坂本龍馬

登録日:2010/04/09 Fri 00:03:57
更新日:2025/04/10 Thu 12:38:13
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坂本龍馬とは土佐出身の武士で、貿易会社『亀山社中(後の海援隊)』の結成などで有名な幕末の人物。
生没年は天保6年(1835年)~慶応3年(1867年)。
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』など幕末をモチーフにした創作でも取り上げられ、イメージとしてはブーツの着用や護身用の拳銃の携帯など、和洋折衷な着こなしが有名。



画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC もっとも有名な龍馬の肖像写真。 ウィキペディアの『坂本龍馬』のページから。*1


土佐藩の郷士と呼ばれる下級武士の家に生まれた龍馬は、生活は家が商家であることから裕福ではあったが、身分が低いうえに惰弱な性分もあっていじめられっ子だった。
また、最愛の母を亡くしたことでより一層気がふさぎ、何事にも意欲がわかなくなっていたが、姉の乙女の教育によって矯正したのは有名な話。
剣術の腕は光るものがあり、小栗流皆伝目録北辰一刀流長刀*2兵法目録を伝授されている。

土佐藩参政・吉田東洋暗殺事件の直前に脱藩した事で東洋暗殺の濡れ衣を着せられ、越前藩の庇護下に入る。 
越前藩のエージェントとして開国論者の幕臣・勝海舟の弟子となり、神戸海軍操練所の塾頭となって操船術を学んだ。
後に禁門の変が原因で勝が軍艦奉行を辞めさせられ操練所は閉鎖、塾生は薩摩藩に庇護されることになる。
塾生らの航海術に目をつけた薩摩藩は彼らに出資して貿易会社『亀山社中』を結成させ、亀山社中は後に外郭団体的な組織化がされて『海援隊』となる。

慶応2年の1月23日(1866年3月9日)、宿屋である京都の伏見寺田屋にて伏見奉行所の役人に捕縛目的の襲撃を受けるが、護衛の長府藩士(長州藩の支藩)・三吉慎蔵と脱出し一命をとりとめる。
寺田屋遭難と呼ばれたこの事件で龍馬は左手に大怪我を負い、事件で異変を知らせたおりょうと共に怪我の療養のための温泉旅行へ行く。

慶応3年(1867)4月23日、龍馬が主催する海援隊所有の蒸気船・伊呂波丸と紀州徳川家所有の蒸気船・明光丸との衝突事故で伊呂波丸が沈没、最終的に紀州徳川家が海援隊に賠償金を支払った*3

慶応3年の6月9日、山内容堂らの参加する四侯会議の関係で、京都に呼ばれていた後藤象二郎と共に長崎から兵庫に向かう藩船「夕顔丸」に乗船していた龍馬は、後の明治政府の政治綱領の原本となる「船中八策」を書き上げる。
その中の八項目の一つに、朝廷への幕府の統治権返上「大政奉還」があり、それに影響された後藤によって促進され、後に実現することになる。
※ただし、龍馬直筆による船中八策は現存せず、その名前自体も大正時代以前にはなかった(それ以前は様々な名前で紹介されていた)事から、後世の創作という声が大きい。
 内容が共通している「新政府綱領八策」という文書は龍馬直筆のものも残っているのだが、本人が考案したのか、それとも他の人物の案を書き写しただけなのか等について議論されている。

11月15日、京都近江屋にて、盟友であり陸援隊隊長でもある中岡慎太郎と共に何者かの襲撃に遭い、
を取って応戦しようとしたが、刀を抜くことも叶わぬまま何度か斬りつけられて昏倒。
一度は意識を取り戻したものの、二度斬りつけられた額の刀傷が致命傷となり、医者を呼ぶよう言った後再び昏倒し、そのまま死亡した。
折しもその日は、龍馬33歳の誕生日であった……

その暗殺の詳細についてはしばらく謎として扱われ、龍馬を殺す理由がある藩や人物が多かったこともあって様々な説が唱えられたが、
近年の研究で元京都見廻組今井信郎(いまいのぶお)が龍馬暗殺を自白しており、彼以外にもの一人が自白していることから、実行犯については京都見廻組という説が現在は確実視されている。
しかし、彼らの背後にいた黒幕については今もなお謎に包まれており、京都見廻組に龍馬の暗殺を指令したのは京都守護職・松平容保であったという説が根強いが、あくまでも推測である(大河ドラマ「龍馬伝」ではこの説を採用)。
とはいえ見廻組与頭、佐々木只三郎の兄・手代木勝任は会津松平家の公用人ではあるが、会津松平家の公用局を調べれば一目瞭然だが、公用局自体が連帯責任の合議制で運用されていて、手代木に公用局を動かす程の権限は無い。
坂本龍馬殺害の命令を下したとすれば、公用局が合議制で決めた、とみるのが妥当。
坂本龍馬も自身の身元を保証するために、幕府の若年寄格・永井尚志を通して会津松平家に接触して、身分を保証してもらっている。
ただ、孝明天皇の正義に強いこだわりを持っている会津松平家家臣団、特に一会桑政権を作ったと自負する会津公用局からすれば、徳川社会を護持せよという天皇の勅命に逆らって逆賊・長州と薩摩をつなげるテロリストでしかない坂本龍馬にお灸を据えたい気分はあったのだろう。

  • 余談

◆龍馬の彼女
最終的には「おりょう(楢崎龍)」で確定しているが、北辰一刀流を学んでいた頃道場主の娘で長刀道の先輩「千葉さな子(佐奈、佐那)」と仲良くなり、まんざらでもなさそうな感じの手紙を残している。
さな子のその後は「独りで余生を過ごし、晩年出来た友人に龍馬の思い出を語りこの世を去った」(ゆえに墓に「坂本龍馬室」と刻まれた)とされるが、近年「実は友人に会う前に結婚していた」という可能性が出てきている。
また「おりょう」の後半生もぱっとせず、乙女と喧嘩して坂本家にいられなくなったり(実際は乙女との仲はむしろ良好で、兄の権平ならびにその妻と対立して追い出されたという話もある)、「西村ツル」と改名して再婚するもやはり龍馬のことが忘れられず、その悲しみを紛らわすため酒に逃げるなど、互いに生活が荒み離婚したりとついてない話が目立っている。
そうした中で、かつての龍馬の師・勝海舟や同志の西郷隆盛がおりょうにいくばくかの生活費を援助した。おりょうは晩年自身の後半生を「みんな嫌な奴ばっかりだったけど、勝さんと西郷さんは心から優しくしてくださった」と回顧している。


◆写真
外国に興味津々だった龍馬は様々な外国の技術に親しんでおり、当時日本にはなかったカメラも試したのか、坂本龍馬らしき人が写った写真が現存している。
ちなみに、当時の写真はネガフィルムが存在せず「写真の写真を撮る」という方法でしか増やすことができなかったため、複写回数を経るごとに細部がぼやけてくる。
龍馬の写真はアホ毛がどのくらいくっきり写っているかで、最初に撮られた写真にどれだけ近いかが推し量れるという。


◆陸奥守吉行
龍馬の佩刀として知られるこの刀、小説『竜馬がゆく』では脱藩時に劇的な展開で手に入れているが、実際は亀山社中結成後兄に頼んで薩摩藩経由で入手した刀だったらしい。
死後は行方不明になっていたが、2015年に「諸事情で作りは変わったがこれが龍馬の吉行だ」と坂本家所蔵の刀で確定した。
RPGなどで刀武器として登場していたりするが、実態は田舎武士の家宝程度のものであり、当時は全国レベルで名のある刀匠ではなかった。


◆姉想い
姉の坂本乙女に性格矯正されたのは前述したが、そのためか龍馬は大変な姉想いだったと言われており、龍馬から乙女に宛てた手紙が現存している。手紙の内容自体は著作権の切れた作家(夏目漱石や太宰治など)の小説や詩を収集した「青空文庫」というサイトで読むことができる。
ちなみにその乙女さん、かなりの男勝りで身体も大きく、美人ではなかったそうな。彼女が娘とともに撮った写真が現存しているため、そのご尊顔を伺うことができる。


◆桂浜の海
高知県桂浜には有名な巨大龍馬像があり、観光地として龍馬ゆかりの地という見方がされがちだが、龍馬の足取りから考えるとそれ程縁のある地だとは言えない。
そもそもこの像は昭和初頭の坂本龍馬ブームに建てられたものであり、戦意高揚の意味が強いとされる。


◆剣術の腕前
創作ではほぼ確実に剣の達人で、北辰一刀流免許皆伝ということが強調されるが、龍馬が持っていた北辰一刀流の免許は長刀術のものしか残っていない。
これは同流派の中では最も易しいものであり、この事から剣の達人説には異論が唱えられていた。
しかし2015年の10月、明治43年に龍馬の実家が「坂本龍馬記念館」に遺品を寄贈した際の目録が発見された。
その中に、長刀の皆伝書と一緒に「北辰一刀流兵法皆伝」の文字があり、実物が発見されたわけではないが、龍馬が皆伝を受けていた可能性はある。


◆好物
龍馬の好物はシャモの肉をかつおだしのスープで煮た軍鶏鍋で、暗殺される直前にもシャモの肉を買いに行かせていた。


◆武田鉄矢
大学入試時に高知大学を受験したり(結局大学は落ちたが)、バンド名を「海援隊」にしたり、彼が演じた金八先生のフルネームの「坂本金八」の元ネタが坂本龍馬で金八先生の娘が「乙女」だったり、
自らSPドラマと映画で龍馬役を演じたり、漫画『お~い!龍馬』の原作を担当したり、『龍馬伝』で勝海舟を演じたり、「龍馬がくる」でタイムスリップしてきた龍馬本人に出会う「坂本龍馬役」の武田鉄矢(本人名義)として出演したりなど、坂本龍馬マニアのエピソードが多々ある。


◆創作のイメージ
創作では煮え切らない交渉相手に対して大声で啖呵を切るシーンが定番で、坂本龍馬を描写する際の一つのテンプレとなっている。
しかし実際の龍馬は、あくまで淡々と冷静に相手を説得するタイプだったようだ。
また進取性に富んだイメージがあるが、徳川家を存続させようとしていたなど、いわゆる「幕末の志士」の中では比較的保守的だったと言われることも多い。
ただし大政奉還に徳川家が反対した場合は、銀座を武力占拠するとも公言しており、この辺りは討幕派志士としての一面もある。近年では、「大政奉還」自体、武力倒幕に踏み切るための『最後通牒』ではなかったかとする意見が出ている。

土佐藩の志士と思われがちであるが、実際には土佐藩参政・吉田東洋暗殺の容疑者*4と勘違いされた後に越前藩に保護されて以降は越前藩のエージェントとして活動しており、勝海舟や薩摩藩との連絡役を任されていた。
由利公正や横井小楠*5等と協力して動いている他、神戸海軍操練所の塾頭になったのもパトロンの越前藩を説得して大金の援助を引き出しているという理由が大きい。
また、先述の暗殺容疑を晴らされたのも、前越前藩主の松平春嶽の弁護が大きかったので、外様ながらもかなり信頼されていた事が窺える。
徳川家の存続も越前藩の戦略だったので、越前藩のエージェントである龍馬がその方向で軟着陸させようとするのも当然と言うえば当然である。
尤も、晩年には後藤象二郎と手を組んだり、板垣退助や谷干城*6のような土佐藩の新進将校と親交を結んでいるので土佐藩との関係はかなり改善されている。

ついでに言えば、よく創作の龍馬が口にする「ぜよ」という語尾は高知県西部の方言(幡多弁)であり、現在の高知市(高知県中部)民では使う人はほぼいない上、高知県中部出身の龍馬が本当に日常的に使っていたかもかなり疑問である。


◆現在の研究
幕末明治の研究者のうち、龍馬を研究したいという人は多いが、比較的最近の時代の人間であるため史料が多く残っており、ほぼ1日毎の足取りも正確に判明しているほど分析されているので、余程新しい知見か革新的な史料が見つからない限り、これ以上研究しても成果にはほとんど期待できないとされている。




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最終更新:2025年04月10日 12:38
添付ファイル

*1 長崎の上野撮影局にて撮影。撮影者は長崎の写真師・上野彦馬による撮影とされてきたが、近年は彦馬の弟子で龍馬の親戚にあたる井上俊三という人物が撮影したことが判明。

*2 「薙刀」の事

*3 一説には賠償金の負担からくる恨みで紀州徳川家が龍馬暗殺に関わっているといわれており、海援隊士・陸奥陽之助(のちに領事裁判権撤廃を果たす陸奥宗光)ら数名が紀州徳川家の公用人・三浦休太郎を龍馬暗殺の黒幕とみなして天満屋で襲撃する「天満屋事件」が発生している

*4 実行犯は土佐勤王党員の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助で、党首の武市半平太の命令を受けての実行であった。のちに那須と安岡は処刑されるが、大石は薩摩まで逃げ延びて名を「高見弥一(弥市)」と改め、イギリスに留学している

*5 元々熊本藩士だが、仲間同士での諍いで誤って仲間を殺してしまった際にお尋ね者となり、福井に潜伏していたところを松平春嶽に拾われ、家臣となっていた

*6 この両名は元々龍馬ら郷士とは親交が深く、特に谷は龍馬を自分の師匠とまで仰いでおり、晩年の亡くなる直前まで龍馬の暗殺犯を探し続けた