宦官

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宦官 - (2022/09/05 (月) 14:19:11) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2010/06/08 Tue 10:51:14
更新日:2024/02/04 Sun 21:42:50
所要時間:約 9 分で読めます






「おめーら、それでもチ〇コ付いてんのかァ!」




宦官(かんがん)


古代中国やローマなどにおける官僚。

彼らは自身の男根、つまりチ〇コを切り落とし、その代わりに後宮に入ることを許された。
金玉ごと切断されることが多い。
日本では概念そのものは中国から輸入されてもおかしくなかったが、結局家畜を含めても「去勢」という概念が受け入れられなかったことからほぼ存在しなかった。

ちなみに「宦官」の語そのものは本来は役職名で男性器周りを落とした人間は「閹人(えんじん)」と呼ぶのが正しいのだが
時代を下るに従って宦官の職が閹人だけの職になった為「宦官」だけで通じる様になったとの事。
昔は刑罰としてチryを切られたり他国の捕虜となってチryを切られた者が宦官となっていたが、
宦官が権力を握るようになると自ら進んでryを切る者も出てきた。これを「自宮」という。

特に中国・唐代では、官僚になるには科挙に受かるか切るかしかなく、
特に科挙の倍率は司法試験もびっくりのものなので、官僚になるために自ら切っちゃった者も少なくない。
うち3割は傷口が化膿して死んじゃったらしいけどね(´・ω・`)
ちなみに、清代末期になると西欧から外科手術法が取り入れられて、民間レベルでやるのもずいぶん安全になったとか……。
一方で刑罰の場合は古代から手荒だがかなり安全な手法が確立されており、これによる死者は殆ど出なかったという。

また、科挙もその倍率の関係から書物をしこたま読んで勉強するための時間とカネ、めでたく科挙に受かって官僚になった後も勉学中に築くコネが出世に必要な面があるので、
学はないけど媚びへつらいとかそういうのが得意という貧農出身者にとっては一発逆転を狙う唯一の方法という面があった。
五代十国の藩鎮国家の一つ、南漢では総人口100万の内宦官人口が2万もいたという。

もちろん、宦官同士の足の引っ張り合いや権力争いの余波、仕える者の気まぐれで理不尽に殺されたりすることもあるし、解雇される=ほぼ野垂れ死になので官僚とはいえかなりハイリスクな役職ではある。
というか、政治に関われるような権力を握れるものは最上位クラスだけであって、それ以外の者は当然過酷な競争に晒される。現代で言ういじめに近い行為もざらにあったようだ。
その地位は名目上『官僚』とはいえその実態は限りなく奴隷そのものであった。一応、国から給料は出るし退職もあるので奴隷とは違うが。
儒教的な倫理観に真っ向から反する存在でもある(後述)ため、実際の彼らの扱い・扱われ方は、そんじょそこらの社畜なんか目じゃないぐらいの悲惨さだったのだ。


宦官を登用する主な理由としては、
  • 後宮の女性に手を出せないので身の回りに置ける
  • 子孫を残せないので権力が集中しても一代限り、皇帝の座を一族に乗っ取られる心配が無い
この二点である。

また、後宮に勤めるということは日常的に皇帝に親しむということでもあり、
  • 権力を握る重臣に対抗するための、皇帝直属の戦力として行使できる
  • 皇太子の教育を任せられる
というメリットもまた存在する。


一方で、皇帝に権力が集中する政権では、裏で宦官が実権を握る事例が少なくなく、宦官=国を乱す悪というイメージがつくようになった。皇帝が暗愚であればなおのことであった。

もちろん、宦官といっても基本は宮廷勤めが許されるぐらいの有能な小役人であり、実際には忠誠心に溢れ、かつ有能であった宦官はごまんといる。

しかし、正規な手段を踏まない(官界で推薦を勝ち取ったり、科挙などの試験を通ったりはしない)ままに君主の傍に仕えることは、正規の手段で苦労して就職した役人たちにとっては言うまでもなく不快であり、
そもそも儒学の倫理的には「父母から授かった身を傷つけること」は不孝、しかも「子孫を残し父母・祖先の孝を未来に継ぐための器官を、自ら切り捨てる」ことは非道であった。
そのため、宦官は史官を含めた役人・大臣からは嫌悪と侮蔑、嫉妬の的であり、およそいい感情を抱かれることはまずなかったのである。


なお、よく誤解されるのだが、チ〇コを切っても性欲は無くならない。
宦官は現代でいうおとなのおもちゃを使って性欲をぶちまけてたらしい。
それでも満足できないという宦官がチンコ復活しろ!と思って子供の脳を食べたりしたこともあったとか。
決して永続的賢者モードになるわけじゃないから絶対チ○コ切るなよ! お兄さんとの約束だぞ♪


また歴史の中では女王に仕える者はまとめて宦官と呼ぶ文化もあり、
実際にはチ〇コがついたままの下僕も宦官と呼ばれていたケースもあるらしい。


【有名な宦官】


  • 嫪毐(ロウアイ)
初っ端からなんだが、こいつは宦官ではなくニセ宦官。つまり切ってない。秦王政=後の始皇帝の母親・趙太后に仕えた。
時の執政・呂不韋にチ○コのでかさを見込まれて食客となり、
呂不韋の代わりに太后*1の性奴隷になって出世。
得意技は勃起したアレに車輪を通して回す芸。デカすぎィ!

おい、チ〇コ切れよ。

最期は太后に子を生ませてその子に秦を乗っ取らせようとして反乱を起こすが、秦王政に敗れて車裂きの刑。子供を含め一族皆殺しの憂き目にあう。
ちなみに、この一件から「呂不韋がニセ宦官を送り込んだ」ことまでバレ、彼の失脚の原因ともなった。


  • 趙高
秦の始皇帝に仕えた宦官にして悪宦官の代名詞。
といっても始皇帝の生前にはあまり悪事を働いていない。というより始皇帝は自分にも周囲にも厳しい人物であり、悪事を働く余地がなかった。
しかし始皇帝が行幸先で死亡したときに素早く策謀を巡らせ、宰相の李斯を脅して自分に都合がいい胡亥を皇帝に擁立して実権を握り、大暴れ。
正統な皇位継承者の扶蘇と、始皇帝の一番の側近だった蒙毅、その兄で最大の名将蒙恬を殺し、他にも皇族・大臣・役人に冤罪を押し付け虐殺・粛清。
さらに世界中から首都咸陽に兵士となる若者や労働者を掻き集めて食糧危機を招き、それを補うべく咸陽周辺の農民には作った穀物の自家消費を禁じ、
あげくは自分が宰相になりたいからという理由で李斯まで粛清したりとやりたい放題。

最期は子嬰を擁立しようと企み散々利用してきた胡亥を殺すが、項羽たちが迫ってくると今度は子嬰の首を差し出すことで生き残りを画策。
しかし自分の企みを見抜いていた子嬰とその部下に討たれ、一族も皆殺しにされた。
ついでに言うと本当は自分が皇帝になりたかったが、さすがに周囲の反対が強すぎてひっこめざるを得なかったようだ。

ちなみに馬鹿の語源でもあるらしい*2

なお近年発見された竹書『趙正書』などの記述から隷民であり非宦官説が出ている。
こっちの史書では始皇帝から胡亥への繋がり方が史記と違うなど色々と内容が異なる。



  • 司馬遷
「史記」を書いた、歴史学的にもドえらい人。
漢の武帝に仕えたが、匈奴征伐に遠征して破れて降伏した友人・李陵をかばい宮刑(=チ〇コを切る)に。
その流れは大体↓みたいな感じ。

司馬遷「いや李陵は頑張ったのだ。ただ、援助が足りなかっただけだ」

武帝「貴様、朕(チン)が悪いと言うのか? おい誰かこいつを切れ」

司馬遷「え、何を切るんです?」

武帝「首に決まっておろう!!」

司馬遷「冗談じゃありません!!」

武帝「金を出せば減罪してやろう」

司馬遷「うちは貧乏なんです(´・ω・`)」

武帝「じゃあ宮刑しかないな」

このような苦難*3を味わいながらもライフワークである史記を完成させ、歴史に名を残した。
当時、宮刑は人間に降りかかる様々な困難や恥辱の中でも最悪のものとされており、司馬遷自身「宮刑に処された者はもはや人間として扱われない」とすら残しているほど。
それでも死刑や自害を選ぶことができなかったのは、父の遺言である史記の完成という使命があったからである。
ちなみに、司馬遷が書いた史記には史書としては珍しい「金儲けがうまい人物伝」である貨殖伝が載っている。
これは貧乏故に減刑を購えなかった遷の「金さえあれば……」という無念さの表れとも云われている。

また、史記は意外と漢皇室、特に劉邦に対しての記載に遠慮がない*4。逆に始皇帝や項羽、呂后など漢にとっての大敵・逆賊にも詳しく書いている。
この辺は漢皇室への恨みがあったともされるが、おかげで史記は歴史書にありがちな偏向が薄く、むしろ比較的中立な史書として知られている*5


  • 蔡倫
後漢和帝期から安帝期にかけて宮廷に仕えた宦官。
当時絹などの屑を使って不織布を作る技術があったのだが、それを応用することで
繊維くずや樹皮から実用に耐える初の紙・蔡候紙の製造技術を開発したことで有名*6
紙の発明者と言われることもあるが、正確に言えば紙の改良者、現在で言う「紙」の発明者と言える。

この技法を洗練させ、材料も検討していくことで現在に通じる紙漉きという手法が生まれた。
これ以前は文章を記すといえば木簡や竹簡*7、もしくは絹織物(帛書)*8を使っていた。
しかし竹簡や木簡はかさばるし重い、絹織物の「紙」は高価であるという問題点があった。

蔡倫の発明した紙はどうしても高額になってしまい、即座に竹簡などを駆逐するとは行かなかったものの、後続の者たちにより改良が行われていった。
そして後漢後期から晋の頃には紙の保存が長期保存が可能になり普及していった。

紙の普及は、木簡などではなかなか出来なかったことを可能にした。
例えば、懐から取り出してその場で詩を書き留めたり、戦場では伝令を使った即興での作戦変更の伝達をより簡単にした。
三国時代の建安七子の誕生や、諸葛亮司馬懿の縦横無尽の策の巡らせ合いを生み出したのは彼の技術あってこそ。
また紙とその製造法は東南アジアや中央アジア、イスラム世界やインド、ヨーロッパへと伝わっていくことになり、文化の発展に大いに貢献した。

他にも武器製造など様々な技術開発に従事した超優秀な技術者であった。


  • 梁商
後漢の順帝に仕えた名宦官。順帝の即位に尽力、その後も国をよく支え続けた。
皇帝の秘書官としてはメッチャ優秀。

しかし順帝がその功を称え、宦官に養子を許すというとんでもない大ポカをやらかし、しかも養子に貰ってきた梁冀は悪代官という最悪の事態。
おかげで梁一族が後漢の実権を握り、権威は失墜。三国時代到来の原因を作ってしまう。
よくやった順帝。


  • 曹騰
梁商と共に順帝に仕えた名宦官。以後も影ながら後漢を支え続けた。
彼の養子の子供、つまり孫があの曹操。養子を取れたのは上記の梁商と同じ経緯。
マジで順帝よくやった。


  • 十常侍
後漢の霊帝に仕えた10人の宦官だが、実は12人いる。
民から搾取→黄巾の乱。
少帝擁立→清流派の反乱→董卓やってくる→大将軍の何進を暗殺。
など、三国時代の幕を開いたのはあるいは彼らなのかもしれない。
しかし大将軍の暗殺はさすがにやりすぎ。この機を逃さなかった袁紹のクーデターで粛清されることとなった。

なお、三国志大戦では武将として1に登場、その後3では軍師として登場し、リブート後は再び武将として登場している。
1では伏兵と防柵を持っているので伏兵なのに開幕から初期位置がバレているという意味の分からないことをやらかしている。
しかしリブート後は宦官以外にも伏兵と防柵を持つ武将が出てきたので武力+知力が10で征圧は0という能力と十常侍奥義という計略を得ている。


蜀のバカ殿さ(ry……劉禅に仕えた宦官。
三国志演義では、まさに国を滅ぼしたイエスマンな悪宦官として描かれている。
姜維を追放しようとしたり、巫女のお告げとか言って魏が攻めてるのに酒宴しまくったり。

史実では演義とは違い諸葛亮存命中どころか、諸葛亮の直接の後継者が生きてる頃にはほぼ出てこない。
蜀の人材が全体的にアレになった頃に出てきて、益州出身者と非出身者の争いに乗じて人事に介入している。

コーエー三国志では何故かネコミミ帽子を被っている。

三国志大戦2でも登場。
愚かな転身と言う武力の一番高い味方を城に戻すという微妙な計略を使う。
これで生姜*9を戻したりできる。やったね。
リブート後は自軍の士気が増える計略が使える。ただし味方が弱体化したり敵を強くしたりしてしまう。
どちらもニッチな需要があり、士気を安定して増やす方法が開発されている。


  • 高力士
武周の則天武后・唐の玄宗に仕えた宦官。
彼自身は慎み深くさらに忠義心と理知に溢れた人材であり、高句麗出身の名将高仙芝ら有能な人材を多数推挙した。
宮廷で寝起きするほどの仕事熱心通り越したワーカホリックで、
玄宗曰く「高力士がいるからこそ安心して眠れるのだ」と言わしめるほどの大量の仕事を捌いていた。
しかし、彼が推挙した節度使である楊国忠と安禄山は世界帝国・唐の終わりの引き金を引いてしまう。
彼は楊国忠の専横について玄宗を諌めたり、朝廷と安禄山の間に立って調停に尽力したりはしていたのだが……。
全体的に玄宗個人を優先しすぎて国を揺るがしてしまった感がある。
兵の反乱で助けられなくなった楊貴妃を縊死させたのも彼。

乱後は玄宗を退位させた粛宗の時代に陥れられて流罪となる。
最期は恩赦により帰還中に玄宗の死を知り、慟哭して血を吐いて死亡したという。


  • 鄭和
明の航海王子。別に王子じゃないんだけど、どっかのエンリケ航海王子にならってこう呼ばれる。
元々は元に仕えた雲南のイスラム貴族で、捕虜になりチ〇コを切られ永楽帝に仕えたという感じ。
南シナ海やインド洋を股にかけ、アフリカ大陸のモガディシュや聖地メッカ巡礼に至る大航海を敢行し、
キリンなどアフリカの文物を持ち帰り、明の勢威を各地に広めるなど活躍した。


  • 魏忠賢
明の天啓帝に仕えた邪悪宦官。
財を蓄え、さらに配下の都合の悪いことも賄賂を貰って握りつぶすなど万暦帝が浪費出兵アンドニートで殺した明に死体蹴りを敢行した人間の屑。
その人間の屑っぷりは党争を利してライバルも恩人も出世の邪魔になるならば容赦なく葬り、絶対的な権勢を得ると、
自身を尭天舜徳至聖至神と称し、聖人であると言わせ、九千歳*10と唱和し讃えさせた。
彼と彼を止められない天啓帝の悪政の中、民の怨嗟は危険水域に高まり、
ヌルハチにより建国された満州女真族国家後金の勢威はもはや明にも手を付けられないレベルになった。
だってヌルハチに負けても賄賂で勝った体に出来ちゃうんですもの、まじめに戦うはずがないわな。

最期は天啓帝の後に即位した崇禎帝により、逮捕される前に自殺した。
明特有の代替わり時の佞臣粛清システムはここでも機能はしたのである。

崇禎帝は必死に明を支えようとしたが、既に満身創痍の明は立て直しが利かず、
崇禎帝も洪武帝並に猜疑心が強く*11、後金の攻撃を防いでいた袁崇煥を殺してしまうなどミスも多く*12、最後の皇帝となってしまった。
しかし…


  • 王承恩
そして明最後の皇帝であった崇禎帝に仕えた宦官。
王朝内部が乱れて宦官にも賄賂が横行していた*13頃にも崇禎帝に忠実であった。
既に李自成の反乱軍が北京に迫り、多くの宦官どころか文武百官全てが寝返りや逃亡をしている中、ただ一人最後まで皇帝の側で仕えた。
皇帝の王子・王女の逃亡先を全て仕切り、皇帝が自殺した側で自らも首を吊って殉死した。

朝鮮半島や海を越えた江戸幕府にもこの話は伝わっていたようであり、明最後の忠臣としてその生き様を現代まで評価されている。
世間一般的に考えられる宦官の悪評とは完全に無縁な忠臣である。
いつまでも皇帝に仕えられるようにと、墓もすぐ側に作られたとか。


  • 董海川
清朝の宦官で、武術の達人。
八卦掌の創始者と言われ、絶技的武林大師と呼ばれるように。
実は王族の暗殺を狙っていたとも言われる。


  • 李蓮英
清朝の高級宦官で、中華帝国最後の宦官と呼ばれている。
子どもの頃から52年間清朝に仕え、清朝の事実上の支配者だった西太后の下で宦官のトップにまで上り詰める。
清王朝が滅び中華民国が建国されると、民衆から搾り取って貯めた金で広大な土地を手に入れて豪邸を建て、もう無用だとばかりに自らの官職を銀1万両で売り飛ばした。
彼の所有する財産は、各種の動産まで含めると諸王に匹敵するほどの巨万の富であったという。


  • 孫耀庭
清朝の宦官で、1994年に86歳で没した文字通りの最後の宦官。
こちらも子どもの頃から仕えており、後年賈英華という作家のインタビューを受けてその半生が記された本が書かれ、日本でも和訳したものが「最後の宦官秘文」として出版されている。


  • 清の下級宦官
ぶっちゃけ何をしたわけでもないが世界史の教科書、資料集に引っ張りだこ。
一般に宦官のイメージと言えばこの人。
写真が残っているのが彼らしかいないから仕方がない。Wikipediaには股間の写真まである。


  • ナルセス
東ローマ帝国のユスティニアヌス1世に仕えた宦官。本職は官僚だが軍隊も指揮する。
宦官なら独立して自分の王国建てたりしないだろうと、イタリア遠征軍を率いて出陣、
イタリアを領有する東ゴート王国軍を粉砕した後、返す刀で火事場泥棒狙いのフランク王国軍を撃退。
20年近くかかったイタリア戦争を勝利で終わらせた名将。ちなみにイタリア征服時御年75歳。

そもそもユスティニアヌスがベリサリウスを猜疑心から何回も解任したり呼び戻したりしなけりゃご老体のナルセスを起用せずにすんだのは内緒だ。


【宦官の類似例】

  • カストラート
欧州において声変わりを防せいでボーイソプラノを保つための男性ホルモン抑制を目的として、タマを切った歌手。当然声変わりしてからでは手遅れなので、処置を受けたのは聖歌隊や音楽院に在籍していた7~11歳の少年たちである。
ルネサンス期より一般化したらしい。
こちらは刑罰ではなく家畜の去勢法を転用したためタマの中身(精巣)だけを除去するのでチ〇コは残る。
成人男性の胸郭の広さと強靭な肺活量を持ったまま、ボーイソプラノやアルト声を出せるため、女性が声を出せない事になっていた教会の聖歌隊で重宝された。
数公演で首相なみの収入を得られる人気歌手も出たほどで、ナポレオンが禁止令を出しても後を絶たなかったが、1878年に時の教皇による禁止令が出てようやく沙汰止みとなった。
最期のカストラートは1922年まで生存していたらしい。声を録音した音源も残っているが、全盛期過ぎだとか。

現在、カストラート前提で作られた楽曲はソプラノ歌手やボーイソプラノ、あるいはソプラニスタやカウンターテナー(米良美一さんのパート)で代用されている。
一応今でもカストラートに準じた存在はちょくちょく出るが、切ったわけではなくホルモン分泌異常でカストラート状態になっただけである。




追記・修正はチ〇コを切ってからお願いします。

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