葉室定嗣

葉室定嗣


  • 承元二(1208)~文永九(1272)年6月26日
 父は葉室光親、母は参議藤原定経の娘で、順徳上皇の乳母の経子。父母共に承久の乱と深いかかわりをもった人であった。同母兄光俊は、朝廷に関東の威を恐れる風潮があったためか、右大弁で官を辞し、以後は歌人としてのみ活動している。一方定嗣は九条道家、二条良実に仕え、仁治三(1242)年に参議。後嵯峨上皇にも厚く用いられ、院中執権を務め、吉田為経とともに伝奏に起用された。宝治二(1248)年には権中納言に昇る。光俊の行跡と比べ考えるに、定嗣は抜群の才能を有した官人だったのではないか。光俊の子高定(のち高雅)を養子に迎え、彼を右少弁に任じるために建長二(1250)年に辞任。知行国河内国も高定に譲り、出家して法名を定然といった。ところが正嘉元(1257)年ごろ、定嗣と高定は不和になる(1)。光俊が父権を主張し、高定も実父に与同したからである。後嵯峨上皇は高定を非とし、定嗣からうけつがれた伝奏の任を解いた。定嗣は上皇の措置に深く感謝したが(2)、このために彼の一流は後継者を失ったのである。

  1. 『経俊卿記』正嘉元年七月十一日
  2. 『経俊卿記』正嘉元年九月四日

(本郷和人)

最終更新:2009年06月05日 15:59