袁紹

登録日:2020/01/17 Fri 22:10:00
更新日:2025/03/09 Sun 16:49:36
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袁紹とは、後漢末期の武将・群雄。
北方圏の覇者となり、あの曹操をして正面から打倒しうる存在でありえた、おそらく最大にして最後の男。
一般的な歴史評価は低いものの、天下一四州のうち四州を支配に収め、その軍動員規模は劉備孫権よりも上回る勢力を得た三国志の「四番目の男」である。



【生涯】

◆出生

後漢中期~後期を代表する名門豪族、「四世三公」汝南袁氏の出身。
生き馬の目を抜く官界において、四代に渡って位人臣を極めた、実力・財力・組織力を備えた実力派の名門の出身である。
ちなみに、汝南郡汝陽県は現在の河南省は周口市の商水県だが、その東隣の項城市からは二千年近くのちに袁世凱が産まれる。

というといかにもボンボンの御曹司と思われるが、実際の袁紹はかなり恵まれない立場にあった。

まず、袁紹の父親がはっきりしない。
袁紹の父親の世代は(有名なのは)袁成・袁逢・袁隗の三人である。(汝南袁家については袁術の項目に)
このうち、最初は袁家の当主の座は袁成が継ぐはずだったが、彼が早世したため、袁逢が当主となった。
しかし袁紹は、袁成の息子という説と、袁逢の庶子だったのをあとで袁成の養子になったという説がある。
前者の場合「本来当主になるはずだった血統の忘れ形見」、後者の場合「嫡流の兄弟を差し置いて当主になりかねない立場になった泥棒猫」、となり、
どう転んでも御家騒動を引き起こす立場である。
しかも、袁紹の母親が「卑しい身分」だったことだけは確定している。ある話では母親を「婢女」と表現して「袁家の恥・袁紹の罪」などと書かれたことさえある。

父親がはっきりせず、しかもどっちにしても危うい立場、かつ母親の身分が奴隷並み、となると、貴族社会ではかなりのハンデを背負っていたはずだ。
生まれた年すらはっきりしないのもこれが一因であろう。
とくに、袁逢の正室の息子で、自分にとっては異母弟であり従弟になる袁術からはかなり憎まれていた。

そうしたこともあって、袁紹は一族のなかでかなり浮いていた。市井に交じって遊侠を好み、ヤンチャをしていたこともあったという。
曹操ともこのころからつきあいがあり、信憑性はともかく「一緒に花嫁を奪った」話は語り草。
ただ、そうした愚連隊のなかにあっても、袁紹は名門の気品と名門らしからぬ謙虚さを忘れず、威厳と闊達さを併せ持ち、多くのひとから慕われたという。
春秋戦国時代の孟嘗君もそうだが、幼少期に苦労をしたために人情に通じるようになり、それによって人心収攬の術を磨いていったのかもしれない。
曹操と親しくなったのも、かたや「宦官の孫」、かたや「婢女の息子」という出生のレッテルに苦しんだもの同士、シンパシーを感じたからか。

二十歳のころには県令を勤め、評価も高かったのだが、母の死とその服喪を期に退役。
しかも、母の喪が済むと今度は袁成の服喪、それが済んでもなお謹慎、となぜか動かなくなる。
あの黄巾の乱にすらも沈黙を通し、徹底して後漢王朝と距離をとっていた。

ここで、専横を極めていた宦官の十常侍が「名家袁家の跡取り候補が、ひたすら市井に混じってるのは何か変な事企んでるんじゃね?」と疑いだし、
それを伝え聞いた伯父・袁隗が「おめー、疑いの目で見られて袁家を滅ぼす気か?」と激おこ。
謹慎していながら侠客仲間と深い契りを結ぶ生活をしぶしぶ改め、
袁隗の提案をつてに時の権力者・何進の幕僚に納まるや、その後は急速に昇進。
188年には曹操淳于瓊らとともに「西園八校尉」の一角に座っている。


◆反董卓連合

189年に霊帝が没し、帝位を巡り権力闘争が起きると、袁紹たちは上司である何進の側について宦官と争うことになる。
袁紹は何進の幕僚として暗躍し、各地の軍閥を呼び寄せて、その軍事力で宦官たちを威圧。
何進が宦官たちに暗殺されると、袁紹はこれをすぐさま「宦官の謀反」として糾弾し、袁術・曹操とともに宮中に突撃。
問答無用で宦官とそれに阿る官僚を虐殺し、ついに長年に渡る宦官の跋扈に終止符を打った

ところが、宦官が最後の悪足掻きで皇太子二人を連れ出してしまい、それがたまたま入朝しにきた董卓の軍団に拾われたことで、
一連の権力闘争は董卓の一人勝ちとなる。
袁紹・袁術・曹操など、何進にゆかりのあった有力者たちは董卓への反発から、首都・洛陽を脱走。袁術、曹操は郷里に戻ったのだが、袁紹は何故か北方の冀州に向けて奔っている。
故郷のはずの汝南は袁術が押さえていたため、その事への反発がそうさせたのか、それともフリーター時代に築いた人脈があったのか、
はっきりとした要因は史書に記されていないが、いきなり地縁がない場所へ移籍という博打に打って出ている。
結果として、董卓が懐柔策として追って袁紹を渤海郡太守に任命した*1ため、正式に彼は同地に赴任という体裁を取った。


明けて190年1月、橋瑁が反董卓決起の檄文を起こすと、それに賛同する形で冀州にて挙兵
袁紹は「反董卓連合」の盟主となった。

ちなみに、霊帝没後からの時系列を記すと、
189年 5月 霊帝死去
  9月 何進殺害、董卓入都、何太后殺害、少帝廃位(献帝即位)
  10月以降 少帝廃位に反対した袁紹らが洛陽脱出(少帝廃位が9月30日から推測)。袁紹、冀州に渡る。
190年 正月 橋瑁が反董卓軍の決起を募る
  1月 袁紹ら反董卓に賛同した各所太守が一堂に会す。
  2月 董卓、反董卓軍を恐れ、彼らに奪われないよう、献帝を長安に移す(洛陽焼き討ちはもう少し先)。
……一年も経たないうちに、ムチャクチャな急転直下な出来事が連発して起こっている。まさに後漢混迷の極みというべきか。

さて、この参戦時、一応、「万を超える軍勢を備えて参戦した太守」の一人に袁紹も数えられてはいるが、 
出奔から懐柔目的の太守任命、そして挙兵まで二ヶ月強、長く見積もっても三カ月という短期間、
渤海郡自体中堅程度の規模の郡であること、更には河北での地縁もないという状態では、
非常に不安定な立場・状態での参戦であったのは間違いない。当時の袁紹軍の人材面でもそれは感じ取れる。
例えば、吉川英治三国志では、のちに官渡の戦い前後に名を連ねる面々を、すでに錚々たる様相で並べゆったりと参戦を協議していたが、
実際の史書では顔良や文醜が将帥として軍を率いるようになったのは公孫瓚との戦い以後と記されており、
審配や田豊、沮授や麴義や張郃に至っては、この時まだ韓馥の部下である。
目立った部下として考えられるのは、先だって冀州方面へ向かい袁紹の配下となったと記されている逢紀と許攸、それに追ってきた淳于瓊ぐらいで、
赴任先で起きる数々の課題については、袁紹本人が身を張って取り組んでいた時期であった。
その上で、洛陽から北上赴任するやいなや、とんぼ返りするように洛陽東の河内郡に南進・駐屯する羽目になったのである。
正直、これほどの短期間に万余の兵を集め参戦できたこと自体、袁紹の行動力が褒められる部類ですらある。

上述した通り、一応は連合軍盟主に推されて就いたものの、上に挙げた袁紹軍の状態を考えてみても、実際のところ全軍を統率、進軍させることは非常に難しかったと思われる。
まず、太守らは酸棗で会盟したものの、率いている軍は散会しており、洛陽を北東、東、南東と広く包囲網を築きつつある状況、であったこと。
次に、他諸侯は袁紹よりも格上で実力を持っていた州牧・州刺史であったり*2
袁紹と同格程度の郡太守・諸侯相であった*3こと、などが考えられる。
もちろん、袁家の影響力、若いころから多くの人間に慕われていたという個人事情なども加味されていたにせよ、
少なくとも連合内で、他の太守を好きなように軍事行動を取らせ得たほど、袁紹が軍事力で抜きん出ていたという事はまずあり得ない。
曹操や張邈など軍事力を持った昔馴染みの盟友はいたものの、曹操(+張邈の援軍)がいきなり徐栄に撃破され兵を失ったため、
そういった袁紹にゆかりのある人物たちの兵力はアテに出来なくなってしまった。

他方、ライバルの袁術は孫堅を支えつつ南方で雄進し、董卓は長安に逃亡。
董卓はもともと涼州を縄張りにしており、長安遷都は本拠地への接近・戦力増強を意味する。
その結果、本来は洛陽を攻撃目標にし、包囲網を形成しつつあった連合にとって長安は目標として遠すぎ、攻撃限界に達して追撃は非常に難しくなってしまう。
挙句の果て、もとより団結力のなかった連合の分裂はますます悪化。諸侯同士の殺し合いにまで発展して、自然消滅した。
袁紹はそのまま冀州に戻り、腰を据えて勢力拡充に勤しむようになる。

◆河北の雄

連合を崩壊させた利害闘争がひと段落したところ、天下は大きく分けて袁紹・曹操・張邈・劉表など袁紹グループ袁術・孫堅・陶謙・公孫瓚など袁術グループに分裂していた。
ちなみに、このころの劉備関羽張飛は公孫瓚の遊軍といったところで、間接的に袁術グループに属した。
初手は袁術グループが大規模な攻勢を仕掛けたものの、劉表が孫堅を討ち取ったのを皮切りに、袁紹は公孫瓚を、曹操は陶謙を各個に撃破。
盟主である袁術も、袁紹と曹操のタッグが打ち負かし、戦況は袁紹側がリードした。

袁紹自身も河北にて飛躍
上述のように袁紹は河北に地縁がなく、人脈も勢力も持たなかったため、かなり厳しいスタートになったが、
彼は策略を巡らせて冀州を奪取、反袁紹派だった冀州の幕僚・豪族たちすら口説き落として、冀州に盤石の体制を築き上げた。

当初は乏しかった軍事力も、在地の武将たちを抜擢・再編することで獲得。
北方の異民族に対し抜群の軍功を挙げ強盛な騎馬軍団を有した公孫瓚、軍勢百万と言われた黒山賊、孔子の末裔・孔融など、錚々たるメンツを打ち破り、
また幽州に人望のある劉虞の遺族を保護する、異民族勢力を取り込むなどして剛柔合わせた政策をとり、
十年たらずのあいだに冀州のみならず、幽州・并州・青州を版図に収めた
全盛期の兵力は十数万を数え、名実ともに当時の中国における最大最強の軍閥にのし上がる

ここまで読んだ方は三国志演義の各登場人物からダメ出しをされている人物像と大きく離れた経歴に驚く方も多いかもしれない。
そう……実は彼は生まれながらに河北に勢力を構えていたわけではなく、後漢末期の混乱期の10年前後の間に、
彼一代で河北四州に覇を唱える事に成功した、まさに風雲児的な飛躍を遂げた人物なのである。
このまま彼の成功が続けば、『三国志』はなく、代わりに時代の寵児・袁紹のサクセスストーリーが後世の人たちを魅了したかもしれない。
だが、10年という短期間の間に膨張した勢力、そしてそこに所属する家臣たちが産み落とした(新勢力ゆえの)功績争いのための確執は、
少しずつ、袁紹の統治能力を越えたところで彼の人生を狂わす歯車となっていくことになる―――


◆曹操との対立

先述の通り、当初は袁紹と曹操は利害面で友好関係にあり、特に袁紹側は曹操を陰に陽に支援。
曹操を南方の防波堤に利用するという打算もあるにせよ、陳宮の寝返り・呂布の猛攻など曹操の苦境を助けたのは間違いなく袁紹であった。
もちろん、曹操も袁紹を助けて袁術・呂布ら強敵と戦っていたのであり、この時点では両人はまさにパートナーだった。
しかし、やがて袁紹と曹操が周辺の敵をあらかた駆逐すると、その勢力は必然として、お互いに向かざるを得なくなった。

初めの亀裂は献帝の処遇だった。
長安からほうぼうのていで中原に逃げてきた献帝と朝臣たちを、迎え入れるか否かで、袁紹・曹操はともに悩んだ。
確かに献帝を擁立すれば皇帝の権威と大義名分を得られるが、一棲両雄の禁を犯すことになるし、権威と権力が分裂する危険を孕む*4
まだ迎える前の時点でさえ、臣下のあいだで意見の対立が生じたぐらいである。
謀臣の一人郭図に至っては「賛成した」説と「反対した」説の両方があることからも、混迷がうかがえる。

結局、袁紹は献帝を拒絶したのだが、曹操が擁立したため、権威において曹操が袁紹の上に立ってしまう
この時点で曹操は袁紹と戦うつもりはなく、袁紹を大将軍に、自らは格下の車騎将軍を名乗ることで納まった。
……が、既に後漢の皇帝が支配力を失いわずかな権威のために帝位を許されているという、実力主義の世の趨勢の中、
兗州・豫州・司隸・徐州を支配下に置き中原を手中に収める曹操と、冀州・青州・并州・幽州に地盤を築き河北の覇者として君臨する袁紹の間で、いずれ大規模な衝突が起こることは、当時の人々にとっても予測するに容易い未来であった。

そして199年、南の袁術と北の公孫瓚と東の呂布が相次いで死亡し、天下はついに袁紹と曹操の二大巨頭の決戦前夜とも言える情勢となっていた。
どうやら袁紹は199年時点では曹操と戦うつもりはなかったようで、劉備を曹操が攻撃した際、田豊の出兵進言を拒否している。
「子供*5の病気」を理由とされるが、実際には199年とは幽州と并州*6を併合した年で、後方の安定に不安があったからだろう。
実際、199年に公孫瓚の息子・公孫続に大軍を貸した黒山賊の張燕が、いまだ勢力を残していたし、
公孫瓚が敗死したのが199年の3月で、南征の意志を固めて出陣したのが200年の2月のため、新支配地の安定化に時間を取ったと見ることもできる。

しかし、先に曹操へ反旗を翻した劉備が使者を袁紹へ送り、両者が同盟関係を結んだこと、
その劉備が曹操の大群の前に離散し、青州で袁譚に保護されたことをきっかけに袁紹と曹操の軍事的緊張が一気に高まっていった。
そして200年2月、ついに袁紹は総力を挙げて出陣。いわゆる「官渡の戦い」の幕が上がった。


◆官渡の戦い

序盤は、先遣隊であった顔良・文醜が相次いで戦死したものの、袁紹直属の本隊は兵力十万以上という大軍団で正面から圧倒
数で大きく劣る曹操軍は素早く退却し、黄河の支流が激しく入り組んだ難所、官渡一帯に展開する。
これに対して袁紹は、麾下全軍の総力を結集した猛攻で防衛線を次々突破。曹操は最終防衛ラインと言うべき官渡の砦にまで押し込まれた。
袁紹軍が発射する矢弾は雨のように降り注ぎ、曹操軍の兵は盾をかぶらなければ外を歩けなかったとまで言われる。

しかし曹操もまた必死の奮闘を繰り広げた。
袁紹が櫓をつくって射掛ければ、曹操は発石車を投入して反撃。
ならばと地下道を掘り進める袁紹軍に、曹操軍は急きょ塹壕を掘ってこれを潰す。

さらに袁紹は官渡戦線のみならず、孫策劉表に北上を唆したり、故郷・汝南に劉備を派遣して挙兵させたりと、外交面でも活発に攻勢を掛けた。
孫策は挙兵直前に暗殺されたものの、劉備ら汝南の別働隊は逃走と来襲を繰り返し、曹操の戦力を確実に削っていた。


だが曹操もまた戦線を死守し、やがて戦況は官渡水を境として膠着化、長期戦にもつれ込む。
袁紹軍は遠征軍の常で補給が厳しく、烏巣に大規模な補給基地を作っていた。

ところがある日、袁紹の最古参の腹心だった許攸が、曹操に寝返ってしまった。
許攸は頭こそ切れるが曲者で*7、官渡で献策が度々遠ざけられることに不満を抱いていた上、審配から親族の汚職を弾劾され、主君を見限って逃げたのである。

最高幹部の一人だった許攸のタレコミにより、烏巣こそが最重要の補給拠点であると確信した曹操は、みずから精鋭を率いて烏巣を強襲
袁紹も事前に淳于瓊の部隊を警護につけていた。彼もまた旗揚げからの古参であり、激しい反撃を展開。一時は曹操自身も危ういほどになった。
更には曹操軍本隊の手薄を察知した袁紹軍は数の利を活かし、烏巣の救援に快速の騎兵隊を送るとともに、手薄になった曹操本陣も重装歩兵隊に急襲させ、関ヶ原もかくやという急所の一戦が巻き起こる。
しかし、この機を逃しては勝ち目はないと確信していた曹操も火を吹くように攻撃。味方から「敵援軍が来ます! 兵を分けましょう!」と言われても「やかましい! 来てから言え!」と怒鳴りつけて攻撃に兵力を傾注し、ついに淳于瓊らを撃破。烏巣の食料をすべて焼き払ってしまった

さらに、烏巣救援と同時に派遣していた、官渡攻撃部隊はそのまま曹軍に投降してしまう
こちらの指揮官は張郃だったが、彼は烏巣救援を主張したのになぜか官渡攻撃を命じられる。
張郃は後々曹操軍で大活躍する名将であり、顔良・文醜を既に失っている袁紹としては重要な任務にその実力序列のまま優秀な大将を派遣したつもりだったのかもしれない。
しかし袁紹軍に他に優秀な将軍がいなかったとも思われず、その中で作戦に反対していた者を大将にするのは流石に悪手であり、
張郃は官渡攻撃に失敗した場合はもちろん、官渡攻撃に成功しても
自分の判断が間違い&郭図の判断が成功との結果を引き起こすため、いずれ責任を負わされると感じて投降したという。

+ ……ただ……
……ただ「作戦に反対していた者をその作戦の大将にする」のはやはりどう考えても不合理なことであり、
たとえ張郃が兵を率いるに有能な指揮官だったと認められていたとしても、どのような経緯でそのような無神経な人員配置になったかは多くの人が議論しているところである。
実際、この張郃の投降劇については「武帝紀」「袁紹伝」と「張郃伝」で時間軸に矛盾がみられる。これは裴松之も指摘している。
(「武帝紀」「袁紹伝」「荀攸伝」では「まず張郃らが曹操に投降し、その後袁紹本陣も敗れた」とするが、「張郃伝」では「袁紹本陣が先に崩れ、そのあと郭図の讒言があって、曹操に投降した」としている)
別に、史書に相矛盾する記録があるのは常のことだが、張郃が降伏する過程で何があったのか、いずれの者に投降劇を招いた責任があるのかは、後世の我々からは判断しづらい部分がある。



とにかく、食料・兵站を失い、かつまた主力級の将軍を多く失った袁紹軍は敗北を認めざるを得ず、ついに退却。
しかも追撃を掛けた曹操軍によって多くの兵が失われ、逃げ遅れた沮授が捕縛され後に処刑されるなど、さらなる傷を負った。
ここに、官渡の戦いは袁紹の敗北で終わったのである。

ただ敗退しただけならばともかく、最古参の大幹部だった許攸を初め、淳于瓊・顔良・文醜・張郃・高覧といった軍部の重鎮や、
冀州の大豪族で政治面を支えていた沮授を失った痛手はあまりにも大きかった。
また、この敗戦の余波で審配への讒言、田豊の処刑なども続き、河北の袁紹支配は大きく動揺。権力のゆらぎを見て取った各地の小豪族たちが反乱を繰り返した。


◆晩年

しかし袁紹は多くの幹部を失いながらも短期間で組織を再建。
領内で起きた多数の反乱を一年ほどの間に鎮圧して、敗戦で揺らいだ政権の威信を立て直すことに成功する

また、これと平行して官渡決戦の翌年、再び曹操が袁紹の倉亭の軍を襲って「倉亭の戦い」が起きている。
この倉亭の戦い、一応は曹操が勝利したとされ、演義でも官渡には及ばないもののそれなりに重要な戦いとして描かれている。
しかし正史においては官渡と違って記述がほぼなく、実際は守備隊が一部撃破されたと言った程度のものだったようだ。
実際のところ、冀州に動揺が走っていた頃も、曹操はこれ以上の軍を派遣できず、袁紹存命中はにらみ合いの状況が続いていた。
これは袁紹自身が身を以て自勢力の瓦解を防ぎ、河北の支配を維持できる力をいまだ有していたことを意味しており、官渡の大敗後も尚袁紹の勢力は強大であったことが分かる。


…しかし、天運は彼に味方しなかった
官渡の大敗、支配地の叛乱を鎮撫するために東西奔走した心労等が重なったためか、
冀州の地の安定を再び定めてからほどなくして、袁紹は病に掛かり、西暦202年の6月28日、吐血して没してしまう

ただでさえ政権が大きく動揺した直後、河北を一手に束ねていたカリスマの急逝は再び河北を揺るがし、
また後継者を明確に定めていなかったタイミングで世を去ったため、あとに遺された者たちはまとまりを欠く行動に走るようになり、
以後河北の袁家は坂を転がり落ちるように衰退していく。


【人物】

一般には「見かけだけは立派だが、優柔不断で打たれ弱い、名門出の青っちょろいボンボン」という扱いで、かなり罵倒されている。

しかし、実際の袁紹の行動をたぐると、むしろ野心と行動力に富んだカリスマ経営者だったといえる。


まず河北に割拠したことからして決して順調ではないスタートだった。
というのも、もともと彼の故郷は予州汝南郡であり、中国全体ではやや南より。冀州とはかなりの距離がある。
董卓の元から冀州方面へ逃亡し、半ば無理やり渤海郡の太守に任命され河北から離れられなくなったいきさつがあるとはいえ
袁紹には後ろ盾になるものや、頼りとなる血族を引き連れていた描写がない。
彼の政権において、袁紹の「一族」といえるのは三人の息子のほかは甥が一人だけで、
曹操における夏侯惇や曹仁、孫家における孫賁や孫静、袁術における袁胤などのような組織を支える同世代の親族がまったくいない。

つまり河北袁紹政権は、「名門袁家」の血縁や地縁がまったく及ばない、純粋に「袁紹の力」だけで運営された政権だったということである。

親族衆を中心とした統治は、のちのち傍系へ当主の座を乗っ取られるデメリットもあるが、
勢力拡張期においては影響力を広げやすく、結束を固めやすいというメリットがある。
なにせ血族である。昔からのつきあいがあるし、土地のつながりも強いし、敵に寝返る可能性も低い。
もし敵対勢力に寝返っても「やっぱりあいつの帰属先は実家だろう」と白い目で見られ続けるのである。よほどの事態がない限り、血族が敵に寝返ることはない。
また名門一族なら、子女には生まれた時から相応の学を身につけさせられる。大成する人材は限られていても、無難な人材程度は継続供給できる。
曹操が覇者としての地位を確立できたのも、優れた人材が一族に多かったのも一因だ。

これについては、袁紹はそういった手段を取り得なかった。
反董卓連合軍結成の際に中央にいた袁一族が董卓に族滅させられ周辺には子と甥しか一族がいないのが最大の原因だろうが、
その他の名前も不思議と上がってこない
袁家ほどの名族であれば相応の生存者はいたと思われ、実際袁術の周囲には袁一族を慕う者もやってきていたようではあるものの、
せいぜい、従兄であり袁術の兄の袁遺を取り込み、袁術への抑えとして揚州へ送り込んだぐらいである。
自身が血族の袁術と激しく対立した時期が長かったことなど、いくつか要因も考えられるが、とにもかくにも袁紹は同世代・上の世代の血縁を頼らなかった。
血族から自由の身となり、自分の能力とカリスマを元手に奔走したのだ。

この手の君主は、自前の権力に乏しいから、スタートにつまずくとすぐに実権を失ってしまう。
一方で、こうしたタイプは、三国志なら劉備劉焉がそうであったように、
智恵と気力さえあれば、地元豪族を束ねて活動することも不可能ではない。
それに権力を簒奪しようという血族がほとんどいないため、上意下達のシステムをしっかりさせればクーデターは起きにくい。
降伏の道を歩んだが、部下に当主の座を奪われず、結果としてしっかり命を長らえた劉琮、劉璋劉禅
配下の臣下、豪族からの忠誠は失わずに身を保っている。
次代以降、のちの世の、孫呉の後期混迷や晋の八王の乱のような一族由来の政変が起きにくいというメリットも確かに存在するのだ。

さらに袁紹の場合、出自が卑しく、とくに袁術からは散々敵視されて生きてきた。
恐らくはその経験から、袁紹はあえて「名門袁家一族」の座を利用しようとはせず、自らの資質だけで決起、多数の臣下を傘下に収めようとしたのだろう。
つまり袁紹は「幼少期からの忠実な家臣に恵まれた名門出身の御曹司」とは程遠い、「独立志向の一匹狼」だったのだ。


◆勢力拡張

旗揚げ直後に起きた「反董卓連合」では、袁紹は盟主でありながらリーダーシップを発揮できなかった。曹操からも非難されている。
だがこれは河北逃亡から三カ月後のことであり、地縁も血縁も時間もなかった袁紹には兵を集める余裕すらなく、
主導権云々以前に「権力」そのものがなかったからである。
袁紹に決断力があろうとなかろうと、連合を動かすことは不可能だったし、だからこそ祭り上げられたとも言える。


しかしその後、袁紹は「根無し草」にもかかわらず驚異的な飛躍を見せた。

まず、策略を巡らせて冀州を制圧すると、冀州の豪族たちを瞬く間に統率。
袁紹の冀州入りに反対していた沮授たちでさえ組織に組み込み、君臨してみせた。
前の項で述べた通り、権力を持たない支配者は、権力を握る地元有力者の傀儡になりかねない。
袁紹は自前の軍事力はほぼない。にもかかわらず冀州の権力を完全に掌握できたのは、
単なる「出自の尊さ」だけではなく、ギラついた行動力とそれで周囲を惹きつける統率力明確な独立心があってこそである。

加えてその後、袁紹は10年間足らずで冀州のみならず、幽州・并州・青州に進出し、これらを統一してのけた。

三国志」の群雄は、実のところあまり勢力拡張には熱心でなかった。一州全体まで勢力を広げるとそこで固定し、あとは守勢に回る、というパターンがほとんどだ。
群雄個人に拡張意欲があっても、実権を握る在地豪族の大多数に拡張の意欲がなければ絵に描いた餅になってしまうし、在地豪族は迂遠な天下統一より自領土の保全に関心が強く下手な拡張は負担が大きいと考えるからだろう。
劉表亡き後の荊州劉氏のように、例えトップの群雄が破れても、新たな主が現れたらさっさとそちらにつけば良い豪族は、併呑されることがさほどリスクではない。
それだけに、外征をするならば在地豪族の協力を取り付けられるだけの群雄の意欲・気力・力量は本当に桁外れなものが要求される。
一州でとどまらず、さらに進撃しようとしたのは、袁紹のほかは曹操、孫策&孫権兄弟、劉備、諸葛亮姜維、ぐらいのものである*8
しかし一地方政権にとどまるだけでは決して状況は好転しない。むしろ積極的に統一しようとする勢力が現れた場合、守勢に回り続ければいずれは滅ぼされてしまう。
諸葛亮や姜維の北伐は「国力の浪費」と批判されやすいが、「守勢に回る」というのは国力の回復どころか、主導権の喪失、ひいては戦略の放棄につながる。
戦術がいかに巧みでも、対処療法では駄目なのだ。

そして袁紹の場合、彼は常にイニシアティブを取ろうとしてきた
当初は献帝に取って代わるよう劉虞に皇帝即位を打診したが、これを断られるとすぐに地方での勢力割拠へと舵を切る決断を見せる。
冀州制圧のためにさまざまな手を打ち、公孫瓚が劉虞との騒乱の中で大義名分を欠いたと見るや否や、
次は冀州からの勢力拡大の好機と見て各方面へ猛攻を掛けて数年で河北を統一、さらには曹操よりも先に南征を開始した。
袁紹は終始一貫して、積極的に行動し続けていたし、それをするだけの河北豪族の支持の取付と有能な家臣団の形成に成功していた。
これらはほぼ袁紹一代の功績であり、曹操前半生の好敵手に相応しい地方割拠の代表的な成功例である。
曹操を打ち破れていれば、次は天下統一を目指したと考える方が自然だろう。

袁紹には「優柔不断で決断力がない」という認識が強いが、彼の人生の行動と結果は、袁紹の「名家の名に奢らない覇気と気力」を強く印象づけている。

惜しむらくは、袁紹一代の中……しかも冀州への逃亡から約10年という短期間の間で、肥大化した配下の豪族団・家臣団の取りまとめの難しさが、官渡の戦い前夜~烏巣兵糧庫襲撃までの曹操との決戦時に、彼の判断力を鈍らせる形で露呈してしまった事で、
敗北者としての人物評価の下げ幅を大きくしてしまった事であろうか。

◆統治能力

袁紹は根無し草から、ものの10年で河北四州を占領したわけだが、その河北の統治能力はどうだったのか。
これもまた、かなり優秀なものだったようだ。

袁紹政権は曹操に滅ぼされたため、その治績はどうしても史書「三国志」ではおとしめられてしまう。
プロパガンダ的にも「袁紹の統治からよりよい曹操の統治にシフトした」と書かないと、魏晋の正当性が立たないのだ。

しかし、それでも各史書には「袁紹は仁政を敷いていた」という記録・発言が散見される。
郭嘉や荀攸といった、袁紹と直接戦った参謀たちからも、袁紹の優れた政治について言及されているし、
袁紹の死が公表されると、河北の人民はだれもが嘆き悲しんだという。

実際の活動を見ても、官渡決戦に動員した「十万以上の大軍」は、袁紹の統治がよほどうまく行っていないとできないことである。
実際、中原四州を統治していた曹操は、官渡の戦いへ臨む際には兵力的劣勢を強いられており、当時の人的資源の優位性とそれを支える統治力は、袁紹側に利があった部分が確かに存在する。

ただし、曹操側にあった曹操一族・夏侯一族といった親族のバックアップには恵まれず、統治を支えた家臣団は袁紹個人に対する利害関係を中心に結びつきが築かれていた。
これは「単一のカリスマ経営者」対「同列の配下団」という構図での拡張期に起こりがちな、いわゆる「気の合う者・合わない者」同士での同僚間の確執を生み、
のちのち袁紹軍閥の中を蝕む禍根となり、それが官渡決戦~袁紹死後に決定的な混乱を引き出してしまう事になった。
もし、袁紹を内部から支え家臣団の規律を調整し得る有力な親族がいたら、袁紹の負担も減り、曹操との戦いに勝つ未来図があったかもしれない。


◆官渡決戦

「官渡の戦い」において、袁紹は曹操に敗北し、ついに覇権を失う。
この敗因は、一般には「沮授・田豊の説く持久戦を却下し、逢紀・郭図らの説く即時決戦を採用したから」とよく言われる。

沮授・田豊の説いた持久戦は、「今は我々の国内も荒れている。国内を整えた上で軽騎兵を使ってあちこちを攻め、曹操の勢力を国内ともども疲弊させよう、3年でケリは付く」というもので、短期決戦自体を前提としないものであった。
そして、策を聞いた当の曹操も、「その策で来られたら負けたのはこちらだっただろう」と評している。

短期決戦を挑んだ結果が敗北…ということであるから、持久戦策を取らなかった袁紹の失敗…ということもできなくはない。

しかし、持久戦策をとればそれは曹操にも時間や対応の余力を与えることとなる。何より権威が衰えていたとはいえ、後漢皇帝を擁していたのは曹操側である。
その立場を利用し、時間と余裕があれば曹操がどんな奇策を使ってくるか分かったものではない
曹操以外の有力な群雄が動いてくる可能性も出てくる。
勝てるときには機を逸さず攻めるというのは当然の考え方であり、決して落ち度ではない。

そして現実はどうだったか。
関羽に顔良が、輸送部隊深に入りした文醜が討たれ、序盤に前線指揮官を相次いで失う計算外の事態はあったものの、
開戦から半年、多くの局面で袁紹側が優勢であり各方面で曹操軍を破っていた。
予想していたとはいえ、その予想通りとも言える劣勢ぶりに、曹操は敗走を予感し荀彧へ退却の相談を行っているほどである。
この事から、袁紹が正面からの決戦を決断し軍を進めたことは、確かに有力な選択肢の一つであり、それはかなりのところまで上手くいっていたのである。
要は「持久戦策を取らなかったから負けた」「袁紹の判断が間違っていた」というのは結果論の域を出ない。

では、その有利だったはずの袁紹軍が何故敗れたのか。
この戦いで、袁紹側の致命傷となったのは兵糧集積地であった鳥巣への襲撃、そしてその直接的原因となった許攸の寝返りであったのは間違いないのだが、
本当の意味での敗因は、その寝返りの根本的な要因でもある、膨張した家臣団内の確執の深まり、そしてそれが袁紹個人の求心力だけでは解決しきれなくなったタイミングで、官渡決戦の火ぶたが切られてしまった事だと言えるだろう。

田豊や沮授にしてもそうだが、一度主君が決断を下せば、次は自らの主張の矛を収めその決断を成功に結び付けるための次善の協力態勢を執ることが必要である。
審配や郭図、逢紀などもこの一大決戦を前にするならば、普段の人間関係の好意・嫌悪を収め、表面上だけでも同僚との衝突を回避する姿勢を見せる必要があったのは言うまでもない。
しかし現実は、おのおのが団結力を示さなければいけない局面でも、君主たる袁紹や他の幹部と協力し身を挺して国難に当たったとは言い難かった。
田豊強固に自己主張を繰り返した挙句に投獄され、
許攸献策の却下と審配との対立で、張郃郭図との戦術方針の対立から曹操軍にそれぞれ投降する、など、
袁紹が採った、官渡の戦いに対する戦略方針とは別なところで、人間関係を起因とする戦力低下が続出してしまっている。
その最たる例が許攸の裏切りであり、鳥巣の敗戦、それに伴う袁紹軍の混乱と敗走の直接的原因となってしまっている。
許攸は逢紀・淳于瓊と並ぶ古参の大幹部、なおかつ袁紹とは若年期に「奔走の友(心を許しあい、危機に遭った時は駆けつける仲間)」の契りを結んだ同志でもあり、
官渡での部隊展開について相談を受け献策する参謀の座を田豊とともに(彼は投獄されたため、実質1人で)担当していたと史書に記録されているほど、袁紹政権において重鎮だった人物である。
そんな彼が白昼堂々、曹操軍に投降するなど、袁紹にとってはすべての機密が漏れるのみならず、それ以降の軍の方針を揺るがす一大損失であった。

これは袁紹自身のカリスマを頂点として成り上がった彼の軍閥が、あまりに短い期間で伸長を進め続けて、「豪族の寄り合い所帯」「代を重ねての忠勤が乏しい」性格を解決できず、
それが最悪の形で、当初は成功していたかに見えた官渡決戦における袁紹の決断の優位性を、あっという間にひっくり返してしまったのである。

ちなみに曹操は戦後、袁紹軍が置き忘れていった部下が内応する手紙*9の存在を聞いた際、
「俺だって心が折れそうだった。部下たちは当然のこと。不問にするから手紙は中身を見ずに焼き捨てろ」と命じている。
内応リスクを抱えていたのは、曹操軍も同じだったのだ。


この官渡決戦における軍団のまとまりの欠乏を除けば、それ以前の河北進出時代は、袁紹の戦術的成功はかなり強調して描かれている(実際、その功績が無いと河北四州を支配することなどできなかったので当然だが)。
北方の異民族の脅威を退け逆に協力関係まで結び、公孫瓚を粘り強く攻めて難攻不落と言われた易京を陥落させ、青州には名代として袁譚を送り込み孔融を排除する事に成功している。
また黒山賊が領内の反乱と呼応したときには、食客たちがパニックに陥るなか、顔色一つ変えずに鎮圧の指示を出すなど、現場での胆力に優れたところを見せている。
三国時代屈指の軍略家とも評された曹操には及ばないにしても、当代としては十分すぎるほど軍人として非凡な成功を収めた人物だったのだ。


◆献帝拒絶について

献帝を袁紹が拒み曹操が迎え、その結果曹操が外交の主導権を握れたことから、これは袁紹の敗北と見なされがちである。
ただ、袁紹は何度も述べたが、自前の権力でのし上がったのではなく、個人のカリスマと手腕で束ねたタイプである。
こんな袁紹がうかつに献帝という「君主以上の権威」を迎え入れると、かえって組織内部の権威が二分し、組織そのものが分裂しかねない。

まだ曹操の場合、献帝が来ようと夏侯惇がゆらいだりはしないだろうが(曹操が失脚すれば次は夏侯惇の番)、
袁紹の場合は、それこそ淳于瓊あたりが董承らと結託して良からぬ画策をしかねないのである。
(淳于瓊は後漢朝廷直属の官僚で、かつて袁紹とは同格であった。そのため「献帝に仕える」形式をとって袁紹に並び立つことも理論的には可能。
 ついでに彼は潁川の名門出で、実は郭図・辛評・荀諶らとは同郷でもあり、横の繋がりもあったとみられる。また、彼らは袁譚派である。
 もし彼らが、献帝と袁譚を接近させて担ぎ上げ、袁紹を駆逐する、なんてことになったら大ごとになる*10

それでなくても袁紹は献帝のこと、「『あの董卓』が無理やり即位させた皇帝」という経緯を特に嫌っていたので、
彼が平穏に身柄を引き受ける可能性は非常に低かったと思われる。
そもそも、献帝存命中に劉虞に「アンタが皇帝やってみませんか?」と打診する時点で、献帝という立場に権威を見出だしていないところが垣間見えている。
その点、もし宮中殴り込みの際に董卓にかっ攫われず、ちゃんと二皇太子の身柄を確保できていたら、果たしてどう立ち回ったことだろうか。


◆袁家没落の要因

袁紹が死亡したのが202年、その3年後の205年までに、甥の高幹と袁譚は曹操に降伏(のちにいずれも叛逆して死亡)、
袁煕・袁尚は冀州・幽州の主要方面を追われ烏桓族の地域に逃げ込むなど、わずか3年の間に、
袁紹が覇権を唱えた四州の支配は、まるで砂上の山が打ち寄せる波に溶かされるようにあっというまに瓦解して曹操陣営に組み込まれてしまった。

確かに、官渡の戦いでの曹操の勝利は劇的ではあり、それゆえに後世の物語などではこれが袁家衰退の決定事のように描かれるが、実際はそうではない。
それまで絶対優位であった袁紹側と、それに抗する曹操側のパワーバランスが変わり始めた一件であるものの、
それでもあくまで、「南進してきた袁紹の大軍を、曹操が寡兵で後退させた」という結果の一会戦の勝敗に過ぎない。
袁紹側の人材喪失も深刻である一方、もともと劣勢だった曹操側の兵力被害も無視できるものではなく、
袁紹存命時は、袁紹支配四州VS曹操支配四州のにらみ合いは続いている。

結局のところ、全てが決定的となり、後世、明確に袁紹の汚点として指摘されるのが、最後まで後継者を指名しなかったことである。
本来は世襲制として、長子が後継者となるところではあるが、実は、長男・袁譚は伯父の袁基の養子に出されて後継者からは外されたと見られていた。
この袁基は反董卓連合が結成された際に董卓に捕縛され処刑されており、それより前に養子になっていたことを考えると、
この「後継者外し」はかなり早い時期に行われていたことが推察される。
袁譚については「優しく周囲に恵みを振りまく人柄」と評される一方、
赴任地の青州で名士を多く招くも彼らを的確に使えず、意見も有効に取り入れられないため統治は荒れ果てたという逸話が伝わっているため、
人格はともかく、政治のリアリストととして能力に欠けた人物であったこと姿が浮かび上がっている。
こういった点を考慮したのか、袁紹も生前は武勇に長け臣下からの支持も取り付けていた袁尚を後継とする姿勢を隠さなかったと言われている。

しかしながら、長男袁譚を尊重するのか、素養を見極めあえて三男袁尚を指名するのかハッキリさせないまま袁紹は急死。
袁譚は青州を任されていたという実績と長男という優位性を盾に、袁尚は生母の支持と袁紹の遺言状(偽造の疑いあり)を盾に激しく対立。
これに、袁紹存命時から見え隠れしていた家臣団の対立が絡み、袁家は真っ二つに争い始めた。

ここで袁家派閥に触れておくと、大きく分けて「袁紹側近」と「河北豪族」と「潁川名士」の三大派閥があったとよく言われる。
袁紹直属として手足となって働く、逢紀・許攸ら「側近組」。
河北出身で実際に兵力や財力を供出する、審配・沮授・田豊ら「河北豪族組」。
荀攸らの同郷で、主に知識層を形成した、淳于瓊・郭図・辛評・荀諶ら「潁川人士組」。
袁紹自体がヨソ者であるため、よけいに彼らのあいだでモメやすかったという。
また、当たり前だが一つの派閥のなかでも足の引っ張りあいが起きる。とくに田豊はわりと浮いていたようだ。

+ 「派閥と豪族について」
これについては史書に間違いなくそう記されているわけではないが、状況はこれを示唆している。

まず中国は文字の表記が統一されたのだが、漢字は表意文字なので発音までは統一できない。
そのため、出身地が違うと会話ができないとは現代でもいわれるところであり、それゆえに出身地方で固まりやすい。
それでなくとも地縁・人脈は重要な繋がりである。

なにより、当時の人口問題がある。
「三国志における人口」、具体的には魏・呉・蜀の「戸籍に登録された人口」の総数は、わずかに800万だった。
この数値は後漢最盛期の6000万に比べるとたった1/7である。
疫病などで多くの死者が出たのは確かだが、それにしても異常な数値であり、
実際は「国家が直接徴税・徴兵できたのは国土の15%前後に過ぎず、まともに政権を運用したければ、実際に人間を抱えている地方豪族・各派閥の支援を受けなければ無理だった」とされる。
当時の情勢を見渡しても、荊州刺史劉表は在地豪族に拒まれて荊州入りすらできず、
豪族の蔡瑁・蒯越が擁立してくれてやっと赴任できた、というエピソードがある。蜀漢に荊州派と益州派が存在したというのもこのあたりに由来する。

日本の選挙を揶揄して、政治家に必須なのは「地盤(後援組織)・看板(知名度)・鞄(資産)」という。
これは中国も同様で、まして古代・中世ならなおのこと、「地縁」「豪族」「派閥」といった存在は大きい。
もちろん、それらはあくまで条件に過ぎず、そうした条件下でどう動くかは歴史人物個人の判断によるが、条件を軽視することもならない。


沮授についてアタリがきついのもよく言われるところ。
沮授はもともと軍権を一手に握るほどの重鎮だったが、官渡決戦の直前に、軍権を沮授・郭図・淳于瓊の三人に分割されている。当然彼は不満に思ったという。
もっとも、沮授はただでさえ冀州出身の大豪族で、河北に勢力を誇っていた。
そんな彼がいつまでも軍権を一手に握っていては、権力が沮授>袁紹となりかねず、極めて危険である。
沮授と袁紹が本気の殺し合いにならないうちに、軍権だけでも分散させるというのは、
むしろ双方の殺し合いを予防したといえそうだ*11
袁紹が沮授を嫌っていたということはないようで、白馬津攻撃を顔良に専任しないよう進言したときは受け入れている(支援部隊として郭図・淳于瓊を派遣)。
沮授の死後も息子の沮鵠が幹部になっていた。


話を本筋に戻すと、家臣団をひっくるめた袁紹後継の混乱を曹操が放っておくはずはない。
完全に袁家の足元がグラついていると見透かして、袁紹存命時には起こさなかった規模の冀州方面への攻勢を開始する。
それでもそこは名門袁家四州の底力。一時は、ちょっかい出してきた曹操軍を撃退し、許昌へ敗走させるファインプレーーーー
と思いきや、戦勝の喜びにひたる間もなく、またもや兄弟ゲンカを始める始末。
その過程で、逢紀や審配など有能だった家臣団も喪っていき、「あ、もうこらアカンわ」と曹操陣営へ離反する者も多数出始め、
袁家衰退のカウントダウンは一気に加速する事になってしまった。

袁紹は、官渡決戦前に家臣同士の対立があり、また戦時に許攸、張郃、高覧との有力者の離反が相次いだ点を真摯に受け止め、
「自分一代で築いた地盤で、まだ完全に家臣たちがまとまりきっていない」事実を冷静に見る必要があっただろう。

それを十分に考慮し、改めて袁家の支配を内外に示す手段として、袁譚or袁尚のいずれかを後継とするのかはっきりと示し、
そしてどちらが次代の袁家の柱となっても、家臣たちがいずれか一方にしっかり寄り添えるように意見を統べておくべきだった。
勿論、河北四州統一から官渡決戦、そして袁紹急死と、目まぐるしく変化する情勢、それに比して僅か3年程度という短すぎる時間で、それも袁紹の独力でどれだけ対立を調整できたかは分からないが、
それでも、少しでも上記の対策をしておけば、最終的には曹魏が天下の多くを収めていたにせよ、その道のりは史実よりは遥かに険しいものとなっていたのではないだろうか。


とはいえ、実際のところ、袁紹自身「自分の寿命が少ない」「急いで跡継ぎを決める必要がある」とは夢にも思っていなかった可能性も否定できない。
袁紹は官渡の戦いの僅か2年後に死去してしまうが、その最大の原因はおそらく敗戦のショックと、戦後の反乱鎮圧・組織再編で過労に陥った結果、寿命を縮めたことではないだろうか*12
袁紹は西暦200年の「官渡の戦い」という決戦で陣頭指揮を執るほどの体力があり、かつ同年代の曹操はそれから二十年もの寿命があったことからしても、袁紹は「まだ死ぬような歳ではない」と考えていたことは想像しやすい*13
袁紹の生年は不明だが、おそらく同年代であろう曹操は202年の袁紹死没時点で47歳。また、曹操が跡継ぎを曹丕曹植のどちらにするか悩んだのは一般には216~217年ごろ(曹操六十代)とされ、202年前後ではまだ曹操も「政権の後継者」という意味では考えていなかったと思われる*14
また「韓非子」には「跡取りというものは、早く決めればいいというものではない*15」という話もある。
当時をリアルタイムで生きる人間に、寿命(=未来)のことはわからない以上、袁紹には200年時点では「袁譚を養子に出して自身の後継から外し、袁尚を傍に置く」以上の対策はとりえなかったのかもしれない。


【三国演義の袁紹】

三国演義では、基本的に正史準拠。
名将だった淳于瓊が酒飲みの無能にされるなど多少の脚色はあるが、ほとんど変わりない。三国演義成立過程ではかなり後期に流入したタイプなのだろう。

しかし、実際の袁紹にはかなりアクティブな面があるため、ときどき変に威勢のいい場面がある。
呂布を従えた董卓に向かって正面から罵倒し、剣を抜いてにらみつける場面は、中国の実写ドラマでもすさまじい名シーンとなった。
公孫瓚戦での啖呵も採用されている。

ただ、やっぱりというかなんというか、作中ではことあるごとに「おぼっちゃま」「優柔不断」と連呼されており、とにかく哀れな扱いとなっている。


【各作品】

正史~演義の時点で評価が安定しているうえ、そこにあるのが「金持ちのボンボン」という時代を問わず理解しやすく弄りやすいキャラ像であるため、創作でのキャライメージは大分固まっている。
とはいえそのイメージから過度に貶められたり、三国以外に興味なしの方針であえなくハブられることもしばしばではあるが。

  • 横山三国志
原作では反董卓連合終了あたりでフェードアウトするが、アニメ版では官渡の戦いが描かれている。
曹操軍の面々から決断力に欠けるだの散々な言われようだったが、その決断力は悪い方向に発揮されることになる。
圧倒的兵力差の慢心からか、とにかく戦時中にもかかわらず酒浸りになり、重臣達からの献策・助言を悉く無視し、演義同様許攸の離反を招く。
ちなみに許攸はアニメでは清廉な人物であったことにされ、家族の汚職は彼が黒幕であったという謂れなき罪を着せられそうになったため曹操の下に奔るという展開になっていた。
袁紹が許攸を問い詰めるときのセリフはある意味語り草。
「許攸!貴様の甥が税を横領したぞ!」「貴様の指図に違いあるまい!いや、そうに決まった!

顔グラは名門らしく金ピカ鎧に身を包んだヒゲの偉丈夫という感じで一貫している。勢力のイメージカラーは黄色。

最近ではどの能力値も70~80台、魅力があれば90台とバランスよくまとまっている。
政治は「Ⅶ」から70台安定、悪い時は「Ⅲ」~「Ⅳ」の50前後とナメられ傾向だが、全体的な評価はシリーズ通して大差ない。
そこらの凡庸な君主とは比べ物にならないが、魅力以外突き抜けることがなく特技もあまり優遇されないため、かなり優秀ではあるものの曹操には及ばない1.5流。
似たような能力傾向の劉備より少し弱いくらいのところに収まりがちで、良くも悪くも劉・曹・孫に次ぐ4番手である。

後年の作品では魅力の重要性(行動力、配下の忠誠)が高まったのでマシになっているが、能力以上に深刻なのが隠しパラメータの「相性」
ライバルの曹操と真逆に設定されていることが多いのだが、曹魏の人物は単純に割合として多く、また曹操が身近の敵勢力という立場ゆえ、それは思った以上に痛い。
黄河を越えて中原に出ても人材が思うように揃わなかったり、たとえ揃っても多大な俸禄を要求してきたり、官渡の戦いを制しても曹操達が全然傘下に加わってくれなかったり…
臣下は一線級を擁してはいるがあまりバランスがよくない上、能力の高い人物に相性の悪い奴が多いため、後半になればなるほど苦戦しがち。
しかも袁紹の寿命は(史実の没年を参考にしているため)基本短く、後継の息子たちの能力は悲惨なので、なおのこと攻略を急ぎたいところ。
さらに、「Ⅱ」では魅力に反して、魅力と並んで忠誠や外交に関わる「人徳」のパラメータが残念なことになっているので、家臣たちの初期の忠誠が低め(ひどい場合は60台のものも)なうえに、忠誠も自然低下しやすいのでさらにきつい。重要な家臣は早いうちに褒美をやって忠誠を上げたいところだが……

ただ、幸い彼を嫌っている武将もかなり少ない(上に割とすぐ死ぬ奴らばかり)なので、戦力はあくまでも揃いにくいだけで揃わないわけではない。
しっかり袁術には嫌われてる(上に相互嫌悪)ので完全に袁家の栄光とはいかないが。

物量や攻城力に長けていることが多いので、数に物を言わせる戦略がベター。
また魏勢力との相性は悪い反面、蜀勢力とも呉勢力とも相性がいいという特徴がある。
もし近くに劉備の勢力があるなら、先に併合して関羽・張飛・趙雲を部下にする手もあり。

  • 三國無双
詳細は袁紹(三國無双)を参照。
初期から登場。名族の誇りを連呼するお騒がしキャラ。覇気はあるが、自尊心が強すぎて打たれ弱い。
その打たれ弱さは『2』では合肥の戦いの総大将で放っておくと僅か一分足らずというすさまじい速度で敗走するほどで、袁紹敗走RTAなどというネタにまでされている。現在最速は23秒だとか。
一時期はやたらと歪んだプライドを強調され「それはどちらかと言うと袁術では?」という声もあったが、
その袁術が脱モブした『8』にて路線転換し、周囲が自然にヨイショしたくなるような格好良いキャラへと変わった。一方で最近はなんだか老けてきているのが哀しい。
一番さみしいのは、未だに脱モブした部下が曹操に降伏する変態貴公子寝取られ貴婦人しかいないことだろう。
呂布陣営には曹操に所属しない無双武将が多いので、是非とも開拓してもらいたいところ。

序盤はとりわけ「尊大で自己顕示欲が強い分だけ蒙昧な面も目立つ、ダメなエリートの典型」という点が強調されていた。
が、中盤からはその自尊心だけをそのままひたすら肥大化させ、自らを
「常に太陽が照らし続ける道を進むが如く、一切の憂慮や苦難を伴わない覇道を進む英雄」
とし、曹操とはまったく別ベクトルのカリスマの怪物と化す。
その英雄像に心酔した軍団がもたらす圧倒的な力は曹操をして「語るすべなし、為すすべなし」といわしめ、
肥大化を止めないそのエゴはついに「自身を人の枠を超えた聖なる存在へ昇華させる」という領域に到達するまでに至る。
しかし……

ほとんどモブ扱いで、先に登場した袁術の髭と冠を変えただけのコンパチキャラ。
「家族だ! 家族の為なら頑張れる」

  • 一騎当千
一応Aランクなので弱くは無いのだが、卑怯な手も辞さない悪党。曹操の軍門にあっさり下ったことが語られるのみ。

真名は「麗羽」。美羽(袁術)は従妹。
ひたすらゴージャスな金髪縦ロールお嬢様口調巨乳、明るい声に仁王立ち、名門のプライドガン積みといった、いかにもな袁紹像。
もちろん能力では華琳(曹操)に大きく水をあけられている…が、スタイルでは華琳に大きく水をあけている。
実は涙もろくてお人好し。また、アホ呼ばわりされているが意外なことに学力そのものは華琳よりも高い。

  • 十三支演義
CV:周瑜ヒャクシキ
銀髪をたなびかせた美丈夫。
一見分け隔てなく接する温厚篤実な人物に見えるが、実の所性格は最悪で、人を利用価値でしか判別できない卑劣漢。
PS版でとってつけたかのような個別ルートができた。

登場は2からで袁術とともに袁勢力ごと参戦。
以降は一貫して「優秀なステータスを持ち強力な号令を扱えるカード」として参戦している。
号令持ちとしては高い武力と中程度の知力に魅力をはじめとした豊富な特技を兼ね備え、
「栄光の大号令」「大兵力の大爆進」「王者の決断」などといった一発で勝敗を決定づけるような大型号令を所持するキーカード。
主導権を握った状態で号令を使えると非常に強いが、使わされる展開になると弱い計略デザインもシリーズを通して共通。

リブート後は勢力が漢に移るものの、やはりキーカードとしての位置は揺らがない。
光魔法が使える勇者になってもそれらのせいで立ち位置がないほどに重要な位置を占めている。
でも人を惹きつける熱唱はA面B面共に良好なので結局勇者が微妙というだけの気がする。

「『河北の勇』袁紹バウ」として登場。演者はバウ。中の人は師匠
家の権威を振りかざす無能なボンボンであり、劉備のような在野の侠を露骨に軽蔑している。
当初は敵から逃げようとして後ろを振り向いた瞬間、弟である袁術ズサが遥か彼方まで逃走していて呆れるといったコメディリリーフ的な側面も目立ったものの、
袁術ズサが暴走し始めた辺りからは野心家として覚醒。
彼の残した玉璽を入手した事で覇道を進み始め、遂には地獄を彷徨う弟の魂を取り込んで四本の腕を持つ異形の姿「龍飛形態」へと変貌。
最期は官渡の戦いを経て幼なじみにしてライバルである曹操ガンダムに討ち取られた。
初代のコミックワールドだと空気で、伝説の「公孫瓚憤死!」をやったのは彼では無く曹操という事になっている。

初代ではキットは発売されず、アニメ版に際して他の武将と同じ「真」名義で発売された。設定通り袁術(別売)との合体で龍飛形態を再現可能。
また後年にはプレミアムバンダイから、成形色を変更しパッケージを初代のフォーマットに改めたバージョンのキットも販売された*16。こちらにはボーナスパーツとして暗黒の力をイメージした紫色の玉璽も付属する。



袁家復興のために追記・修正をお願いします。

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最終更新:2025年03月09日 16:49

*1 後漢代の渤海郡は冀州に属していた

*2 そもそも袁紹の渤海郡自体が冀州の一郡に過ぎず、連合には冀州牧の韓馥も参加している

*3 中には渤海郡よりも大きい郡の太守もいた

*4 実際に曹操は献帝の処遇で難儀した。周辺諸侯に「専横反対」「献帝救出」の大義名分を与えたり、朝臣たちに謀反されたり、暗殺されかけたり……

*5 この「子供」は袁尚ではなく、袁買らしい。ただし彼は袁紹の四子とも、袁尚の甥で袁紹の孫ともされ、不明確。

*6 高幹は死ぬまで并州を「七年」治めたらしい。逆算すると彼が并州に赴任したのは199年である。

*7 具体的な汚職や収賄の記録は残っていないにもかかわらず、袁術や荀彧に口を揃えて「貪欲で身持ちが悪い男」と酷評されている。よほど金にがめつかったのであろう

*8 孫権にしても、荊州を取ったあとは「満足」して拡張をやめたフシがある。孫呉の国防方針である長江流域の確保が終わったので「満足」したのかもしれない

*9 「置き忘れた」のではなく、曹操の家臣団に亀裂を入れるため、あえて「置いていった」のかもしれない。

*10 ただし史書では淳于瓊は「献帝受け入れ反対派」だった。もっともこの献帝受け入れ、記述により賛成者と反対者が入れ替わっていたと、割と複雑なのだが。

*11 実際、麹義は袁紹軍筆頭の地位にあったが、軍権を握りすぎて袁紹を軽んじたために粛清されている。

*12 上述通り、許攸・張郃・沮授・淳于瓊といった軍事・政治を支える幹部たちを多く失った以上、その穴埋めをする袁紹や逢紀ら首領・幹部にかかる負担は増える一方である。

*13 敗戦から時を置かずして死去した人物の例として同時代の劉備が挙げられるが、彼も夷陵の戦いから1年程で死去している。60歳超という老齢、関羽・張飛の死のショックもあるが、劉備にトドメを刺した死因は恐らく自らが指揮を執った夷陵の敗戦のショックであろう。

*14 「197年ごろの兄たちの死に伴い曹丕を後継にした」という話は、「政権の跡継ぎ」ではなく「曹操の個人的な家の跡継ぎ」という意味であろう。ちなみに、曹丕は官渡の戦い時点で13歳である。

*15 楚の成王や西周の威公(戦国時代の周朝からさらに分裂した小国)は、早くに太子を立てたが、後で別の公子を寵愛したために、前者は太子に殺され、後者は兄弟で争いが起きて国が割れた。韓非子はこれを「跡継ぎを早く立てたがために、国が乱れた例」に挙げる。

*16 上記の『河北の勇』が正式な二つ名として設定されたのもこのバージョンから。