吉田経俊

吉田経俊


  • 建保二(1214)~建治二(1276)年10月18日
 父は参議吉田資経、母は従四位上藤原親綱の娘。はじめ官位はなかなか進まず、二十九歳にしてようやく五位蔵人に任じた。同母兄為経はこの年齢ですでに権中納言であったから、家嫡に立って父の推挙をうけられるか否かが官位の昇進にいかに大切か分かるであろう。経俊は後嵯峨上皇に認めちれ、院政が開始されるとこれに仕えて昇進した。康元元(1256)年に為経が急死すると、そのあとをついで伝奏・評定衆となり、和泉国を知行した(1)。正嘉二(1258)年に参議、弘長二(1262)年に権中納言、文永八(1271)年に中納言。後嵯峨院の執権、一門の長者として重きを為した。
  1. 『経俊卿記』建長八年五月二十六日・六月九日

(本郷和人)
最終更新:2009年05月27日 15:18