日野資名

日野資名


  • 弘安九(1286)~暦応元(1338)年5月2日
 父は日野俊光、母は非参議従二位藤原公寛の娘。文章博士・蔵人・弁官を経て、正和四(1315)年参議。このころ後伏見上皇の伝奏を務む。文保元(1317)年に権中納言。一貫して持明院統に仕えて元徳三(1331)年には権大納言に昇る。正慶二(1333)年、六波羅が陥落して光厳天皇が京都を脱出すると、坊城俊実とともにあくまでこれに供奉し、近江国番場宿で出家した。やがて足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗をひるがえすと、弟三宝院賢俊と画策して尊氏と光厳上皇の仲をとりもっている。持明院統に尽くした資名の功績は群を抜いており、このことが室町時代の日野氏の隆盛をもたらした。なお、資名の弟の資朝は後醍醐天皇の腹心であり、同じく弟の浄俊は護良親王の側近である。動乱の中で誰が権力の座についても日野家は生き残るのであり、同家のしたたかさを見る思いである。

(本郷和人)
最終更新:2009年05月27日 12:09