詩百篇第8巻71番

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[[詩百篇第8巻]]>71番 *原文 Croistra le nombre si grand des astronomes&sup(){1} Chassez&sup(){2}, bannis & liures censurez&sup(){3}, L'an&sup(){4} mil six cens & sept par [[sacre]]&sup(){5} [[glomes]] Que nul&sup(){6} aux&sup(){7} sacres ne seront asseurez. **異文 (1) astronomes : Astronomes 1605sn 1611B 1628dR 1649Ca 1649Xa 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga 1840 1981EB (2) Chassez : Chasse 1627Di (3) censurez : censureq 1672Ga (4) L'an : L'An 1606PR 1607PR 1672Ga (5) sacre : sacrees/ sacrées 1606PR 1607PR 1610Po 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1716PR 1720To, sacrez 1672Ga (6) nul : nuls 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri (7) aux : au 1672Ga *日本語訳 非常に多く増えるだろう、占星術師たちのうちで 追放され、弾圧される者と検閲される書籍の数が。 千六百と七の年、聖なる会合により、 祝祭においても誰も安全を保障されないだろう。 **訳について  1行目 astronome は現代のフランス語では「天文学者」の意味だが、当時は占星術師と区別されていない((cf. Prévost [1999] etc.))。そのため、ここでは「占星術師」と訳した。  2行目はils seront が略されていると見て前半2行を「占星術師たちの数が非常に多く増えるだろう / (彼らは)追放され、弾圧され、書籍は検閲される」と訳すことも可能。  3行目 glomes は、一般的な読み方に従った。[[ピエール・ブランダムール]]の読みを踏まえるなら、「千六百と七の年、聖なるグロムを使う(食べる)祝祭においても誰も安全を保障されないだろう。」となる((Brind’Amour [1993] p.258, n.38))。  グロムと祭りを並列的に捉え「1607年、聖なるグロムをもってしても / 祭でいかなるものも安全を保障されないであろう」((ドレヴィヨン&ラグランジュ [2004] p.140))と訳すのも可能(むしろブランダムールの意訳よりも自然ではある)。  なお、4行目で「祝祭」が登場しているのは、めでたい席での恩赦なども期待できなくなるといった意味合いだろう。  山根訳や大乗訳は若干意訳されすぎではないかという箇所もあるが、許容範囲内と考えられる。 *信奉者側の見解  [[ジェイムズ・レイヴァー]]は、1607年に開催されたマリーヌの教会会議(the council of Malines)で占星術師が弾圧されたことを的中させたと主張した((Laver [1952] p.98(レイヴァー [1999] p.152)))。  [[スチュワート・ロッブ]] ((Robb [1961] p.50))のようにこの解釈に追随する者もいるが、[[エドガー・レオニ]]は、この年にマリーヌ(メヘレン)で教会会議など開かれていないとしている。  そのためか、[[エリカ・チータム]]、[[ジョン・ホーグ]]、[[ネッド・ハリー]]のように、日付に関して外れていると認める信奉者もいる((Cheetham [1990], Hogue [1997/1999], Halley [1999] p.46))。  [[飛鳥昭雄]]や[[三神たける]]は、ローマ教皇ウルバヌス8世が1607年に星占い禁止令を出したことの予言とした。彼らによれば、その禁止令が占星術と天文学を分かつ画期となったという((飛鳥昭雄・三神たける『預言者の謎とノストラダムス』学研、1998年、pp.138-139))。  1607年の前後に対象時期を拡大させて解釈する者もいる。[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は、astronome を「天文学者」と理解し、コペルニクスの『天球の回転について』の禁書指定、ジョルダーノ・ブルーノの処刑(1600年)、ガリレオ・ガリレイへの弾圧などと関連づけている((Fontbrune [1980/1982]))。[[アーサー・クロケット]]も類似の解釈である。彼の場合は、マリーヌの教会会議も一緒に持ち出している((クロケット『新発掘ノストラダムス最後の封印予言』廣済堂文庫、pp.169-170))。 **懐疑的な視点  歴史家ジョルジュ・ミノワによれば、「一六〇七年、マリーヌ司祭会議は教会の判事たちに対し、『エジプト人とボヘミア人』を追放し、厳罰に処すよう命じている」((ジョルジュ・ミノワ [2000] 『未来の歴史』p.360))。  レイヴァーによるマリーヌ会議の解釈は、この地方司祭レベルの話が膨らまされたものではないかと思われる。  ただし、この種の反占星術的な決議は別に1607年のマリーヌに限った話ではなく、ミノワが指摘しているものだけでも、1524年のサンス司教区会議、1548年のアウクスブルク司教区会議、1551年と1609年のナルボンヌ司祭会議、1565年のミラノ司祭会議、1583年のボルドー司祭会議、1583年のランス司祭会議、1612年のフェッラーラ司教区会議、年代の記載が無いトリーア司教区会議とサン=マロ司教区会議と、かなりの数にのぼる((ミノワ [2000] pp.359-360, 365-366))。  1607年のマリーヌが大きな区切り目とは到底言えず、殊更に重視する必然性は乏しい。  飛鳥・三神説のウルバヌス8世はどうか。  実際にウルバヌス8世(在位1623年-1644年)が星占いを禁止する回勅を出したのは1631年のことであり、1607年には教皇になってすらいなかった。  また、科学史の観点で書かれた占星術研究書でも、特にこの年は画期とされていないようである((cf. ジム・テスター『西洋占星術の歴史』恒星社厚生閣、中山茂『西洋占星術』講談社現代新書))。 *同時代的な視点  [[ピエール・ブランダムール]]は、[[詩百篇第1巻62番]]や[[第4巻18番>百詩篇第4巻18番]]と関連付けて、占星術師たちが弾圧されることになる予言とした((Brind’Amour [1993] p.194))。ブランダムールは、ノストラダムスが1607年を重視していた例として暦書からも3つの文章を抜粋している((Brind’Amour [1993] pp.258-259))。ただし、どのような占星術的根拠に基づく予測だったのかははっきりしない。  [[百詩篇第4巻18番]]と関連付ける読み方は、[[ピーター・ラメジャラー]]も支持している。  [[ロジェ・プレヴォ]]は、モデルになった年は1507年だったと推測している。この年には厳格なヒメネス枢機卿がスペインの異端審問官になっている。また、この詩の執筆時期とほぼ重なっていた1557年には禁書目録が最初に編まれており、このことも影響したとしている((Prévost [1999] pp.96-97))。  [[ルイ・シュロッセ]]も、ノストラダムスが詩を書いた当時の状況に触発されたという観点で捉えている。彼の場合、特に年数には言及していない((Schlosser [1986] pp.166-167))。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。 ---- &bold(){コメントらん} 以下に投稿されたコメントは&u(){書き込んだ方々の個人的見解であり}、当「大事典」としては、その信頼性などをなんら担保するものではありません。  なお、現在、コメント書き込みフォームは撤去していますので、新規の書き込みはできません。 - 本来、“1600年と、7つ”にすべきところを  予言者は曖昧にする為に、句読点を外して1607年とした。 “1600年”はジョルダーノ・ブルーノが火あぶりで処刑された年 “7つ”はその当時知られていた天体の数を表す。 -- とある信奉者 (2012-11-25 22:09:27)
[[詩百篇第8巻]]>71番 *原文 Croistra le nombre si grand des astronomes&sup(){1} Chassez&sup(){2}, bannis & liures censurez&sup(){3}, L'an&sup(){4} mil six cens & sept par [[sacre]]&sup(){5} [[glomes]] Que nul&sup(){6} aux&sup(){7} sacres ne seront asseurez. **異文 (1) astronomes : Astronomes 1605sn 1611B 1628dR 1649Ca 1649Xa 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga 1840 1981EB (2) Chassez : Chasse 1627Di (3) censurez : censureq 1672Ga (4) L'an : L'An 1606PR 1607PR 1672Ga (5) sacre : sacrees/ sacrées 1606PR 1607PR 1610Po 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1716PR 1720To, sacrez 1672Ga (6) nul : nuls 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri (7) aux : au 1672Ga *日本語訳 非常に多く増えるだろう、占星術師たちのうちで 追放され、弾圧される者と検閲される書籍の数が。 千六百と七の年、聖なる会合により、 祝祭においても誰も安全を保障されないだろう。 **訳について  1行目 astronome は現代のフランス語では「天文学者」の意味だが、当時は占星術師と区別されていない((cf. Prévost [1999] etc.))。そのため、ここでは「占星術師」と訳した。  2行目はils seront が略されていると見て前半2行を「占星術師たちの数が非常に多く増えるだろう / (彼らは)追放され、弾圧され、書籍は検閲される」と訳すことも可能。  3行目 glomes は、一般的な読み方に従った。[[ピエール・ブランダムール]]の読みを踏まえるなら、「千六百と七の年、聖なるグロムを使う(食べる)祝祭においても誰も安全を保障されないだろう。」となる((Brind’Amour [1993] p.258, n.38))。  グロムと祭りを並列的に捉え「1607年、聖なるグロムをもってしても / 祭でいかなるものも安全を保障されないであろう」((ドレヴィヨン&ラグランジュ [2004] p.140))と訳すのも可能(むしろブランダムールの意訳よりも自然ではある)。  なお、4行目で「祝祭」が登場しているのは、めでたい席での恩赦なども期待できなくなるといった意味合いだろう。  山根訳や大乗訳は若干意訳されすぎではないかという箇所もあるが、許容範囲内と考えられる。 *信奉者側の見解  [[ジェイムズ・レイヴァー]]は、1607年に開催されたマリーヌの教会会議(the council of Malines)で占星術師が弾圧されたことを的中させたと主張した((Laver [1952] p.98(レイヴァー [1999] p.152)))。  [[スチュワート・ロッブ]] ((Robb [1961] p.50))のようにこの解釈に追随する者もいるが、[[エドガー・レオニ]]は、この年にマリーヌ(メヘレン)で教会会議など開かれていないとしている。  そのためか、[[エリカ・チータム]]、[[ジョン・ホーグ]]、[[ネッド・ハリー]]のように、日付に関して外れていると認める信奉者もいる((Cheetham [1990], Hogue [1997/1999], Halley [1999] p.46))。  [[飛鳥昭雄]]や[[三神たける]]は、ローマ教皇ウルバヌス8世が1607年に星占い禁止令を出したことの予言とした。彼らによれば、その禁止令が占星術と天文学を分かつ画期となったという((飛鳥昭雄・三神たける『預言者の謎とノストラダムス』学研、1998年、pp.138-139))。  1607年の前後に対象時期を拡大させて解釈する者もいる。[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]は、astronome を「天文学者」と理解し、コペルニクスの『天球の回転について』の禁書指定、ジョルダーノ・ブルーノの処刑(1600年)、ガリレオ・ガリレイへの弾圧などと関連づけている((Fontbrune [1980/1982]))。[[アーサー・クロケット]]も類似の解釈である。彼の場合は、マリーヌの教会会議も一緒に持ち出している((クロケット『新発掘ノストラダムス最後の封印予言』廣済堂文庫、pp.169-170))。 **懐疑的な視点  歴史家ジョルジュ・ミノワによれば、「一六〇七年、マリーヌ司祭会議は教会の判事たちに対し、『エジプト人とボヘミア人』を追放し、厳罰に処すよう命じている」((ジョルジュ・ミノワ [2000] 『未来の歴史』p.360))。  レイヴァーによるマリーヌ会議の解釈は、この地方司祭レベルの話が膨らまされたものではないかと思われる。  ただし、この種の反占星術的な決議は別に1607年のマリーヌに限った話ではなく、ミノワが指摘しているものだけでも、1524年のサンス司教区会議、1548年のアウクスブルク司教区会議、1551年と1609年のナルボンヌ司祭会議、1565年のミラノ司祭会議、1583年のボルドー司祭会議、1583年のランス司祭会議、1612年のフェッラーラ司教区会議、年代の記載が無いトリーア司教区会議とサン=マロ司教区会議と、かなりの数にのぼる((ミノワ [2000] pp.359-360, 365-366))。  1607年のマリーヌが大きな区切り目とは到底言えず、殊更に重視する必然性は乏しい。  飛鳥・三神説のウルバヌス8世はどうか。  実際にウルバヌス8世(在位1623年-1644年)が星占いを禁止する回勅を出したのは1631年のことであり、1607年には教皇になってすらいなかった。  また、科学史の観点で書かれた占星術研究書でも、特にこの年は画期とされていないようである((cf. ジム・テスター『西洋占星術の歴史』恒星社厚生閣、中山茂『西洋占星術』講談社現代新書))。 *同時代的な視点  [[ピエール・ブランダムール]]は、[[詩百篇第1巻62番]]や[[第4巻18番>百詩篇第4巻18番]]と関連付けて、占星術師たちが弾圧されることになる予言とした((Brind’Amour [1993] p.194))。  ブランダムールは、ノストラダムスが1607年を重視していた例として暦書からも3つの文章を抜粋している((Brind’Amour [1993] pp.258-259))。ただし、どのような占星術的根拠に基づく予測だったのかははっきりしない。  [[第4巻18番>百詩篇第4巻18番]]と関連付ける読み方は、[[ピーター・ラメジャラー]]も支持している。  [[ロジェ・プレヴォ]]は、モデルになった年は1507年だったと推測している。  この年には厳格なヒメネス枢機卿がスペインの異端審問官になっている。また、この詩の執筆時期とほぼ重なっていた1557年には禁書目録が最初に編まれており、このことも影響したとしている((Prévost [1999] pp.96-97))。  [[ルイ・シュロッセ]]も、ノストラダムスが詩を書いた当時の状況に触発されたという観点で捉えている。彼の場合、特に年数には言及していない((Schlosser [1986] pp.166-167))。 ---- ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。 ---- &bold(){コメントらん} 以下に投稿されたコメントは&u(){書き込んだ方々の個人的見解であり}、当「大事典」としては、その信頼性などをなんら担保するものではありません。  なお、現在、コメント書き込みフォームは撤去していますので、新規の書き込みはできません。 - 本来、“1600年と、7つ”にすべきところを  予言者は曖昧にする為に、句読点を外して1607年とした。 “1600年”はジョルダーノ・ブルーノが火あぶりで処刑された年 “7つ”はその当時知られていた天体の数を表す。 -- とある信奉者 (2012-11-25 22:09:27)

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