姜維

登録日:2011/10/15 Sat 21:40:28
更新日:2024/03/02 Sat 02:16:26
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もしかして?→生姜


三国時代における蜀漢の武将。
姜維、字は伯約。天水郡冀県の出身。


【史実の姜維】

・前歴

姜一族は、代々から続く天水郡の大豪族だった。
この時期の豪族とは非常に強い力を持っており、その出身である姜維は意外かもしれないが、決して悪くない生まれだったのだ。
ただ、その当主の家系だったとは書かれておらず、姜維がどれほど裕福だったのかはよくわからない。
父親は姜冏だが、彼は姜維が幼いころに異民族・羌族との戦争にて戦死してしまっており、母親に女手一つで育てられた。

しかし、健やかに育った姜維は若くして頭角を表し、また父親の功績からの引き立てもあって、早いうちから官を贈られ天水郡の軍事に参画する。


228年の諸葛亮の北伐の折り、それを阻むべく馬遵配下の将として参戦。
ところがこのヘタレ馬遵、蜀軍の猛攻を前にして急速にビビり、配下の諸将みんなが(なぜか)敵に見え始めた
「みんな裏切るんだ!! みんな裏切ってるんだ――!!!」と錯乱した馬遵は、武将たちをほったらかして逃亡。
姜維は驚きあきれながらも馬遵を追いかけたが、馬遵は逃げ込んだ城を閉ざして姜維を入れない。

馬遵「ヤメローー 死にたくな―い!死にたくないーーい!!」
姜維「(;´゚д)ポカーン」

こんなノリで、いつの間にか孤立した姜維は、やむをえず蜀軍に降伏(なお演技だと全て諸葛亮の策略である)。蜀軍が街亭で敗退するとそのまま亡命した。
この亡命時に、一族の者千人を連れて行っており、姜維がそれなりに力のあった豪族であることが分かる。
もっとも、やはり本家筋ではなかったのか、母親は魏領に残っていた。
その後、馬謖のせいで大失敗して意気消沈する諸葛亮は、姜維を見るうちに「涼州でも随一の俊才だろう。彼を得ただけでもまあマシか」と自分を慰めるに至っている。


・中堅時代

姜維自身は新参の降将であったが、この時期の蜀漢はすでに有為な人材がほとんど払底していたため、諸葛亮の北伐に従いトントン拍子に昇進する
また、涼州出身者である彼は北伐の目標地点の地理や情勢に詳しく、その意味でも北伐は輝ける場所であった。
父親が羌族との戦いで戦死したように、父親のころから異民族とは(良くも悪くも)付き合いや理解が深かったことも一因であろう。

さらに、時を経て諸葛亮、魏延といった蜀軍に残っていた名将がバタバタ死ぬと、姜維の占めるウエイトはますます大きくなり、否が応でも蜀軍の中枢を担うことになる。
諸葛亮の後任となった蒋琬とはウマがあったようで、この時期の姜維は魏軍に対して勇戦し、
夏侯覇・郭淮の仲悪いコンビと小競り合いをしたり、異民族と時には戦い、時には味方につけたりしていた。(夏侯覇は後に蜀の武将となる)


姜維はこの頃から諸葛亮のように軍を率いて北伐をすることを望んでいた。
しかし、蒋琬亡き後に大将軍となった費禕からは好かれなかったらしく、姜維の北伐プランも、
「お前も私も丞相(諸葛亮)に比べれば小物で、丞相ですら魏は押し込めなかったのだ。今は人材育成の時だ」
と一蹴されている。

この発言に対して姜維は「腐れ儒者の戯言」と吐き捨てている。
この一件だけすれば姜維の配慮が足りないと見做されがちであるが、
諸葛亮と言う先帝からも認められる様な蜀を纏められる大臣が亡くなった瞬間、魏延や楊儀等が即座に内ゲバ起こしたような内部環境を考えれば、
蜀に残されている時間は明らかにほとんどなく、取り返しがつかなくなる前に打って出ようと考えるのも無理はない。

勿論、費禕自身もその事を理解して対策を立てていないという事は無かったと思われる*1のだが…
実際、姜維は上記のような不満を述べつつも費禕のいる間はそれに従っていた。

・大将軍姜維

しかし253年、費禕が魏の者に暗殺されてしまった事で、姜維はついに蜀漢軍部のトップに上り詰めた。
更にこの時、魏では司馬懿がクーデターを起こして実権を握り身の危険を感じた夏侯覇が蜀に亡命、その司馬懿を倒して魏の権限を取り戻そうとする曹彪がクーデターを起こす、そのクーデターを鎮めた直後に司馬懿は死去…と魏を取り巻く環境はかなりグダグダな状況になって隙が出来ていたのである。
そこで姜維は北伐を開始。三県を制圧して徐質を討ち取り華々しく凱旋し、翌年の再出兵では王経を撃破して数万もの戦死者をたたき出すなど、豪語していただけあって見事な戦果を挙げた。
この功績で姜維は大将軍にまで登っている。

しかし、256年に段谷の戦いにおいて鄧艾大敗してしまい国力を衰退させてしまった。
それでも何とか蜀軍を再起させ、258年に魏の諸葛誕が反乱を起こすのに乗じて魏に侵攻するが、諸葛誕があえなく一蹴されたことで何の成果も得られずに帰る羽目になっている。

・末期

姜維の北伐は内政の混乱を無視してまで強行するものであり、結果論としてだが、国力の疲弊という結果を招いていた。
更に、258年には姜維を支持してくれていた数少ない大臣である陳祗が死没すると、姜維の立場は宮廷内で急速に悪化する

もはや政権における後ろ盾がないのに軍権を握る彼には、蜀漢の高官たちもいい顔はしなかった。
結局、諸葛亮の子である諸葛瞻董厥などの大臣たちは、姜維排斥の急先鋒だった黄皓の流れに同調する始末。
これに対し姜維も黄皓排斥を訴えたが一蹴される。
君主お気に入りの宦官のみならず、正統派の朝臣まで敵に回すことになってしまった姜維は身の危険を察知し、以後成都に帰還出来なくなってしまう

さらには軍部でさえも姜維の指揮に反対する動きが表面化。
やはり軍部の重鎮であった廖化までもが
「丞相はおろか敵にさえも知勇の及ばないお前が、戦争ばかりしてどうなる」
と批判に回っている。
とりわけ、蜀軍古参の大幹部として、トップクラスの名声と地位を持っていた廖化が、他人事のように姜維をなじるこの醜態は、もはや一つの組織としても末期症状を呈するものに他ならなかった。

+ ちょっとした余談
ここで少し考えて欲しい、いくら実績があるからと言って
  • 魏からの降将かつ新参者
  • 自身の手勢や財力は乏しい
いくら人材に乏しい(しかも先帝のやらかしで若手がほぼ壊滅状態になった)蜀とは言え、姜維よりも実績があって信頼も厚い将軍は少なからず残っていた筈である。
なのに何故彼が北伐において総指揮官を任せられたのか?、そして重臣達がこぞって排斥する中でも何とか将軍としての地位を維持できたのか?と言う疑問が出てくる。

まず、北伐は蜀が漢室の後継を掲げる国家である以上、存在意義を保つためにやらなければならない国事である事に留意するべきである。
ぶっちゃけ「漢室を取り戻す為に魏と戦うんです、だから皆力を貸してね!」と敵と国の指針を明確にする事で結束と緊張感を高める事が出来るのである。

とは言えやはり人間である以上、どうしても個人のイザコザは避けられない。蜀内でも「荊州派」と「益州派」という派閥争いがいまだに続いていたほどである。
諸葛亮時代は彼自身が先帝、現皇帝の肝いり物凄い有能かつ公正無私例え落ち度があろうと家族を連座させず功を立てれば再び出世させる情も持ち合わせていた事から目立った諍いは見られなかった。
…とはいえ全く無かったという事もあり得ない*2し、鞭打ちレベルの刑罰でも自分で裁定しようとする程生真面目な諸葛亮なら率先して仲裁に走る事は容易に想像できる
諸葛亮が「病魔に蝕まれて陣中で死んだのは蜀内部の人間関係から来るストレスだ」とまでは言わずとも寿命が縮む原因の一つくらいにはなった筈である

こんな状況で軍の後継者を決める訳であるが、平時の政務ならいざ知れず軍の中枢を決めるのは困難である。
と言うのも組織としての構造上
  • 中枢を握った奴は確実に自派閥を優遇する。
    • と言うよりしておかないと「アイツは出世した途端柄張り腐りやがった!」と反感を買ってしまうのでやらないといけない
    • それ以外の派閥の者は「どうせ俺らは出世できないし評価されないんだ…」と意欲がダウンする。
      • 下手をすれば命令違反やサボータージュを敢行して足を引っ張ったり降格させようと試みる。
    • 下手をすればクーデターを起こして国が亡びる危険もある。
こうした事案が起こってしまう。
まして北伐は皆が優秀と称えた諸葛亮ですら不可能だった事であり、それに劣る後継者が達成する可能性は限りなく低い。当然しくじれば罰則や民からの非難が待っているのは確実である。
当然後継者の敵対派閥者はこぞって攻撃して追い落としを図ろうとするだろう。
こうなったら北伐どころか国の維持すらも困難になりかねないのだ。

そういう意味では姜維は
  • 派閥から浮いているから「皆に敵視される事」で各派閥を結束させられる
    • 自身の勢力、財力は殆ど無いので反乱されても大丈夫
    • 例え北伐失敗しようとも「全て姜維の采配のせいだ!」という事にしておけば各派閥の摩擦を軽減できる
と言う様に、ある意味北伐にうってつけの鉄砲玉人材だったのである
また、下手に排斥したとして後継者にした将軍が惨敗しよう者なら自派閥の勢力も落ちるし、北伐を渋れば民からも非難される。仮に排斥できたとしても姜維は当時録尚書事(事実上の宰相職)の官職も持っていたので政治に関与して蜀内部の綱紀粛正に走る事は容易に想像がつく。

自身や派閥の保身を考えれば面倒事や責任は全て余所者の姜維に押し付けておいた方が都合が良かったと言う一面もあったのかもしれない。


・蜀漢滅亡

周囲に理解されないばかりか足を引っ張られ、背中を撃たれながらも孤軍奮闘する日々…
だが、劉禅はそんな姜維を排斥しようとする意見を退け、姜維に軍権を持たせ続けていた。
劉禅も魏に対する敵愾心や先帝達の思いに答えたかったのか、姜維の激発を抑えるための妥協策だったのか…。

だが、結局のところ君主も側近も大臣たちも文武百官も、蜀漢は根から腐敗・堕落していった
そしてそれに伴い、国力はジワジワと、そして確実に消耗していった。

そんな訳で既にほっといても滅亡寸前だった蜀漢だが、国内のいざこざを何とか収めた司馬昭はついに蜀討伐を決定。
無気力な主君と無能な側近、無責任な群臣がひしめきあうところに、さらに巫女までが加わって文字通り踊り狂う狂気の蜀漢にあって、その司馬昭が派遣した鄧艾・鐘会の矢面に立つのはやはり姜維であった

姜維は緒戦敗退した上に蜀への帰還ルートを封じられてしまう。(逆に言えば、魏にとっても姜維はそれほど排除したい厄介者と言う認識があったと思われる)
が、流石は姜維、退路を封じている魏将・諸葛緒の領土を攻める構えを見せ、慌てた諸葛緒がそちらに向かうとその隙に空になった帰還ルートを無傷で通過。
変幻自在の指揮を見せて蜀に戻った姜維が立てこもったのは難攻不落の剣閣。
姜維は剣閣の戦線を堅守して、鍾会に必死の抵抗を見せた。
また、各地の要衝でも懸命の抵抗を見せた守将も少なくなく、魏軍の攻勢は限界に近くなっていた。
このまま順当に行けば、この侵攻で蜀が滅亡することはなかっただろう

だが、鄧艾はここで剣閣をスルーし、陰平の道なき道をすり抜けると言う奇策に出る。
姜維はこれに気づかなかったとはいえ、これが姜維の落ち度かと言うとそうも言い難い。
なにせ陰平の道はトンデモナイ難所が東京名古屋間ほど続くというアホみたいに険しいもはや道と言えるか怪しい道で、鄧艾自身も毛布に包まれ転がり落ちながら進んだぐらいの超難所。
そんなバカみたいな作戦をやってくるとは思えないし、仮にやられたとしてももはや敵は装備も食料も士気もズタボロの瀕死の軍、ちょっと攻撃すれば追い払える…はずだった。

ところが、いくつかの城があっさりと鄧艾に降伏し、兵に補給を許してしまう。
更にまずいことに、迎撃に出た諸葛瞻は自分の方が大軍なのに様子見をして敵にみすみす補給を許すという謎の指揮をし、最後には敗れてしまった。
(好意的に解釈すれば、何らかの罠を恐れたと言う可能性もなくはないが…)

こうして成都は危険になり、剣閣の防衛線は健在だったにもかかわらず劉禅が降伏
こうなってはもはや姜維も抵抗する大義名分がなく、降伏することになった。


・最期の輝き

敢えなく捕虜となってしまった姜維。しかし、彼はこれでも諦めていなかった。
彼は鍾会がそれなりの野心家で、かつ鄧艾を憎んでいることを見抜いていたのである。
鐘会に反逆をそそのかす姜維。鍾会もその思惑に乗った。
なお、鐘会は夏侯玄や諸葛誕を引き合いに出して「姜維はそれ以上だ」といったらしい。
しかし、いずれも司馬氏に粛清されている両名と比較するというのはどういう意図があったのだろう*3

一方姜維だが、鍾会の説得に成功したことで、護送中の劉禅に
「蜀漢の復興ももう間もなくのことです。きっと成功させて見せます!」
という手紙を送りつけている。
……こんな手紙が魏軍の手に落ちれば敵の勢力下の劉禅がどうなるか考えが及ばなかったのだろうか。あるいは釘を刺したのかもしれない。


動き出した姜維と鍾会は、監察の衛カンを上手く利用し鄧艾の殺害に成功するが、鐘会のクーデターそのものは失敗に終わってしまう。
嵌められたことに気づいた衛カンや身の危険を感じた諸将に攻められた末、妻子や一族全てを処刑された
彼の心臓(肝臓とも)は一升(1.8ℓ)の枡ほどもあったという。


姜維と言うと若い将軍と言うイメージが強いと思われるが、実は死の時点で60歳を回っており、諸葛亮よりは長生きしている。



【三国演義の姜維】

諸葛亮の後継者という側面がとにかくフィーチャーされている。
実際には諸葛亮が直接後事を託したのは蒋琬と費禕なのだが(演義でもこの二人を後任に推している)、演義本文ではこの二人の出番を削ってでも、姜維を後任に押し上げている。

その才覚は初登場時からして大幅に肉付けされている。
上述通り、史実における彼の蜀漢帰順は、上司が逃げ出して勝手に見捨てられたからだが、
演義ではなんと諸葛亮の計略を逆手にとって一度は蜀軍を大破し、古豪・趙雲*4互角の一騎打ちを繰り広げ、才覚を認められる、というイベントが加わっている。
特にこの諸葛亮の計略を読み切るというのは三国演義を見渡しても他にはほとんどない貴重な場面。

さらに諸葛亮没後は実質最後の主役として孤軍奮闘
北伐の負の面や、軍中でさえも孤立していたあたりはぼかされているため、より悲劇性が強調されている。
彼の死後は、もはや見るべきものなど何もない。せいぜい陸抗と羊祜、更に杜預のエピソードくらいだが、これはもう『三国志』という創作ジャンルから外れる領域である。



【評価】


姜維は蜀漢への忠誠心が高く、また救国のためにあらゆる行動を起こしてはいたが、結果は実を結ぶことはなかった。
故に後世の評価も人物面には賞賛が集まったが、行動には痛烈な批判が与えられた。
特に代表的なのが、「軍事ばかりに目を向けて内政に思いを向けなかった」「国力を消耗させるだけであった」という意見である。
これは、同じように北伐を指導し自ら遠征にも行きながら、丞相として内政にも大きな業績を上げた諸葛亮との比較もあるだろう。


しかし姜維の取り巻く情勢・環境は最初から最後まで内外ともに劣悪の一言に尽きることや、結果論から述べているこれらの批判はおかしいという反論もある。
ざっとみるとこんなところ。
  • 故郷を落とされたぐらいで疑心暗鬼になり、裏切り者のレッテルをはる太守
  • 蜀には出身地による派閥争いがあったため魏出身の姜維は派閥面でも孤立していた可能性大
  • 段谷の戦いでは挟撃するはずの胡済が来なかったという、戦略の根底から破綻するウルトラCがはいる
  • 段谷の戦いでの責任は胡済にあるのに姜維は自分の責任として降格を指示(胡済が処分されたという記録はない)
  • 涼州出身という理由だけで廖化や諸葛瞻・董厥から批判を受ける
  • そもそも姜維以外の大臣たちもロクに仕事をせず、国政を混乱させてきた(後述)
  • さらに育って来たまっとうな人材も宦官の黄皓の讒言で左遷、遠ざけられる様な政治機関


もともと蜀は、呉との関係をこじらせて相争った瞬間、もっと言えば樊城と夷陵での敗戦で有為な人材を大量に喪った瞬間にほぼ詰んでいた。
本来魏からの降将である姜維が総大将になっている時点で、その人材不足の深刻さがうかがえる。
呉との再同盟で一応の危機を脱したとはいえ、これでは魏を倒すどころか自国を守ることさえままならない。
諸葛亮の北伐も、最初期こそ魏の油断でうまく行っていたが、結局は孟達の裏切りをうまく使えず、更には馬謖の起用で敗走。
魏に対して戦術的な勝利はその後もあったが、形勢逆転に至る決定的な戦果とはとても言えなかった。

(ただし夷陵の敗戦は、姜維が軍権を握る三十年も前のことである。いくら夷陵の敗戦が大きくとも、三十年もあれば国家の再建には十分な時間である*5し、三十年も経てばたとえ夷陵の戦いがなくても当時の人材は(特に将兵は)軒並み高齢化してしまい、結果として同じことになる。
 また夷陵の戦いでは派遣軍こそ大損害を出したが、蜀本土は無傷だし、呉班や陳式や向寵など帰還できた部隊、趙雲など後方で無事だった部隊も少なくない。
 つまり蜀において問題だったのは夷陵の敗戦というより、人材を育てられず、もっと言えば単に国家を運営できていないことである)

そしてその諸葛亮も死んでしまったとなれば、蜀は終わりに近づく一方でしかない。
費イの言ったように富国と人材の確保をしたにしても、それは同様に防衛から手の空く魏でも増していく。
まして国土・人口で大きく水を開けられている(国力差は7倍と言われる)蜀と魏ではその差が開く一方にもなりかねない*6

そして、姜維が北伐を始めた頃は、魏の内部でも大規模な反乱があったり、皇帝殺害事件さえも発生していた時期である。
既に諸葛亮死後二十年、ここで行動に移さなければ諸葛亮の北伐に従軍して高い練度を持つ兵や武将たちが高齢化し、かえって勝機がなくなるリスクも大きかった。
魏に対してくさびを打ち込むためには、いわば最後のチャンスともとれる時期であった。
それでも厳しい条件であったことには変わりなく現に敗北したわけだが、みすみすジリ貧になるよりイチかバチかの勝負に出るという判断は十分理があるだろう。
実際、諸葛亮ですらまるで戦果なく撤退した北伐もあるというのに、段谷の戦いまでは三県制圧、魏の大将徐質を討ち取るなどかなりの戦果を挙げている。


だいたい、姜維は「将軍」であり、ほとんどは北伐のために最前線に出払っていた。
ならば、その間本土の益州を統治して生産力や兵力を整えて国力を回復させ、政務の乱れや綱紀を粛正し、前線で頑張る司令官を支援するのは、安全な後方で政務をとっていた朝廷の責任であり義務である
諸葛亮が内政と北伐を両立させていたから当然のように思うかもしれないが、たった一人の大臣が内政から外征、外交を一手に担っていた諸葛亮のほうが異常であり、不健全なのだ

これは諸葛亮の過労という問題だけではない。
軍事、内政、外交に渡る過剰な権限を握った大臣が、本格的に謀反をすればどうなるのかという問題*7や、さらにそこから周囲の不信を買いやすいという点にもある。
諸葛亮はまだ、劉備苦闘時代からの功臣で、劉禅からも確かな信頼を得ており*8、彼自身荊州派閥を束ねる身で朝廷でも不信が表面化することはなく、むしろ権限を一手に集中させることで軍事と行政を一体として動かすという結果にもなり、北伐である程度は成果を上げる指揮が出来た。
だが姜維は魏からの降将で蜀においては何の後ろ盾もない。軍人としては有能でも行政官としての経験や必要な人脈はほとんどない。
それにもしも諸葛亮や姜維が開き直って謀反を起こしたとして、全ての政治を任せていれば、つまり全権を握っていれば、朝廷も止めるすべはない。

「遠征している大将軍」が「内政に目を向け」「君主を監督する」などと、そっちの方がよっぽどありえないし、あってはならないのである

実際、行政経験のない姜維が北伐で戦果を挙げていた頃は北伐支持者にして内政トップ、劉禅のお気に入りである陳祗が政治面で姜維の北伐を支えていたと思われる。
しかしいくら協調と言っても陳祗に軍事の経験はない。行政経験のない姜維とのスムーズな連携は難しく、北伐は不調であった。
更にその陳祗も死没、残された主力官僚である諸葛瞻たちは私党を立てて争ったり庇いあったり宦官にへつらったりするだけで、呉の使者からも「蜀の臣下は保身ばかり、朝廷に正論はない」とばっさり言われてしまうレベル。
こうして姜維は挙国一致の支援を得ても厳しい戦いだったのに、そこから支援なしどころか罷免の危機に陥るという無理ゲーに晒されたのである。

朝廷は朝廷で、正論を言い合える環境を作り、その意思を統一し内政・軍事両面をキッチリ連携させ、劉禅自身もそのために皇帝権力を使わなければいけなかった。
あるいは、国策として防戦に徹するというなら、姜維の軍権をさっさと剥奪、従わないなら暗殺や討伐してでも、とにかく挙国一致させなければどうしようもなかった。

また「姜維を罷免せよ!」という主張は出てきたものの、「じゃあ、姜維の後釜は誰が?」と言う問題が登場する。
当然だが、蜀が北伐をしなくても、魏の南征は起こりうる。誰かが前線で防衛指揮を取らなければならない。
(実際、姜維以前から、前線拠点の漢中に魏延や王平、呉懿といった名将たちが赴任し、魏の侵攻を撃退してきた。本国での防衛はありえないため、漢中の死守は当然の国防戦略である)
姜維はその役割を担っているのだから、姜維を辞めさせるならば姜維の後任を定めなければならない。

一度は閻宇という武将を代わりに、という声が上がった(それも諸葛瞻の推薦で、上奏まで行ったらしい)が、これも立ち消えた。*9
立ち消えた理由さえ記録に残されていない。少なくとも、当時29歳で、しかも閻宇の副官・羅憲*10と親しかった陳寿が知らない。

国防の前線司令官の進退でドンパチが起こり、後任人事もいつの間にか立ち消え、結果として前線司令官が立場をなくしてしまう、これが蜀漢政府の実情であった。もちろん、この「姜維の後任問題」は、人事権を持たない姜維とは無関係であり、諸葛瞻ら閣僚や皇帝・劉禅の醜態である。
正直このザマでは、仮に姜維がおとなしく軍権を返上しても、結局は再度人事を巡ってドンパチが起こり、新たな前線指揮官も立場をなくし、姜維が再任されるか、また別の人材を次々とすげ替えることになってしまったのではないか。

万事かくのごとく。蜀漢は、皇帝から宦官、主要閣僚の面々、居並ぶ将軍たちまで、ことごとくが腐敗堕落していた。
いくら記録が不十分とはいえ、現れる事績からして保身や内輪の批判と責任の擦り付けばかり、罷免を恐れて外地から帰還しようとしない姜維にも強い態度に出ず*11、重要人事もいつの間にか流し、やっと仕事をしたかと思えば鄧艾の少数の軍すら抑えられない程度の力しか見せられない。*12
こんな有様で、朝廷としてやるべきことを最大限やっていたとは到底考えられないだろう。
それでも蜀漢の衰退を姜維の責任だけとするのは、あまりにも短絡ではないだろうか。

また、現在に限らず、当時から蜀は判官贔屓的な人気もあり、当然蜀の国内でもそういった意識は高かっただろう。
元々寄せ集め所帯に近い蜀が自国を守る事のみに汲々としていては、今度は内紛を起こした可能性もあった。
(現に魏は度々内紛を起こし、呉も内紛で疲弊した)
外に敵を作って戦うことで、国内の安寧を保つやり方は、古今よくあることである。反日デモが毎週のように起こる韓国とかはよくこの手法を用いている。

それを裏付けるかのように、姜維は領民からは好評を得ていたし、蜀では大規模な内紛はなかった。少なくとも蜀漢滅亡時30歳だった陳寿が記録するほどのものは。
また、諸葛亮と同じく清貧を通したことも有名で、栄達を得ても私腹を肥やしたことなど一度もなかった。
「家には余財無し(≒最低限のお金やモノしかなかった)」と書かれているぐらいである。
それどころか、劉禅に進言して当時既に過去の人となっていた趙雲を順平侯の諡を追贈させる等、蜀設立のために尽力した将軍(五虎大将など)を称えるような配慮まで行っていたのである。


姜維自身としてみれば、生まれ故郷から捨てられ、唯一頼れる場所が敵陣。
しかしそこで「君は最高の人材だ」と言われればどうにかしてでも叶えたいと思うのは人の感情でもあっただろう。


しかし、ついに成功しなかった以上、その評価は高くなることはなかった。



かつて剣閣県剣門関鎮に墓所があり、墓碑・墓廟などがあったが、1936年に川陝公路(現在のG108国道)の整備のため取り壊された。
唯一残っていた墓亭も、60年代に文化大革命により破壊され、現在は跡形もない。



【他作品での姜維】

●横山三国志
演義に準ずる。白の頭巾を羽織りこの作品最強の智・孔明の計略を返し、後期の武将最強の趙雲と一騎打ちにて互角。
後、蜀の傘下に入ったあとも孔明に度々進言し勝利に導いた。
しかし孔明の死後は蜀の滅亡までダイジェストなので、北伐を繰り返すも成果を挙げられなかったことが軽く語られるのみ。、
蜀の滅亡時に部下と泣きながら岩に剣を叩きつけ折るシーンは横山三国志屈指の名シーン。
鍾会をたらしこんで反逆を起こしたことは描かれず、号泣しているシーンでフェードアウトした。
蜀内部で孤立する様子や反乱失敗が描写されていないので、結果的に印象が良くなっている。

●三国志大戦
1当初から参戦しており、現行排出は、挑発(レア)、寡兵の麒麟児(スーパーレア)、縮地(レア)、質実健攻な軍師(軍師レア)の四枚。
また2の質実(武将・アンコモン)もハイスペックの為に偶に見られる。
しかし現在の武将カードランクにランクインしているのは、回復奮陣と相性の良い麒麟児のみとやや寂しい。
軍師は反計やダメージ計略対策になり易く、特に桃園デッキにどうぞ。
また蜀では唯一の兵軍連環持ちで扱いやすい一枚。
TCGでは初めて魏の武将としても参戦、強いけど枠空いてねーよ状態。
次いでSRで蜀にも参戦。高い武力と強い能力で蜀の必須カード化。あれよあれよと値段が上がり、二枚で17k近くを記録したことも。

2016年稼働の第二版でも続投。質実健攻を計略化した「受け継ぎし軍略」を引っ提げたEXカードを始め、
デッキ編成で武力と効果時間の変わる号令「麒槍の共振」、状況次第ではとんでもない攻城兵器兼チェーンソーと化す「寡兵の麒麟児」「不滅の麒麟児」、使用するたびに効果の追加される旧軍師Rの復刻絵師カード「継住開来」、とバージョンアップのたびに追加されている。
通常排出は全てSRが3枚(SRとコンパチのLEは除く)と凄まじい優遇っぷりを受けているが、蜀の看板である関羽はRと同じ性能のコンパチLEが3枚、張飛はRが2枚と同一のコンパチLEが1枚とSRすらない。
しかも関羽は嫌がらせのように魏に2枚SRがあったりと性能面ではともかく、かなりの不遇であるため姜維が追加されるたびに「また姜維か…」と蜀使いに溜め息をつかれる結果となっている。

●真・三國無双
姜維(三國無双)を参照。
モーションはモブの槍使いとほぼ同じだった。槍使いなのに攻撃の当たり判定が狭いのがなんとも…。
というわけで愚帝が逃げないようにドラを鳴らすのが主な仕事。声が高い。 
「丞相おおおおおおおおおお」
イケメンなのでソッチの筋に人気。ついでにたまにTSネタに使われる。

6での活躍は蜀伝では演技の方の姜維(通称白生姜)、晋伝(三國時代終盤のシナリオ)では史実の方の姜維(通称黒生姜)となっている。
7では遂に両刃槍という固有のモーションを手に入れた。
7で全武将が固有のモーションになったため、姜維が特別なわけではないが。

尚旧版三国志大戦の軍師レアと真・三国無双の中の人は同じ菅沼久義。
孫権共々、旧版三国志大戦と無双で中の人は同じだったりする

●天地を喰らう(漫画)
原作が打ち切りのため登場せず。

●天地を喰らう(FC)
魏を寝返り仲間になるが、デフォルトで編成所送りなので存在を忘れられる。
しかしメインキャラ扱いのため隊列に加えると編成所に二度と送られなくなる。
全体的にステータスが高めで行動順が早い。

●天地を喰らう2(FC)
1でもなかなか強かったが、2では超一流の知力、一流半の武力、さらにゲーム中最高の素早さを持つ。
総ステータス合計値もゲーム中最高の優遇された万能武将。

蒼天航路
曹操逝去までのため登場せず。

●一騎当千
いない。

●恋姫†無双
小説版で少しだけ出てくる。

●白井式三国志
孔明教信者。馬超のバカぶりに頭を悩ませる。
仮面ライダー好きで愛馬にトライチェイサー*13と名付けるほどだが、ライダースナックはカードだけ取って中身を捨てている

BB戦士三国伝
演者はガンダムF91。更に裏モチーフとしてガンダムF90火星独立ジオン軍仕様ザクⅡが組み込まれている*14
何故か本来の歴史よりも遥かに早く生まれており、反董卓連合軍に参加している。*15
しかも所属は曹操ガンダム配下。生まれる時代も場所も間違えとる。
第三部までほぼ空気だったが、最後の最後でまさかの司馬炎の養父になるという三国志的には大逆転満塁ホームランを放つ。*16
おまけにコミックワールド版では陳寿に「お前ちょっと物語書いてみ?」と勧めて『三国志』を書かせるというウルトラCまで決める。
このため最終的には正史とは比較にならないレベルの勝ち組。最後に出てきていいとこカッ攫っていっただけとも言う。

●コーエー三国志(戦略ゲー)
政治こそ若干低め(100MAXで60台)なものの90台の知力、武力や高めの統率を持つ三国志チート勢の一人。
混乱や罠を持たせて従軍させれば、良い活躍をしてくれる。一騎討ちも終盤シナリオでは最強クラスで、渡り合えるのは鄧艾と文鴦くらい。
難点は末期武将ゆえの登場の遅さで、作品によっては年代の都合上、蜀に所属しているシナリオが仮想以外で存在しなかったりする。
その分、出番が来る終盤シナリオでは奮迅の期待が見込める。
というのも蜀の終盤はただでさえ勢力状況が劣勢であり、姜維無しではほぼほぼ詰みなくらい人材が昏い。
彼を使い倒すくらい活躍させるのが勢力としてまともになる第一条件みたいレベルである。
蜀配下の将として登場はPC版3が初だが、開始年は235年で「姜維、亡き孔明の志を継ぐ」というタイトルからも分かる通り孔明の死後であり
この展開はこの後の作品も続き、孔明と共にいるシナリオが収録されるのは、184年黄巾の乱から234年の孔明の死までのすべての年のシナリオを収録した8まで待たなければならない。
孔明とは親愛関係なので、魏に所属しているシナリオでも捕縛できれば登用は容易なのが救いか。
ちなみに演義での関係性から夏侯覇とも親愛関係にあるが、亡命時期の都合で蜀で共演できるシナリオは孔明よりもさらに少ない。

●破三国志
登場時は涼州の異民族の部隊を率い、独特な用兵で馬超を手こずらせた。
その馬超の説得に応じて蜀軍に加わる。
紆余曲折があり一度蜀軍を離れたものの、諸葛亮の説得に応じて蜀軍に戻り大活躍している。

●反三国志
なぜか馬遵が馬超らと同じ一門になっており、その部下として特に戦うこともなく最初から優秀な部下として蜀軍に加わる。
流石に五虎大将軍ほどではなかったが、それでも馬超や趙雲に従う優秀な大将として最後まで活躍する。
最後はなぜか母親も爵位をもらった。

●花関索伝
史実・演義よりも遥かに早く登場し、しかも何の説明もなく最初から劉備軍に所属している。
敵に捕まったり一騎討ちで敗れたりと、他の大多数の武将と同様に関索の引き立て役に過ぎないが、出番はかなり多め。


ちなみに彼のあだ名に「生姜」というものがある。「きょうい」で一発変換できないため「生姜繊維」と打ち込んだのが由来。
GoogleIMEを使用すれば三国志の武将はほとんど変換できるので便利…というかデフォのIMEは不便すぎるので別のIMEに変えたほうがいい。




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最終更新:2024年03月02日 02:16

*1 費禕は内政官僚のように扱われているが、大将軍の地位にもあったほか魏が攻めてきた時には余裕を持った指揮で魏軍をボコボコにしたことがあり、軍事についても明るかったと思われる。ただし妥協案として1万程度の兵を付ける等完全な北伐否定派では無く、本心は姜維と同様に魏に対しての敵愾心はあったのだろう。

*2 と言うかストッパーであった諸葛亮がいなくなるや楊儀は扇動して魏延との内ゲバ引き起こしたし、李邈が葬儀で劉禅に讒言し諸葛亮の死体蹴りを試みる有様である。

*3 というのも、諸葛誕は生前諸葛亮・諸葛瑾に比較されるほどの優秀な人物であり、夏侯玄に至っては高名な学者として名高かったうえ、鐘会は面会さえ許さなれなかったという逸話もある。いい意味で評価したのか悪い意味で評価したのかわかりにくいし、「諸葛誕や夏侯玄では出来ないこともこいつならできる」という意味かもしれない。

*4 ちなみに中国では老いてなお盛んという言葉に思い出すのは黄忠ではなく趙雲である。実際演義でもこのとき韓徳(演義架空の魏の武将)やその息子たちを次々血祭りにあげる無双ぶりを見せつけている。

*5 一例として春秋戦国時代、燕国が一度滅亡してから昭王のもと再建し、斉国を打破するまでにかかった時間が約三十年。

*6 ただし国力差においては異論もある。魏呉蜀を合わせた「人口」は当時800万しかなく、後漢全盛期の6000万と比較するとわずか15%しかない。つまり三国はいずれも国土に対して徴税・徴兵などの実効支配ができておらず、強大に見える魏といえども見た目ほどの国力は無かった、という説がある。

*7 後世に生きる我々と違い、当時リアルタイムで生きていた人たちには、諸葛亮や姜維が「生涯謀反をしない」ということはわかりようがない。しかも隣国では「全権を握った一大臣」である曹操親子が後漢を乗っ取り、司馬一家が魏を乗っ取ろうとしているところを目の当たりにしていたはずである。

*8 実際に諸葛亮死後、劉禅に諸葛亮を讒言した李邈は、ブチ切れた劉禅によって処刑されている。

*9 閻宇は演義だと賄賂だけで地位についた男扱いされているが、史実では行く先々で功績を挙げ職務熱心であったとも評価されていた。「馬忠に及ばない」と言う評価もあるものの、無難に将軍が務まるくらいの人材ではあったと思われる。ただし蜀滅亡時には「首都の救援に行く」と言って出陣したきり行方不明となっており、逃亡した模様。

*10 晋の統一後、羅憲が陳寿を官職に推挙してくれた。

*11 帰還命令に従わないのは、現に交戦中でもない限りそれだけで反逆とみなされてもおかしくない行為。姜維は後に侵攻してきた魏軍と正面から戦っており叛意は毛頭なかったはずだが、朝廷がそのように見るかは別問題である。

*12 諸葛瞻は「国難に殉じた」という点で評価されがちだが、生前の諸葛亮には「早熟だが大成はしないだろう」と不安がられ、大人になると「親の七光りで中身がない」と評された。いずれも的中した。

*13 連載当時、まだドラゴンフォームが出ていなかったので「マイティーフォーム!」と言いながら槍を振り回している。

*14 裏設定ではガンダムとザクの夫婦の間に生まれたため両親の特徴を受け継いでいることになっている。

*15 初期設定版のデザインなので後のキットとは主に顔のデザインが大きく異なる。ちなみに本来はこの段階でキット化される予定だったが、どうも内部で色々とあったらしく、結局はデザイン変更の上で最終盤に持ち越された。

*16 キットに司馬炎と同じ赤いザク顔のマスクが付属していたので、一応伏線は張られていた。