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亀山天皇

亀山天皇


  • 建長1.5.27(1249)~嘉元3.9.15(1305)

 鎌倉中期の天皇。名は恒仁/つねひと。父は後嵯峨天皇、母は西園寺実氏の娘の大宮院(藤原/きつし)。先代後深草天皇は同母兄。父母は病弱な兄よりも恒仁を愛し,彼に皇位を伝えたいと考えていた。ために正嘉2(1258)年,兄後深草の東宮に立ち,翌年に即位した。ただし当時の実権は父の後嵯峨上皇が一手に掌握していたため,政治的にはみるべきものがない。文永5(1268)年,皇子世仁/よひと親王を東宮とする。同9年に後嵯峨が没すると,兄をさしおいて「治天の君」となり天皇親政を開始,2年後東宮(後宇多天皇)に譲位して院政を行った。この時点では,皇統は完全に亀山の子孫(大覚寺統)に受け継がれるかにみえた。しかし後深草上皇は皇位回復をあきらめず,くり返し鎌倉幕府に働きかけてその後援をとりつけた。建治1(1275)年,幕府の提言により後深草上皇の皇子煕仁/ひろひと親王が皇太子に立った。これは近い将来,皇位が後深草の側(持明院統)に移ることを意味する。持明院統,大覚寺統の両統の迭立は,厳密にはこのときに始まる。またこのころ,摂政鷹司兼平が大きな政治力を持ち,亀山の地位を脅かすまでになった。煕仁親王立太子の一件で,幕府は間接的にせよ亀山を支持しなかった。このことと兼平の台頭とは一定の関係があると想像できる。
 やがて亀山は朝政を積極的に主導することによって劣勢を挽回しようとし,やつぎ早に改革を行っていく。腹臣の伝奏/てんそう,評定衆の発言権を強化することによって兼平から実権を奪い,有能な下級官人を文殿衆/ふどのしゆうとして編成して彼らにも実務を担当させた。また『弘安礼節』を制定して廷臣や大社寺の間に秩序を確立し,弘安8(1285)年には朝廷初の本格的な訴訟の法20カ条を制定した。こうした動きは「徳政/とくせいの興行」と呼ばれ歓迎されたが,結局同10年,幕府の意向で伏見天皇が即位し,皇位も実権も持明院統に移る。失意の上皇は2年後に出家し,なおも大覚寺統への皇位の回復に尽力した。離宮亀山殿に没した。陵は京都の亀山陵。(本郷和人)


『日本歴史人物事典』(朝日新聞社)より 
最終更新:2009年06月05日 16:19