二条定高
- 建久元(1190)~暦仁元(1238)年1月22日
父は参議九条光長。母は兵部大輔藤原朝親の娘。兄の参議海住山長房の子となる。初名為定、また経光。六位蔵人に任じた後に近江・伊賀・越後・肥前の国司を歴任。承元三(1209)年、義父長房が参議を辞した替わりに、五位蔵人を経ずに右少弁となる。このとき実兄宣房も権右中弁であった。兄弟はともに弁官を昇進するが、宣房は参議にならぬまま退官。定高は建保六(1218)年に参議となって公卿に列した。常に定高と相並んで弁官を務めていたのが
葉室宗行で、定高が宗行の譲りをうけて従四位下に叙されるなど、両者はたいへん親しかったらしい。定高の姉妹が宗行の義弟宗方の室になっていることは、このことと関係があるのだろう。参議になったのは後鳥羽上皇の近臣である宗行の方が四年早いが、就任時の年齢で比べると宗行は四十歳で定高は二十九歳である。いかに定高の昇進が順調であったか分かるだろう。承久二(1220)年に権中納言。承久の乱後は九条道家に重用され、政治顧問の最上位を占めた。幕府との交渉は専ら彼が行なうところとなり、実質的な関東申次であった。義父長房は承久の乱の折、後鳥羽上皇をいさめて出家している(1)。この点を幕府に評価されたのかもしれない。二条東洞院に屋敷があったので二条と号した。後鳥羽上皇の皇女で齋宮を務めた煕子内親王をここに引きとっている(2)。また深草にも邸宅があった(3)。
- 『小槻季継記』
- 『類聚大補任』七 佐渡天皇 齋宮
- 『玉蘂』嘉禎三年正月十七日
(本郷和人)
最終更新:2009年06月06日 09:01