九条忠高

九条忠高


  • 建保元(1213)~建治二(1276)年5月4日
 父は二条定高、母は参議藤原親雅の娘。父と同じく五位蔵人を経ずに、貞永元(1232)年に右少弁となる。続いて累進して暦仁元(1238)年に参議になるが、この間、忠高と歩を一にして官を進めている藤原信盛という人物がいる。この人の叔母は二条定高の異母兄である長房・宣房の母にあたり、信盛自身も定高の猶子を称している(1)。忠高と信盛の着実な昇進は、忠高の父、定高の援助があってこそ実現したのだろう。仁治二(1241)年、二十九歳の若さで権中納言に昇るも、三年後にこれを辞す。平戸記には「被抑召、日来固辞」(2)とあり、公卿補任には「被推召之」とある。抑、推はともに「おす」であり、「日来固辞」のニュアンスを生かすと、「時の権勢者九条道家としては、腹心であった二条定高の嫡男忠高に大いに活躍してほしかった。しかし忠高は日来から早く官を辞したいという。それで本意ではないのだが、やむなく官を解いた」ということになろうか。なぜ忠高が三十二歳の若さで自ら望んで官を辞したのか、それを説明する史料は残っていない。道家と後嵯蛾上皇の争いと関係するのだろうか。あくまで個人的な意向だったのか。ともかく忠高はこののち三十年余りを散位のまますごし(ただし、半年ほど中納言であった)、後嵯峨上皇に用いられることなく、出家して没する。彼の無力を証明するように、その子供たちは誰も公卿に進めなかった。なお孫に光経がいて権大納言になるが、彼は後宇多上皇・後醍醐天皇に近侍して、訴訟制とは無関係に昇進していくようである。
  1. 『民経記』寛喜三年七月二十三日
  2. 『平戸記』寛元二年六月十三日

(本郷和人)

上の九条光経の説明はうそ。後醍醐天皇の伝奏をちゃんと務めています。(本郷和人)
最終更新:2009年06月05日 14:25