平仲兼

平仲兼


  • 宝治二(1248)~没年未詳
 父は正四位下兵部卿平時仲、母は正五位下惟宗行貞の娘。正嘉元(1257)年に叙爵。民部大輔、甲斐守、勘解由次官などに任じた。このころ近衛家・鷹司家の家司であった。建治三(1277)年に左衛門権佐。父が殿上人であったため、検非違使庁の官人に軽侮された(1)。蔵人・弁官を務め、正応五(1292)年に父祖を超えて参議となり、公卿に列した。このときも人々の非難があったが、伏見天皇が仲兼を助力してくれた(2)。同年中に官を辞し、長く散官であったが、乾元二(1303)年、一ヵ月ほど権中納言になった。彼の能力が高く評価されたのだろう。二年後、子息の右少弁仲高が吉田隆長に超越されたのを恥じ、仲高と共に出家した。彼の子孫から安居院家と西洞院家が出て、参議に昇り公卿に列するが、余程のことがないと権中納言にはなれぬ家柄として固定した。
  1. 『吉続記』弘安二年五月十五日
  2. 『伏見天皇記』正応五年二月五日

(本郷和人)
最終更新:2009年05月27日 11:45