法性寺雅藤
父は正二位参議法性寺顕雅、母は備中守平信繁の娘。顕雅は晩年の九条道家に近侍した人物で(1)、その妹も右衛門督局として道家に仕えている。法性寺の呼称はここに由来するのだろう。当時の道家や九条家に家礼を後暖する力はなく、顕雅は父祖と同じ官位で辞官した。雅藤の昇進の歩みも遅く、正応三(1290)年、五十六歳にしてようやく参議。しかも翌年には辞任している。第一回の伏見院政で伝奏として勤仕。その功を賞されたものか、正安二(1300)年、一ヵ月間だけ権中納言となった。辞任のときに子息などを挙申できぬ補任とはいえ、彼の一流では初めてのことで、たいへんな名誉だったのだろう。ついで第一回の後宇多院政では、本文には記さなかったが、一年間だけ伝奏・評定衆となった。家格をのりこえたことから有為な人とみるか、昇進の遅さから凡庸な人とみるか。貴族の家と個人とを考える際に、雅藤は格好の素材となろう。なお彼の家は漸次衰退していった。
- 『顕朝卿記』建長四年二月四日
(本郷和人)
最終更新:2009年07月10日 23:23