源資平
- 貞応二(1223)~弘安七(1284)年9月23日
父は参議源顕平、母は公卿補任に「武土」とあるので、武家の娘であろう。近衛家実の娘、鷹司院(後堀河院后)に仕えていたらしいが、前半生はよく分からない。おそらく不遇であったころの邦仁王(後嵯峨院)にも仕えていたのではないか。五位蔵人・弁官には任じていない。正元元(1259)年に蔵人頭。このころから後嵯峨上皇の伝奏を務める。弘長元(1261)年参議に任じて公卿となる。文永八(1271)年に権中納言となり、六ヵ月で辞任。直ちに本座を許され、亀山上皇にも伝奏として仕えるが、その子孫が上皇に用いられている形跡はない。
(本郷和人)
最終更新:2009年05月27日 12:35