新選組

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新選組 - (2022/11/19 (土) 21:55:30) の編集履歴(バックアップ)


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新選組とは、江戸時代末期から明治初頭にかけて、京都の治安を維持するため設立された警察・軍事組織である。

日本で最も有名な剣客集団と言っても過言ではないだろう。
江戸で募集され京都に派遣された浪士組から独立した壬生浪士組が、京都の治安維持組織として会津公に召し抱えられたのが新撰組である。
反幕府勢力(主に薩長土)が主な取り締まり対象であり、攘夷浪士だけでなく、「局中法度」と呼ばれる鉄の掟によって隊内の人間も厳しく律されていた。

・「一度入隊した奴は辞めようとしたり脱走したら切腹」
・「隊内の人間と喧嘩したら切腹」
・「みだりに商人などに金を要求したら切腹」
・「敵と戦って背中に傷を負ったら切腹」
・「敵から逃げても切腹」

…法度の内容を要約すれば大体こんな感じだが、よーするに「士道に背いたら切腹」と覚えておこう。
ただし、中には除隊を認められた者や一度脱退した後復帰した者もいる。
その他にも意外と緩かったという記録も多い。
ただでさえ人手不足なので、戦力低下を恐れてそうそう処罰もできなかったとか。
とはいえ実際に苛烈な内部抗争を経ていることなどから、形式上は緩くすることは不可能だったと言えるだろう。
ちなみに「局中法度」という名称は小説家子母沢寛の創作。永倉新八によると「禁令」と呼ばれていた模様。

幕末の英雄坂本龍馬などと並び、新選組も歴史ファンの間では人気が高い。
ちなみに新選組という組織が最初に闘った相手は、意外かも知れないが「我儘放題をしていた力士を懲らしめるため」だったりする。
力士達は自慢の怪力で八角棒を唸りを上げて振り回したらしく、後述の沖田などは意外に鋭いその攻撃で怪我をしていたりもする。
勿論、最終的には実践術に勝る新選組の敵ではなく、何人か斬り倒され、詫びを入れる羽目になったのだが。

主な任務は、前述の通り京都にいる反幕府勢力、所謂「尊王攘夷」を掲げ、倒幕運動を行う志士の取り締まりで、
元々いた京都奉行所や、後で江戸から派遣されてきた「京都見廻組」(正規旗本・御家人出身者からなる実働部隊)との兼ね合いから、
京都の中でも主に祇園など繁華街の見回りに回されていたという。

鳥羽・伏見の戦い以前の死亡者は45人、うち戦いで死亡したのは6人。他はほとんどが内部抗争で死んだか内規違反で切腹。
商人から莫大な借金をしていながら返済していなかったり、屯所としていた寺院内で豚と鶏を飼い、肉食する*1等、
素行があまり良かったとは言えず、さらに、上述のように内部抗争での死者が多かったことから、素行の悪い武装集団と見られ、
活動していた幕末と解散直後の明治時代初めは、(敵対していた薩長が政権を取ったこともあって)京都の住人からの評判は良くなかった。
しかし、新選組を題材にした講談などが広まったことで、大正時代には一転して庶民から高い人気を誇るようになった。
その人気の秘訣は、その圧倒的な強さと、強烈な個性を持った隊士たちの存在が大きい。

徳川慶喜による大政奉還以降も旧幕府軍として新政府軍と戦ったが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が破れ、新政府軍が勢いに乗ったことも受けて脱退者が続出。
それでも残った新選組隊士たちは、一時「甲陽鎮撫隊」として新政府軍と戦うも戦況は好転せず、
方針の違いから永倉新八や原田左之助といった実力者とも袂を分かち、その後すぐに局長の近藤勇が新政府軍に捕らわれて処刑された。
生き残った副長の土方歳三に率いられた新選組は、旧幕府勢力と合流して会津や函館で戦うが、その土方が箱館戦争で戦死すると、新政府軍に降伏。
これをもって、新選組は歴史の表舞台から退場することとなった。

なお、「剣客集団」というイメージもあってずっと刀で戦っていたと誤解されがちだが、
鳥羽・伏見の戦い以前から鉄砲隊・砲兵を用意し、敵が使ってきた場合の対策も講じるなど、所謂近代的な戦い方も行っており、
その鳥羽・伏見の戦いで、西洋の近代戦術や鉄砲・大砲を用いる新政府軍に敗れてからは、時代の変化を痛感した土方により、
西洋式の戦術や兵器を用いるようになり、土方は和装から洋装に服装も変更している。
その土方の指揮によって旧幕府勢力が新政府軍に(局地的ではあるが)勝利した事例もあり、剣術以外でも戦闘技術は高かったと思われる。
ただ、とにかく脱走続きで人手不足であり、なかなか苦しかったという記録も有る。

ちなみに、新選組の装束と言えば浅葱色(薄い藍色)のだんだら(白い山形模様)羽織というイメージが強いが、
史実でも確かに用いられたものの、その使用期間は短く、池田屋事件の時が最後とされている(概ね一年間ほど)。
隊士から「派手過ぎる」「素材が安っぽい」と不評で徐々に着用者が減っていったのが原因だとか。
以降は黒い装束を纏って活動しており、当時の京都では現代と違って「新選組と言えば黒装束」というイメージだった様子。
色合い的にヒロイックで印象に残りやすいためか、創作物では概ね新選組隊士はだんだら羽織を纏っているが、
大島渚の映画「御法度」など、史実通りの黒装束を羽織った新選組隊士が登場する作品もある。
なお、初期の新選組の装束がだんだら羽織だったのは、だんだら羽織を纏って討ち入り事件を起こした「赤穂浪士組」に近藤勇が憧れていたからだとか。

余談だが、組織全体の名前が『新選“組”』なのに組を纏めていた近藤・芹沢らの肩書きが“局”長だったり、
新選組の◯番“隊”を仕切る沖田らの肩書きが“組”長だったりすることに違和感を持つ人もいると思うが、
これは、新撰組の◯長という呼び名はそのまとまりを取りまとめる人間をざっくりと指すものに過ぎず、
「新選“組”全体の“長”だから組長」とか「〇番“隊”の“長”だから隊長」とかの整合性を考慮せずに付けたため。
これに関しては、同時代の組織では新選組がとりわけ適当であったというわけでなく、
現代の警察や軍隊のようにきっちりと職名や階級を明確にするべきという意識が当時は薄かったという時代背景も影響している。


・隊士名簿・


  • 近藤勇(こんどういさみ) (1834年~1868年)
元江戸小石川の道場「試衛館」の館長で、天然理心流四代目当主にして新選組局長。
創作でよく見られる「今宵の虎徹は血に飢えている」という台詞は彼の言葉であり、自身が所有する「虎徹」を自慢する手紙も残っているが、
当時の「虎徹」こと「長曽祢虎徹」が打った刀はかなり高価であり、現存していないが近藤の持っていたものは贋作と推測されている。

明るく豪胆な性格であったとされ、後述の永倉、斉藤、原田らにお調子者であると指摘されている。
また故郷に妻と娘がいながら、京で愛人を持ったりした(当時の性風俗的にはありっぽかったらしいが)。
調子に乗るだけの努力を積み重ねたのも事実であり、仕事の合間に勉学や礼儀作法を学び、中川宮や松本良順から評価されている。
部下の稗田利八は絶頂期の近藤を評して「どうみても大名だなぁ」と洩らしている。

ちなみに相当大口だったらしく、自分の拳を口の中にすっぽり入れることができたらしい。
冗談を言い合う雰囲気の時には、よく余興でそれを見せて隊員を笑わせていたとか。
大抵の人はアゴが外れると思うので、真似はしないように。危険だぞ。

史実では、甲陽鎮撫隊の失敗後流山出兵を敢行するも、官軍に咎められ素性を隠し出頭。
しかし、御陵衛士の生き残りである加納鳶雄らに正体を見破られ、板橋で斬首された。


  • 芹沢鴨(せりざわかも) (1827年?~1863年)
筆頭局長。元水戸天狗党という説あり*2。神道無念流の免許皆伝。
当時、水戸天狗党と長州攘夷派との間には協調関係があり、京都守護職を務める会津松平家は芹沢の経歴*3に目をつけ、
長州や水戸の攘夷派と折衝して情報を集めて欲しいという意図から、芹沢を長として新撰組が生まれた。

八月十八日の政変により長州攘夷派とその取り巻きの公家たちが追放され利用価値が激減したため、
表向きは酒乱の気があり、商人の土蔵に大砲をぶち込むなどそのフリーダム過ぎる振る舞いに問題あり、ということで、
会津松平家とその指示を受けた土方を筆頭とした試衛館組の策略によって謀殺された。

その最期からあまり人柄は良くなかったと思われがちだが、あまり細かいことは気にしない豪胆な性格であったと思われる逸話や、
借り物の火鉢を返す段階になって小さな刀傷が見つかり、犯人は誰だとなった時に「俺だ」と照れて逃げるなど、親しみやすさを感じる話、
屯所として世話になっていた家の子供に面白おかしい絵を描いてやったり、世話になった大名家の娘が夭折した際には近藤らとその葬式を手伝ったりと、子供好きを示す話もあり、
確かに酒乱だったり乱暴者という一面もあったと思われるが、決して悪人ではなかったことを示す人物評も散見される。


  • 土方歳三(ひじかたとしぞう) (1835年~1869年)
ご存知、泣く子も黙る鬼の副長。試衛館出身。
土方の姉・のぶが天然理心流の道場を持つ日野宿名主・佐藤彦五郎の妻で夫妻の紹介で近藤と知り合い、それ以来意気投合して義兄弟となった。
局中法度の制定や芹沢暗殺などに関わり、新撰組のブレーンとして活躍。

創作では些細な事から粛清しまくってる印象があるが、実際には隊士がフル○ンで雑魚寝するのを何度も注意するも改められないなど苦労していたらしい。
また、平時は割と気さくで優しかったといい、「鬼の副長」として有名であるが、決して厳しいだけの人物ではなかった様子。
彦五郎から剣の他に俳句も教わり、豊玉の名で句を残しているが出来はお察しください
道場剣術では最弱とも言われるが、我流に近い剣の為、実戦では強かった模様。

鳥羽・伏見後は西洋軍学を更に学び、榎本武揚から奥羽越列藩同盟の総司令官に推薦されたり、
元老中の小笠原長行から軍事的なことを諮問されたりと戦術家して円熟を迎え、箱館戦争では手腕をいかんなく発揮し、土方が直接指揮をとった隊は負け知らずであったとか。
会津など各地を転戦した後、函館五稜郭の戦いで馬上、流れ弾を浴びて死亡。
実は味方から疎まれ暗殺されたという説もあるが、この頃の土方は「鬼の副長」どころか非常に部下想いの上司であり、母のように慕われていたという。

新撰組隊士の中では珍しく写真が残っており、当時海外では最先端だった総髪(オールバック)に洋式の軍服を身に付けたかなりの男前。実際女性からかなりモテていたらしい。
「実は吸血鬼となって現代まで生き延びており、現在は漫画家になっている」という噂もあるが、都市伝説の域を出ない。

なお、余談だが2022年年始早々、NHKが「青天を衝け 総集編」「土方のスマホ」「幕末相棒伝」「新撰組!! 再放送」の4番組で 『年が明けて4日で4回土方歳三を死なせた』 というのが一時期話題になった。

  • 新見錦(にいみにしき) (1836年~1863年)
副長(三番目の局長説あり)で芹沢の腹心。同じく土方らの策により殺害。


  • 山南敬助(やまなみけいすけ) (1833年~1865年)
副長→総長。「さんなん」と読む場合も。
北辰一刀流の使い手だが近藤に敗れ試衛館に出入りするようになる。
学問の師範を担当するなど文武両道だったが、怒らせると危険なタイプだったという説も有る。

創作では土方と仲が悪かったせいで(山南は土方を嫌っていたが、土方は嫌っていなかったいう説も)干された可哀相な人。
しかし、土方自身が山南のことを歌ったのではと考えられる歌もあり仲が良かったという説もある。
後に脱走を図るが、沖田によって連れ戻され切腹(脱走劇には尊皇攘夷の志を捨て、孝明天皇や徳川幕府の爪牙となって長州征伐にこだわる近藤への絶望があったとか)。
隊士たちからは慕われており、連れ戻されてからも永倉たちから再度脱走するように勧められたというが、既に覚悟を決めていたため、粛々と切腹に赴いた。
連れ戻した沖田とも仲が良かったようで、切腹の際の介錯には山南自ら沖田を希望。その潔い最期は近藤から「浅野内匠頭もここまでではあるまい」と称賛された。
大河ドラマ『新選組!』で一気に知名度が増した。


  • 伊東甲子太郎(いとうかしたろう) (1835年~1867年)
参謀。神道無念流の免許皆伝で北辰一刀流の道場を経営していた。
学問もできた人物で水戸徳川家の家老・武田耕雲斎(後に天狗党の乱で一家郎党諸共斬首)と親交があった。
名前は「きねたろう」と読むのではないか?とも言われていたが、樫太郎と書かれた史料が見つかったため*4、「かしたろう」で確定した。

同門の藤堂の誘いで入隊するが、彼の思想は佐幕ではなく王政復古であった為、後に「御陵衛士」という別働隊扱いで新選組から分離しようとするも失敗。
最終的には油小路の変で惨殺された上、新選組は彼の遺体を敢えて目立つところに放置し、回収しようとする彼の同志を誘い出して粛清したという。


  • 沖田総司(おきたそうじ) (1844年?~1868年)
一番隊組長。試衛館組。組長としては最年少*5だがその強さは新選組随一と称される。
一説によると、常人の一突きの呼吸で三段突く「三段突き」を得意としていたのだとか。

新選組指折りの実力者として活動したが、肺結核を患い、志半ばで離脱(一説には甲陽鎮撫隊期までとも)。
以降は病気療養を続け、近藤勇が処刑された後、若くしてこの世を去った。近藤の死は本人には知らされなかったとされる。
敵対者には容赦がなく、新選組と敵対した人物には、岡田以蔵などの人斬りと並ぶ冷酷無情な殺人道具扱いされているが、
平時はいつも冗談を言っては笑うような、人当たりのよい好人物で、屯所の近くに住む子供たちとよく遊んでいた*6という。
一方で、剣術の稽古では声を荒げるほど厳しい指導で知られたといい、敵対者に容赦がないところも含め、剣を握ると性格が切り替わる、二面性のある人物だったと思われる。

「不治の病に冒された薄幸の天才剣士」という属性から二次創作では非常に人気が高い。
またその多くで中性的な美少年、土方とは兄弟のように仲が良いように描かれるが、
これらはそのほとんどが司馬遼太郎が打ち出したイメージによる影響が今日まで及んでいる結果である。
頓所として間借りしていた八木家の証言によると「長身、猫背、色黒、ヒラメ顔」だったそうな。
土方との仲についても諸説あり、そこまで仲が良かったのかは意見が分かれる。
しかし彼の子孫には「色の白い、小さい男だった」と伝わっているらしく、前述の内容を否定している。
ただ、女に結構もてていたのは事実らしい。本人も家族にあてた手紙の中で「もててもててしょうがありません(意訳)」などと惚気ている。
ちなみに、総司によく似ている親族を元に書いた肖像画も残っている。

愛刀は諸説あり、比較的有力視されているのは「大和守安定」&「加州清光」だが(『刀剣乱舞』等)、
他には「菊一文字(則宗)」(司馬遼太郎作品)、「山城守藤原国清」(『風光る』)を差していたとする作品もある。
ただ、菊一文字は当時でも大名クラスですら持てない名刀中の名刀であり、一隊士である沖田が持っていたとは考えにくく、まず創作と思われている。
なお義兄(姉の夫で沖田家当主)沖田林太郎は新徴組に所属していた。


  • 永倉新八(ながくらしんぱち) (1839年~1915年)
二番隊組長。神道無念流の使い手で、試衛館では食客として迎えられていた。
沖田、斎藤と並ぶ新撰組最強格だったが、甲陽鎮撫隊の敗戦後は近藤と折り合いが悪くなり離脱したとされる。
脱退しながら非業の最後を遂げなかった(粛清されず、戦死もしなかった)数少ない上位幹部の一人。

戦後はつてを頼って元所属先だった松前藩*7藩医の婿養子となり北海道に移住、剣術家「杉村義衛」として後半生を過ごした。
新選組自体を嫌いになったわけではなかったようで、明治期に新選組時代の事を書に綴った(新聞記者との共作状態だったらしく、おかしい部分も多々あるが)。
朝敵の悪党扱いだった新選組が日の当たる場所に出てきたのはこの人のおかげであり、ある意味では新選組の最大の功労者。

大正時代に虫歯から併発した敗血症を患い逝去。
晩年は孫と一緒に活動写真を観に行くのが楽しみであったという。
ちょんまげに刀を差していたお侍さんが映画館通いとは、この時代の変動激しすぎである。
因みに、日露戦争では抜刀隊に志願するも高齢を理由に断られたが、「元新撰組の手を借りたとあっちゃあ、薩長の面目も丸つぶれか」と笑い飛ばした。


  • 斎藤一(さいとうはじめ) (1844年~1915年)
三番隊組長。
一般的には試衛館組とされているが、結成時メンバーより少し後に新選組加入していたりする等どの時点から仲間となったかは不明。
伊東率いる御陵衛士にも一時参加しており(間者説が有力)、そのせいか新選組復帰前後に「山口二郎」(名字は本来のものらしい)と改名した。

近藤亡き後、箱館(函館)に転戦する土方と別れ会津に残留する。新選組の中では数少ない、明治まで生きた人物の一人。
後に藤田五郎と名を変え、警視庁に入り西南戦争で活躍。
警視庁退職後は現在の国立科学博物館の守衛長や東京女子高等師範学校の庶務・会計係などを務めた。
大正時代(永倉死去の8か月後)に胃潰瘍のため死去。床の間で結跏趺坐を組みながら亡くなったとされる。

「左利き」として描かれるが、これを証明する史料は無い。子母沢寛がキャラを立たせる為に加えた設定である。
この人も沖田と並び程美化が激しいことで有名(『風光る』等例外もあるが)。長男の顔を元に描かれた肖像画を見ると驚くことになる。
あの『るろうに剣心』の作者である和月伸宏は斎藤を悪人面にしたために新選組ファンから批判を受けたと語っており、
「写真一つ残ってない(後述)のに、何故か美形と思われている」
「斎藤を美形と思いたいのなら肖像画は見ない方がいい」
と言っていた。
創作では渡辺多恵子の『風光る』の「刀に詳しいムッツリ系」、浅田次郎作品での「ニヒリスト」等作者ごとにキャラが異なっている。

しかし2016年になって晩年に写真が撮影されていたことが判明。
目付きが鋭く男前で、肖像画と似てなくはないが、肖像画よりもカッコいい。


  • 松原忠司(まつばらちゅうじ) (1835年?~1865年)
四番隊組長。坊主頭の柔術使い。温厚な性格だったらしい。
彼の死は不可解な点があり「壬生心中」という話も生まれた。


  • 武田観柳斎(たけだかんりゅうさい) (?~1867年)
五番隊組長。甲州流軍学を修めていた。
当時では男色は珍しくなかったのに、創作ではホモのおべっか使いとされるかわいそうな人。
時勢が佐幕不利になるとあっさりと新選組を裏切って攘夷側に着こうとした。
当然、見逃されず暗殺された。
目立つエピソードがなくフォローもされにくい、哀れな人。


  • 井上源三郎(いのうえげんざぶろう) (1829年~1868年)
六番隊組長。
内勤担当だったらしい。
試衛館組では最年長で、近藤の兄弟子。
鳥羽・伏見の戦で戦死。 


  • 谷三十郎(たにさんじゅうろう) (1832年?~1866年)
七番隊組長。宝蔵院流槍術の使い手だったらしい(ただし道場槍)。
兄弟3人で新選組隊士となっており、弟・周平が近藤の養子となった。
京都・八坂神社の石段下にて「頓死」。
詳細は不明であり、暗殺説や病死説などがある。


  • 藤堂平助(とうどうへいすけ) (1844年~1867年)
八番隊組長。試衛館の食客だった。
後に元同門の伊東に心酔し、共に新選組を離脱。
油小路の変で死んだ伊東の遺体を引き取ろうとしたところを永倉らに襲撃されたとされる。

創作では近藤は「藤堂は殺したくないなぁ」と永倉にぼやき、永倉も仲の良かった藤堂を殺したくなかったので逃がそうとしたが、
事情を知らぬ平隊士に斬られ死亡したとされる。


  • 鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう) (1837年~1919年)
九番隊組長。伊東の実弟。
参謀に着いてた兄貴の権力を傘に調子に乗ってたボンクラ…というのが定番のキャラ付け。
その根拠になったのは、当時の記録を総合すると「九番隊組長に任命された翌月に降格された」ということになる、というものだが、
最近の研究ではどうやら「九番隊組長になったという記録そのものが誤記録だった」らしい。
実際、この「九番隊組長速攻降格事件」の翌年の記録では八番隊組長になっていたりする。

油小路を生き延び、鳥羽・伏見の戦い前生き残った仲間が近藤の肩を狙撃し重傷を負わせた(鈴木も参加していたかは作品によって異なる)。
赤報隊にも所属していたが、赤報隊本体が官軍によって粛清されたため連座しかけたりもした。

後に山形県の郡長や鶴岡警察署長、福島県の学務課長を勤めた後、明治18年(1885年)退官。
余生を養鶏や盆栽いじりで過ごし、大正8年(1919)83歳で死去。


  • 原田左之助(はらださのすけ) (1840年~1868年)
十番隊組長。試衛館の食客。槍使いであったという。

「切腹も出来ない臆病者」と罵られた際に、いきなりその場で切腹した豪胆な漢。
切腹した後にちゃんと治療され一命を取り留めた後、酔った際には着物を脱いで傷痕を見せながら切腹したときの話を自慢していたとか。

盟友の永倉と共に隊を離脱後、端兵隊を結成したがそこも離脱し、彰義隊に入隊し戦死。
一部では大陸に渡って馬賊になったという生存説も流れた。  


  • 島田魁(しまだかい) (1828年~1900年)
監察兼伍長。
相撲取りばりの巨漢で怪力である一方情報収集能力に秀でた。

壬生浪士組時代から箱館まで戦い抜き生き残った。
後世に新選組のことを伝えるため『島田魁日記』などの記録を残した。

1886年から西本願寺の夜間警備員となり、1900年にその勤務中に倒れて亡くなった。


  • 尾関雅次郎(おぜきまさじろう) (1844年~1892年)
監察。行軍の際は旗役。
兄の弥四郎も新選組隊士。

壬生浪士組時代から箱館まで戦い抜き生き残った。
戊辰戦争後は、故郷の奈良県高取に戻り、結婚、三男二女の父として過ごす。


  • 山崎丞(やまざきすすむ) (1833年?~1868年)
監察。池田屋事変など重大事件の要所で活躍。
軽い治療も担当し、近藤・土方の信頼も厚かったデキる男。

鳥羽・伏見の戦いで傷を負い、江戸に向かう船の中で死去。
それまでの功績を労い、亡骸は水葬にされ、丁重に葬られたとされるが、水葬説には「永倉や島田の手記で触れられていない」という矛盾があるという。


「父佐久間象山の仇を討つ」というカッコいい目的で新選組入りしながら、ポンコツ過ぎて脱走。
しかしちゃっかり生き延びた残念な若手隊士。
詳細は項目参照。


  • 吉村貫一郎(よしむらかんいちろう) (1840年?~1868年?)
監察。
奥州出身の北辰一刀流剣士で、各種資料から南部藩を脱藩して鳥羽・伏見の戦いで死んだ「嘉村権太郎」の偽名説が有力視されている。
…とリアル史料から読み取れるのはこれくらいだったのだが、子母澤寛が著書にて「鳥羽・伏見で旧南部藩邸まで逃げるも、元主家から罵られ切腹」という証言と、
「家族を養うため脱藩してまで出稼ぎに出、それゆえに新選組が幕府に取り立てられたとき感極まった」という話を追加。
そして子母澤本を基に水木しげるが『幕末の親父』・浅田次郎が『壬生義士伝』を書いたことで有名になった。


  • 市村鉄之助(いちむらてつのすけ) (1854~1873or77年?)
油小路事件直前に兄辰之助と共に新選組に加入し、箱館戦争まで土方に付き添い彼の死を遺族に伝えた隊士。
その後についてはよく分からず、「先に逃げていた兄と故郷大垣で再会し、兄の死後すぐ病死した」という説が有力視されているが(後に兄の子孫によって市村家の墓が建てられた)、
「西南戦争で西郷軍兵士として死んだ」と言う説に物語性があるためか、創作では『燃えよ剣』(但し政府軍側)・『一刀斎夢録』(西郷軍側)で採用されている。
また黒乃奈々絵の『新撰組異聞 PEACE MAKER』・『PEACE MAKER 鐵』では主人公となっているが、入隊時期が池田屋事件前に大きく前倒しされている。


  • 田村銀之助(たむらぎんのすけ) (1856~1924年)
鳥羽・伏見の戦い前後に兄二人と共に新選組に志願するも、一人だけその幼さから「両長召抱人」として他の少年たちと共に土方の小姓として箱館戦争まで参加し明治後も生き延びた少年。
他の箱館組に比べると地味だったが、2010年代に入ってから漫画『PEACE MAKER 鐵』(蝦夷地渡航直前)・『風光る』(鳥羽・伏見の戦い直前)に登場している。


市村とほぼ同時期に新選組に加入し、顔半分を損なうような大怪我をしながら辛くも生き延び「最後の新選組」として名を残した隊員(但し箱館までは行っていない)。


  • 相馬主計(そうまかずえ) (1843年?~没年不詳)
新選組最後の隊長。
元々は幕府陸軍の隊員だったが「第二次長州征伐」の後新選組に移籍し、鳥羽・伏見、勝沼の戦いに参戦。
流山で近藤が投降した際は助命を求めるが敵に捕まる。
釈放後、春日左衛門指揮の陸軍隊に幹部として迎えられ、奥羽戦争に参戦。
仙台で徳川脱走艦隊に合流。土方らに再会して蝦夷へ渡り、箱館戦争では宮古湾海戦に参戦するも負傷、弁天台場攻防戦で降伏。
敗戦処理のため、箱館奉行・永井尚志から隊長に任命される。
戦後、投獄の後、新島へ流罪となるも釈放。

維新後は豊岡県(現在の京都・兵庫)で官吏となったが免官され、東京に戻る。
しかし東京に戻った後謎の切腹を遂げる。妻に「他言無用」と言い残したとされ、詳細については不明となっている。
が、近年、回想録や写真が見つかり、明治30年頃まで生存していたと言われる様になった。


  • 中沢琴(なかざわこと)(?~1927年)
世にも珍しい女性隊士。
上野の国で剣術道場を営む家の生まれで薙刀の達人。
新選組の前身である「浪士組」に参加するため男装して兄と共に新選組に入隊した。
入隊後は市中の見回りや、倒幕派との戦いに参加し、戊辰戦争で敵に囲まれた際は、敵兵を切り捨て囲みを突破したという武勇伝を残している。
「自分より強い男と結婚する」という志を持っていたが、結局現れなかったらしく、生涯独身であった。


  • 原五郎妹女(はらごろうめ)
同じく新選組の女性隊士。
一応実在していたとされている中沢琴と違って新選組の研究者の間でも謎とされている女性。
当時十七歳で会津藩出身らしいという事以外分かっていない。
「妹女」という呼び名から原五郎という隊士の妹だという説や、上記の中沢琴と同一人物ではないかという説もある。


  • 三好胖(みよしゆたか) (1852年~1868)
新選組の隊士の中では珍しく大名家の嫡男出身。
本名は小笠原胖之助(おがさわらはんのすけ)
肥前唐津小笠原家の十代目当主・小笠原長泰と側室・浜との間に四男として江戸の屋敷(外桜田上屋敷、本郷弓町中屋敷、深川高橋下屋敷かは不詳)に生まれる。
万が一の跡継ぎとして、または何処の大名家に養子に出してもいいように、儒学・剣術・槍術・馬術を学び、馬術は免許皆伝を授かった。
義理の兄で老中を務める小笠原長行の計らいでお供として伴い、京都や大坂で政治の表舞台を知った。
戊辰戦争で義兄の長行は最終的に奥羽越列藩同盟に参加するが、この人は小笠原家を出奔して徳川宗家の処分に反発する「彰義隊」に参加。
敗れて潜伏した後、榎本武揚が指揮する徳川脱走艦隊に身を投じ、同船していた輪王寺宮(彰義隊が擁立していた盟主。後に奥羽越列藩同盟の盟主になる)の護衛を兼ねて会津若松に向かう。
会津戦争にも参戦したが、猪苗代の戦いで敗れて仙台に敗走。
仙台で再び、徳川脱走艦隊に身を投じて蝦夷地に向かう。
この時、新選組も会津戦争で人数が激減しており、人数を補充するため、他家出身の家臣団を参加させることにした。
三好胖と名前を改めて入隊するのはこの時である。
蝦夷地に上陸した後、五稜郭にいる太政官の軍隊と交戦になり、1868年10月24日戦死。


  • 阿部十郎(あべじゅうろう)(1837年~1907年)
「局ヲ脱スルヲ許サズ」を謳う新選組を二回も脱走した脱走のプロ。
その後、御陵衛士、赤報隊と所属組織を転々とし、後年は北海道でリンゴ栽培を営んだ。




・新選組が関わった事件・


  • 池田屋事変
「池田屋の変」「池田屋事件」とも呼ばれる。
京都を焼き討ちし、その隙に孝明天皇を拉致して中川宮や松平容保を暗殺する算段を京都「池田屋」で会談しようとした攘夷志士達を一網打尽にした*8、新選組史上で最も有名な事件。
ちなみに多くの作品では「この時沖田が胸を病み吐血」とされてきたが、近年では「ここで発病していると鳥羽・伏見の戦いで既に死んでいる可能性が高い」とする説が有力となり、
『風光る』や『龍馬伝』では龍馬が暗殺された近江屋事件直前に発病したことになっている。
宮部鼎蔵、北添佶摩など、それなりに有力な志士がこの事件で討たれ、新選組の名を世に知らしめた。
桂小五郎(後の木戸孝允)も参加する予定だったが、直前に脱出している。

実はこの時期、新選組の存在がかなり屋台骨から揺れていた時期らしく、この事変がなければ存続が危うかったらしい。
京都焼き討ち計画も、佐幕側の残した史料にしか存在しないため、適当な理由をでっち上げて功績を挙げることで存続を図ったのでは、という説も。


  • 鳥羽・伏見の戦い
長きにわたる戌辰戦争の緒戦となった合戦。
薩長軍の銃砲の前に刀槍で武装した新選組は損害が多く、援軍のはずだった他藩の予期せぬ裏切りなどもあって井上源三郎、山崎烝などの隊士が戦死した。
この戦いの後他の旧幕府軍と共に江戸へと戻り、「甲陽鎮撫隊」で巻き返しを図るも失敗。永倉、原田の相次ぐ脱退など、新選組は崩壊への道を緩やかに、着実に歩んでゆく事になる… 
それでも、人数は定期的に補充していたが…



追記・修正は局中法度に則ってお願いします。

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