源雅言

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源雅言


  • 安貞元(1227)~正安二(1300)年10月26日
 父は権中納言源雅具、母は花山院家の家司高階業国の娘で、土御門院に仕えた播磨局。若年より土御門院の皇子邦仁王に仕えた。一旦は左少将に任じるが、建長六(1254)年に父が権中納言を辞する替わりとして右少弁になる。こののち弁官として昇進し、文永三(1266)年に参議。翌々年に権中納言。このころから伝奏を務めているようである。文永七(1270)年、子息雅憲を五位蔵人に申任して権中納言を辞す。しかしなお後嵯峨上皇・亀山上皇の側近として活躍し、弘安八(1285)年には権大納言に補されている。弘安十(1287)年末、後深草上皇が治天の君となるや、今度は同上皇の伝奏・評定衆・院司を務めている。治天の君にとって彼の才能はどうしても必要だったのだろう。ただし、上皇の近臣であったのは雅言だけで、その子孫は目立った活動をしていない。雅憲は「無才非器」と酷評されていて(1)、それゆえに彼以降は家が衰えたのだろうか。
  1. 『勘仲記』弘安六年七月二十日

(本郷和人)