日野資宣
父は権中納言日野家光、母は後鳥羽院近臣の正四位下藤原忠綱の娘。儒学を修めたのち、蔵人・弁官を進み、文永八(1271)年に参議。三年後に権中納言。亀山上皇に仕え、伝奏を務めた。また後深草上皇のもとでは評定衆に任じた。本文には記さなかったが、正応二(1289)年から一年ほど、伝奏にも任じている(1)。彼のように儒学の修得から官をはじめた人を「儒卿」とよぶ。日野法界寺を氏寺とする日野・勘解由小路一門はその名門であるが、勧修寺を氏寺とする実務の家々に比べると、家格が一段劣るように認識されていたのではないか。顕著なのは妻の出自で、清華家はもちろん、名家との縁組もない。これはその現われであろう。
- 『勘仲記』正応二年三月一日
(本郷和人)
最終更新:2009年05月27日 12:10