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坊城俊定

坊城俊定


  • 建長四(1252)~延慶三(1310)年12月4日
 父は吉田経俊、母は正四位下宮内卿平業光の娘。父の庇護のもとで累進し、正応元(1288)年に参議。翌々年に権中納言。永仁三(1295)年辞退。伏見天皇に重用され、親政・院政を通じて伝奏となった。後深草上皇の妃、東二条院の院司でもあった。皇統の異たる後宇多上皇にも信任され、院政が行なわれると伝奏・評定衆を務めた。嘉元元(1303)年には院執権となっている。徳治元(1306)年、中風を病み命が危くなったので、大納言への任官がいわれた。この時は殿下九条師教の反対があって実現せず、子息一人を少将に申任するにとどまった。名家の子が少将になるのはたいへん珍しいことである。翌年、後二条天皇が父の上皇に願い、ついに俊定は権大納言に昇る。俊定は天皇の乳父だった(乳母だったのは定資生母の弁内侍か)ので、その助言が得られたのであった。徳治三(1308)年、天皇が急死すると、俊定は出家して菩提を弔った。この時期に大覚寺統派と持明院統派とを峻別するのは無意味ではあるが、俊定はそのどちらからもたいへん重く用いられている。よほど能力に富んだ公卿だったのだろう。

(本郷和人)
最終更新:2009年05月27日 12:30