そもそも、翻訳とは「何の為、誰の為なのか」という話で、それは、その民族が用いる言葉にすることで、それ共に、一民族に対する民族及び文化、言語の尊重の為である。
翻訳か音訳かのどちらにするかで、手前の自己満足の言葉を選んでいる時点で、翻訳の働きを成していないということ。
日本語という言語は、言わずとも、英語話者の為の言語ではなく、日本人の為の言語であるということ。また、英語話者も英語であるなら仮名文字よりラテン文字(alphabet)による表記のほうが分かりやすいということは、小学生でも分かる話であるがなぜそれを理解できる脳が無いのか不思議である。
また、それに伴って、日本人も含め、外国人も日本の国の言語として、日本民族を尊重し、これを学ばなければならない使命及び義務があるということ。これは日本語に限らず全ての言語に言えることである。
その使命は、侵掠者の言語を学ぶことは、当然含むものとせず、その侵掠者に我等の言葉を課すが如く、国の民はその
音訳は翻訳ではないし、助詞以外の名詞・動詞・形容詞・副詞などの諸々が「唯、耳で聞いた英語の
他国・他言語の例を出さないと納得しない、ひねくれた日本人の性格に合わせて、英語での翻訳の例を挙げるが、実際に「翻訳」と「意訳」はどちらも同じ言葉が用いられ「translation」といい、即ち「翻訳」とは「意訳」のことである。「音訳」は「transliteration」となり、ここで初めて別語・別の概念となる。
音訳は自国あるいは民族の間で全くその概念が無い場合の最後の切り札であってそれは主に、固有名詞や(料理を含む)発明品、学術用語に限って行うことであり、むやみにするものではないというのは、言語すらも未発達な発展途上国でも無い限り、これは常識としてあるものである。
その理由は、言語を理解できるホドの智能を持つサルなら誰でも分かることで、自分ら(同じ社会の中の人々)が分からない、伝わらないからである。
この話を通り越して、発達した自国語がありながら、ある事柄の呼び名が人々で定まっている物事を、故意にどっかの知らない余所の言語の音訳語にするというその行為は、公序良俗を乱す非合理的且つ非生産的な行為で、普通に国の人からは到底理解できないものであり、自国民(日本語母語話者)の尊重云々を述べなければならない、日本は先進国の中でも、並外れて、異常である。
この話は、ラテン語などの流入を経て発達していった歴史がある言語、英語に於いて、そのものの呼び名が定まっている「Door」というものを、なぜ今になって「Tobira」と改称してそれを用いなければならないのかという話で、こんな非生産的な行為は普通の国の人からは露ほども理解できない行為であるということ。実際に全くその通りである。
他言語に於けるその言語の言い方・呼称を母語話者からそうと学ぶのになぜ日本語だけはそれを行わないのか甚だ奇奇怪怪で不可思議。
生物学的にカラスが時々で鳴き方が違うのは言語の獲得として知られるが、カタカナ語に於いては語彙力低下に伴った智能低下も指摘され、愚民化・低俗化などのため、その過程で形成された愚かな混成言語たる『カタカナ語』は生物学的退化そのものである。
そもそも、なぜカタカナ語(日本語モドキ)が目の敵にされているのかは、長い歴史の中で漢字と共に多くの漢語というもの渡来してきても、元ある和語と共に併用してきた歴史があるからで、今それが
カタカナ語話者は潜在意識(ウラ)の中で「反日本語・英語崇拝」というものをコジラセしている一方で、日本語母語話者は日本語を自由に好きなように使いたいのにそれを押さえつけ排斥し、或は、学ぶココロバセを示さない僻心から、日本語を目の敵に制限しているのとどう違うのか。なぜ日本語ではなくどこぞの未開の言葉を用いるのかという話。
併用という形ではなく、丸っ切り日本語を無くして、さも英語が公用語かのようにしてしまおうと企み、それを実行し、日本語という言語を
これは妄想などではなく、実際に今の日本語モドキ或はその話者共は数多の日本語になんらかの言い掛かりを付けて、規制している事実があるということ。
その一つとして分かりやすいものでは、近年になって顕著な漢字の規制である。しかし、これは第二次世界大戦の敗戦時の規制でいつまでその愚民化を引きずっているのかと思うと腹がよじれてくるが、これによって漢字の訓によって伝えてきた古き和語、例えば「
その例として、近年、急に
ここでの疑問は、「難しい漢字の使用を控える」という
英語公用語化は
古代の日本人が分からなかった文字、「漢字」に於いて母語の
今や、英語圏の頭字語をそのまま輸入なども酷く、当然その頭字語の理解に英語の読解が必要になるなど、既に日本文化云々のそれではもう無いし、日本語母語話者が理解できない言葉を押して用い、またそのような話者に限って日本語の学習しない、或は、尊重せずしまいには排斥などの行為から「言語の変化」などという軽い言葉では済まず、「日本語の排斥」「日本語の消滅」という嘆かわしい事実の他ならないということ。はっきりと言うが、紛れもない日本語母語話者の敵である。
英語において、日本の競技である「柔道」の「黒帯」は「kuroobi」ではなく、直訳した「black belt」と称され、ここで日本の競技であるのになぜ「kuroobi」ではないのか、或はなぜ「black belt」という呼び名を使うのか、などという疑問が出てくるのであれば、寧ろ英語話者(英語に限らず日本語(日本人)を除く全ての言語)にとってそのような疑問が湧いてくることが疑問或は異常であり、ではなぜ「kuroobi」とは言わずに訳すのかというのは、英語に限らず万国共通として自国語ではない言葉で意味が分からないからであると共に、その物を母語話者として普通、何と言うのかが当たり前のように出て来ているというだけであるという、至って正常な思考によるものであるということ。
よく日本人が翻訳時に見せる異常な思想に基づく「外国の事物だから音訳する」だのいうしょうもない翻訳理念は普通、行わない理由はこれであり、そこで翻訳しないで音訳語を用いるなどという選択肢は上で述べた通り、無く、全く新しい物事でもなければ、その物事の何というのかが母語話者として、当たり前のように出て来るというだけのことである。
或は、その在来・外来程度の違いだけのことで本質的に同じであれば母語だけで事足り、外国語を安易に輸入するなどの母語を乱す行為は普通の人種ではやらないというだけの話である。
この程度の借用すべきかどうかのワイタメすらも決められないアタマの持ち主か、又は、母語を持っていない未開人か、或は、何かに毒されて母語を用いないようにするという告げを受けて音訳している瘋癲か。
英語に於ける日本語の借用語の「Tsunami」は、欧州では地震が少なく(*1)、またそれにより発生する「
また、発明品で翻訳が比較的難しくないとされたものは、概ね、明治期に訳語が作られ、今もそれが用いられている。
日本国の古い音訳語の代表に「梵語」があるが、本来の意味とは大きく異なった意味で用いられることも多く、また、現在では多くの梵語が使われなく成っているのは、仏教の衰退もあるだろうが、音訳語ゆえに、意味が分かりにくいからである。
しかしながら、新語の多くが英語で、また、漢字のように訓読み(母語の訳)も当てられておらず、日本人にとって意味不明な言葉であるのにも拘らず、現代の日本人は日本語が疎く弱く拙く、また、それらの意味不明な言葉を母語の如く使っているあたり、現代の日本人(カタカナ語話者)は日本語が母語とはもう呼べず、その英語モドキが母語になりつつあるのか。
現に、今の日本人にそのような母語話者たる言葉の用い方・感覚という
近年、急に使われ始めた語の「レベル」や「アイテム」などは日本人であれば、その字面を見ても普通に意味不明であるが、これらの意味を母語の感覚としてそれを理解しているのかについては謎であるが、大抵、カタカナ語話者はカタカナ語の意味を改めて訊くとだんまりか、甚だ曖昧で抽象的で言葉の意味を理解してなさそうな説明をするあたり智能或は言語能力・言語理解の方に問題がありそうである(これは
カタカナ語翻訳において本質的な意味を捉えることが最も重要である。
基本的にカタカナ語の語彙力というのは低いため、元の日本語を
翻訳時に本来の英語ならどんな言葉を使うのか考え、そしてそれを辞書などを介して日本語に直すのも一つの手である。
また、英語がある程度読めるのであれば実際に英語の辞書の説明から日本語訳を考えるのも良いが、これは日本語が母語でないと難しいという点があり、日本語が母語ではないカタカナ語話者には無理な話である。
これらに関して、カタカナ語話者は多くの日本人が日本語が母語であった時代、つまり、昭和以前・戦前の英和辞書を活用するのが善い(現代の日本人が日本語が母語では無くなっている現状から、現代の国語・英和辞典は役に立たず、これが最善の手)。
「カタカナ語の語彙力というのは低い」というのは英語などで或る意味で実際には違う単語を用いる場合でも、それらの英語表現を無視して、簡単な英語の音写語をどれか一つに絞って用いるということである。
例えばカタカナ語の「ルール」には「法律」や「法令」の意味があるとされるが英語では"law"や"ordinance"などがより正確な言葉で、また、それらをある程度、明確に使い分けるということである。
これは識者から「英語学習の妨げ」などと批判される事柄である。とりわけ「イメージ」という言葉の誤用・多義が酷い。
どういう
すなわちしっかり理解していないがために言葉そのものがとても抽象的なものとなり、その意味の認識が人それぞれという事態になる。正しく「濫用」。
「イメージ」を例だと訳語は「想像」とされているが例えば「世間でのイメージ」という文だと訳語の「想像」ではいまいちぴんとこない。
日本語訳で一番適している言葉は「評価」や「評判」だと思われる。ただしこれは辞書には書かれていない。
おそらく「印象」の延長の言葉として用いられているのだと思われる。
このような辞書に載っていない用法の日本語訳は何か基の言葉の延長ないし連想として用いられているため、その基になった言葉がなんなのか考えることも重要になる(直訳音写語の条を見よ)。
そもそも、カタカナ語を用いて世界中の人に対し、その言葉の意味を濁し、意思をはっきりと伝えないというような、カタカナ語話者を除いた日本人或は世界の人々にとって理解不能なことをするカタカナ語話者の特有の特徴・語法として、概ね現代のカタカナ語は、全てが感動詞の如きもので伝えたいことなんぞは、「あれあれが、あーで、あーだ」ホドのことでしかなく、正確に伝えようと努めていないのだから、言外の読み解きが云々などの行為も皆無である。
名詞は「何か」「アレ」、動詞は「する」「やる」、形容詞は「すごい」「やばい」ホドの甚だ抽象極まりない事柄・意味を表すものとして用いられているものであろう。故に、外来語(母語ではない言葉)であるはずなのに、それらの言葉の意味を改めて聞いたら黙り込むわけである。
これについては「レベル」の片葉の備考欄も参照せよ。
つまりは、これらの意味を深堀りしても、意味は無く、それらの甚だ抽象的なナニカを或るカタカナ語を借りて、言い表しているというだけのことである。
カタカナ語は現代英語に基づく音写語が増えているように見受けられ、英語(原語)で前置詞(専ら、of)を挟まない二、三語で名詞のような言葉は通常、日本語でそれらの訳(訳語)をする時、その単語ごとの間に格助詞(「の」や「なる(な)」など)を挟む。語呂が良い場合や接辞がある場合は挟まない。
この普通「の」を挟むというのは現代のスペイン語などでも見られる。
例えば、「air travel」は、日本語母語話者の感覚として、「
今の日本人はこの感覚が無いのか、そのまま訳語による格助詞を挟まない直訳をして、可笑しな日本語表現だと感じ、しまいには音写という方法で翻訳をすっぽかす。
「誕生日プレゼント」という語であれば「誕生日贈り物」とは言わず、日本語母語話者たる感覚として「誕生日の贈り物」と普通「の」を挟むという話である。
また、英語の形容詞の接辞の「-al(central、musicalなど)」などは体言へと繋げる日本語の形容詞の連体形のことで、これらは「厚き本(厚い本)」などと全く同じ構文であって、日本語に於いてはそのような言葉の造りに於いて、接辞ではなく、語の活用を以て
カタカナ語が出てきた時に省いても良いものがあり、日本語とカタカナ語の重言(または同語反覆)などは省いても問題無い。
これはそのカタカナ語(もしくは一方の言葉)の意味が分かりにくくなる原因とも言える。
またこのような文を作ってしまうのはどちらかの言葉をしっかりと理解していないから作られてしまうのだろう。
例えば「二種類のタイプ」がそれに当たる。訂正すれば「二種類」或は「ニタイプ」で充分と言える。
カタカナ語を含む文の翻訳で語順(訳語の言葉の文中の位置)や助詞が変わる場合がある。
例えば「うちの会社では製造をメインにやっています」という文であれば、より自然な日本語に直すと「うちの会社では主に製造を行っています」となる。
また、多く日本語とカタカナ語での品詞表現の違いが多くあり、カタカナ語では名詞でも、日本語では形容詞や動詞で表現するというものがある。
例えば「スピード(名詞)がある」は日本語で「速い(形容詞)」や「サポート(名詞)をする」は日本語で「
上で挙げたカタカナ語の「スピードがある」に対する直訳で「速度がある」又は「速さがある」とした時の日本語の下手さは否めない。「サイズが大きい」に対し「大きさが大きい」、「無料のサービス」に対し「無料の奉仕」など。
それらを言うのに、普通、日本語ではそれをそうとその一語のみを用い、「大きさが大きい」は単に「
これらは自然な日本語表現の例でカタカナ語に準じた訳語を用いるのもよいが、場合によっては上で述べた通り、変な日本語表現に成りかねないため、訳語を使う以外にこれらの相関関係の知識も有れば尚、良いが、日本語が母語でないと難しいか。
この翻訳については「サポート」の例にてまず「サポートってそもそも何?」、「サポートは支える事、助ける事」と言葉を理解をし、この過程で日本語を得て、翻訳に繋げていく。これは漢語なども同じように活用できる。
表現のしかたが異なる場合がある。
例えば「どのタイミング」であれば日本語だと「いつ」で済む。
上記の例はそれらに対応する一つの言葉が日本語にある場合、普通にその言葉を用いるという話で、上の段落で述べた「スピードがある、云々」の話と同じこと。
カタカナ語に於いて慣用句的に用いられている未開の俗語で、例えば「マウントを取る」という語は日本語ではそれを言い表す言葉に慣用句ではない一つの単語として「
他には立場が違う場合もあり「サービスカウンター」の例だと和訳は「相談窓口」となり、カタカナ語は提供者側の立場で日本語は客側であり立場が異なる。
これは自動詞、他動詞などの話にも言え、自動詞、他動詞という動詞の違いがあるように、誰の立場なのかということが日本語に於いて、重要な事柄であること。
また、これらの動詞の違いから、よく日本語に於いて、人称を省くことを行うのもこれに因る。
文の終わりにある動詞的意味を持つカタカナ語の動名詞の漢語を用いぬ訳し方は、国文法に従えば、普通にその名称の如く「動詞の終止形」を以て
「演劇スタート」などは普通に「演劇を始める」となる。ここで、日本語母語話者の感覚として「名詞、動詞」と来た時、普通、助詞を挟む。助詞を挟まない表現(「妻、去る」など)もあるが、それは有り様や動作などを強調的にいう、修辞であって文法的には普通、助詞を挟む。
ただし、命令的に言う場合、その動作を強調する為に助詞を挟まず「演奏、始め!」という表現も日本語としては至って普通の日本語表現である。
また、その
即ち、「蓋をオープン、すると中には…」は日本語で「蓋を
命令形のうち、軽い言い回し(口語)に動詞の連用形に「て」を添える言い方あり、「やって」「見て」などという。
この他、指図するのに「なさい」を用い、丁寧に言うには現代では「ください」を用い、古文や文語で「たまえ」を用いる。
文の留め方で、文語や文語的文章にては、普通に終止形を以て
古文や和歌などでは「や」を添える。現代人が言う「はやくしろや」などの用例が近い。
また言葉が足りてない場合もある。
例えば「うちの店のナンバーワン」であれば「うちの店の一番人気」と直せるでしょう。ただし、これは意訳であって直訳は「うちの店の一番」となり「何の一番」なのかという一番重要な部分が欠けている。
単純にこれらの文章は言葉が足りてないことにより文章として成り立っていないため、その文を考えた本人に意味(伝えたい事)を聞く必要すら起こりえる。
物事の多様化で区別するために作られた言葉というのも存在し、例えば「リアルタイム」や「エンドユーザー」など。
「エンドユーザー」であれば従来の日本語表現ではそれは単に「客」のことを指し(最終消費者、すわなち「お客さん」のこと)、便宜上の訳語として「最終消費者」という言葉も生まれた。
ここで重要なのは第一にその言葉は具体的に何を指しているのかを考え、直訳するのも良いが日本語としてそれはどのように表現するのかを考えることである。
日本人は日本語の言葉を意味を狭めたり、カタカナ語は意味を拡張したりしているがそもそも、そのカタカナ語をよく理解しておらず抽象的な認識のままだから起こってしまうのだと考える。
カタカナ語は西洋の物を指したり和語や漢語は日本の物という使い分けをしているようだが実際にはそのような違いを見出だすというのは普通、他の言語ではしない。仮にそれをやったとしても本の一握りである。
日本語においてこの違いを見出だすという事が活発なので、分かりにくいところがあるかもしれないが既存の言葉で済むような外来語であればその言葉で済ます。
例えば「宿」と「ホテル」であれば英語の"hotel"の訳語は日本語における「宿」であって逆も然り。また「ショップ」や「ストア」はどちらとも訳語は「
前述の「店」の例の通りで英語などで同じような意味の言葉が複数あっても、一単語につき一つの訳が必要というわけではない。これは翻訳の基本である。
「文化による言葉の表現」、「言葉の文化の違い」は当然あるもので、全ての外来語を借用などという母語を軽んじたことは良識ある民族ではせず、母語たる言語に於ける言い方にすることが翻訳というものである。
漢語を漢字の音で読まず、日本語母語話者たる読み方(訓読)をしていたその感覚は既に失われているのか。
一部の辞書に於いて、同義の日本語とカタカナ語で、カタカナ語の意に「西洋の」という文言と付け加えている辞書があるが、そもそもその「西洋の」というのに明確な定義・基準が無く、また、
これに至っては、その同義の言葉があるものの内、どちらかの言葉が残る現象でなぜか母語たる言語でなく、カタカナ語が用いられるという悍ましい惨状にある。
また、その分かちが無い以上、あらゆる事柄を同義の日本語に訳しても差し障りはないということ。
また、日本語とカタカナ語(英語)でそれらに完全に対応する訳語が有っても、それを認めようとせず、何かに託けて「これは日本語にはできない」などと言ってカタカナ語を使うなど、日本語を酷く貶した行為を行っているカタカナ語話者がウヅテに於いて少なからず居ることが確認できる。
これは、どのように言葉を理解しているのかに於ける、一般の日本人の言葉の理解のあやふやさに直結する話で、例えば、或る言葉の意味を漢字の音読みとしてそれが指定されている言葉は、専門用語的にそれを扱うための行うことであって、「
これらは本来、それらを訓読みしたものとしても(母語たる日本語、和語として読んでも)普通にその意味を成すものであって、これはカタカナ語に於いても同じことである。
例えば、「
要は、「ホテル」などいうものも「仮に
しかし、カタカナ語話者は母語というものが無いが故に、それらを
「
これらの翻訳を認めようとしないのは、日本人の言葉の理解の異様さ・あやふやさに因るもので、言語の正常が保たれている国ではこれらの奇妙な言葉の理解も無く、「普通、この物事は自国語でこうと呼ぶ」という秩序があり、それを素直に認め、また、それを素直に学び、言葉を用いているということ。
日本語の形式名詞は日本語の形を継ぐカタカナ語にも存在するようだが、この形式名詞は日本語構文に於ける概念であり、それらのカタカナ語は英語の音写語であるため、甚だ可笑しな日本語文に成っています。
これらの和訳を覚えることにより自然な日本語文を作文できるようになるため、使用例が多い、或は形式名詞であることがよく分かるカタカナ語の和訳を書きます。
右翼的な考えを抜きに何が問題なのか解説します。
多くの問題点が有り、
+ | 例 |
国外要因は機械翻訳だと思われます。Google翻訳などの質の悪い翻訳機を通すとカタカナ語が多く出るため、ここで量産されています。
また、英語至上主義を拗らせている一部の人はわざと音写語を使うかもしれません。
カタカナ(日本語における文字)になっていれば伝わるものだと思っている可能性も十分に考えられます。
外資系企業の日本市場への参入もあるため機械翻訳を介さず、日本語を勉強している日本語が未熟な外国人がカタカナにすればいいと思っている節でもあるのか、これによって量産されている可能性もあります。
国内要因は日本人の欧米文化への劣等感(拗らせ)が関係していると考えます。
これは、第二次世界大戦で負けた時、GHQによって日本国民に対し「アメリカ合衆国にとって都合の良い洗脳をせよ」というもので、これが大いに関係しているものだという意見もあります。実際に当時施策された当用漢字がそれで、日本語撲滅・英語公用語化を段階的に行うためのものとして定められたものです。
また、これらのことはウヅテにても、よく「アメリカの属国」などと揶揄される事柄です。
これらの洗脳・コジラセが、世界的に見ても類を見ない母語話者による母語の軽視と成って、それが更に深刻化して、外国人でも侵掠者でもない、日本人の手によって日本語が静かに滅びようとしています。
或は、現代の問題として、語彙力の低さなどの観点から記憶力の低下、すなわち純粋に日本人の智能が低下している可能性も考えられます。
現在の漢字規制も程度を増しており、愚民化の如く行われて、語彙力が落ちていることは、明らかです。
信じがたいですが、悲しいことに、純粋に日本語が母語ではなくなっており、「日本語ならこれは普通、何と言うのか」が分からない人だらけになっているのかも知れません。
簡単な英単語の和訳(日本語)すらすぐに出てこない人が増えていることは事実のように感じます。
また、濫用という形で溢れているため、純粋に日本語訳が分からないものが多く存在しており、ふんわりした認識のまま分かった気になって、そのカタカナ語がまた濫用されるという負の連鎖が起こっています。
一部の日本人はカタカナ語の特性である語義の曖昧さを利用して人を騙すため、優先的に使っている節があるようにも感じます。言い換えれば「お茶を濁す」です。
同じ物事を指す日本語がいくつもあるにも拘らず外来語(英語)のみを用いるのは、日本語が母語ではないからそれらの日本語の意味も分からないからそれらの言葉を用いず、また、その言語ではその物事を指す言葉がその外来語(英語)しかないということなのでしょうから、日本語とは語彙の面で大きく異なる別の言語と容易に解釈できます。
また、カタカナ語の輸入に沿って、隣り合う言葉がカタカナ語になるという国文法に存在しない謎のオキテがカタカナ語にはあるようで、例えば、数字の「一」(日本語では「ひと」)をこのオキテに則り、(かつてはカタカナ語の助数詞にても大和読みをしていたが)英語の「one(ワン)」として読むなどもしているようです。
日本語排斥の
具体例として「食品ロス」を「フードロス」や「高レベル」を「ハイレベル」など。
なぜか欧米(外国人)の配慮して日本語を英語の音写語にしたりと現代では盛んで、今では日本国の公用語が英語にでもなるのかという勢いすら覚えます。
無駄に、無秩序に、音写し言葉を増やしてその言葉の意味をしっかり理解していないという余りに間抜けなその姿は、端から見れば唯の愚民の具現に過ぎないでしょう。
英語なら英語として話さないと意味ないわけで、安易に難しい日本語をカタカナ語にした所で、変テコな意味へと変化したカタカナ英語は、当然、英語話者は理解できません。
また、カタカナ英語を英語だと思っている日本人との齟齬も生まれていることも相俟って、そのようなことをしたところで普通に英語話者との意思疎通は出来ないということです。
相手に自分の意図が正確に伝わらなくても良いという意識が低く、劣等感を拗らせている一部の日本人が量産しているということでしょう。
また、政治や報道などの場面で言葉を濁すために用いられることが近年多々見られます。
「カタカナ語を優先的に使う」という政策が国民の知らない所でなされているのかもしれません。電視(television)業界や教育関係、会社などで。
酷い番組では(普及させる意図が目的か)カタカナ語の新語煽りをして日本語を蔑んでいる、あるまじき事すらもしています。
国民がよく理解できないようなカタカナ語を恣意的に使っているということもあり、英語化政策が裏で進んでいる可能性は無きにしも非ず。
国内の会社も知らぬところでカタカナ語を量産している事実があります。業界用語として通じていますが初めて聞いて意味が全く分からず、日本人(日本語母語話者)がその意味すら推測できないようなカタカナ語で溢れています。
会社の中で増える理由はおそらく仕事をしている風に見せるためと言葉を濁すためだと思っています。またカタカナ語は字数が増えることが多いため、その字数を稼ぐ目的で使われることもあります。
漢字規制による代用の言葉として、それらの英訳をカタカナに音写したカタカナ語が用いるなどの行為がいつからかは分かりませんが、実際に行われているようです。
これは主に、電視や新聞などで顕著で、例えば「匍匐」「常套」「姦淫」などの難しい漢字の言葉は出来るだけ使用を避けるか、漢字規制の基づいて、これらに代わる言葉としてカタカナ語を用いるというものです。
漢語が難しいというのならば「優しい日本語」を使うのかと思えば、これは漢語に限らず、表記がほぼ定まっている「
酷く拗らせたカタカナ語話者の中で、信じられないことに、日本語を蔑み、さも外来語を崇めているかの如き者が実際におり、反日本語主義、或は、外来語崇拝とも思える思想があることが分かっています。
これは、日本語を大切にし、それを守り伝えようとする人と、反日本語主義の輩とで思想・主張が真っ向から対立していることが認められます。
日本語を知っていながら、態とカタカナ語を好き好んで用い、それを日本語で言えない・使えない、何かの病気、或は「日本語嫌い」という名の不治の病とも思えるものは、この思想によるものなのは明らかで、ある種の宗教的な理由としても解釈できます。
「スピード」というものを日本語母語話者が「はやさ」と言っても頑なにそれを「スピード」と言い「これを日本人は、或は、これは日本語では「はやさ」と呼ぶのか」とそれを学ぶココロバセも無ければ、その発音ができないそういう何かの病気なのかとも思えるが、そもそもとして、その日本語がどのようなものを指している言葉なのかがちんぷんかんぷんなだけで、やつらは私達日本人とは話す言語が違う日本人とは別の人種ということだけなのでしょう。
普通の国では考えられない、余りに偏ったこの思想が日本人の中で有る限り、カタカナ語は増え続け、それと共に日本語を語り継いで守っていこうという態度を示さない限り、日本語は消滅するのみとなるでしょう。
英語化政策云々の話を抜きに訳の分からないカタカナ語を使ってしまう現象は、厨二病の延長ないし厨二病とも解釈できます。
厨二病を
但しこの厨二病云々に当てはまる人は極一部だと思います。
辞書にも載っていないカタカナ語を使っている人はこれの可能性が高いと考えます。
もしくは、日本語で日本人なら誰でも分かるような言葉ではなく、自分で造語した言葉の理解を見ず知らずの他人に求めている、少し残念な人かもしれません。
また、然るべき日本語を用いるべきはずの国を担う公務員の上層部(官僚など)や報道、日本の大企業の上層部の一部がこれを拗らせているみたいなので、今後もカタカナ語は増え続けていくと思います。
裏で大きな組織が動いている可能性もあるので今後もカタカナ語は増え続けると思います。
「国の政策なんぞ」という姿勢でカタカナ語が出てきたらまず「どういう意味なんだ」とその言葉の意味を
そもそも、なぜこんな事について述べなくてはいけない世に成っていることがまことに悲しく虚しい。
また、この話で「古文が読めなくなる」などという見解は、ヘブライ語などを除いて現代のほとんどの人は母語の古文は読めないだろうから、筋違いであり、この事ではない。
唯、日本語に於いては、和歌の掛詞や男性語・女性語、忌詞、女房詞、日本語独特の表現・修辞法(隠喩など)を嗜めなくなることは全く良いことではない。
また、たった100年前の文章を読むのに能わないように成ろうとしているのは、植民地化を伴わない長い文化を持つ国として、こればかりは世界的にも異常である。
+ | 例 |
省いても問題無い無駄な言葉に実際に意味が無いとしても、何らかの意味があるとして文中に入れ、真意をその言葉に託し、その汲み取りを相手に委ねている状態が「生贄」のようなので「生贄言葉」と名付けました。
表現力の無さからその言葉には無い意味を付け加えられた言葉も生贄言葉とします。
専ら当たる言葉としては「レベル」や「パターン」などです。
ただし生贄言葉はカタカナ語に限らず漢語や大和言葉にも存在します(「あれ」や「感じ」など)。
これに当たる事柄を(カタカナ語翻訳の標(本頁)の上から二段落目にも書いてありますが)重言または同語反覆といい、意味が曖昧になる表現で本来なら忌み嫌われる表現です。
これらの無駄な言葉は意味を持っていない場合もあるため注意が必要です。
これらの言葉は(濫用の結果として)意味があまりに抽象的、または曖昧であることから語彙力が無い、あるいは表現力が乏しい人がよく分からずに使っているのだと考えます。
また、これらの言葉はそのまま訳すことはできません。ヨーロッパ言語の冠詞のように日本語において考慮しなくてもよい言葉という訳です。
翻訳する際は省くか意味が籠もっていそうであればそれを鑑みて意訳します。
これらの言葉の翻訳は他のカタカナ語と比べ、高度であるため日本語とカタカナ語の理解が十分でないと難しいと思われます。
直訳音写語とは、安易に言葉を直訳し、音を片仮名へと写す言葉や、無意義な言葉狩りによって狩られた日本語、を言う。
これに関して、まず、無意味さを説く。
この直訳音写語は、安易に直訳した元の言葉の意味に従うため、元の言葉にて言う表現、又は、持つ意味があっても、英語にて言わない、別の言葉を使い、それらのカタカナ語の一部の用法・意味では直訳できないという問題がある。
要するにカタカナ語にて言う言葉をそのまま原語にした時、その話者との齟齬が生じ、会話が成り立たなくなるということである。
カタカナ語を英語と信じ、そのまま原語にするということは言語道断であるということ。また、この認識が日本人は甚だ薄い。
そうとあれば、英語話者との齟齬が多くあり、日本人の英語力も当然低いという事実が、現実に現れる。
直訳音写語は突如として現れるため、定かならぬが例としてはおそらく「イメージ(推定直訳音写語「像」或は「想像」)」や「パターン(推定直訳音写語「模様」)」がそうであろう。
イメージの元の言葉は「
しかし、現代英語のimageは「有り様」の意味は薄く(若しくは無く)、具象の形(画像)を言う。即ち、カタカナ語の「イメージ」が「印象」の意のとき、英語への翻訳の際に、imageと訳すというのはもってのほかであるということ。
また、元の言葉であろう「印象」から転じた「評判」・「世評」を英語にてimageなどとは決して言わない。
これらは英語ではなく元の言葉に従うが故に、「直訳音写」という行為そのものが、無意味で無駄で愚かである。
英語学習に於いても言葉の理解の話で、支障が出ると言い得ざるを得ない。
「模様」をpatternというなら「雨模様」はそのまま「レイン(rain)パターン(pattern)」とでも言うのか。直訳音写語とはまさに、この幼稚な行為・言葉を言う。言わずともこんな言葉は世界中のどこにも存在しない。
一部の日本人にて実際に、このような安易な言葉遊びをして、世を乱しているから、驚きである。全く阿呆らしいかぎりである。
日本国の人が用いる言語は、世界のあらゆる外国語をカタカナ表記し流用し続け、甚だ濫用された結果、意思をはっきりと伝えない意思疎通の怠りや、
私が「言葉の乱れは
今までの国語重視が、もう国体云々の話では無くなっている段階にあるのも事実である。
謎のカタカナ語を恣意的に使って、円滑な意思疎通を図ろうという意識さえも失われ、人への敬いをも無くなってくるということである。
公序良俗の反するものとしてはおろか、人の軽視が人権侵害へともなりうるということ。
事実、日本語を母語とし、日本語を伝えている人たちはカタカナ語話者の勢力に圧倒されて、人権も無に等しくなっている(「普通に日本語話せ」と訴えてきた日本人達の主張は今やその力が無く人権が保証されていないということ)。
カタカナ語は言葉の関係が無秩序な言語としてある。
例えば、「オープン(店の)」の対義語は「閉店」や「ワイヤレス」の対義語は「有線」、「スタート」の対義語は「終わり」である。
カタカナ語話者がどのように言葉を理解しているのか謎だが、これらは日本語では秩序があり、「有」の反対は「無」、「開」の反対は「閉」などなど。
この秩序無き間抜けな言語が「学習者への悪影響が無い」などと恥知らずの戯言は死んでも言えないだろう。
この他、「朝」、「昼」、「夕」、「夜」又は「晩」として秩序ある日本語にてその時間の食事をそれぞれ「朝食」、「昼食」、「夕食」、「夜食」、「晩食」となり統一性も持つが、カタカナ語では「朝食」、「ランチ」、「夕飯」で謎の間抜けな言語と言い得ざるを得ない。
七色でカタカナ語では、「赤、オレンジ、黄、緑、青、藍、紫」となり、「なぜオレンジだけ外来語なのですか」と学習者から言われても仕方のないことであろう。
また、和語を重視する見方に、例えば、速い事を言う名詞に「速さ」と言い、速い様を言う副詞に「速く」などと一定の秩序があり、二字熟語として用いられる漢語の、速さを「速度」、速くを「迅速」など言うのと比べても、応用・
日本語のクズホリと共にカタカナ語のムシバミにアラガヒする為のタドキとして、トナヘするにこのフミの如く書くということ。
そもそも、ウツツの日本語は言文一致のヒタノチの日本語とは、オホチガヒでソノカミヨソヒノシルシなどの日本語は濫用・誤用とコトに酷く、新言語さながらであるユウェ、このサマなフミを書くもチヒサシなコトだということ。
クハヘテ、ウツツの日本人は日本語のツタヘをオコナヒしているツトメを果たしていないから、スベカラク、スミヤケシが要る。
ヒトツにカタカナ語話者は「日本語嫌い、漢字嫌い、カタカナ大好き」で「コトバの意味不明さ・誤用についてはどうでもいい」というイロを持っているようで、日本語のアマネハシにおいて、フルコトを漢字で書くよりもカタカナで書いた方がウケがよく、アマネハシにヨシである。
マタ、日本語嫌いでも、フルコトの語彙や正仮名遣ヒの教養は無いから、これらをモチウィすればナホヨシ。
カタカナ語話者は或るカタカナ語に対する日本語があるにも拘らず、そのカタカナ語のみしかないかのようにをモチウィ、または、そのコトバのみモチウィしようとするそのココロバセから、日本人も同じように或るそのコトバのみしかないかのゴトク、モチウィすればよいだけのこと。
例えば「てえぶる」というコトバはどんなトキでも「ツクエ」と呼べばヨシだけのこと。
マタ、漢字のモチウィのホダシもクニとしてオコナヒしているようなので、ナホサラのこと。
カタカナ語話者がホシキママに意味不明なコトバをモチウィしているのだから、もうオモフママである。
全くスタレしたフルコトをウツツにモチウィしようと、カタカナ語話者がドッカの意味不明なコトバをモチウィしているのと全くオナジであることも、カンガヘタシ。
イマの日本人が日本語だとスグに分かってしまう日本語はアマネハシに向かないから、スタレしたコトバをもてモチウィするが好ましいか。
例えば、「賭博」のフルコトは「ノリモノ」であるが、これはイマの「乗り物」とオナジであるため、これは向かないとし、カハリに「カリウチ」をモチウィするということ。
正仮名遣ヒで「ゐ、ゑ、を」になるものは「ウィ、ウェ、ウォ」とすれば、外国語感がイチシロシで尚ヨシか。「ぢ、づ」は日本語だとスグにアキラカになるだろうから、これはモチウィしないのがヨシか。「ハ行」のアツカヒはムズカシなことであるが、これも日本語であることをゴマカシできるため、正仮名遣ヒで書くがヨシか。
マタ、連濁も日本語だとアキラカになるだろうから、これをもなくすべきか。コトバの清濁で、奈良時代は清音で読まれていたコトバがオホシだから、これもタドキとしてヨシか。
カタカナ語のイロとして、明治頃からの書法に漢語を多くモチウィするイロがアラハで、名詞を好き好んでモチウィする。動詞、形容詞の活用などがホロビして孤立語の如くなっていることは、アキラカなこと。
動詞は連用形にして「する」を付けてカタカナ語の語法の如し、形容詞は終止形を名詞としてモチウィすることとする。
スナハチ、「(名詞)する」「(名詞)な」などというカタチで書くことをヨスカとする。
このフミを書くのは、至ってタヤスシで、ウツツにカタカナ語話者がオコナヒしているようにカタカナ語をフタタビ、ヤマトコトバにしてカタカナで書くだけである。
「れべる」は「ホド」、「けえす」は「タメシ」、「いめえじ」は「オボエ」、「るうる」は「オキテ」、「どあ」は「トボソ」、「ろおぷ」は「ナハ」、「といれ」は「カハヤ」などのゴトシにするのみである。
カタカナ語のヤマトコトバは本辞書の書かれているものをカンガミせよ。
漢語は漢字の訓読みからオシハカリして、サダメせよ。「漢語」は「
ヒトコトマウケ(逐語訳)して、モチウィしてそのコトバの意味もカタカナ語に沿ってヒロガリしていくこととする。