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姉小路忠方

姉小路忠方


  • 仁治二(1241)~弘安五(1282)年12月19日
 父は姉小路顕朝、母は二条定高の娘。父の譲りをうけて弱冠十八歳で右少弁になり、以後累進し文永五(1268)年に参議。このころには後嵯峨上皇の伝奏であった(1)。二年後には権中納言。上皇の股肱の臣顕朝の嫡男として、順調すぎる程の昇進ぶりである。ところが文永八(1271)年、同じ正三位でも位次が下の中御門経任が、忠方を超越して従二位に叙せられた。忠方はこれに怒り、家領甲斐国を返上するとともに権中納言を辞してしまう(2)。この忠方の行為をどう捉えるべきだろうか。①「当時、超越されることは貴族にとってたいへんな恥屠であると認識されていた。それゆえに忠方は「思切生涯」ったのだ」。このように当時の意識を前面に押し出せば、説明は案外簡単に付せる。しかしもう少し踏み込んだ解釈はできないだろうか。まず、忠方の個人的な感情を強調するならば、吉田経藤を想起すべきだろう。経藤は経任の異母兄でやはり経任に超越されたために出家してしまったが、この経藤が忠方の母方の従兄弟(二人の祖父は二条定高)なのであった。それゆえに①’「超越されるのは恥辱であって、先には経藤が、今度は自分が、経任に屠めをうけた。そう思って激怒した忠方は官を辞した」。あるいは当時の意識云々を強調しなければどうか。忠方は、くどくなるが、後嵯峨上皇の第一の近臣顕朝の子である。父の地位の継承を望んでも不思議はない。一方経任は弘長年問ごろから、上皇の側近として働いていた。彼も顕朝の地位を望める存在である。そして上皇は、正三位権中納言という同じ官位をもつ二人のうち、経任に従二位を与えた。それはまさに、経任をかつての顕朝の座に据えるための選択であった。②「父の地位を望んでいた忠方にとって、経任に敗れ、以後常に経任の風下に立つことは、すべてを失うことと全く同義であった」。このような解釈も可能ではないか。とまれ、忠方の行動は後嵯峨上皇の機嫌を著しく損ねたらしく、以後彼にも彼の一族にも、名誉回復の沙汰は全くなかった。忠方は自ら家の文書を焼いて前途を断ち、弘安五年に没している。
  1. 『吉続記』文永五年五月二十一日
  2. 『吉続記』文永八年三月三十日

(本郷和人)
最終更新:2009年06月11日 00:16