藤原兼仲

藤原兼仲


  • 寛元二(1244)~延慶元(1308)年1月20日
 父は権中納言藤原経光。母は正三位藤原親実の娘。弱冠にして文章道を修め、父祖が近衛家に仕えたように、近衛一門の鷹司兼平に仕えた。兼平の執事、兼平婿の近衛家基の執事となる。弘安三(1280)年、兄兼頼が没したために家嫡と目される、ようになる。同七(1284)年に蔵人となり、弁官を経て、正応五(1292)年に参議。時に四十九歳だから、名家の名流と比べると著しく遅い昇進である。ついで権中納言となり、永仁二(1294)年に辞任。また正応五(1292)年に日野資宣の没後を襲って日野長老となり、嘉元三(1305)年にその地位を日野俊光に与奪している。兼仲の家は勘解由小路と称され、みな権中納一言にまで昇る。にもかかわらず、他の名家の家に比べると、治天の君に用いられていない。これは同家があまりに近衛家に近かったためであろう。

(本郷和人)
最終更新:2009年05月27日 12:16