488 :名無し募集中。。。:2012/07/09(月) 02:44:28.46 0
「舞台どうだった?」
聖と里保が二人してジュースを買いに行ってから、二人きりになった廊下の隅っこで新垣さんはえりなにそう聞いてきた。
「可愛かったです」と返すと、「ありがと」と言ってくすぐったそうに笑う新垣さんにきゅんとして、そうして、舞台の上であどけなく笑っていた顔とは違う、いつもの新垣さんの表情に少しだけホッとした。
だけれど。
その後から、観劇中にも湧き出たドロリとした辛気臭い気持ちが再び頭を擡げるのを自覚した。
満足げに笑う新垣さんを見やる。
湧き上がった気持ちを見せるべきかどうか逡巡して乾いた唇を一舐めする。
そんな事も見せたら嫌われるかもしれない。
そんな事を言ったら呆れられるかもしれない。でも。でも!
口の中で言葉を蟠せていたら、新垣さんの手のひらが不意に動いた。
それはえりなの頭の天辺へやってきて、ゆっくりと触れたかと思ったら優しく優しくそこを撫ぜた。
えりなは、反射的にその手を取っていた。
そうして、そのまま、自分の頬へ新垣さんの手のひらを押し付ける。
今しがた観た舞台の上で、―――新垣さんが相手の俳優さんにされていたみたいに。
「生田?」
突然のえりなの行動に不思議そうにえりなを見つめる新垣さん。
首を傾げた拍子に、切りそろえられた黒髪が新垣さんの頬をさらりと滑った。
「可愛かったです。……ですけど、」
489 :名無し募集中。。。:2012/07/09(月) 02:45:45.90 0
えりなは、新垣さんをじっと見つめて、また一つ唇を舐めして。
「触られるのは、やっぱ……やだ」
劇中で新垣さんは本当に本当に可愛かった。
おどけたシーンも真剣なシーンも悲しいシーンも、どれもこれも素敵だった。
相手役の役者さんと触れ合うシーンだって最高に可愛くて、それは、偽りのない本当の気持ちなのだけれど。
けれど、やっぱり。
男の人に手で頬を包まれて、想いの篭った視線を向ける新垣さんを見てしまうと、どうしたって良い気分になれないのも、それもまた本当の気持ちだった。
えりな以外の人に触らせないで。えりな以外の人をそんな目で見ないで。
えりな以外の人を―――。
演技だと分かってはいても、そう思う気持ちは止められなかった。
「新垣さんはえりなのなのに……」
驚いたように見開かれた新垣さんの視線に耐えられなくなって、そっと目を伏せる。
言ったそばから言うんじゃなかったと後悔して、そんな自分に更に情けなくなる。
悪循環を始めた思考回路。観劇中とは違う意味で泣きそうになったその瞬間。
カラリとした笑い声が降ってきた。
慌てて視線を上げると、眉尻を下げて少しだけ困ったように笑う新垣さんと視線がかち合う。
えりなの視線を受けた新垣さんは「ばか」と小さく呟いた。
重ねていた手と反対の手がするりと伸びてきて、えりなのもう一方の頬を包んだ。
ついでのように指先で耳の後ろを小さく撫でられて、思わず顎を引きそうになったけれど、包まれた両手で阻止された。
490 :名無し募集中。。。:2012/07/09(月) 02:46:17.88 0
そうして、今度は新垣さんの顔がゆっくりと近づいてきて。
コツンと額がぶつかる。
鼻先が触れそうで触れない絶妙な距離に、頬から耳まで一気に熱が上がった。
「“私”は誰よ?」
「へ、ぇ……?」
「だから、“私”は誰?」
「に、新垣さんです」
至近距離でえりなを見ていた新垣さんの瞳が緩やかに細まった。
役作りのためなのか、いつもより控えめに上がる睫が小さく揺れる。
「みのりじゃない、“私”が好きなのは、……生田だけだよ」
それじゃ、ダメ?
ぷくりと膨れた唇が紡ぎだす言葉が、えりなを射抜く。
どきどき、どきどき。弾かれたように鼓動が早まって、胸の奥の奥のもっと奥の方が、ぎゅううっと締め付けられたみたいに切なくなった。
ずるい。
新垣さんは本当にずるい。
たった一言で、えりなの心がどれほど救われて、それ以上にかき乱されているのか、知ってるくせに。
491 :名無し募集中。。。:2012/07/09(月) 02:46:49.43 0
したり顔で緩い曲線を描く唇に悔しくなって、けれど、それ以上に愛しく思えて、えりなは両腕を新垣さんの腰へ回した。
腰の後ろで手を組んで、身体と身体の隙間がなくなるほどぴたりとくっ付く。
新垣さんの額から自分のそれをそっと離して、代わりに首元へ鼻先を押し付けるみたいにして擦り寄った。
新垣さんはずるい。ずるい、けれど。
「ダメじゃ、ないです」
結局、負けるはいつだって惚れた方なのだ。
新垣さんの香水の香りと汗の匂いが鼻腔をくすぐって、きゅんと鳴く心に従って、えりなは少しだけ汗ばんだ首元へ唇を押し付けた。
おわり
最終更新:2012年08月04日 14:37