科挙

登録日:2021/03/08 Mon 21:30:23
更新日:2024/04/23 Tue 16:01:51
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富 家 不 用 買 良 田  書 中 自 有 千 鍾 粟
~「金持ちになりたい?なら田畑を買わなくていいよ、勉強しなさい」~

安 居 不 用 架 高 堂  書 中 自 有 黄 金 屋
~「いい家に住みたい?なら一等地を探さなくていいよ、勉強しなさい」~

出 門 莫 恨 無 人 随  書 中 車 馬 多 如 簇
~「たくさんの使用人が欲しい?なら求人を出さなくていいよ、勉強しなさい」~

娶 妻 莫 恨 無 良 媒  書 中 有 女 顔 如 玉
~「美人の奥さんが欲しい?なら婚活をしなくていいよ、勉強しなさい」~

男 児 欲 遂 平 生 志  六 経 勤 向 窓 前 読
~「要するにだ。男が何か願いを叶えたいのなら、勉強して科挙に合格しなさい」~





※よくある誤解※

Q.「要するに暗記が全てなんでしょ?」

A.違います。
「膨大な量の文書を暗記して、初めてスタートラインに立てる」といった所です。


Q.「詩や文学の試験ばかりだったの?」

A.違います。
作詩は確かに重要な試験の一つでしたが、それが全部ではありません。


Q.「例えて言えば、東大入試や司法試験とかぐらい難しいんだよね?」

A.違います。

そういう次元じゃないぐらいの超高難易度です。


+ 目次


【概要】


科挙(かきょ)(英語:Imperial examination)とは、中国王朝における「身分を問わず、試験によって役人を登用する制度」の事。

ただしこの場合の「役人」とは、現代で言う町役場のお姉さんとか交番のお巡りさんの様な「公務員全般」の事ではない。
そういう「普通の公務員」に相当するのは「胥吏」と呼ばれる(非正規の)地方事務員で、科挙合格者が登用されるのはその上に立つ「官僚」である高級ゼネラリストなのである。
あえて現代で例えるなら、一般的なノンキャリア公務員に対するキャリア官僚に当たるだろうか。

また「登用する」という表現も実は正確ではなく、厳密に言うと「役人になれる身分を与える制度」とするのが正しい。
科挙に合格した人は「進士(貢士)」等と呼ばれる一種の特権身分となり、各種免税・減税措置を受けたり一般刑法の適用外になったりする等の多くの優遇措置の対象となるが、この身分が同時に官僚就任の資格でもあるのだ。

よって必ずしも「役人=科挙合格者」というわけではない。
世襲や推薦等で科挙を通らず役人になった人もいるし、また逆に科挙に合格したが役人にはならず地方に戻って学者等になった人もいる。

そして科挙とは単なる人材登用システムというだけではなく、
  • 知的エリート層に登用という「見返り」を示す事で、自発的な国家への忠誠心・順法精神を育てる
  • 中国全土から人員を採用する事で地方の実情を中央へ伝えさせ、政治に反映させる
  • 各地方に対して同じテクストを使わせて同じ試験を目指させる事で、広大な国土と多くの民族の文化的同一性を維持する
等といった具合に地方と中央、社会の下と上とをつなぐ「統治システム」としての側面も持っていた。


【試験の内容】


大原則として、科挙の試験では君子であるか否かが問われる。

「君子」とは中国で古くから「人間としての理想像」と考えれられていた人物像の事で、
  • 高い倫理学(主に儒教の教え)を身につけている
  • 歴史を学んでおり、そこから教訓を得ている
  • 文章力がある
  • 人格円満で、正義感が強い
といった、所謂「徳がある」人の事を指す。
特に倫理学を持つ事は最優先項目とされているが、これは中国の歴代王朝に受け継がれてきた「徳化(徳治主義)」という施政方針によるもの。
徳化というのは、簡単に言うと

「法を厳密に適用したり犯罪者を取り締まったりするのも大事だが、それは対症療法に過ぎない。 
 それより人としての”正しい在り方”を広め、国民の道徳的な質を上げる事こそが根本療法なのだ」

……という考え方。
この考えに基づくと、国家の要職にある者には「倫理を身につけ、それを行動や文書、裁判などによって模範として国民に示せるかどうか」
つまり「優れた君子であるか否か」が何よりも重要になってくるのである。

なので君子の資格の有無を見極める為に、具体的には以下の3科目が課される。

1.「経書(けいしょ)

「儒教の経典に精通しているか」を問う試験。率直に言えば穴埋め問題
帖経、墨義、経義など時代によって様々なバリエーションがある。
基本的にはどの時代でも「経書(儒教や歴史のテクスト)の一節が一部隠された状態で示されるので、その部分を埋める」という感じの暗記問題である。
選択肢などといった親切なものはなく、誤字脱字も無論減点されるため、一字一句違えない完全暗記が要求される。

また試験によっては単なる穴埋めだけではなく、「その部分の意味や歴史的背景を解説する小論文」も求められる事がある。
それも「ここはこういう意味。ソースは俺(キリッ」という様な俺流スタイルはNG。歴史上の儒学者達が残した権威ある注釈本に根拠を求めつつ書かねばならない。

使用されるテクストも時代によって異なる。
初期~中期の科挙では儒教の基礎テクスト5冊、通称「五経」の中から1つ選ぶ選択制で、暗記量もせいぜい数万字程度だった。
だが制度が煮詰まった後期科挙ではどんどん増えていき、最終的に清後期に至っては「五経」+「四書」を全部になった。
これは40~60万字で、当wikiなら冒頭の所要時間「800分~1200分で読めます」となる位の量。最低でも半日以上、最悪一日がかりじゃないか!
更に注釈本も膨大な量になって加わるため、最終的な暗記量は軽く倍以上になってしまう。

科挙に対する「暗記地獄」というイメージの主因は間違いなくこれのせい。

2.「韻文(いんぶん)

文章力や詩才を問う試験。漢詩や賦(漢詩よりも長めの韻文)、銘文等を作る問題。
慣用句や古典等からお題が与えられ、それを詠った詩や賦を作る事が多いが、加えて音韻に対する指定等が入る事もある。

役人と詩に何の関係があるの?と思われるだろうが、「詩→文学→芸術→遊び」という様な現代的な連想を持ってくるのはちょっと違う。
中国では古来、思想や道徳を文章によって表し、またそれによって人民を教化し導く事は、君子にとって最も望ましい行いとされていた。
曹魏の文帝「文章は国家の最重要事項である」と述べたのは有名である。
そして文章の中でも最高位にあたるのが詩とされ、「優れた君子ならば必ずその資質が、教養が、詩へと反映されるものだ」と考えられていたのである。

とはいっても現実問題として「詩を作るのが上手い人=政治が上手い人」なんて事はそうそうない。
そのため実践派の科挙官僚や皇帝からは「君子と関係ないだろこんなの」と廃止される事もあった。
が、その度に揺り戻しがあっては復活し、結局科挙の終わりまで試験項目の一つであり続けた。


3.「散文(さんぶん)

歴史や経書から教訓を得ているか、また実際の政治にそれを活かせる見識があるかを問う論文試験。
科挙のルーツは「在野の高名な君子に、現在の政治的課題に対する意見(策)を書かせる」というシステムにあるので、まさにこれこそが科挙の基本にして極意と言える問題かも。

論、策、策問など詳細に分けると幾つか種類はあるが、
「政府内で派閥抗争が激化しているが、どう対処すればよいと思うか?」
「古典にこういう一節があるが、これに対して思う所を述べよ」
等といった時事や古典、政治理論に関する課題が出され、それについて書いた論文を作成するというもの。

当然この場合も「ソースは俺」式では駄目。
「かつて○○の時代、△△が××をした事があり、それを踏まえますと私としてはかように思うものであります」といった感じで、故事や古人の言などを根拠としつつ書かねばならない。


……とまあ、これら3点セットがどの試験でも基本となる。

見ての通り、どの試験でも「各種儒教・文学・歴史の、深遠かつ巨細な知識」が要求される。
そのため科挙合格を目指すのならまずひたすらに膨大な書物を読み、理解し、覚える事が大前提になる。
また科目が多かった初期科挙では、これら3科目に加え
  • 「法」……法律の試験
  • 「算」……数学(計算)力を試す試験
  • 「書」……書道の試験
等の科目が設けられた事もあった。
現代的な感覚からするとむしろこっちの方が役人として重要なんじゃね?と思われるかもしれないが、前述の通り科挙官僚は半ば管理職専門の高級官僚なので、現場実務力が問われる訳ではない。

また儒教の祖である孔子が「君子不器*1と言った様に、君子とは特定の分野に特化するのではなく、必要に応じて何でもこなせる完璧超人である事が要求される。
つまり軍官になれば軍務と軍人を使いこなす知識を、行政官になれば政務と胥吏を使いこなす知識を、裁判官になれば法知識と法廷の運営を……
といった具合に、「今の自身の仕事に必要なものを、高い職業倫理と高遠な知識を活かして、速やかに身につけられる(つけろ)」とされていたのである。

あえて現代的に言うなら、科挙は「基礎スペックが高い人」を求める試験であり、つまり「基礎スペックが高いなら、何の仕事やったって十分にこなせるでしょ?」という様な若干モヤる感覚に近いかもしれない。


【科挙の流れ】


科挙は基本的に1回の試験ではなく、複数の段階に分かれた多段階試験である。

細部は時代によって変わるが、中期の科挙を例にとると

1.「郷試」(地方試験)

現代日本で言うと都道府県レベルで行われる地方試験。
各地方の首府に設けられた会場で試験が行われ、これに合格した者だけが次の段階に進める。
ちなみに後期科挙では、これに合格した時点で「挙人」という準官僚資格が与えられる様になり、その資格で役人になる者も増えた。

2.「省試/会試」(中央試験)

首都の中央官庁で行われる試験。いわば科挙の「本番」にあたる。
この次の試験では基本不合格が出ないので、ここが事実上の最終試験に当たる。

3.「殿試」(御前試験)

会試を突破した者だけに課される最後の試験。なんと宮殿内にて皇帝の御前で皇帝自身が試験官となり行われる。
とは言え学力は圧倒的に皇帝<<<受験生なので、実際の採点は皇帝側近の先輩官僚達が行うのが基本。
これを終えると前述した科挙受験生のアルティメットフォームこと進士(しんし)の身分が与えられる。
導入当初はきっちりと合否を出す文字通りの最終テストだったが、1057年に様々な理由から落第者を原則出さず順位だけを決める試験となった。


……以上の3段階で構成されており、試験内容はどの段階でも先述の3点セットが課されていた。(殿試のみ、散文か韻文のどちらか1問)

試験の間隔は初期は不定期だったが、中期科挙からは3年に1度が基本になる。


【科挙の会場と日程】


法律により子年、卯年、午年、酉年、つまり3年ごとに行われることが定められている。ただし天子の即位など国内で大きな慶事が行われた時に「恩科」と呼ばれる臨時の試験も存在した。

試験に用いられる施設は貢院(こういん)と呼ばれる。
初期の頃は期間中どこかの官舎を借り切る様な事もあり、それなりに優雅でのどかな試験風景だったとか。
暗記科目以外は資料の持ち込みも許されていたし、受験生同士の接触についてもさして問題視されなかったらしい。

しかし中期以降は受験者数が増えまくった為に、専門の貢院が使われる事が増える。
この貢院、現在では観光地となっているものも多い……が、現代人が見ると「留置場かな?」「刑務所じゃん?」「いやいや公衆トイレっしょ?」「独房」等といった素敵な感想が出てくること請け合いなシロモノがほとんど。
例えば有名な南京の郷試用会場は、受験生1人に与えられる部屋は面積わずか1.1㎡。
数字で言われてもピンと来ない方も多いだろうから身近なものを挙げると、
  • シングルベッドが約1.9㎡
  • 「起きて半畳寝て一畳」なんて言われる畳一畳が約1.8㎡
  • 2015年以降のホームエレベーターの基準面積が1.3㎡
といった具合。閉所恐怖症だと普通に発狂しそうなレベルで狭い。
このような環境では熱中症の心配もあるため、この時代の科挙は受験生に配慮し秋が深まった9月14日頃に行われ、試験最終日には受験生が中秋の名月を眺める光景も恒例行事であった。

日程は基本的に各科目1日ずつ、合計3日間かけて行われるのが普通。だが不正防止のため受験中は外部へ出る事が許されない。
つまり食事や睡眠*2は、3日間全てこの貢院の小部屋内で済ませる事になる。よって布団や着替えは勿論、食料や自炊用具なども持ち込む必要がある。

部屋(?)の中には机・椅子・ベッドの様な気の利いたものは勿論なく、両側の壁の間にぴったりに収まる板が3枚程あるだけ。
これを椅子の高さに1枚、机の高さに1枚張り渡してそれぞれの代わりにするという訳だ。(寝る時は床板代わりにもなる)

現代なら確実に人権侵害で訴えられそうな会場であり、科挙は学力以前に体力や精神力も要求される試験であった。


【不正行為】


google先生に「科挙」と打ち込めば即カンニングとサジェストされるぐらい「科挙=カンニング」なイメージは固い。
実際、科挙の歴史はそのまま不正との戦いの歴史といっても良く、ありとあらゆる手段による不正が試みられてきた。

<会場内での不正行為>

「カンペ類持ち込み」

定番中の定番。教科書で「カンニング肌着」等を見た事がある人も多いかも。
無論それ以外にも
  • 服や私物に紛れ込ませるカンペ
  • 様々な所に隠せる様にしたカンニング専用の豆本
  • 何かに偽装した本そのもの
などなど、バリエーションは多彩である。
会場に入る前には「饅頭を割って中身まで調べる」と言われた程のチェックが入るが、やる側もありとあらゆる手段でこれを潜り抜けた。
具体的な手段も
  • 工夫と根性で隠し抜く
  • 番兵(貢院内の不正監視は兵士が行っていた)を買収する
  • プロの「持ち込み屋」を雇う
などこちらも様々。
番兵は受験生の不正を見つけると多額の報奨金が出たので全力で監視していたが、つまり報奨金以上の額を出せば買収も不可能ではないという事になる。
ただこうした番兵抱き込みの対策として、番兵には科挙官僚と対立関係にある宦官指揮下の兵士が使われる事が多かった。

「他人の答案を見る」

これまた定番。
ただしそれぞれが個室で解答している性質上、壁で阻まれた他人の回答を見るのはかなり難しい。
最大の機会はトイレに立つ時だが、この際にも「トイレに行く前と後に答案を確認される」「行った回数や時間が記録され、疑わしい事があると回答と照合される」などの多重チェックがあり、これをかいくぐるのもかなり難しかった。
ちなみにこれらのチェックは全受験生に平等に適用される為、疑いがかかるのを避けるべく最初からボトラーになってしまう受験生も多かったという。
汚ぇ!!

「替え玉受験」

この手の不正行為としては大規模なものだが、写真がなく戸籍の管理もあいまいな当時ではかなり有効な手段だった。
防止策として、
  • 本人確認の為の身元保証人*3
  • 受験票作成時に身体的特徴を記録する
  • 回答文の最初数文字を書かせる疑似パスワード
  • 筆跡鑑定
などがある。
またそもそも「自分で科挙は目指さないが、科挙に合格できるぐらいの学力があり、かつ犯罪も平気」な人間など当時でも極めて希少。
プロに依頼するには凄まじい金が必要であった。

「答案交換」

替え玉の変化形。模範答案を作るプロ受験者を潜り込ませ、隙を見て回答用紙を入れ替えて貰うというもの。
前述の通り受験生に対する番兵の監視は厳しいが、この場合は交換するだけなのでリスクやコストが少なくて済むのが利点。
ただし人材の確保が難しい点は替え玉と同様。


<会場外での不正行為>

「多重受験」

基本的に科挙は1度の開催につき1回、つまり一か所(一般には本籍地)でしか受験できない。
が、前述した様に当時は厳密な本人確認が難しいので戸籍をごまかす事もできなくはなかった。

「関節」

ここでは身体の節目の事ではなく、科挙の用語で「試験官を買収し不正に合格させてもらう事」を指す。
不正行為としては最強クラスの有効性を持つ必殺技で、会場外不正の代表的存在。
科挙の最初期から見られるが、その分様々な対策がとられており、
  • 回答用紙冒頭の記名部分を糊で封印した上で切り離し、別に保管する「封彌法」
  • その回答用紙を更に書記が別の用紙に書き写し、コピー側を審査官に渡す事で受験者の筆跡をわからなくする「謄録法」
などで、不正合格させようにもその相手を特定できない様にされていた。
……のだが、不正者側も「文章の冒頭に必ず特定の字を使う」とか、「詩の○行目に▽▽という字を入れる」等といった特定法を試験官と示し合わせる事で回避できた。
この為本気でやられてしまうと防ぐ方法はほぼ無かったが、その代わりこの方法はやるまでが大変だった。
試験官の任につくのは科挙官僚の中でも地位も金もある中堅クラス以上の人員が主。
更に実際にはその個人補佐官達も審査に加わるため彼ら全てを抱き込むには莫大な金、また強力なコネが要求された。
また発覚すれば当然厳罰が待っているためリスクも非常に高く、金とコネがあっても引き受けてくれるとは限らなかったのだ。

「問題漏洩」

関節のソフト版で、事前に試験官などから試験の内容を教えてもらうという不正。
入手した内容を元に、儒学者や詩人等に回答の作成を依頼しておくとなおベネ*4
関節ほど強力な手段ではないが、その代わり相応にバレるリスクも低い。
対策としては、
  • 任命直後から審査完了まで試験官を会場にカンヅメにし、外部との接触を一切断つシステム『即日入院』
  • 試験にあたる試験官はギリギリまで発表しない
等があった。


……などなど、多彩な不正行為&不正対策が存在していたが、実はどの不正行為も「これがあれば合格確実」と言える程の効力はなかったりする。

カンペ類の持ち込みはそれ自体では暗記の補助にしか使えない為、経書試験にしか効果がない。
関節は非常に強力だが、試験官はそれぞれの段階で別なので、全ての試験官を抱き込むというのは不可能に近い。
またインチキだけで上がっていくと、皇帝の御前で行われる公開試験で素の学力がバレてしまう
それなりの実力がなければあまりにもリスキーと言わざるを得ない。

初期の科挙では貴族のゴリ押しがまかり通っていた時代もあったが、中期以降の科挙では「全く実力がないままに進士になる」事はほぼ不可能になった。
後期科挙にもなると3代以上続けて進士を出せた家は存在しなくなった。

ちなみにカンニング行為に対する罰則だが、時代や段階によって結構違うものの、基本現代の入試や資格試験とは比較にならない程に厳しかった
一応受験者は「エリート予備群」として扱われる為、本来庶民向けとされる肉刑*5などは少なく、
  • 一定期間(場合によっては残り一生)の科挙受験禁止
  • 身分(場合によっては親族も)はく奪
など、割とソフト?な刑が実は一般的。まあぶっちゃけどちらも士大夫にとって死刑も同然の刑ではあるのだが……
ただしこれらの刑罰は、カンペ類持ち込みや他人との接触等の、いわば「個人的な」カンニングに関するもの。
関節など複数の人数がからむ不正だと一気に罪が重くなり、カンニングした者とカンニング関係者がまとめてごっそり死刑の上に財産没収とかも珍しく無くなってくる。
そして中期以降の科挙の場合、刑罰以前に発覚した時点で周りの受験生から私的リンチを受けてヤバい事になる可能性が割とある
現代中国でも、大学入試等で特に組織的なカンニングをした者は7年以下の実刑判決を受けることがある。


【受験資格】


一般に科挙には「誰でも受験できる平等な制度!」というイメージがある。
これはまあ間違いではないが、この場合の「誰でも」というのはあくまでも昔の常識における「誰でも」で、現代的な意味での「誰でも」ではない。
具体的に言うと試験の資格を持つのは「良民」「男子」に限られている。
女子は当然ダメで、加えて
  • 前科者
  • 芸能人
  • 商人
  • 職人
  • 奴隷
  • 召使い
  • 警察の下働き関係者
などに引っかかる者も受験禁止、またその家族や子孫何代目かまでの者も受験を禁止されていた。
ただしこの禁止規定には時代や地方によって結構差があり、色々と「裏技」による抜け道もあった為、必ずしも守られていたとは言いがたかったりする。

更にこれとは別方向の禁止規定として、良民であっても
  • 服喪中(父母などが死んでから3年以内)の者
  • 僧侶
などの受験も禁止されていた。
服喪中の受験が禁止なのは、儒教では両親への服喪を極めて重視しているので、その期間中はひたすら身を慎んで悲しむ事が要求されていたため。
要するに「服喪中に堂々と表に出て受験に来る様なやつは君子じゃねえ!」ということ。

僧侶に関しては、当時彼らも国家認定を受けた者であったため。
いってみれば彼らも(科挙官僚とは別の分野の)役人だったので、二足の草鞋はダメ!という観点から禁止されていた。

なお年齢は一切問わない為、70歳の老人であろうが10代前半の子供であろうが受験できたし、実際に合格例もあった。
合格時の平均年齢は36歳ほどとされ、70歳を超えたあたりから採点が甘くなり、いわば努力賞として名誉合格した老人も多かったとされるが、この場合役人の定年が70歳であるため役人にはなれない。だがそれでも進士の称号を得られるのは大変魅力的なことであった。

また外国人の受験も別に禁止されてはいなかったが、外国籍の留学生等の場合は基本的に「外国籍者向けコース」の特別な科挙があった。
どちらも受けられるなら人数が少なく競争率が低いこちらを受ける事が多く、普通の科挙に挑戦する事はあまりなかったようだ。


【倍率ってどれぐらい?】



時代や状況などによってだいぶ違う。

隋~唐辺りの初期科挙では受験の為のハードルが高かった事から、合格率も10%とか20%、低くても1%とか2%といったまぁ超難関大学の合格率くらいと言えるだろう。

だが宋代になって制度が完成すると受験者数も激烈なカーブで上がり続け、南宋の最盛期では0.01%とか0.02%等の凄まじいまでの低合格率をたたき出している。

更にこれが明~清の後期科挙になると、プレ試験過程の合格率が1~2%で、本試験の合格率が0.2%という想像を絶する世界に突入。
合計すると合格率はまさかの0.004%10万人が受けて合格できるのが4人だけ、というありえないレベルの超絶狭き門に。

ちなみに参考までに言うと、「日本で一番難しい試験」として有名だった試験制度改革前の司法試験が合格率2%、世界有数の難関として知られるハーバード大学の合格倍率が5%前後といった所。*6


【なんでそこまで科挙に合格したがったの?】


中国文明においては、根本的に「人間なら徳を高めるべきで、徳の高い人間なら周囲の人に徳を及ぼすべきで、周囲に徳を及ぼせる人なら政治に関わって国全体に徳を及ぼすべき」とされている。

このため「政治家は全ての人間が目指すべき最高の職業である」と考えられており、「知性と教養がある人間ならば当然科挙合格を目的とすべきだ」というのはエリート層に共通する認識だった。

……とはいえ、そんなイキり使命感のみで地獄の受験勉強を戦い続けられる人は当然ながら少数派。
莫大な数の人間が数十年に渡る勉強漬けに耐えていたのは、その努力に相応の「見返り」があったからなのだ。

まず一つは、当然というべきか「金」
正規官僚の給料は(時代にもよるが)新人でも兵士の数倍~十数倍の額になったし、更にはそこに家族を含めた税金上の特権が加わる。え?兵士の給料が安すぎるだけだって?
更に地方官や中央高官といった統治権をもつ役職に就けた場合、当然の様にその権力に金が群がってくる。ストレートな意味での「賄賂」は勿論、御機嫌伺いの為の「ご挨拶」ですら莫大な額になった。
また各地方の実権を一手に握る地方官は財政上の独立性も高く、任期中は自分の財布と地方の財布が区別できなくなるのがデフォで、賄賂を一切拒否する様なマジメな地方官ですら「3年務めれば大金持ちになっている」とされるほどだった。

そしてもう一つの理由が、金と同じぐらい重要な「名誉」である。
金持ちと言うなら大商人だって同じだが、儒教、特に朱子学的価値観の下での商人は「生産者と消費者の間に割って入り、不当にマージンを得る者」と軽蔑される存在だった*7別に転売ヤーの事を言ってる訳ではないぞ!本当さ!
富裕な大商人となれば当然高級官僚との付き合いも増えるが、それはつまり彼らにマウントを取られる機会が増えるという事でもあるのだ。
これに対し、科挙官僚は最も名誉ある職業とみなされており、閑職にある最下級の役人(地方の教職とか)ですら、民衆の敬意を受ける事ができた。

またその2つに劣らず重要なのが「コネ」だろう。
科挙に合格するという事はつまり「君子」となった事であり、つまりそのまま君子で構成される上流社会へのパスポートにもなった。
現代ですら「結局社会に出てものを言うのは人脈」とよく言われるが、当時にあっては尚更である。
科挙合格者という時点で「どこの誰にでも通用する万能紹介状」を持っているに等しく、粗略な扱いを受けるという事はまずない。官界だろうが経済界だろうが、人脈を築いたり「口利き」をする際などには果てしなく有利な資格となった。


【科挙の功罪】


<評価点>

「中央集権化に便利」

科挙というのは本来、西晋~南北朝にかけて発展した世襲貴族に対する対抗策として発展したもの。
試験によって選抜された官僚は、
  • 地位を世襲できず、無制限に大きくなる心配がない
  • 試験によってのみ選ばれるため、一族によって要職を独占する事ができない
  • 私有地を統治する訳ではないため、地域と結びつきにくい
  • 利害関係が国家中枢(皇帝)と概ね一致する
などといった特徴を持ち、常に割拠したがる貴族を抑制して皇帝の下に権力を集中するには極めて都合のいい存在だった。

「地方の現状が中央に伝わりやすい」

科挙は中国全土で行われ、しかも各地方ごとに定員が割り振られていた為、合格者は「中央政界における、出身地の代弁者」という側面も持っていた。
科挙官僚は出身地への赴任こそ禁じられていたが、しかし生まれ育った土地とは様々な形で生涯つながりを持ち続けるのが普通だった。
よって彼らには地方の生の声が伝わりやすく、それを中央での政治に活かす事ができた。
これは現代民主国家の代議士にも通じる部分である。

「優秀な人物が要職につける」

生まれつきの身分で職が決まってしまう貴族制に比べ、人材の質が当然高くなる
まあ必ずしも「科挙官僚=有能」とは限らないが、少なくとも「9歳の地方長官」とか「読み書きすらできない宰相」なんて人事が生まれる可能性はなくなる。


「エリート意識が強い(いい意味で)」

科挙合格者は頭脳と知識、努力によってその座をつかみ取った人であり、また儒教は「個人にとって、人間同士にとって、国家にとって正しい方法とは何か」を説いた学問である。
これらの要素が組み合わさった結果、科挙合格者は、強い問題意識と使命感を持ち、自信とプライドによってそれを支えるという、典型的なエリートタイプが多くなった。
そしてこうしたエリート意識の強さがいい方向に作用した時、優れた政治家や将軍が生まれる事になった。

「野心的な人物を国家に吸収できる」

古今東西、優れた能力と、それにふさわしい野心を持っている人物というのはあらゆる社会に常にいる。
そうした人は社会に活力を与えるが、インセンティブに乏しい(例えば身分制が厳格とか)仕組みの国家の場合、その仕組みそのものを敵とする「挑戦者」になってしまう事もよくある。
しかし合法的に国家の最上層を目指せる科挙という制度によって、そうした優れた人材を国家に吸収しつつ、同時に彼らが秩序への挑戦者となる可能性を未然に防ぐ事ができた。

「文民統制に有利」

中期以降の科挙制度では、高級軍人も「背広組」である科挙官僚の統制下に置かれ、強力な文民統制が実現していた。
中央集権体制の弱点の一つに「クーデターに弱い」というものがあるが、その解決手段としても有効だった。

「教育事業、また文化が発展する」

科挙の隆盛は、同時に塾や家庭教師、テキストや受験書の出版・流通・販売といった民間の教育ビジネスを大いに発展させた。
また膨大な数の科挙受験者は、そのまま「教養のある消費者」でもあり、彼らを支持層とした文芸の発展も促す事になる。
あと、科挙をやる過程で価値観が統一されるので、教材や創作物が売りやすくなる。

「平等な政治的権利がある」

もちろん現代の民主主義社会に比べれば不完全だが、時代を考えれば「貧乏農家の息子であっても、合法的に一国の宰相にもなれる」というのは驚異的に平等なシステムと言え、中国の歴代王朝が広大な領土を長く治める事ができた要因の一つともされる。

「年功序列による弊害が抑えられる」

儒教は本来「長幼の序」、つまり「年長者を敬わねばならない」という鉄則があり、それを素直に解釈すると極端な年功序列が生まれ、業務上様々な問題を引き起こす事がある。くそっまた儒教か!?
しかし科挙とは完全に学力だけで優劣を決める制度で、合格年齢も完全にバラバラだった為、それを勝ち抜いてきた科挙官僚達は必然的に実力主義的なルールで動く事になった。
この為「個人としては年長者に敬意を欠かすべきではないが、しかし職務上ではまた別」というスタンスが科挙官僚の基本となり、年功序列がもたらす弊害を抑えていた。

「試験が公正かつ正確」

筆記試験であり、点数という公正明白な試験に身分、人格、容姿に関係なく人物を試験することができる。もちろんこの利点は現代の教育にも生きている先進的な考えである。
欧州でも、中国で布教活動をした宣教師によって科挙が伝わり、科挙をモデルとした筆記試験が行われた。

<失敗点>

「勉強がデキる人=官僚に向いた人」ではない

現代でもよく言われる事だが、「勉強がデキる人=頭がいい人」とは限らないし、「頭がいい人=仕事がデキる人」という訳でもなく、「仕事がデキる人=官僚に向いた人」と言い切るのも無理がある。
だが科挙で選ばれるのは基本「勉強がデキる人」に過ぎないため、必ずしも官僚に向いた人材が登用される訳ではなかった。

「エリート意識が強い(悪い意味で)」

エリート意識とは決して良い方向にばかり働く訳ではない。
悪い方に転じれば「強い自己確信性」「特権意識の強さ」「過剰なプライド」「協調性のなさ」「逆境に弱い」等といった欠点も当然現れてくる。
よって
  • 汚職を働いても当然と思っている
  • 胥吏を低学歴と馬鹿にして軽んじ、ますます実務に疎くなる
  • プライドが高すぎて建設的な議論ができず、全否定の応酬になる
といったダメ官僚も多数生んできた。

「文民統制の弊害」

文民統制は国家の安定にとって有効だが、行き過ぎると軍事力の弱体化にもつながってしまう。
古くから「入りては相、出でては将(宮廷にいる時は行政官、宮廷を出たら将軍)」と言われる通り、士たる者は文武の能力を兼ね備えていて当然とされていた。
しかし実際にそうそう上手くいく訳もなく、科挙官僚が指揮する正規軍は、叩き上げに指揮されるそれに比べてどうにも劣る事が少なくなかった。
このため異民族や反乱軍との戦闘が激化すると、結局士気の高い義勇兵や地元有力者の私兵等に頼る羽目になり、彼らが軍閥化して国家の安定を脅かす事も少なくなかった。

「人材の吸収にも限度がある」

特に後期の科挙に顕著だが、野心のある人間を吸収できるといっても、無制限に官僚を増やせる訳ではない以上、そこには物理的限界が出てくる。
倍率が上がっていくにつれて当然この傾向は強くなり、後期科挙になるともはや合格は運ゲーだった為、野心的な人間をあらかじめ飼い殺しにするという目的はもはや果たせなくなっていった。

「実務力に欠けがち」

先述の通り科挙官僚は管理&重大な決裁を専門とした職で、大型の裁判などを除けば細かな実務はほぼ胥吏の担当だった。
つまり現場実務を経験しないまま管理職に直行という事になるが、自分でやった事のない仕事を管理するのは難しいし、ましてや胥吏は長年経験を積んできた専門家である。
このため地方統治においては「官僚が胥吏を制御できてない」「官僚が胥吏と結託して、あるいは抱き込まれて汚職をやっている」等の事態が多発する事になった。

「試験のための学問になっている」

科挙の目的は本来「儒教を学んだ人材を、高い地位につける」為の物だったが、制度の発展と共に逆転し「高い地位につく為に、儒教を学ぶ」様に変わっていく。
孔子が「先行其言而後従之*8と戒めた様に儒教は本来実践(徳行)をこそ重んじる学問なのだが、熾烈な受験競争の中では「実践なんかより勉強!暗記!」とならざるを得なかった。
当然真面目な官僚や儒学者からは「あの連中って受験対策やってるだけで、儒教を学んでいる訳じゃないよね」と非難されたがその流れは止まらず、ついには「勉強だけが尊い行為で、それ以外は卑しい俗事」とか本末転倒な事まで言われる程になってしまった。

「自然科学の発展を妨げた?」

所謂「世界三大発明」が全部中国生まれである事からもわかる様に、中国における科学技術の発展は13~14世紀頃までヨーロッパやイスラム世界を上回っており、世界最先端の国家であった。だが、明代に入ると急速に停滞し、以後は完全に後塵を拝する様になってしまう。
この理由に関しては様々な説が唱えられているが、その一つに「科挙に関する学問が実利に直結する様になった為、他の学問が軽んじられる様になったから」という説がある。
実際、古い時代ではどちらかというと「士大夫なら儒教以外のジャンルにも精通していて当然」と考えられていたし、数学者や科学者などを兼ねた科挙官僚も少なくなかったが、後期科挙が完成した明以降はそうした傾向が無くなり、むしろ科挙に関連しない学問全てを馬鹿にする風潮が強まっていった。
また優秀な人が科挙に吸収された結果近代的な武器や優れた戦術を開発・考案できなかったために、アヘン戦争に敗戦する遠因にもなったという説もある。

「実際は貧乏人の合格は難しい」

「親が貧乏→子供の教育に金がかけられない→子供もいい仕事に就けなくて貧乏に→その子供の教育に(ry」という「貧困の連鎖」は現代でも社会問題になっているが、同様の問題が科挙にもあった。
科挙に合格するには
  • 膨大な量の書物
  • 優れた教師の指導
  • 長年勉強に集中できる環境
など様々なものが必要で、必然的にかなりの金を要した。
また受験自体は無料だったが、各種手数料や試験会場までの旅費・滞在費(この時点で明後半の場合現在日本円換算で大体600万円かかったらしい)、合格時の関係者各位へのご祝儀などは自己負担だったため、この辺りにも相当な金がかかった。
とまあそんな訳で、「誰でも」受けられる制度である事が謳われてはいても、実際の合格者はある程度の上流家庭に偏りがちだった。
とはいえ、科挙合格(予定)者は投資対象としては最優良物件で、合格が望める程デキる子だったら一族や知人等からこぞって出資を受けられるのが普通だったので、貧乏な家庭から苦学して合格した人も結構いる。

「そもそも試験で人材の質を判断するってどうなの?」

それを言っちゃあ……って感じではあるが、「テストではなく、実際の勤務態度や実績を元に人材を判定すべきでは?」とは現代の学歴社会でもよく議論される所。
実はこの問題は古くから認識されており、科挙官僚の中には「学校制度を充実させて、そこで勉強させながら時間をかけて資質を判定し、優れた者を官僚とすべきだ」と主張した人も多く、実際に何度か政策にも反映されたが、結局定着はしなかった。


【科挙のおおざっぱな歴史】


<創設以前>

中国語では平民を「庶」と呼び貴族を「士」と呼ぶが、士とは同時に「(身分は低くても)優れた人」の事も指す言葉だった。
つまり「例え王侯貴族でも、才ある人間に対しては敬意を示さねばならない」というのが、中国文明に古くから存在する「きまり」だったのである。
例えば『三国志』に登場する劉備が、職歴も官位もない在野の若者諸葛亮を三度も訪問して敬意を示した例は有名だが、他にも
  • 春秋時代桓公
  • 戦国時代の信陵君
  • 果ては儒教の祖である孔子
など、似た様な話がたくさんある。
この為中国では古くから「在野の有能な人材を登用して、官職についてもらう」という慣習があり、漢代になるとこれが整備されて「選挙」と呼ばれる人材登用システムとして完成する。

しかし当時の選挙は有力者による推薦制だった為、間もなく「位は低いが優秀な人物を世に出す」よりも「有力者の子弟がコネを使って出世する」為の手段となってしまう。
その結果、選挙による人材の質があまりにも低くなりすぎ、ついには推薦された人に対してテストを行い、本当に能力があるのか確かめるという回りくどい事が行われる様になった。

このテストつき選挙は徐々に整備されていき、南北朝時代になると推薦なしのテストのみで人材を採用するというものまで出てくる様になる。

これを「科(テストの「科」目)」による「選という意味で「科挙」と呼んだのが、実質的な科挙の始まりである。


<初期科挙>

西晋以来300年ぶりに中国を統一したの文帝は、貴族制を支えてきた選挙専門の官僚「中正官」を廃止する。
一方で「テストつき選挙」の方は継承したため、これをして教科書などでは「隋代に科挙が始まった」とする事が多い。

この時代、つまり隋~唐にかけての初期の科挙は貴族制と同居していたという点が最大の特徴で、
  • 科挙は就職ルートの一つに過ぎず、親の地位で任官される資蔭(しいん)、個人的なコネで任官される辟召(へきしょう)など、より強力なルートが幾つも併存していた
  • 受験には地方長官(ほぼ貴族)の推薦が必須で、コネがない平民の受験はほぼ不可能
  • 試験の成績だけではなく、名声や評判などでも判定される(=コネがある貴族有利)
  • 試験以外に、売り込みや推薦などの事前工作運動が認められていた(=金とコネが〃)
  • あくまで科挙は資格試験であり、合格後に具体的な任官を決める吏部試(りぶし)が課された(=吏部、つまり人事部を握る貴族達の意向に左右された)
などと言った感じにまだまだ発展途上で、総じて言えば「出世の目がない下級貴族の子弟が、低くてもいいから官職を得ようと使う制度」という感じだった。

但し実際問題として、能力的には当然「単に世襲しただけの大貴族<選抜された科挙官僚」だったので、隋~唐の間に科挙官僚の地位は徐々に上昇していく。
更に唐中期に至ってかの則天武后(武側天)が台頭すると、貴族層と対立関係にあった彼女が対抗として多数の科挙官僚を引き立てた事で更なる地位を確保した。

トドメに唐末の動乱で門閥階級が一気に滅んだ事により、これ以降は「高級官僚=科挙官僚」という図式が完全に確定した。

ちなみに先にもちょっと触れたが、この時代の科挙は科目が多彩で、
  • 経書試験を課される「明経科」
  • 韻文の「進士科」
  • 数学試験の「明算科」
  • 法律試験の「明法科」
など、好きなコースで受験できた。
ちなみに一番格が上とされたのは散文試験の「秀才科」だが、これはあまりにも合格基準が厳しすぎて合格者(というか受験者)0の状態が続き、途中で廃止となってしまった。

+ 初期科挙関連の有名人
「文帝(隋)」
隋の皇帝。科挙の創設者として知られる。
元は魏晋南北朝時代の北周の将軍で、国家掌握→禅譲強要→前皇帝一族皆殺しという必殺五胡十六国コンボにより隋の開祖となったが、それ故に貴族制の恐ろしさ、厄介さが身に染みていたらしい。
中国史において科挙が果たした役割の大きさを考えれば、その後の中国史を決定づけた人間の一人であると言っても大げさではないかも。

「房玄齢」
隋・唐の人。578年生まれで、595年に進士科及第。
隋代で進士科に合格し、それを簒奪した唐において本格的に活躍した怖い奥さん持ちの科挙出身者。
二代太宗の右腕として知られた人物で、彼が起こしたクーデター(玄武門の変)においても参謀として活躍している。
政治家としても優れた能力を持ち、権力奪取後は尚書左僕射(宰相的な地位)となって後世「中国史上最良の時代」と讃えられた「貞観の治」の立役者となった。
しかし「秦王府十八学士・筆頭」というキングダムにでも出てきそうな肩書を持っていた割に、彼の手がけた史書はかの「晋書」を筆頭に評価がアレなものが多い。
漢字文化圏全域で「帝王学の必須テクスト」として知られた『貞観政要』に登場するため、かつては日本での知名度も非常に高かったが、現代日本では間違いなく彼の子孫の方が有名だろう。

「武則天(則天武后)」
唐の三代高宗の皇后にして、武周の初代皇帝。
貧乏貴族の出だが、その類まれな美貌と頭脳をフル活用し、ハーレムのモブキャラから女帝にまで成り上がった中国史随一の女傑
その特異なキャラクターから現代に至っても毀誉褒貶が入り乱れる女性だが、科挙制度について語る際には決して外せない人物である。
というのも、彼女はその権力奪取の過程から貴族層主流派と思いっきり対立しており、それ以外の層から出てきた科挙官僚を政治の中枢へと引き上げてこれに対抗したからである。
よって彼女の治世では下記の狄仁傑の他、宋璟張説など優れた科挙出身者が国家の中枢で活躍する様になり、以後の時代における科挙の隆盛の基盤となった。

「狄仁傑」
唐の人。630年生まれで、658年に明経科及第。
武則天に重用された科挙出身者の筆頭的存在で、文と武、剛と柔、儒と法を兼ね備えてあとついでに若干自信過剰でかつ空気が読めなかった、科挙官僚の理想とでも言うべき人物。
駆け出しの頃は地方の軍事官僚として務めていたが、その有能さを評価されて中央へ召喚された……までよかったが、大貴族に正論で楯突いた事で再び地方に飛ばされる。
しかし後に彼の才能を評価していた武則天が帝位を奪うと再び中央に呼び戻され、一気に同平章事(臨時宰相)にまで引き上げられたというローエングラム朝にいそうな経歴の持ち主。
その後政治家、また将軍として国の安定に大いに貢献したが、同時にKYな正論の為に陥れられたり煙たがられたりもした。
しかし武則天からの信頼は常に篤く、謀反の疑いで収監された際も彼女の命令で助命されているほどで、後には「国老(国家の父)」とまで呼ばれて敬愛された。
現代ではオランダ人の小説家ヒューリックによる、ミステリ小説『ディー判事シリーズ』の主人公としても割と有名。


<中期科挙>

そんな訳で、宋代以降の中期科挙からは科挙官僚が完全に国家の枢要を占める様になった。
他の手段で官僚になる道も閉ざされた訳ではなかったが、「国家の重職につけるのは進士のみ」というルールがこの時期に確立される。

それまでは割と区別があいまいだった胥吏と官僚もはっきりと別物として分けられる様になり、胥吏が経験や功績によって官僚に自動クラスチェンジする、という事もなくなる。

必然的に金やコネがモノを言っていた試験内容も大きく改められ、番外戦術の一切が禁止、純粋に実力のみを問う試験となった。
また貴族ではなく、皇帝のみに直属する官僚である事を強調するため、それまでは「科挙自体は礼部(文科・教育部)が行い、採用試験や配属自体は吏部が行う」というシステムだったものも、一括して礼部が担当する様に改められた。

そして科挙官僚が完全な高級官僚となった事で、試験項目もそれまでの様なスペシャリストではなくゼネラリストを求める方向に変わっていき、最終的には「君子」としての総合的な教養を試すテスト、つまり前述の3科目へと項目が絞られた。

まあまとめると、一般に言う「科挙」のイメージはおおむねこの時期に完成した感じである

完成された制度から優れた科挙官僚が多数輩出されたのがこの時代だが、同時に前述した様な科挙の弊害も顕れ始めた。特に
  • 試験内容がますます先鋭化し、「ふるい落とすための試験」になってきた
  • 競争の激化で、合格者が「君子」というより「勉強が上手な人」になってきた
  • 胥吏と高級官僚が切り離された事で、現場実務能力の低下が目立ってきた
  • 科挙官僚の地位が上がった事で、主導権を争う派閥争いが激化してきた
などといった問題は深刻で、北宋中期にはこれを憂えた王安石らによって多岐にわたる改革が進められた。

しかしそうした改革も派閥争いによって上手く進まず、一部の要素を除いて定着する事はできなかった。

+ 中期科挙関連の有名人
「范仲淹」
北宋の人。989年生まれで、1015年に進士及第。
実家(母の再婚先)は裕福だったが、連れ子である彼は他の兄弟と折り合いが悪く、結局は親元を離れて無料の学校である応天府書院で苦学し、進士となった。
徐々に北宋の社会不安が表に出始めた4代仁宗の下で活躍し、率直で潔癖な人柄を度々彼から疎まれながらも、地方統治や辺境防衛で大いに功績を上げた。
名文家でもあり、彼が残した「士先二天下之憂一而憂、後二天下之楽一而楽」(士たるものは、誰よりも先に社会の問題を見つけて対策し、しかしその結果として利益を得るのは誰よりも後でなければならない)という言葉は科挙官僚の使命を顕すスローガンとなった。実行できてる人がどれだけいたかは別として。

「包拯」
北宋の人。999年生まれで、1027年に進士及第。
科挙に合格したにも関わらず、老いた両親の世話を優先して官職につかなかったという引きこもり気質親孝行な経歴の持ち主。後に仕官して以後は順調に出世コースを進み、最終的には枢密院副使(国防省次官)にまで出世した。
極めて厳格かつ道徳に厳正な人物であり、一切の賄賂を拒否して清貧を貫き、相手が高官や宦官であろうと一切法を曲げなかったため、庶民から非常に人気が高かった。
……とまあここまでは割と一般的な科挙官僚なのだが、その真価は死後に発揮される。一言で言えば、日本の「大岡越前」とか「遠山の金さん」の様なポジションになったのである。
中国では関羽岳飛にもならぶ庶民のヒーロー「包公」として様々な小説や演劇に登場しており、史上最も有名な科挙官僚と言ってもいいほど。

「王安石」
北宋の人。1021年生まれで、1042年に進士及第。
世界史の教科書にも確実に登場する科挙官僚きっての有名人で、国力の折り返し地点を過ぎた6代神宗の下で「王安石の改革」と呼ばれる大規模な政治改革を行った。
しかし彼の改革は法律・政治・経済・軍事などあらゆる分野に及び、ほとんど国家を根本から改造する様なレベルであったため、様々な方面から反発を受けて最終的には半端な形で終わる事となった。
その業績の詳細についてはここで語ると長くなりすぎるため、詳しくはWikipediaなりなんなりをご参照いただきたい。

「司馬光」
北宋の人。1019年生まれで、1038年に進士及第。
王安石と同時代の人で、彼を代表とする改革推進派「新法派」に対し、それの対抗勢力である「旧法派」のボスとなった。
科挙官僚のテンプレ通りに優れた歴史学者であり、その著書『資治通鑑』は長らく中国史の最高傑作として尊重されたが、同時に「学者としては優秀だが、政治家としてはアレ」というダメな方のテンプレでもあった。
新法派の失脚の後に権力を握るが、15年間に渡って少しづつ進められて来た新法を全否定し一斉に旧法に戻した事で、現場に凄まじい混乱をもたらした。
またその感情的な処置は新法派の反動的な抵抗を招き、以後の北宋では「新法・旧法の争い」と呼ばれる両者の派閥抗争がエスカレートしていき、国力を更に衰微させる結果となった。

「秦檜」
南宋の人。1091年生まれで、1115年に進士及第。
創設間もない南宋において、金との和平策を主張し、北宋領の奪還を主張する岳飛ら軍閥層と対立。
最終的に岳飛らを処刑、軍閥層を弾圧して弱体化させると共に金との和平を推進し、金に対する臣下の礼やみかじめ料の支払いを盛り込んだ和約を成立させた。
「救国の英雄」岳飛を殺して中原奪回の機会を逸し、異民族に頭を下げ屈辱的な条件によって平和を買い、自分の保身の為に忠臣を弾圧した奸臣として、死後から現代にいたるまでボロクソにののしられている。
だが見方を変えれば、強力な軍閥を解体して内乱や簒奪を未然に防止し、経済力で勝る南宋の力を活かして名より実を取り、不安定な亡命政権を安定させて南宋150年の歴史の礎を築いた名臣、との言い方もできなくはない。

「文天祥」
南宋の人。1236年生まれで、1256年に進士及第。
珍しく有名な状元(トップ成績)合格者。
モンゴル帝国の圧力で滅亡寸前の南宋に仕えるが、絶望的な戦力差を無視した主戦論を唱え続けたため、各所でウザがられ免官された。
その後復職するが、モンゴルとの和平交渉の席で華夷思想丸出しの差別的発言をして相手側を激怒させ和平はお流れ、自身も捕虜となってしまった。
とまあ政治家としての能力は正直アレだが、その不屈の忠誠心と愛国心は各地で抵抗運動を続ける宋の遺臣達の精神的支柱となった。
これに手を焼いたモンゴルは獄中の文天祥に転向を迫ったが、「生き死になど問題ではない、忠を尽くす事こそが重要なのだ」という内容の『正気歌』を詠んでこれを拒否、最終的には処刑された。
中国でもその忠誠心を評価されて人気が高かったが、後に幕末の日本でも尊王攘夷運動が活発化する中で大いに人気が集まり、藤田東湖吉田松陰などがカバー曲を作っている。


<後期科挙>

宋の後の王朝である元(モンゴル帝国)は割とストレートな貴族制国家でありあまり科挙に熱心ではなかった(但し元後期には科挙が一部復活し、後期科挙の原型となった)が、「漢民族国家復活ッッッ!漢民族国家復活ッッッ!」を謳ったでは科挙が大々的に復活する。

明もできたての頃はカンニング騒ぎや定員割れ、大規模な不正など問題が続出し、一次停止されたり推薦制に移行してみたりと混乱が続いた。
だが草創期に多数の問題を起こした事で、逆にそれを防止するためのシステムがうまく構築され、最終的には宋代のそれをしのぐほどの安定した科挙体制を作り上げる事ができた。

ただこうして完成度が高まった一方で、中期に見られた弊害もますます悪化しつつあった
受験人口の増大によって、それまで以上にふるい落とす事が重要視される様になり、試験の内容も形式化が進んでケアレスミスによる減点をとにかく狙う傾向が強くなる。

こうした傾向を問題視する声はかなり上がっており、実際にいくらか改革も試みられた。
特に国立学校制度の改革には力が入れられ、「学校で優秀な成績を認められれば、科挙官僚よりも出世が有利」「在学していなければ、科挙を受けられない」など、一時は科挙よりも上位におかれるほどだった。

だがそれも最初だけで、結局の所は宋の様な科挙絶対制に回帰してしまう
国立学校の学生しか受験ができないというきまり自体は残されたが、学校の授業は完全に形骸化し、単に「科挙の3段階試験の前に、国立学校の入試が3段階追加されただけ」とみなされる様になった。
つまり明朝では、科挙は入学試験3つ+本試験3つという極端な多重試験体制になり、「ミスを犯した受験者を各段階でひたすら振り落とし、数を減らす」という方向に進化?していく事になった。

こうした傾向は明の科挙制度をほぼそのまま温存したにもバッチリ引き継がれ、更にエスカレートして国立学校での定期テスト、また「覆試」という再テストがあちこちに挟まれる様になった。
これらはぶっちゃけ人数を減らす以外のなんの目的も持っておらず、「テストのためのテストじゃねーか!」と非難を受けたが、実際そうでもしないと人数を絞り切れなかったのである。

しかしここまで倍率が上がってくると、合格者も本来望まれているはずの「儒教の天才」とか「政治の天才」とかよりも、テストでの得点力に特化した様な「受験の天才」に偏りがちになってしまう。

また試験自体の硬直化に加えて、人事面でも「合格時の成績による序列」がより重んじられる様になって、トップ合格者層とそれ以外がほぼ切り離されてしまうなど、やっぱり明らかな硬直化がみられた。

なので科挙の厳格化・高度化が進む一方、そこから上がってくる人材の質はむしろ低下の傾向もみられた。
特に高級官僚として重要な資質である倫理観の低下はひどいもので、科挙においても大臣クラスが絡んだ大規模不正が摘発されたりといった深刻な不祥事も発生している。

加えて明・清朝ともに中期以降は財政難が深刻だったため、捐納(えんのう)」(※)で地位を金で買った官僚も混ざりまくり、全体の質の低下に拍車がかかった。
更に官僚への実質的な罰金制度*9である捐復(えんぷく)などが整備された事で拝金主義も蔓延し、いよいよもって退廃が進んだ。


+ 後期科挙関連の有名人
「劉基」
元・明の人。1311年生まれで、1333年に進士及第。
明を建国した朱元璋「我が張良」と呼ばれた希代の名軍師で、字の伯温の名で知られている。
元末の科挙に合格して官職についたが、上司と衝突して故郷に戻っていた所を朱元璋に招聘された。
朱元璋の軍師として外交から軍政、戦略戦術まで幅広い指導を行い、また時には自身で部隊も指揮して、ついに彼を皇帝の座まで登らせた。
その絶大な功績にも関わらず、謙虚で公正無私な人物であり、明の建国後は数年間王朝の基礎固めに奔走したのち、宰相職を何度も打診されながらこれを断り隠棲した。
死後も明建国のヒーローとして人気を集め、当時から現代にいたるまで小説や演劇の主人公として親しまれている。
かの三国志演義が成立したのは明の時代だが、その主要人物である諸葛孔明のキャラ造形は明らかにこの劉基を元ネタにしていると言われており、いわば孔明の「中の人」でもあったりする。

「王守仁」
明の人。1472年生まれで、1499年に進士及第。
儒教の異端ともいえる「陽明学」の創始者で、一般には王陽明として知られる。
父も科挙合格者(しかも状元)というエリートofエリートな生まれだったが、彼自身は父ほど科挙向けのタイプではなく、合格は少し遅れた上に成績も低かったので地方官からの出発となった。
その代わり、「国防問題に対処するには軍事学も必要」と武術や兵法も極めており、兵隊を集めての勉強会が趣味だった。
現場においては大いに功績をあげ、特に軍事面では科挙官僚にも拘らず明時代を通しても最強クラスの実力を有した「哲人将軍」
1519年に勃発した10万の兵を擁した大規模反乱(寧王の乱)で少数の手勢と寄せ集めの寡兵をもって驚異的な機動戦を展開し、わずか3か月で鎮圧するなど特筆すべき戦果を挙げている。
民政面でも優秀で、反乱鎮圧後の復興や失業対策等も見事に処理している。
剛直だが誠実な人物であり、当時の朱子学が「机上の儒学」となっている事を憂いて、実践を重んじた陽明学を唱えた。
中国では邪学扱いされたが、比較的自由に学問が出来た日本では「知と行動は不可分である」「真摯に実生活を生きる事で人間が生来秘めている善性を発展させよう」という教えは大名から庶民まで受け入れられ、人気のある学者だった。

「張居正」
明の人。1525年生まれで、1547年に進士及第。
13代隆慶帝時代の末期に権謀術数を尽くして派閥抗争を制すると、自身が守役となっている14代万暦帝を即位させ、主席大学士(宰相)として実権を掌握する。
その強引な手法と露骨な権力者指向は各方面から反感を買ったが、政治家・財政家としては卓越した手腕を発揮し、多方面にわたる政治改革によって内憂外患に苦しむ明朝を見事に立て直した。
但しあまりに出来過ぎた人物であったためか、その元で育った皇帝は見事にニート化した。

「袁崇煥」
明の人。1584年生まれで、1619年に進士及第。
明代末期、17代崇禎帝の時代に国防の要となった名将。「この時代の諸葛孔明」と言われたと言えば、どんだけ高評価された人物か分かるだろう。
同じく明末期の名将孫承宗の下で経験を積み、明の北から絶えず攻撃をかけてくる後金(後の清)との戦いで活躍した。
大砲の運用や要塞防御といった大規模な戦術を得意とし、寧遠城の戦いでは清の太祖ヌルハチに生涯唯一の敗戦を味わわせた。
だが彼に手を焼いた後金が朝廷へ離間の計をしかけたため、あっさり引っかかった崇禎帝によって謀反人として処刑されるという悲劇的最期を迎えてしまう。

「畢ゲン」(ゲンは機種依存文字で、本来の表記は沅)
やっぱりホモじゃないか(憤怒)

「林則徐」
清代の人。1785年生まれで、1811年に及第。
アヘン戦争の関係者として、世界史の教科書にも必ず登場する有名人。
この時代では珍しい潔癖・有能な官僚で、地方官時代にアヘンの流行を問題視して根絶に取り組み、それが評価されてアヘン密輸入を取り締まる大臣とされた。
着任後はそれまでの総督と違って商人からの賄賂を一切拒絶し、外国商人の密輸アヘンの強制処分を断行。更には外国商人に対して禁輸法の遵守、及びその誓約書の提出を命じた。
しかし鬼畜ブリカスイギリス商人だけはこの命令に従わず、マカオへ籠城して軍事力によって措置を覆そうとする。
こうして始まったアヘン戦争では、初戦の海戦で完敗を喫したものの、衰えぬ戦意で香港の戦力を増強して本格的な戦いに備えた。
だがこれを見たイギリスが優勢な海軍力を活かして首都近郊の港湾を直接制圧する手段に出たため、ビビった政府によって解任されてしまった。

「傅善祥」
清代の人。1833年生まれで、1853年に及第。
科挙の歴史において初めての女性の状元。ここまで真面目に記事を読んできた方なら「え?科挙って受けられるの男だけじゃなかった?」と思ったかもしれないが、ごあんしんください。彼女は正規政府ではなく、反乱勢力「太平天国」によって行われた「新時代の科挙」の合格者なのだ。
太平天国はキリスト教をはじめとした西欧の文化・制度に強い影響を受けた集団であり、その一環として女性にも科挙の道を開いたのである。
彼女自身は学者の家系に生まれ。高度な教育を受けたインテリであり、状元にふさわしい学識の持ち主ではあったが、同時にものすごい美人でもあったので、太平天国の裏ボスこと楊秀清が愛人として傍におくためにトップ合格させたのでは?と不名誉なうわさが立ったという。

「李鴻章」
清代の人。1823年生まれで、1840年に及第。
父を含めた親戚・縁戚に科挙合格者がずらりと並ぶエリート&お金持ちな家庭の出身。
清後期の大反乱「太平天国の乱」において師匠・曽国藩の下で民兵軍を率いて活躍し、官僚としての出世ルートに乗る。
その後は曽国藩の地位を引き継ぐ形で清の中枢を担う高官となり、西太后の信任を得て外交、軍事、政治と様々な分野で辣腕を振るった。
郷紳の出で科挙合格者という「中国的システム」の粋とも呼べる人物だが、同時にそのシステムの時代遅れっぷりも理解しており、西洋の制度や技術の取り込みを図る「洋務運動」を強力に推進した。
日本では『蒼穹の昴』に登場する超カッコイイ李鴻章が有名だが、実は現代中国では「反革命派の売国奴」という評価が長く定着していた(最近は現実的な政治家として再評価も進んでいる)。


<終焉>

とまあそんな感じで長きに渡り受け継がれてきた科挙も、清末にもなると明らかに寿命が近づきつつあった。

そして西欧諸国との力の差が痛感される様になると、その文化や技術を導入しようとする「洋務運動」が活発化。
この時期に「科挙の内容を根本的に変え、西学(西欧の科学や工学)を導入しよう」という一大変革も試みられたが、周辺からの大反対で結局頓挫してしまう。
隋から数えて1300年の時間の中で科挙は中国王朝の統治システムと深く一体化していて、大規模な方向転換や廃止はあまりに難しかったのである。

結局科挙は清の末期も末期、立憲君主制に移行した1905年まで続く事になる。
前年に最後の科挙が行われ、同年9月2日に廃止が決議された。
そして科挙の代わりとして諸外国のそれを模した学校制度が導入されたが、最早そこから上がってくる人材を待つほどの体力は清にはなかった。

それどころか、科挙が廃止された事で、
  • 科挙を目指して勉強していた各地方の受験生、つまりエリート達が将来を失い、職を求めて各地の軍閥へ合流
  • 地方の実情が中央に伝わりにくくなって、地方の窮乏&過疎化が進行
  • 科挙合格という中央からの「飴」が無くなった事で、地方が中央のコントロールを受け付けにくくなる
などといった弊害が続々と現れ、むしろ清の寿命を更に縮める事にすらなった。


【文化としての科挙】


1300年にも渡って中国人の生活に大きく関わり続けた科挙は、中国の社会や文化に大きな影響を残している。

宋代以降の中国で、ある程度の教養がある人なら一度は科挙合格を目指すか、何らかの形でその業界に関わるのが普通だったので、「科挙合格を目指したがダメだった人」「地方試験まで合格したけど、中央試験に合格できなかった人」そこら中にゴロゴロしていた。

具体的には

「家庭教師・私塾経営者」
受験者人口が数十万人~数百万にも及ぶという事は、つまりそれに見合う数の教師が常に必要とされているという事で、教師の需要は常に大きかった。

「受験参考書ライター」
同様に科挙のための参考書もまた広く流通していて、これの編纂にあたるのもまた彼らである事が多かった。

「作家」
徹底した文章試験である科挙を目指していた彼らは、当然それなりの文章力を持っていた。
これを活かして小説や脚本を書く作家になる人も多く、中国における文芸史は彼らの存在抜きには語れないほど。

「医者」
意外な事に、医者というのもまたメジャーな進路の一つだった。
教養があって古書に通じているという事は、つまり医学書や薬学書なども読めるという事であり、識字率が決して高くない時代にあってはそれだけでアドバンテージとなった。

「学者」
この場合の学者とは基本的には儒学者or史学者の事だが、数学者や天文学者、暦学者や科学者などといった特殊なルートに進むものもいた。
また在野の儒学者になると、その学識がすっっごい有名になった場合国から逆指名で招聘される事もあったので、そういう意味では人生の一発逆転を賭けたルートでもあった。

胥吏(しょり)
下級役人である胥吏だが、性質上読み書きの能力は必須であったため、勉強で得たその技能を活かして胥吏へと転向する者も多くいた。

「官僚や軍人の私設スタッフ」
幕職、幕僚、幕友などと呼ばれる職で、地方官や軍官僚の下について、実務の補佐や下部組織との折衝にあたる「私設秘書」のお仕事もまたメジャー。
収入は時代や赴任先、また雇い主との関係などによって様々だが、運が良ければかなりの収入と名声が得られる事もあり、コネがあればこれを望む人も結構いたらしい。

「マフィア」
更にあまり大きな声では言えないが、中国における裏社会……つまり「社」「会」「幇」の様なヤクz……特殊な団体もまた有力な就職先だった。
民衆に対して公権力とはまた別の次元で大きな影響力を持っていた彼らだが、公権力とも裏で接する関係上、その身内に官僚に近いキャラを持つ者がいると色々と便利なのである。

「地方の名士」
科挙においてそれなりの所まで進めたという事自体、地方社会においては一種のステータスだった。
それだけ学識のある人物という事で市民からも尊敬を受けられたし、地元有力者にとっても後進の教育や地方官との折衝を担ってくれる貴重な人材とみなされていたのである。
また科挙官僚である地方官にとっても輿論(よろん)、つまり地方での評判は自身の考課に思いっきり関わってくるため、それを主導できる彼らは決して無視できない存在だった。
それに官僚予備軍だった彼らは、庶民に比べればまだ「支配者側の論理」に理解があるため、団体交渉役の相手としてはむしろ望ましい存在でもあった。
結果、彼らは各地方において郷紳(きょうしん)と呼ばれる階層を形成し、官と民の中間に位置する折衝役として独自の地位を占める様になっていった。


……などなど、要するに社会のどこにでも元関係者がいたといって良い程である。

そう、科挙とは中国人にとって単なる人材登用システムではなく、立身出世の手段で、地域と中央・上と下をつなげるネットワークで、出版・受験ビジネスの中核で、学術教養の中心で、文学のフロントラインで……つまりは一つの「文化」そのものだった。
受験に縁のない様な階層の人々であっても、地元のまとめ役である郷紳やマフィア、役所手続きや裁判などを通じて、その存在は常に意識されるものだったのである。
一番身近な例としては、麻雀の役の名前とかをみると、今にまで残るその影響力がわかりやすいかも。

あえてこの存在の大きさを現代的に例えるなら、ニュースサイトのメニューに「政治」「経済」「エンタメ」「科挙」「スポーツ」の順で並ぶのが定番になるぐらい、とでも言えばいいだろうか。




※ 追記:修正は「五経」+「四書」を全文暗記したのちにお願い致します。

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最終更新:2024年04月23日 16:01

*1 「さっきお前の事『(それぞれ専用の用途にしか使えない)器』だなんて言ったが撤回するよ…無礼な事を言ったな…。オマエは物事を万能にこなせる男だ…」の意

*2 トイレは流石に共同のものがある事が多い

*3 例えば受験生を出願時に4人1組にして、何か不正があると連帯責任とするなど

*4 出来が良すぎて逆にバレたケースもあるが

*5 棒でぶん殴ったりする物理的に痛い系刑罰

*6 もちろん、「記念受験」による受験生の実質的な水増しの存在を意識する必要がある為、倍率=難易度とは限らないが。

*7 とはいえ、近代社会の成立まで(あるいは成立後しばらくの間も)商人は洋の東西を問わず軽視されがちな存在であった為、時代を考えればそこまでおかしな事では無い。何なら現代でも商社不要論を言い出す人は居るし……

*8 「『実践する』……そんな言葉は使う必要がねーんだ なぜならオレやオレの弟子はその言葉を思い出した時には!実際に行動しちまってもうすでに徳を実践してるからだッ!だから使った事がねェーーッ 子貢 オマエもそうなるよなァ~~~オレの弟子なら……わかるか?オレの言ってる事…え?」「『実践した』なら使ってもいいッ!」の意

*9 厳密には「職務でヘマをやった時に、その懲罰を金で免れる事ができる」制度