平経親
父は
平時継、母は従二位修理大夫高階経雅の娘。同母兄が権中納言忠世である。父は忠世よりも経親を愛した(1)。また経親が若年から仕えた後深草上皇も同様で、彼の昇進を忠世より優先しようとしたために兄弟問に確執が生じたという(2)。弁官・蔵人頭を経て永仁元(1293)年に参議。伏見院政では伝奏となった。正安二(1300)年に権中納言となって辞官している。徳治二(1307)年、使者として関東に下向。前年後宇多院使と昭訓門院使が下向して恒明親王の処遇をめぐって争っているので、経親は持明院統の使者として、両者の動向をふまえた上で活動したと思われる。延慶元(一三〇八)年に第二回の伏見院政が行なわれると、再び伝奏として上皇に仕えた。正和二(1313)年には権大納言に進んだ。文保元(1317)年、伏見上皇が没すると、そのあとを追って出家した。時継・経親父子は後深草・伏見上皇の第一の側近ともいうべき存在で、官も例外的に権大納言に昇っている。しかし彼らの家が上皇に近侍するにふさわしい家格であった、とはいい難く、こののち子孫は衰徴していく。
- 『公衡公記』弘安十一年正月五日
- 『吉続記』文永八年十一月二十九日
(本郷和人)
「こののち子孫は衰微していく」はうそ。
平宗経を見て下さい。(本郷和人)
最終更新:2009年06月05日 15:15