日野俊光

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**&bold(){日野俊光} ---- -文応元(1260)~嘉暦元(1326)年5月15日  父は[[日野資宣]]、母は賀茂神主能継の娘。文章博士から蔵人・弁官に任ず。四位の弁官であるときに伝奏になったというから、『中世朝廷訴訟制の研究』の本文では見落としてしまったが、親政を行なっていた伏見天皇の伝奏だったことになる。永仁三(1295)年に参議。翌々年権中納言。伏見院政下でも引き続き伝奏を務め、皇統が大覚寺統に移った正安三(1301)年に官を辞す。この後は伏見上皇の執権として働いたようで、まさに彼は上皇の股肱の臣であった。延慶元(1308)年、伏見院政の再開とともに再び伝奏に任じ、文保元(1317)年六月には権大納言に進んでいる。同年九月、伏見上皇が没すると問もなく辞任。この後は後伏見上皇に仕え、終生持明院統のために働いた。 (本郷和人)
**&bold(){日野俊光} ---- -文応元(1260)~嘉暦元(1326)年5月15日  父は[[日野資宣]]、母は賀茂神主能継の娘。文章博士から蔵人・弁官に任ず。四位の弁官であるときに伝奏になったというから、[[『中世朝廷訴訟制の研究』>http://www.amazon.co.jp/中世朝廷訴訟の研究-本郷-和人/dp/4130201077/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1243394012&sr=8-1]]の本文では見落としてしまったが、親政を行なっていた伏見天皇の伝奏だったことになる。永仁三(1295)年に参議。翌々年権中納言。伏見院政下でも引き続き伝奏を務め、皇統が大覚寺統に移った正安三(1301)年に官を辞す。この後は伏見上皇の執権として働いたようで、まさに彼は上皇の股肱の臣であった。延慶元(1308)年、伏見院政の再開とともに再び伝奏に任じ、文保元(1317)年六月には権大納言に進んでいる。同年九月、伏見上皇が没すると問もなく辞任。この後は後伏見上皇に仕え、終生持明院統のために働いた。 (本郷和人)

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