中御門経任

※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

中御門経任


  • 天福元(1233)~永仁五(1297)年1月19日
 父は吉田為経、母は大宮院半物。後嵯峨上皇に信任され、弘長二(1262)年に兄経藤を超越して左衛門権佐に任ず。経藤は怒って官を辞し、出家してしまう。超越されたのを恥辱と感じたためだ、とすれば一応の説明になる。より現実的にいうならば、吉田家の家嫡争いに敗れたこと、父為経の所職所帯の継承者が自分でなく経任であることが広く明らかになり、前途の望みを絶ったのだろう。同年末に右少弁となる。普通、五位蔵人から右少弁になるのだが、経任はまず右少弁になってから翌年に形ばかりの蔵人を兼ねる。蔵人に任じられても必ずしもその次の官職は定かではない。しかし右少弁になれば、余程失態を演じない限り、大弁に昇り得る。それゆえに直に右少弁になる方が名誉であるといえるだろう。姉小路忠方のように、権勢者である父が自らの辞退と引きかえに子息を推挙するときにこの任官が見られるようだが、経任の場合は父はすでに亡い。彼を推挙してくれたのは他たらぬ後嵯峨上皇であろう。以て彼への信任ぶりがしられよう。なお、更に文書からみてみると、彼はおそらく右少弁任官以前に、伝奏も務めているようである。文永六(1269)年、参議。同七年権中納言。同八年大宰権帥を兼ねる。前任者は院執権で一門長老吉田経俊であり、交代は経俊が預かり知らぬうちに行なわれた。決定を開き、人々は唖然としたと伝えられる(1)。またこの年に従二位に叙す。超越された姉小路忠方は官を辞した。他の公卿の批判も高まったらしく(2)、権中紬言を辞任。しかし八ヵ月後には復任している。後嵯峨上皇の没後もひきつづき亀山上皇に仕え、建治三(1277)年には権大納言となる。弘安六(1283)年、子息為俊を右少弁に推して辞官。しかしなお政治の中枢にあり、後深草上皇、伏見天皇にも重んじられた。
  1. 『吉続記』文永八年二月二目
  2. 『吉続記』文永八年三月二十七日

(本郷和人)