」があるが、本来の意味とは大きく異なった意味で用いられることも多く、また、現在では多くの梵語が使われなく成っているのは、仏教の衰退もあるだろうが、音訳語ゆえに、意味が分かりにくいからである。
しかしながら、新語の多くが英語で、また、漢字のように訓読み(母語の訳)も当てられておらず、日本人にとって意味不明な言葉であるのにも拘らず、現代の日本人は日本語が疎く弱く拙く、また、それらの意味不明な言葉を母語の如く使っているあたり、現代の日本人(カタカナ語話者)は日本語が母語とはもう呼べず、その英語モドキが母語になりつつあるのか。
現に、今の日本人にそのような母語話者たる言葉の用い方・感覚という(もと)が既に失われていて、日本語が母語ではなくなっているというだけだということも全く否めない。
近年、急に使われ始めた語の「レベル」や「アイテム」などは日本人であれば、その字面を見ても普通に意味不明であるが、これらの意味を母語の感覚としてそれを理解しているのかについては謎であるが、大抵、カタカナ語話者はカタカナ語の意味を改めて訊くとだんまりか、甚だ曖昧で抽象的で言葉の意味を理解してなさそうな説明をするあたり智能或は言語能力・言語理解の方に問題がありそうである(これは 片言人 (かたことびと)の話に通ずる話であろう)。

カタカナ語の翻訳

カタカナ語翻訳において本質的な意味を捉えることが最も重要である。
基本的にカタカナ語の語彙力というのは低いため、元の日本語を(やす)い英単語で片付けている。
翻訳時に本来の英語ならどんな言葉を使うのか考え、そしてそれを辞書などを介して日本語に直すのも一つの手である。
また、英語がある程度読めるのであれば実際に英語の辞書の説明から日本語訳を考えるのも良いが、これは日本語が母語でないと難しいという点があり、日本語が母語ではないカタカナ語話者には無理な話である。
これらに関して、カタカナ語話者は多くの日本人が日本語が母語であった時代、つまり、昭和以前・戦前の英和辞書を活用するのが善い(現代の日本人が日本語が母語では無くなっている現状から、現代の国語・英和辞典は役に立たず、これが最善の手)。
「カタカナ語の語彙力というのは低い」というのは英語などで或る意味で実際には違う単語を用いる場合でも、それらの英語表現を無視して、簡単な英語の音写語をどれか一つに絞って用いるということである。
例えばカタカナ語の「ルール」には「法律」や「法令」の意味があるとされるが英語では"law"や"ordinance"などがより正確な言葉で、また、それらをある程度、明確に使い分けるということである。
これは識者から「英語学習の妨げ」などと批判される事柄である。とりわけ「イメージ」という言葉の誤用・多義が酷い。

どういう(わけ)か、カタカナ語の使用者がそのカタカナ語の意味をしっかり理解していないことが多いため、カタカナ語というのは基本的に多義語となる。
すなわちしっかり理解していないがために言葉そのものがとても抽象的なものとなり、その意味の認識が人それぞれという事態になる。正しく「濫用」。
イメージ」を例だと訳語は「想像」とされているが例えば「世間でのイメージ」という文だと訳語の「想像」ではいまいちぴんとこない。
日本語訳で一番適している言葉は「評価」や「評判」だと思われる。ただしこれは辞書には書かれていない。
おそらく「印象」の延長の言葉として用いられているのだと思われる。
このような辞書に載っていない用法の日本語訳は何か基の言葉の延長ないし連想として用いられているため、その基になった言葉がなんなのか考えることも重要になる(直訳音写語の条を見よ)。

そもそも、カタカナ語を用いて世界中の人に対し、その言葉の意味を濁し、意思をはっきりと伝えないというような、カタカナ語話者を除いた日本人或は世界の人々にとって理解不能なことをするカタカナ語話者の特有の特徴・語法として、概ね現代のカタカナ語は、全てが感動詞の如きもので伝えたいことなんぞは、「あれあれが、あーで、あーだ」ホドのことでしかなく、正確に伝えようと努めていないのだから、言外の読み解きが云々などの行為も皆無である。
名詞は「何か」「アレ」、動詞は「する」「やる」、形容詞は「すごい」「やばい」ホドの甚だ抽象極まりない事柄・意味を表すものとして用いられているものであろう。故に、外来語(母語ではない言葉)であるはずなのに、それらの言葉の意味を改めて聞いたら黙り込むわけである。
これについては「レベル」の片葉の備考欄も参照せよ。
つまりは、これらの意味を深堀りしても、意味は無く、それらの甚だ抽象的なナニカを或るカタカナ語を借りて、言い表しているというだけのことである。

カタカナ語は現代英語に基づく音写語が増えているように見受けられ、英語(原語)で前置詞(専ら、of)を挟まない二、三語で名詞のような言葉は通常、日本語でそれらの訳(訳語)をする時、その単語ごとの間に格助詞(「の」や「なる(な)」など)を挟む。語呂が良い場合や接辞がある場合は挟まない。
この普通「の」を挟むというのは現代のスペイン語などでも見られる。
例えば、「air travel」は、日本語母語話者の感覚として、「(そら)(たび)」と言う。漢語では「国風」を「くにのかぜ」、「四海」を「よつのうみ」などがある。
今の日本人はこの感覚が無いのか、そのまま訳語による格助詞を挟まない直訳をして、可笑しな日本語表現だと感じ、しまいには音写という方法で翻訳をすっぽかす。
「誕生日プレゼント」という語であれば「誕生日贈り物」とは言わず、日本語母語話者たる感覚として「誕生日の贈り物」と普通「の」を挟むという話である。
また、英語の形容詞の接辞の「-al(central、musicalなど)」などは体言へと繋げる日本語の形容詞の連体形のことで、これらは「厚き本(厚い本)」などと全く同じ構文であって、日本語に於いてはそのような言葉の造りに於いて、接辞ではなく、語の活用を以て(ふみ)或は言葉を作るということ。

カタカナ語が出てきた時に省いても良いものがあり、日本語とカタカナ語の重言(または同語反覆)などは省いても問題無い。
これはそのカタカナ語(もしくは一方の言葉)の意味が分かりにくくなる原因とも言える。
またこのような文を作ってしまうのはどちらかの言葉をしっかりと理解していないから作られてしまうのだろう。
例えば「二種類のタイプ」がそれに当たる。訂正すれば「二種類」或は「ニタイプ」で充分と言える。

カタカナ語を含む文の翻訳で語順(訳語の言葉の文中の位置)や助詞が変わる場合がある。
例えば「うちの会社では製造をメインにやっています」という文であれば、より自然な日本語に直すと「うちの会社では主に製造を行っています」となる。
また、多く日本語とカタカナ語での品詞表現の違いが多くあり、カタカナ語では名詞でも、日本語では形容詞や動詞で表現するというものがある。
例えば「スピード(名詞)がある」は日本語で「速い(形容詞)」や「サポート(名詞)をする」は日本語で「(ささ)える(動詞)」或いは「助ける(動詞)」など。
上で挙げたカタカナ語の「スピードがある」に対する直訳で「速度がある」又は「速さがある」とした時の日本語の下手さは否めない。「サイズが大きい」に対し「大きさが大きい」、「無料のサービス」に対し「無料の奉仕」など。
それらを言うのに、普通、日本語ではそれをそうとその一語のみを用い、「大きさが大きい」は単に「(おお)きい」となるということ。
これらは自然な日本語表現の例でカタカナ語に準じた訳語を用いるのもよいが、場合によっては上で述べた通り、変な日本語表現に成りかねないため、訳語を使う以外にこれらの相関関係の知識も有れば尚、良いが、日本語が母語でないと難しいか。
この翻訳については「サポート」の例にてまず「サポートってそもそも何?」、「サポートは支える事、助ける事」と言葉を理解をし、この過程で日本語を得て、翻訳に繋げていく。これは漢語なども同じように活用できる。

表現のしかたが異なる場合がある。
例えば「どのタイミング」であれば日本語だと「いつ」で済む。
上記の例はそれらに対応する一つの言葉が日本語にある場合、普通にその言葉を用いるという話で、上の段落で述べた「スピードがある、云々」の話と同じこと。
カタカナ語に於いて慣用句的に用いられている未開の俗語で、例えば「マウントを取る」という語は日本語ではそれを言い表す言葉に慣用句ではない一つの単語として「(えら)ぶる」「(あなど)る」等々の言葉があり、日本語ではこれらの言葉を用いるということを「日本語母語話者からそれをそうと学習せよ」という話である。
他には立場が違う場合もあり「サービスカウンター」の例だと和訳は「相談窓口」となり、カタカナ語は提供者側の立場で日本語は客側であり立場が異なる。
これは自動詞、他動詞などの話にも言え、自動詞、他動詞という動詞の違いがあるように、誰の立場なのかということが日本語に於いて、重要な事柄であること。
また、これらの動詞の違いから、よく日本語に於いて、人称を省くことを行うのもこれに因る。

文の終わりにある動詞的意味を持つカタカナ語の動名詞の漢語を用いぬ訳し方は、国文法に従えば、普通にその名称の如く「動詞の終止形」を以て()める。或は、断定・過去の「た*2」を動詞の後につけて()める。
「演劇スタート」などは普通に「演劇を始める」となる。ここで、日本語母語話者の感覚として「名詞、動詞」と来た時、普通、助詞を挟む。助詞を挟まない表現(「妻、去る」など)もあるが、それは有り様や動作などを強調的にいう、修辞であって文法的には普通、助詞を挟む。
ただし、命令的に言う場合、その動作を強調する為に助詞を挟まず「演奏、始め!」という表現も日本語としては至って普通の日本語表現である。
また、その(あと)も文が続く場合は普通に「連用形」となり、命令の意を含んでいる場合は普通に「命令形」を用いる。連用形には、更に、次へと促す助詞の「て」を添えることも多い。
即ち、「蓋をオープン、すると中には…」は日本語で「蓋を()け(て)、すると中には…」となる。こんなことは日本語母語話者は勿論のこと、少しでも日本語を学んだことがある学習者なら誰もが普通に分かる話である。
命令形のうち、軽い言い回し(口語)に動詞の連用形に「て」を添える言い方あり、「やって」「見て」などという。
この他、指図するのに「なさい」を用い、丁寧に言うには現代では「ください」を用い、古文や文語で「たまえ」を用いる。
文の留め方で、文語や文語的文章にては、普通に終止形を以て()めるか、断定の「たり」を以て()める。「仕事を終えたり」の如し。
古文や和歌などでは「や」を添える。現代人が言う「はやくしろや」などの用例が近い。

また言葉が足りてない場合もある。
例えば「うちの店のナンバーワン」であれば「うちの店の一番人気」と直せるでしょう。ただし、これは意訳であって直訳は「うちの店の一番」となり「何の一番」なのかという一番重要な部分が欠けている。
単純にこれらの文章は言葉が足りてないことにより文章として成り立っていないため、その文を考えた本人に意味(伝えたい事)を聞く必要すら起こりえる。

物事の多様化で区別するために作られた言葉というのも存在し、例えば「リアルタイム」や「エンドユーザー」など。
「エンドユーザー」であれば従来の日本語表現ではそれは単に「客」のことを指し(最終消費者、すわなち「お客さん」のこと)、便宜上の訳語として「最終消費者」という言葉も生まれた。
ここで重要なのは第一にその言葉は具体的に何を指しているのかを考え、直訳するのも良いが日本語としてそれはどのように表現するのかを考えることである。

日本人は日本語の言葉を意味を狭めたり、カタカナ語は意味を拡張したりしているがそもそも、そのカタカナ語をよく理解しておらず抽象的な認識のままだから起こってしまうのだと考える。
カタカナ語は西洋の物を指したり和語や漢語は日本の物という使い分けをしているようだが実際にはそのような違いを見出だすというのは普通、他の言語ではしない。仮にそれをやったとしても本の一握りである。
日本語においてこの違いを見出だすという事が活発なので、分かりにくいところがあるかもしれないが既存の言葉で済むような外来語であればその言葉で済ます。
例えば「宿」と「ホテル」であれば英語の"hotel"の訳語は日本語における「宿」であって逆も然り。また「ショップ」や「ストア」はどちらとも訳語は「(みせ)」となる。
前述の「店」の例の通りで英語などで同じような意味の言葉が複数あっても、一単語につき一つの訳が必要というわけではない。これは翻訳の基本である。
「文化による言葉の表現」、「言葉の文化の違い」は当然あるもので、全ての外来語を借用などという母語を軽んじたことは良識ある民族ではせず、母語たる言語に於ける言い方にすることが翻訳というものである。
漢語を漢字の音で読まず、日本語母語話者たる読み方(訓読)をしていたその感覚は既に失われているのか。
一部の辞書に於いて、同義の日本語とカタカナ語で、カタカナ語の意に「西洋の」という文言と付け加えている辞書があるが、そもそもその「西洋の」というのに明確な定義・基準が無く、また、 今日 (こんにち)にて多くのカタカナ語(外来語)はその辞書などの説明に書かれている「西洋の」という使い分け無く用いられている現実にある(木造建築の古めかしい旅館だろうと関係無くホテルなどと称するなどがこれにあたる)。
これに至っては、その同義の言葉があるものの内、どちらかの言葉が残る現象でなぜか母語たる言語でなく、カタカナ語が用いられるという悍ましい惨状にある。
また、その分かちが無い以上、あらゆる事柄を同義の日本語に訳しても差し障りはないということ。

また、日本語とカタカナ語(英語)でそれらに完全に対応する訳語が有っても、それを認めようとせず、何かに託けて「これは日本語にはできない」などと言ってカタカナ語を使うなど、日本語を酷く貶した行為を行っているカタカナ語話者がウヅテに於いて少なからず居ることが確認できる。
これは、どのように言葉を理解しているのかに於ける、一般の日本人の言葉の理解のあやふやさに直結する話で、例えば、或る言葉の意味を漢字の音読みとしてそれが指定されている言葉は、専門用語的にそれを扱うための行うことであって、「(オン)」が「漢字の音読み」という限定された意味として用いられることなどを云う(「漢字の音読み」のヤマトコトバは「(こえ)」という)。
これらは本来、それらを訓読みしたものとしても(母語たる日本語、和語として読んでも)普通にその意味を成すものであって、これはカタカナ語に於いても同じことである。
例えば、「(くるま)(とびら)」に於いては、実際にその物事を言い表す概念は「(とびら)」のはずなのに、なぜ専らその呼称でどこぞの外来語の「ドア」になるのかということが、日本語以外の言語では不可解で奇々怪々という話であるということ。
要は、「ホテル」などいうものも「仮に()まる所、或はその建物」という意味なのだから、普通にそれはヤマトコトバの「 宿 (やどり)」というものに当たるという話である。
しかし、カタカナ語話者は母語というものが無いが故に、それらを()の用い方、或は、機械翻訳などから慣用的・慣用句のようにそれを用いているのかは確かめがたく、和語の概念をどういうふうに理解しているのかは一切不明。
()」という漢字とは別に「()」という漢字もあるが、意味はどちらも日本語の「はな」という言葉に当たるというのを、漢字・漢語はそれをそうだと素直に認めるのに、カタカナ語或は外来語に限ってそれらを認めないのは普通に奇妙であるし、日本人の言葉の理解が理解不能である。
これらの翻訳を認めようとしないのは、日本人の言葉の理解の異様さ・あやふやさに因るもので、言語の正常が保たれている国ではこれらの奇妙な言葉の理解も無く、「普通、この物事は自国語でこうと呼ぶ」という秩序があり、それを素直に認め、また、それを素直に学び、言葉を用いているということ。

カタカナ語の形式名詞の和訳

日本語の形式名詞は日本語の形を継ぐカタカナ語にも存在するようだが、この形式名詞は日本語構文に於ける概念であり、それらのカタカナ語は英語の音写語であるため、甚だ可笑しな日本語文に成っています。
これらの和訳を覚えることにより自然な日本語文を作文できるようになるため、使用例が多い、或は形式名詞であることがよく分かるカタカナ語の和訳を書きます。

  • エリア(ところ)(あたり/へん) 場所 (ばしょ)
    • 「この所から10km東へ行くと隣町だ」「この辺は比較的治安が良い」「ここから先は立ち入り禁止の場所だ」
  • ケース(こと) 場合 (ばあい) 事態 (じたい)(れい/ためし)
    • 「大損失するという事に成り兼ねない」「偶にそのまま終わる場合がある」「これを放置していたら内輪揉めという事態になりかねない」「成功した例もある」
  • スペース(ところ/とこ) 場所 (ばしょ)
    • 「箪笥がある所を冷蔵庫と入れ替える」「この部屋は机を置く場所が無い」
  • タイプ(もの)(ひと)(かた/ほう)(やつ)
    • 「自動制御型の物もある」「母と顔が似ている人が妹だ」「どんな事でもやりたがる方だ」「商売敵には容赦しない奴だ」
  • タイミング(とき)(あいだ/ま) 時間 (じかん)(すき)
    • 「出勤する時に戸締まりを確認し忘れた」「子供達が帰って来るまでの間に掃除を済ます」「寝る前の時間に翌日の支度をする」「子供が寝ている隙に支度をする」
  • パターン(こと) 場合 (ばあい)(ほう)(かたち)
    • 「例外にそれが許される事もある」「故障から修理という場合にこの欄に記載する」「室内の作業の(ほう)では別の制服を着る」「夕礼後、帰宅という形を取る」
  • ポイント(ところ) 場所 (ばしょ)(てん) 箇所 (かしょ) 部分 (ぶぶん)
    • 「彼女にはそういう所がある」「ここは眺めが良い場所である」「代わりに犠牲を伴うという点がある」「空いている箇所に印を付ける」「悪い部分を正す」
  • レベル(くらい)(ほど) 程度 (ていど)(もの/もん)
    • 「3メートル位の彫像」「あの(かた)程になると全てを引き受ける」「中級者程度の技」「高いなんて物じゃない」

番外:カタカナ語の問題点

右翼的な考えを抜きに何が問題なのか解説します。
多くの問題点が有り、

  1. 意味が確立されていない、或は、余りに抽象的。
    • 無秩序に使われている(濫用)カタカナ語としての宿命とも言え、事実としてお茶を濁すために使われる事があるためその目的で使われているカタカナ語というのは未来永劫、意味の確立は成されないと思います。
      カタカナ語自体意味というのは存在していますが、よくわからず使っている人がその確立された意味とは違う意味で使う。つまり、誤用という形で使われた時、そのカタカナ語というのは意味がよく分からない言葉となり、伝えたい事を掴めないという事態に陥ります。
      それらのカタカナ語は人々の間で、実にはっきりしない言葉の理解と意味だけが雲のように浮かび、現れてはすぐに消えるのみで、国語辞典などでカタカナ語の定義などを定めても、結局、日本人は英語が母語ではないので、その定義も意味を成さずにあるということです。
      国語辞書にても、カタカナ語(英語)と日本語の同義の言葉でカタカナ語の説明に「西洋風の」などとあり、同義の言葉との使い分けがあるとしているが「西洋風」の定義がされていないため、どのような物事をそのカタカナ語で指せばいいのか分かりません(例えば「踊り」と「ダンス」や「旅館」と「ホテル」など)。
      また、著しい言葉の理解の欠如によるカタカナ語に様々な意味を持たせるという勝手なこともしているため、言外のことを読み解くというこの程度も上がっています。つまり現状カタカナ語の使用によって齟齬が生じやすい状況にあるということです。
      様々な意味を持たせておきながら、その付け加えた意味が何なのか説明できないということも起きているように感じます。
      論文などの具体的な事を伝えるべきところでカタカナ語を使うと抽象的になってしまい自分の伝えたい事を十分に表せないという事態に陥ります。
  2. 意味分化のしすぎ、もしくは認識不足。
    • 上の条「国語辞書にても、カタカナ語(英語)と日本語の」のくだりのように、同義でありながら、なんらかの違いや使い分けを設けて、最早その使い分けを考えた人にしか分からないような状態になってる、または、同義であることの認識が足りていないということです。
      ただし、これは日本語だけでなく、外来語が多い英語でもあるようです。
      この整理を怠ったが故に学習者に混乱を招いています。「踊り」と「ダンス」の如く、どのような物事を「踊り」と呼んで、どのような物事を「ダンス」と呼べばいいのか分からず、また、それらの線引きも全くありません。
      これらの使い分けを日本人に尋ねても定義が無いので、正確に答えられないという点でも、余りに不毛です。
  3. 借用元の綴りにそのまま訳すことができないが、カタカナ英語はこの認識が薄いこと。
    • 一箇条目で述べましたがふんわりした認識により、カタカナ語に様々な意味を付け加えている。または本来そのような意味を持っていない言葉に別の意味を持たせているということをしているため、借用元の綴り、すなわち原語にそのまま訳しても正確に伝わらないという事態に陥ります(例としてサインアップなど)。
      もっと言えばそれにより認識の食い違いが起こり、主な借用元になりつつある英語の話者との会話が成り立たなくなります(正にガラパゴス化(孤立化)の一途を辿っている)。
      またこれは、学んだ正しい英語の使っているはずなのに英語話者との言葉の理解・認識などが大きくズレているがために、「日本人の英語力は低い」などとよく囁かれる、その主因と考えられます。
      実状として翻訳が進んでいない未開の言語に成り果てています。
      この問題にて、日本人の言語能力の低下も相俟って、深刻化しており、原語に翻訳できない言葉の内、言葉の定義・理解などのあやふやさから、もはや、一般人、或いは、日本語が母語であろう日本人をも日本語(母国語)へも直すことができなくなっている言葉があり(イメージレベルケアマウントなどの多義過ぎる言葉・定義不明の語)、これらは上の行の通りに「未開の言語」ゆえに、外来語であるにも拘らず、日本語を含めたどの言語にも翻訳できない言葉(日本語モドキ)として、それを用いている現状にあります。
      要は、その原語にできない一部の外来語の内、「定義が不明」や「多義だがその多義がどう多義なのか分からない」などの理由で、翻訳もできず、使用者である日本人も「この文の意味・伝えたい事が分からない」などと成れば翻訳はおろか意思疎通云々の話にても、「為す術が無い」ということです。
      事実、近代の和英辞典に於いて、ただ原語の綴りにしただけでは英語話者に伝わらない翻訳例などが載ってあり、日本人の言語能力はますます悪化・退化しているように感じます。
      例えば「マウント」という言葉は英語の"mount"から取ったものでも定義不明や意味が派生し過ぎたあまりに、それらは原語に訳せず、また、それらの言葉が、カタカナ語という翻訳が進んでいない未開の言語に対して、概ね翻訳が進んでいる日本語(母語)に於いて、なんというのかが、分からなければ、他言語に翻訳できないということです。
      こんな惨状になるくらいならそのような未開の言語(日本語モドキ)を使うより、先人の汗の結晶である日本語の訳語及び日本語を使っていたほうが余程、日本人の日本語を理解或は翻訳しようとする外国人や日本人の英語習得の為、即ち、世の為になるということです。
      + カタカナ語話者:「イメージは英語でimageです。」
      英語話者:「あなた達の言うimageはimageではありません。どういう意味なのか教えてくれませんか?」
      カタカナ語話者:「すいません、分かりません。(私達もこの語に意味がよく分かりません)」
      こうとなれば「為す術が無い」ということである。
  4. 和製英語の翻訳が困難。
    • 意味の確立云々の話で無秩序な形で造語(言葉に対する浅い理解で造語)も成されているため、その造語(主に和製英語)の意味は非常に曖昧なものとなります。
      これにより日本語に直して別に言語に翻訳するという作業が非常に困難になります。これはあくまで翻訳者側の話ですが。
  5. 外国の人がカタカナ語の理解に苦戦している。
    • これは(カタカナ語話者を除く)日本人もであるが、外国の人とは翻訳者を含み、意味が確立されていない・翻訳が進んでいない未開の言語など理由で、却って外国人に対して難儀を強いています
  6. 語彙力の面で根本的に養われていない。
    • 自分らが知っている数少ない英単語で本来、英語ではそのような単語は用いない表現(和製英語など)というのが実に多いと感じます。
      要は、一つのカタカナ語を果てしなく多義にしてその一語を用いる行為のことで、この他に和製英語の稚拙さなどがそれを物語っており、カタカナ語を用いることはすなわち語彙力の低下に繋がっています。
      一部の専門家は実際に「英語学習の妨げだ」と主張しています。
      少し前の話で例えば電脳(computer)のマウスと小動物のネズミを使い分ける(英語ではどちらもmouse)というのは賢い事だと思いますが、この賢い使い分けというのも減っているように感じます。専らカタカナ語が使われていると。
      語彙力ないし記憶力の低下、すなわち「愚か」になっているというのは実際に起きている事だと考えます。
      また、近年の 二言人 (ふたことびと)の教育の関連した話に、そのどちらの言語も上手に扱えないデキソコナイを"semilingual"( 片言人 (かたことびと))と言い、もはや言語教育の話ではなくなり、人としての在り方の話にも成っています。
      これを聞いて、今の日本人がよく当て嵌まっているようにも思え、日本語が甚だ弱いカタカナ語話者は母語というものがなく、言葉の理解などの面で母語を持つ人より、読解力や語彙力(言語能力)が劣っているというものです。
      何か伝えたいことがあっても、母語も無ければ言語能力も無いので、うまく伝えられないというカタカナ語話者の間で顕著に見られるものです。
      これは、英語とヒンディー語が混じって話されているインドや、英語とタガログ語が混じって話されているフィリピンなどでも同様の現象が起きている可能性があります。
      また、カタカナ語話者は母語が無いがために、日本国という国の人々が話す日本語の学習もできないという、哀れなデキソコナイです。
      この状態が問題無いはずもなく、日本語に限らず母語を保つ重要性がよく分かります。
  7. 元の綴りが分からない。
    • 仮名文字は子音だけを表す文字は「ん」以外に無いことや黙字の表示ができないなどにより元の綴りが推測できません。特に英語の綴りの体系は無秩序なので尚更です。
      カタカナ語の意味が分からなかった時、英語の辞書で意味を調べようにも元の綴りが分からないのですることができません。
  8. カタカナ語の許容で騙し(悪用)や(こと)(あなづ)り(濫用)が横行している。
    • 事実として政府がカタカナ語を使い意味を不明瞭にし国民にはその内容を分かりにくくする、謂わば「騙し」をしているということ。政府に限らず日本の会社もやっています。「言葉の乱れは世の乱れ」とはよく言ったものです。
      昔からある概念の改名によって新たな概念として人々に認識させているもの(言侮り)すらあります。
      騙しの例は「公共職業安定所」を「ハローワーク」と改名した例。
      言侮りの例は「(せい)」を「ジェンダー」と言っている例。
      これらはカタカナ語話者の話術或は手口の一種として実際に存在するもので、今まで用いてきた言葉を謎の言葉(主にカタカナ英語)に置き換えて、それらしく取り繕うというものに当たります。
      例えば、「イメージして」が「真似る」「摸倣する」などの意味と思われるが、その動作を「パクる」と言えば「いけない行為・犯罪的行為」と捉えられ、それがこのカタカナ語であった場合、未開の言語ゆえにその意味が不明で、たとえ「著作権侵害」ホドの犯罪であってもそれを隠せられ、このカタカナ語語法をもって、悪用できる、しているということです。
      日本人が母語としない謎の言語にすることでその言葉の効力を無くし、実態を隠せるというものです。
      要は、喩えば「やります」と言って「全くやらないで行動に移さない」などの(たぐい)で、その中でも意味をよく濁せるカタカナ語が悪用される、言葉を酷く侮ったカタカナ語特有の欺瞞、語法のことです。言葉だけが存在し中味が無い「虚飾」ということです。
      このような行為で溢れている日本で「言葉の乱れは世の乱れ」の実証となるのは、甚だ、空しく悲しくあさましく哀れな限りです。
  9. カタカナ語の許容に関連して機械翻訳などで全く新しい音写語が量産されている。
    • 機械翻訳のalgorithm(演算法)の関係でカタカナ語ばかりを使うことで音写される度合いが高まります。
      もっと具体的に話すと英語の訳を音写語とした時、その訳を電脳(computer)が正式な日本語として扱うためです。
      機械翻訳で、酷いものは6~7割以上がカタカナに音訳されるのみで、日本語とも英語とも言えない日本語・英語モドキの文が時々生成されます。日本語モドキの未開の言語なので伝えたい事も全く掴めません。
      また、その機械翻訳で昔からある概念でその概念を謂う日本語があるにも拘らず、多く、それらの概念を外来語の訳語として定まっている割合も高くなっていることに加え、その定まった訳語は演算法によってその修正が甚だ難しいことから、事実上の日本語の消失を示しています。
      翻訳が酷いものであれば、そのような言語を私たち日本人が学んでいる(解読)とも言え、実際に今の日本人で甚だ日本語が弱い奴は本当に日本語母語話者とは呼べず、悲しいことに、その機械翻訳(機械)の日本語モドキが母語になりつつあるのかも知れません。

番外:なぜカタカナ語が増えるのか

国外要因

国外要因は機械翻訳だと思われます。Google翻訳などの質の悪い翻訳機を通すとカタカナ語が多く出るため、ここで量産されています。
また、英語至上主義を拗らせている一部の人はわざと音写語を使うかもしれません。
カタカナ(日本語における文字)になっていれば伝わるものだと思っている可能性も十分に考えられます。
外資系企業の日本市場への参入もあるため機械翻訳を介さず、日本語を勉強している日本語が未熟な外国人がカタカナにすればいいと思っている節でもあるのか、これによって量産されている可能性もあります。

国内要因

国内要因は日本人の欧米文化への劣等感(拗らせ)が関係していると考えます。
これは、第二次世界大戦で負けた時、GHQによって日本国民に対し「アメリカ合衆国にとって都合の良い洗脳をせよ」というもので、これが大いに関係しているものだという意見もあります。実際に当時施策された当用漢字がそれで、日本語撲滅・英語公用語化を段階的に行うためのものとして定められたものです。
また、これらのことはウヅテにても、よく「アメリカの属国」などと揶揄される事柄です。
これらの洗脳・コジラセが、世界的に見ても類を見ない母語話者による母語の軽視と成って、それが更に深刻化して、外国人でも侵掠者でもない、日本人の手によって日本語が静かに滅びようとしています。
或は、現代の問題として、語彙力の低さなどの観点から記憶力の低下、すなわち純粋に日本人の智能が低下している可能性も考えられます。
現在の漢字規制も程度を増しており、愚民化の如く行われて、語彙力が落ちていることは、明らかです。
信じがたいですが、悲しいことに、純粋に日本語が母語ではなくなっており、「日本語ならこれは普通、何と言うのか」が分からない人だらけになっているのかも知れません。
簡単な英単語の和訳(日本語)すらすぐに出てこない人が増えていることは事実のように感じます。
また、濫用という形で溢れているため、純粋に日本語訳が分からないものが多く存在しており、ふんわりした認識のまま分かった気になって、そのカタカナ語がまた濫用されるという負の連鎖が起こっています。
一部の日本人はカタカナ語の特性である語義の曖昧さを利用して人を騙すため、優先的に使っている節があるようにも感じます。言い換えれば「お茶を濁す」です。

同じ物事を指す日本語がいくつもあるにも拘らず外来語(英語)のみを用いるのは、日本語が母語ではないからそれらの日本語の意味も分からないからそれらの言葉を用いず、また、その言語ではその物事を指す言葉がその外来語(英語)しかないということなのでしょうから、日本語とは語彙の面で大きく異なる別の言語と容易に解釈できます。
また、カタカナ語の輸入に沿って、隣り合う言葉がカタカナ語になるという国文法に存在しない謎のオキテがカタカナ語にはあるようで、例えば、数字の「一」(日本語では「ひと」)をこのオキテに則り、(かつてはカタカナ語の助数詞にても大和読みをしていたが)英語の「one(ワン)」として読むなどもしているようです。
日本語排斥の(もと)であらゆる日本語をカタカナ語にしていることもあり、また、隣り合う言葉も一緒にカタカナ語になるため、二倍という形でカタカナ語は増殖しているようです。
具体例として「食品ロス」を「フードロス」や「高レベル」を「ハイレベル」など。
なぜか欧米(外国人)の配慮して日本語を英語の音写語にしたりと現代では盛んで、今では日本国の公用語が英語にでもなるのかという勢いすら覚えます。
無駄に、無秩序に、音写し言葉を増やしてその言葉の意味をしっかり理解していないという余りに間抜けなその姿は、端から見れば唯の愚民の具現に過ぎないでしょう。
英語なら英語として話さないと意味ないわけで、安易に難しい日本語をカタカナ語にした所で、変テコな意味へと変化したカタカナ英語は、当然、英語話者は理解できません。
また、カタカナ英語を英語だと思っている日本人との齟齬も生まれていることも相俟って、そのようなことをしたところで普通に英語話者との意思疎通は出来ないということです。
相手に自分の意図が正確に伝わらなくても良いという意識が低く、劣等感を拗らせている一部の日本人が量産しているということでしょう。
また、政治や報道などの場面で言葉を濁すために用いられることが近年多々見られます。

「カタカナ語を優先的に使う」という政策が国民の知らない所でなされているのかもしれません。電視(television)業界や教育関係、会社などで。
酷い番組では(普及させる意図が目的か)カタカナ語の新語煽りをして日本語を蔑んでいる、あるまじき事すらもしています。
国民がよく理解できないようなカタカナ語を恣意的に使っているということもあり、英語化政策が裏で進んでいる可能性は無きにしも非ず。
国内の会社も知らぬところでカタカナ語を量産している事実があります。業界用語として通じていますが初めて聞いて意味が全く分からず、日本人(日本語母語話者)がその意味すら推測できないようなカタカナ語で溢れています。
会社の中で増える理由はおそらく仕事をしている風に見せるためと言葉を濁すためだと思っています。またカタカナ語は字数が増えることが多いため、その字数を稼ぐ目的で使われることもあります。

漢字規制による代用の言葉として、それらの英訳をカタカナに音写したカタカナ語が用いるなどの行為がいつからかは分かりませんが、実際に行われているようです。
これは主に、電視や新聞などで顕著で、例えば「匍匐」「常套」「姦淫」などの難しい漢字の言葉は出来るだけ使用を避けるか、漢字規制の基づいて、これらに代わる言葉としてカタカナ語を用いるというものです。
漢語が難しいというのならば「優しい日本語」を使うのかと思えば、これは漢語に限らず、表記がほぼ定まっている「(ひし)めく」「(うごめ)く」「(ひび)」「(しわ)」「(ひげ)」などの和語の漢字表記も対象となっているようなので、英語化或は日本語排斥に伴う漢字規制及び日本語の規制ということなのでしょう。

酷く拗らせたカタカナ語話者の中で、信じられないことに、日本語を蔑み、さも外来語を崇めているかの如き者が実際におり、反日本語主義、或は、外来語崇拝とも思える思想があることが分かっています。
これは、日本語を大切にし、それを守り伝えようとする人と、反日本語主義の輩とで思想・主張が真っ向から対立していることが認められます。
日本語を知っていながら、態とカタカナ語を好き好んで用い、それを日本語で言えない・使えない、何かの病気、或は「日本語嫌い」という名の不治の病とも思えるものは、この思想によるものなのは明らかで、ある種の宗教的な理由としても解釈できます。
「スピード」というものを日本語母語話者が「はやさ」と言っても頑なにそれを「スピード」と言い「これを日本人は、或は、これは日本語では「はやさ」と呼ぶのか」とそれを学ぶココロバセも無ければ、その発音ができないそういう何かの病気なのかとも思えるが、そもそもとして、その日本語がどのようなものを指している言葉なのかがちんぷんかんぷんなだけで、やつらは私達日本人とは話す言語が違う日本人とは別の人種ということだけなのでしょう。
普通の国では考えられない、余りに偏ったこの思想が日本人の中で有る限り、カタカナ語は増え続け、それと共に日本語を語り継いで守っていこうという態度を示さない限り、日本語は消滅するのみとなるでしょう。

英語化政策云々の話を抜きに訳の分からないカタカナ語を使ってしまう現象は、厨二病の延長ないし厨二病とも解釈できます。
厨二病を(わずら)わしてしまうのは自分という存在(自我ないし個性)の欲しさ故の結果であり「私は英語が使える」や「私はお前たちとは違う」というその誇示にも受け取れます。
但しこの厨二病云々に当てはまる人は極一部だと思います。
辞書にも載っていないカタカナ語を使っている人はこれの可能性が高いと考えます。
もしくは、日本語で日本人なら誰でも分かるような言葉ではなく、自分で造語した言葉の理解を見ず知らずの他人に求めている、少し残念な人かもしれません。
また、然るべき日本語を用いるべきはずの国を担う公務員の上層部(官僚など)や報道、日本の大企業の上層部の一部がこれを拗らせているみたいなので、今後もカタカナ語は増え続けていくと思います。

裏で大きな組織が動いている可能性もあるので今後もカタカナ語は増え続けると思います。
「国の政策なんぞ」という姿勢でカタカナ語が出てきたらまず「どういう意味なんだ」とその言葉の意味を(ただ)すこと、言葉に対する理念・意識の再構築と共に、日本語敬って進んで使っていく事が一番大事だと私は提唱します。

番外:母語の保存の重要性

そもそも、なぜこんな事について述べなくてはいけない世に成っていることがまことに悲しく虚しい。
また、この話で「古文が読めなくなる」などという見解は、ヘブライ語などを除いて現代のほとんどの人は母語の古文は読めないだろうから、筋違いであり、この事ではない。
唯、日本語に於いては、和歌の掛詞や男性語・女性語、忌詞、女房詞、日本語独特の表現・修辞法(隠喩など)を嗜めなくなることは全く良いことではない。
また、たった100年前の文章を読むのに能わないように成ろうとしているのは、植民地化を伴わない長い文化を持つ国として、こればかりは世界的にも異常である。

  1. 民族の権威の保持。
    言語とは、民族の権威を表すものとして最も有り触れた、原始時代より有る概念である。言い換えれば、母語の侮りは自国民の権威・人権を低める行為である。
    歴史の話に植民地などでの言語支配(言語政策)及び現地語の排斥を行うことが正しくこの事である。
    唯、植民地は戦争による敗北の淘汰という意味が強く、これとは別に、いくつかの大きく異なる言語で、混用という形ではなく、ある一つの言語のみを優先的に使おうとする事が、民族を(けな)した行為となる。
    これが現代の日本人が社会の裏で行っているであろう混用ではない、あらゆる日本語を英語にしようとしている日本語排斥の事である。
    この混用とは、今までの日本人が造語してきた和漢混淆の言葉(詰所、新撰組、など)の数々が混用で、また、普通一般に日本人が書く、漢字と仮名文字の文章も混用である。
    語彙の内、殆どが或る一つの他の言語からの借用語となれば、その言語を学ぶ必要性、即ち、権威が無くなり、民族の権威の話に繋がる。
    英語だらけの日本語になって英語話者は「こいつらには英語が伝わるのか」と勘違いして、英語をただカタカナに音写すればそれでいいなどと思われたら日本語を話す日本語母語話者たる日本人の権威が失われるということ。
    中国人に対して、日本人が便利だと宣う、仮名文字は漢字から派生した文字という理由でそれを使って文を書くのか?中国人は漢字のみを使うから仮名文字は使えないし、中国人も仮名文字を学ぼうとしない事から、中国人は中国人としての権威をこのようにして保っているということ。
    英語とドイツ語とでゲルマン語派として同じ発音・綴りの言葉で、例えば「nine」という英語はドイツ語では「neun」と書かなくてはならない。
    日本語と韓国語で共通する漢語があっても韓国人は漢字が読めないから必ずハングルで書かなくてはならない。
    何を言っているのか分からないほど当たり前の話で、「この外国語は現地人(国の人)が理解できないので、必ず、その言葉に(あたい)する既存の現地語(国の人の言葉)に訳して下さい」という秩序は、外国の侵掠などによる、よほど社会が乱れた国でない限り、どの国でも行われていることである。
  2. 片言人 (かたことびと)の誕生。
    母語も第二言語も不完全な片言人は、母語を持つ人より言語能力が劣り、程度が酷ければ、伝えたい事もうまく言い表せないという言語障礙を持つ人が生まれてしまうこと。
    これは人としての在り方を問われる事柄である。
  3. 現代の問題として、カタカナ語の問題点9で述べた、機械翻訳で日本人が理解しがたい翻訳が生成される問題。
    無闇に音訳ばかりしてきた結果にこの問題が現実として、露になっているということ。
    また、日本語を母語としない者がその日本語モドキを日本語として学習してしまうがため、英語の訳語が英語となれば、日本語の伝承がそこで途絶えてしまうということ。
    母語としない者が、その言語の呼び名(母語)を知る術は母語話者から知る以外に無いのだから、それは日本語にも言える話で、日本語母語話者が住む唯一の国である日本で、日本人がそれらを伝えなければ誰がそれを伝えるのかという話である。
  4. 同じ社会・国の人のはずなのに、意思疎通がままならない。
    これは、言語の乱れの話である。乱れに乱れて各々の人で独自の言葉を使い始め、これが広がったら意思疎通(何を言っているのか)がままならなくなるというのは容易に想像がつく。
    現に、今の日本がそうである。
    漢語を口頭で言ったとき、同音異義語の特定に日本人は漢字の訓読み(「やまとことば」という母国語)を用いて言葉を定めていたが、いずれこれも通じなくなる日も近いのか。
    母国語の侮りによって、同じ国・言語を話しているはずなのに母国語での意思疎通ができなくなるとは、このことである。
    + A:いやぁ、「こうかい」して良かった。
    B:「こうかい」って何の?
    A:「(おおやけ)(ひら)く」こと。
    B:「おおやけ」って何?
    A:おまえ、何語なら分かるわけ?もっと日本語学んだらどうなんだ?
  5. 言語の乱れで、共通語たる言葉が定められない。
    「独自の言葉」が更に広がって、「独自の言語」となり、具体的には外来語の翻訳で国の人に共通して伝わる訳語を定められなくなるということ。
    音訳ばかりに頼っている今の翻訳で、現に日本人が容易に理解できない意味不明な言葉だらけである。
    英語が入ってきたことに当たって作られた和製漢語というものがあるが、これは日本人としてまず、漢字に母語たる言語の「やまとことば・和語の訓読み」が当てられていることから、その和製漢語の理解は実に容易いことであったということは、母語の保存を漢字の訓として古来より伝えてきたことによる、おかげであるということ。
  6. 母語話者による母語の値打ち。
    この話は、例えば、英語の歌を、よく訛りが酷いなどと言われる、インド人の英語訛りの歌を誰が聞きたいのかということ。
    母語話者による母語の言葉には何事に代え難い値打ちがあり、母語の保存の重要性は文化財と同じであるということ。
    或は、言い換えれば、他言語の侵蝕が余りに蔓延っていると、所謂「二番煎じ」又は「モドキ」となり、価値の無い言語或は、国に成り果てるということ。
    邦楽の多くが、日本語混じりの英語で構成された歌詞で、ハシタに日本語が混ざっていることで英語話者はその歌詞の意味が分からず、また、ハシタな英語の発音・ハシタな英語表現などから、それらの歌は到底、英語母語話者の歌に勝るものでもなければ、どの道「モドキ」でしかなく、劣っているということは揺るがぬ事実としてあり、価値も無いという話である。
    それに伴った国粋も滅び、いよいよ文化の消滅となる。

番外:生贄言葉

省いても問題無い無駄な言葉に実際に意味が無いとしても、何らかの意味があるとして文中に入れ、真意をその言葉に託し、その汲み取りを相手に委ねている状態が「生贄」のようなので「生贄言葉」と名付けました。
表現力の無さからその言葉には無い意味を付け加えられた言葉も生贄言葉とします。
専ら当たる言葉としては「レベル」や「パターン」などです。
ただし生贄言葉はカタカナ語に限らず漢語や大和言葉にも存在します(「あれ」や「感じ」など)。
これに当たる事柄を(カタカナ語翻訳の標(本頁)の上から二段落目にも書いてありますが)重言または同語反覆といい、意味が曖昧になる表現で本来なら忌み嫌われる表現です。
これらの無駄な言葉は意味を持っていない場合もあるため注意が必要です。
これらの言葉は(濫用の結果として)意味があまりに抽象的、または曖昧であることから語彙力が無い、あるいは表現力が乏しい人がよく分からずに使っているのだと考えます。
また、これらの言葉はそのまま訳すことはできません。ヨーロッパ言語の冠詞のように日本語において考慮しなくてもよい言葉という訳です。
翻訳する際は省くか意味が籠もっていそうであればそれを鑑みて意訳します。
これらの言葉の翻訳は他のカタカナ語と比べ、高度であるため日本語とカタカナ語の理解が十分でないと難しいと思われます。

番外:直訳音写語

直訳音写語とは、安易に言葉を直訳し、音を片仮名へと写す言葉や、無意義な言葉狩りによって狩られた日本語、を言う。
これに関して、まず、無意味さを説く。
この直訳音写語は、安易に直訳した元の言葉の意味に従うため、元の言葉にて言う表現、又は、持つ意味があっても、英語にて言わない、別の言葉を使い、それらのカタカナ語の一部の用法・意味では直訳できないという問題がある。
要するにカタカナ語にて言う言葉をそのまま原語にした時、その話者との齟齬が生じ、会話が成り立たなくなるということである。
カタカナ語を英語と信じ、そのまま原語にするということは言語道断であるということ。また、この認識が日本人は甚だ薄い。
そうとあれば、英語話者との齟齬が多くあり、日本人の英語力も当然低いという事実が、現実に現れる。

直訳音写語は突如として現れるため、定かならぬが例としてはおそらく「イメージ(推定直訳音写語「像」或は「想像」)」や「パターン(推定直訳音写語「模様」)」がそうであろう。
イメージの元の言葉は「(ぞう)」だと思われる。この「(ぞう)」は日本語にて抽象的な「形や有り様」の意味をも持ち、例えば「印象」を「像」とも言う。
しかし、現代英語のimageは「有り様」の意味は薄く(若しくは無く)、具象の形(画像)を言う。即ち、カタカナ語の「イメージ」が「印象」の意のとき、英語への翻訳の際に、imageと訳すというのはもってのほかであるということ。
また、元の言葉であろう「印象」から転じた「評判」・「世評」を英語にてimageなどとは決して言わない。
これらは英語ではなく元の言葉に従うが故に、「直訳音写」という行為そのものが、無意味で無駄で愚かである。
英語学習に於いても言葉の理解の話で、支障が出ると言い得ざるを得ない。
「模様」をpatternというなら「雨模様」はそのまま「レイン(rain)パターン(pattern)」とでも言うのか。直訳音写語とはまさに、この幼稚な行為・言葉を言う。言わずともこんな言葉は世界中のどこにも存在しない。
一部の日本人にて実際に、このような安易な言葉遊びをして、世を乱しているから、驚きである。全く阿呆らしいかぎりである。

番外:秩序を乱す愚かな言語『カタカナ語』

日本国の人が用いる言語は、世界のあらゆる外国語をカタカナ表記し流用し続け、甚だ濫用された結果、意思をはっきりと伝えない意思疎通の怠りや、(かた)りなどの言葉を侮り悪用する輩にとって都合の良い道具ホドの存在になっているのも事実であろう。
私が「言葉の乱れは()の乱れ」と説くのは、言葉の軽視(恣意的に意味不明な語を使う事)が、人の軽視(恣意的という言葉の如く人への敬いが欠けていること)へともなり、それが社会全体へにも及ぶということである。
今までの国語重視が、もう国体云々の話では無くなっている段階にあるのも事実である。
謎のカタカナ語を恣意的に使って、円滑な意思疎通を図ろうという意識さえも失われ、人への敬いをも無くなってくるということである。
公序良俗の反するものとしてはおろか、人の軽視が人権侵害へともなりうるということ。
事実、日本語を母語とし、日本語を伝えている人たちはカタカナ語話者の勢力に圧倒されて、人権も無に等しくなっている(「普通に日本語話せ」と訴えてきた日本人達の主張は今やその力が無く人権が保証されていないということ)。

カタカナ語は言葉の関係が無秩序な言語としてある。
例えば、「オープン(店の)」の対義語は「閉店」や「ワイヤレス」の対義語は「有線」、「スタート」の対義語は「終わり」である。
カタカナ語話者がどのように言葉を理解しているのか謎だが、これらは日本語では秩序があり、「有」の反対は「無」、「開」の反対は「閉」などなど。
この秩序無き間抜けな言語が「学習者への悪影響が無い」などと恥知らずの戯言は死んでも言えないだろう。
この他、「朝」、「昼」、「夕」、「夜」又は「晩」として秩序ある日本語にてその時間の食事をそれぞれ「朝食」、「昼食」、「夕食」、「夜食」、「晩食」となり統一性も持つが、カタカナ語では「朝食」、「ランチ」、「夕飯」で謎の間抜けな言語と言い得ざるを得ない。
七色でカタカナ語では、「赤、オレンジ、黄、緑、青、藍、紫」となり、「なぜオレンジだけ外来語なのですか」と学習者から言われても仕方のないことであろう。

また、和語を重視する見方に、例えば、速い事を言う名詞に「速さ」と言い、速い様を言う副詞に「速く」などと一定の秩序があり、二字熟語として用いられる漢語の、速さを「速度」、速くを「迅速」など言うのと比べても、応用・ 容易 (たやす)さがあり、難しい漢字の使用(例えば、(たちま)ちを「倐忽」、(ねんご)ろを「昵懇」など)を避ける事もできる。

番外:日本語のアマネハシのノゾミ

日本語のクズホリと共にカタカナ語のムシバミにアラガヒする為のタドキとして、トナヘするにこのフミの如く書くということ。
そもそも、ウツツの日本語は言文一致のヒタノチの日本語とは、オホチガヒでソノカミヨソヒノシルシなどの日本語は濫用・誤用とコトに酷く、新言語さながらであるユウェ、このサマなフミを書くもチヒサシなコトだということ。
クハヘテ、ウツツの日本人は日本語のツタヘをオコナヒしているツトメを果たしていないから、スベカラク、スミヤケシが要る。
ヒトツにカタカナ語話者は「日本語嫌い、漢字嫌い、カタカナ大好き」で「コトバの意味不明さ・誤用についてはどうでもいい」というイロを持っているようで、日本語のアマネハシにおいて、フルコトを漢字で書くよりもカタカナで書いた方がウケがよく、アマネハシにヨシである。
マタ、日本語嫌いでも、フルコトの語彙や正仮名遣ヒの教養は無いから、これらをモチウィすればナホヨシ。
カタカナ語話者は或るカタカナ語に対する日本語があるにも拘らず、そのカタカナ語のみしかないかのようにをモチウィ、または、そのコトバのみモチウィしようとするそのココロバセから、日本人も同じように或るそのコトバのみしかないかのゴトク、モチウィすればよいだけのこと。
例えば「てえぶる」というコトバはどんなトキでも「ツクエ」と呼べばヨシだけのこと。
マタ、漢字のモチウィのホダシもクニとしてオコナヒしているようなので、ナホサラのこと。
カタカナ語話者がホシキママに意味不明なコトバをモチウィしているのだから、もうオモフママである。
全くスタレしたフルコトをウツツにモチウィしようと、カタカナ語話者がドッカの意味不明なコトバをモチウィしているのと全くオナジであることも、カンガヘタシ。

イマの日本人が日本語だとスグに分かってしまう日本語はアマネハシに向かないから、スタレしたコトバをもてモチウィするが好ましいか。
例えば、「賭博」のフルコトは「ノリモノ」であるが、これはイマの「乗り物」とオナジであるため、これは向かないとし、カハリに「カリウチ」をモチウィするということ。
正仮名遣ヒで「ゐ、ゑ、を」になるものは「ウィ、ウェ、ウォ」とすれば、外国語感がイチシロシで尚ヨシか。「ぢ、づ」は日本語だとスグにアキラカになるだろうから、これはモチウィしないのがヨシか。「ハ行」のアツカヒはムズカシなことであるが、これも日本語であることをゴマカシできるため、正仮名遣ヒで書くがヨシか。
マタ、連濁も日本語だとアキラカになるだろうから、これをもなくすべきか。コトバの清濁で、奈良時代は清音で読まれていたコトバがオホシだから、これもタドキとしてヨシか。
カタカナ語のイロとして、明治頃からの書法に漢語を多くモチウィするイロがアラハで、名詞を好き好んでモチウィする。動詞、形容詞の活用などがホロビして孤立語の如くなっていることは、アキラカなこと。
動詞は連用形にして「する」を付けてカタカナ語の語法の如し、形容詞は終止形を名詞としてモチウィすることとする。
スナハチ、「(名詞)する」「(名詞)な」などというカタチで書くことをヨスカとする。
このフミを書くのは、至ってタヤスシで、ウツツにカタカナ語話者がオコナヒしているようにカタカナ語をフタタビ、ヤマトコトバにしてカタカナで書くだけである。
「れべる」は「ホド」、「けえす」は「タメシ」、「いめえじ」は「オボエ」、「るうる」は「オキテ」、「どあ」は「トボソ」、「ろおぷ」は「ナハ」、「といれ」は「カハヤ」などのゴトシにするのみである。

カタカナ語のヤマトコトバは本辞書の書かれているものをカンガミせよ。
漢語は漢字の訓読みからオシハカリして、サダメせよ。「漢語」は「 アヤ ()- コト ()」、「経済」は意訳して「 クフサ ()-()-()」などの如し。
ヒトコトマウケ(逐語訳)して、モチウィしてそのコトバの意味もカタカナ語に沿ってヒロガリしていくこととする。

最終更新:2025年05月10日 20:36

*1 イタリアの周辺を除いて

*2 連濁の時は「だ」。