袁紹

登録日:2020/01/17 Fri 22:10:00
更新日:2024/03/12 Tue 23:35:48
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袁紹とは、後漢末期の武将・群雄。
北方圏の覇者となり、あの曹操をして正面から打倒しうる存在でありえた、おそらく最大にして最後の男。
一般的な歴史評価は低いものの、覇者としての規模や力量は劉備孫権よりも上と評されることさえある、三国志の「四番目の男」である。



【生涯】

◆出生

後漢中期~後期を代表する名門豪族、「四世三公」汝南袁氏の出身。
生き馬の目を抜く官界において、四代に渡って位人臣を極めた、実力・財力・組織力を備えた実力派の名門の出身である。
ちなみに、汝南郡汝陽県は現在の河南省は周口市の商水県だが、その東隣の項城市からは二千年近くのちに袁世凱が産まれる。

というといかにもボンボンの御曹司と思われるが、実際の袁紹はかなり恵まれない立場にあった。

まず、袁紹の父親がはっきりしない。
袁紹の父親の世代は(有名なのは)袁成・袁逢・袁隗の三人である。(汝南袁家については袁術の項目に)
このうち、最初は袁家の当主の座は袁成が継ぐはずだったが、彼が早世したため、袁逢が当主となった。
しかし袁紹は、袁成の息子という説と、袁逢の庶子だったのをあとで袁成の養子になったという説がある。
前者の場合「本来当主になるはずだった血統の忘れ形見」、後者の場合「嫡流の兄弟を差し置いて当主になりかねない立場になった泥棒猫」、となり、
どう転んでも御家騒動を引き起こす立場である。
しかも、袁紹の母親が「卑しい身分」だったことだけは確定している。ある話では母親を「婢女」と表現して「袁家の恥・袁紹の罪」などと書かれたことさえある。

父親がはっきりせず、しかもどっちにしても危うい立場、かつ母親の身分が奴隷並み、となると、貴族社会ではかなりのハンデを背負っていたはずだ。
生まれた年すらはっきりしないのもこれが一因であろう。
とくに、袁逢の正室の息子で、自分にとっては異母弟であり従弟になる袁術からはかなり憎まれていた。

そうしたこともあって、袁紹は一族のなかでかなり浮いていた。市井に交じって遊侠を好み、ヤンチャをしていたこともあったという。
曹操ともこのころからつきあいがあり、信憑性はともかく「一緒に花嫁を奪った」話は語り草。
ただ、そうした愚連隊のなかにあっても、袁紹は名門の気品と名門らしからぬ謙虚さを忘れず、威厳と闊達さを併せ持ち、多くのひとから慕われたという。
春秋戦国時代の孟嘗君もそうだが、幼少期に苦労をしたために人情に通じるようになり、それによって人心収攬の術を磨いていったのかもしれない。
曹操と親しくなったのも、かたや「宦官の孫」、かたや「婢女の息子」という出生のレッテルに苦しんだもの同士、シンパシーを感じたからか。

二十歳のころには県令を勤め、評価も高かったのだが、母の死とその服喪を期に退役。
しかも、母の喪が済むと今度は袁成の服喪、それが済んでもなお謹慎、となぜか動かなくなる。
あの黄巾の乱にすらも沈黙を通し、徹底して後漢王朝と距離をとっていた。

ただ、専横を極めた宦官の十常侍が不審なものを感じたことや、袁隗が激怒したという話、謹慎していながら侠客仲間と深い契りを結ぶなどの逸話から、ただ引き籠もっていたわけではない様子。独自の人脈を作っていたのだろうか。
結局、袁隗の提案から、時の権力者・何進の幕僚に納まり、その後は急速に昇進。
188年には曹操淳于瓊らとともに「西園八校尉」の一角に座っている。


◆反董卓連合

189年に霊帝が没し、帝位を巡り権力闘争が起きると、袁紹たちは上司である何進の側について宦官と争うことになる。
袁紹は何進の幕僚として暗躍し、各地の軍閥を呼び寄せて、その軍事力で宦官たちを威圧。
何進が宦官たちに暗殺されると、袁紹はこれをすぐさま「宦官の謀反」として糾弾し、袁術・曹操とともに宮中に突撃。
問答無用で宦官とそれに阿る官僚を虐殺し、ついに長年に渡る宦官の跋扈に終止符を打った

ところが、宦官が最後の悪足掻きで皇太子二人を連れ出してしまい、それがたまたま入朝しにきた董卓の軍団に拾われたことで、
一連の権力闘争は董卓の一人勝ちとなる。
袁紹たちは董卓への反発から、首都を脱走して冀州にて挙兵。袁紹は「反董卓連合」の盟主となった。

ところで袁紹は、故郷の汝南には向かわず、地縁のない冀州にて挙兵している。
これは董卓が袁紹を追討せず懐柔しようとし、渤海郡太守に任命したからである(後漢代の渤海郡は冀州に属していた)。挙兵したのはその任命を受けた後。
しかし出奔から懐柔目的の太守任命、そして挙兵まで三カ月という短期間、
渤海郡自体中堅程度の規模の郡であること、
更には河北での地縁もないという状態では、兵力を作ることはできず、盟主でありながら軍事力=統率力が弱かった。
というか、統率力がないからこそ諸侯に担がれたと見ることもできる。
他諸侯は袁紹よりも格上で実力を持っていた州牧・州刺史だったり(そもそも袁紹の渤海郡自体が冀州の一郡に過ぎず、連合には冀州牧の韓馥も参加している)、
袁紹と同格程度の郡太守・諸侯相(中には渤海郡よりも大きい郡の太守もいた)であったため、
少なくとも連合内で袁紹が実力で抜きん出ていたという事はまずあり得ない。
曹操や張邈など軍事力を持った昔馴染みの盟友はいたものの、曹操(+張邈の援軍)がいきなり徐栄に撃破され兵を失ったため、袁紹の統率力はあっさり限界に達する。

他方、ライバルの袁術は孫堅を支えつつ南方で雄進し、董卓は長安に逃亡。
董卓はもともと涼州を縄張りにしており、長安遷都は本拠地への接近・戦力増強を意味する。
他方、連合にとって長安は目標として遠すぎ、攻撃限界に達して追撃は不可能に。
そのうえ、もとより統率力のなかった連合の分裂はますます悪化。諸侯同士の殺し合いにまで発展して、自然消滅した。
袁紹はそのまま冀州に戻り、腰を据えて勢力拡充に勤しむようになる。


◆河北の雄

連合を崩壊させた利害闘争がひと段落したところ、天下は大きく分けて袁紹・曹操・張邈・劉表など袁紹グループと袁術・孫堅・陶謙・公孫瓚など袁術グループに分裂していた。
ちなみに、このころの劉備関羽張飛は公孫瓚の遊軍といったところで、間接的に袁術グループに属した。
初手は袁術グループが大規模な攻勢を仕掛けたものの、劉表が孫堅を討ち取ったのを皮切りに、袁紹は公孫瓚を、曹操は陶謙を各個に撃破。
盟主である袁術も、袁紹と曹操のタッグが打ち負かし、戦況は袁紹側がリードした。

袁紹自身も河北にて飛躍
上述のように袁紹は河北に地縁がなく、人脈も勢力も持たなかったため、かなり厳しいスタートになったが、
彼は策略を巡らせて冀州を奪取、反袁紹派だった冀州の幕僚・豪族たちすら口説き落として、冀州に盤石の体制を築き上げた。

当初は乏しかった軍事力も、在地の武将たちを抜擢・再編することで獲得。
百戦錬磨の猛将・公孫瓚、軍勢百万と言われた黒山賊、孔子の末裔・孔融など、錚々たるメンツを打ち破り、
また幽州に人望のある劉虞の遺族を保護する、異民族勢力を取り込むなどして剛柔合わせた政策をとり、
十年たらずのあいだに冀州のみならず、幽州・并州・青州を版図に収めた

全盛期の兵力は十数万を数え、名実ともに当時の中国における最大最強の軍閥にのし上がる

外交面では、曹操を陰に陽に支援。
曹操を南方の防波堤に利用するという打算もあるにせよ、陳宮の寝返り・呂布の猛攻など曹操の苦境を助けたのは間違いなく袁紹であった。
もちろん、曹操も袁紹を助けて袁術・呂布ら強敵と戦っていたのであり、この時点では両人はまさにパートナーだった。


◆曹操との対立

しかし、やがて袁紹と曹操が周辺の敵をあらかた駆逐すると、その勢力は必然として、お互いに向かざるを得なくなった。

初めの亀裂は献帝の処遇だった。
長安からほうぼうのていで中原に逃げてきた献帝と朝臣たちを、迎え入れるか否かで、袁紹・曹操はともに悩んだ。
確かに献帝を擁立すれば皇帝の権威と大義名分を得られるが、一棲両雄の禁を犯すことになるし、権威と権力が分裂する危険を孕む*1
まだ迎える前の時点でさえ、臣下のあいだで意見の対立が生じたぐらいである。
謀臣のひとり郭図について「賛成した」説と「反対した」説があることからも、混迷がうかがえる。

結局、袁紹は献帝を拒絶したのだが、曹操が擁立したため、権威において曹操が袁紹の上に立ってしまう
この時点で曹操は袁紹と戦うつもりはなく、袁紹を大将軍に、自らは格下の車騎将軍を名乗ることで納まったが、いずれ火を吹くことは明らかだった。


そして199年、南の袁術と北の公孫瓚と東の呂布が相次いで死亡し、天下はついに袁紹と曹操の二大巨頭の決戦情勢となっていた。
どうやら袁紹は199年時点では曹操と戦うつもりはなかったようで、劉備を曹操が攻撃した際、田豊の出兵進言を拒否している。
「子供*2の病気」を理由とされるが、実際には199年とは幽州と并州*3を併合した年で、後方の安定に不安があったからだろう。
実際、199年に公孫瓚の息子・公孫続に大軍を貸した黒山賊の張燕が、いまだ勢力を残していたし、
公孫瓚が敗死したのが199年の3月で、南征の意志を固めて出陣したのが200年の2月のため、新支配地の安定化に時間を取ったと見ることができる。

しかし200年2月には、ついに総力を挙げて出陣。いわゆる「官渡の戦い」の幕が上がった。


◆官渡の戦い

序盤は、先遣隊であった顔良・文醜が相次いで戦死したものの、袁紹直属の本隊は兵力十万以上という大軍団で正面から圧倒
数で大きく劣る曹操軍は素早く退却し、黄河の支流が激しく入り組んだ難所、官渡一帯に展開する。
これに対して袁紹は、麾下全軍の総力を結集した猛攻で防衛線を次々突破。曹操は最終防衛ラインと言うべき官渡の砦にまで押し込まれた。
袁紹軍が発射する矢弾は雨のように降り注ぎ、曹操軍の兵は盾をかぶらなければ外を歩けなかったとまで言われる。

しかし曹操もまた必死の奮闘を繰り広げた。
袁紹が櫓をつくって射掛ければ、曹操は発石車を投入して反撃。
ならばと地下道を掘り進める袁紹軍に、曹操軍は急きょ塹壕を掘ってこれを潰す。

さらに袁紹は官渡戦線のみならず、孫策劉表に北上を唆したり、故郷・汝南に劉備を派遣して挙兵させたりと、外交面でも活発に攻勢を掛けた。
孫策は挙兵直前に暗殺されたものの、劉備ら汝南の別働隊は逃走と来襲を繰り返し、曹操の戦力を確実に削っていた。


だが曹操もまた戦線を死守し、やがて戦況は官渡水を境として膠着化、長期戦にもつれ込む。
袁紹軍は遠征軍の常で補給が厳しく、烏巣に大規模な補給基地を作っていた。

ところがある日、袁紹の最古参の腹心だった許攸が、曹操に寝返ってしまった。
許攸は頭こそ切れるが曲者で*4、官渡で献策が度々遠ざけられることに不満を抱いていた上、審配から親族の汚職を弾劾され、主君を見限って逃げたのである。

最高幹部の一人だった許攸のタレコミにより、烏巣こそが最重要の補給拠点であると確信した曹操は、みずから精鋭を率いて烏巣を強襲
袁紹も事前に淳于瓊の部隊を警護につけていた。彼もまた旗揚げからの古参であり、激しい反撃を展開。一時は曹操自身も危ういほどになった。
更には曹操軍本隊の手薄を察知した袁紹軍は数の利を活かし、烏巣の救援に快速の騎兵隊を送るとともに、手薄になった曹操本陣も重装歩兵隊に急襲させ、関ヶ原もかくやという急所の一戦が巻き起こる。
しかし、この機を逃しては勝ち目はないと確信していた曹操も火を吹くように攻撃。味方から「敵援軍が来ます! 兵を分けましょう!」と言われても「やかましい! 来てから言え!」と怒鳴りつけて攻撃に兵力を傾注し、ついに淳于瓊らを撃破。烏巣の食料をすべて焼き払ってしまった

さらに、烏巣救援と同時に派遣していた、官渡攻撃部隊はそのまま曹軍に投降してしまう
こちらの指揮官は張郃だったが、彼は烏巣救援を主張したのになぜか官渡攻撃を命じられる。
張郃は後々曹操軍で大活躍する名将であり、顔良・文醜を既に失っている袁紹としては重要な任務にその実力序列のまま優秀な大将を派遣したつもりだったのかもしれない。
しかし袁紹軍に他に優秀な将軍がいなかったとも思われず、その中で作戦に反対していた者を大将にするのは流石に悪手であり、張郃はいずれ責任を負わされると感じて投降したという。

+ ……ただ……
……ただ「作戦に反対していた者をその作戦の大将にする」のはどう考えても不合理なことと、この辺を証言できるのが当の張郃たちしかいない(袁紹や郭図側の証言がない)ということ、それに史書が編纂される時期の魏国における張郃の超高い権威を考えると、
張郃自身が本陣奇襲を進言して、そのまま出撃したが、突破できなかったため「袁紹の采配を見限って投降しました」と自己弁護したのが、そのまま魏国に伝わって、史書に記録された……とも考えられる。

また、この張郃の投降劇については「武帝紀」「袁紹伝」と「張郃伝」で時間軸に矛盾がみられる。これは裴松之も指摘している。
(「武帝紀」「袁紹伝」「荀攸伝」では「まず張郃らが曹操に投降し、その後袁紹本陣も敗れた」とするが、「張郃伝」では「袁紹本陣が先に崩れ、そのあと郭図の讒言があって、曹操に投降した」としている)
別に、史書に相矛盾する記録があるのは常のことだが、張郃が降伏する過程で何があったのかは歴史書からは断定しづらいところがある。
史官たちの立場で考えれば、魏晋の重鎮である張郃の権威や、その遺族を向こうに回してまで、真実を残す気にはなれなかったのかもしれない。



とにかく、食料・兵站を失い、かつまた主力級の将軍を多く失った袁紹軍は敗北を認めざるを得ず、ついに退却。
しかも追撃を掛けた曹操軍によって多くの兵が失われ、逃げ遅れた沮授が捕縛されるなど、さらなる傷を負った。
ここに、官渡の戦いは袁紹の敗北で終わったのである。

ただ敗退しただけならばともかく、最古参の大幹部だった許攸を初め、淳于瓊・顔良・文醜・張郃・高覧といった軍部の重鎮や、
冀州の大豪族で政治面を支えていた沮授を失った痛手はあまりにも大きかった。
また、この敗戦の余波で審配への讒言、田豊の処刑なども続き、河北の袁紹支配は大きく動揺。権力のゆらぎを見て取った各地の小豪族たちが反乱を繰り返した。


◆晩年

しかし袁紹は多くの幹部を失いながらも短期間で組織を再建。
領内で起きた多数の反乱も瞬く間に鎮圧して、敗戦で揺らいだ政権の威信を立て直すことに成功する

また、これと平行して官渡決戦の翌年、再び曹操が袁紹の倉亭の軍を襲って「倉亭の戦い」が起きている。
この倉亭の戦い、いちおう曹操が勝利したとされ、演義でも官渡には及ばないもののそれなりに重要な戦いとして描かれている。
しかし正史においては官渡と違って記述がほぼなく、実際は守備隊が一部撃破されたと言った程度のものだったようだ。
その意味では、官渡敗戦の後も、曹操は袁紹を正面から勝つのは不可能な、ちょっかいを出すのが精一杯の存在だったといえる。実際、曹操は倉亭で「勝利」を収めながらも攻勢に出ていないし、袁紹はその「敗残兵」をまとめて自領内の反乱を平定している。
大規模敗戦直後の戦争で自領土を守り抜いたという意味では、倉亭の戦いを「袁紹が戦略的な勝利を収めた」と強弁することも可能である
そして袁紹は、その「勝利」を「実績」として、組織を立て直したと思われる。
「河北に袁紹、いまだ健在なり」の声は、敗戦で動揺した河北を締め直し政権を立て直す、政治的な資産となったはずである。


しかし袁紹はほどなくして病に掛かり、西暦202年の6月28日、吐血して没してしまう

ただでさえ政権が大きく動揺した直後、河北を一手に束ねていたカリスマが急逝した衝撃はあまりにも大きく、
以後河北の袁家は坂を転がり落ちるように衰退していく。


【人物】

一般には「見かけだけは立派だが、優柔不断で打たれ弱い、名門出の青っちょろいボンボン」という扱いで、かなり罵倒されている。

しかし、実際の袁紹の行動をたぐると、むしろアグレッシブで決断力に優れた、行動力にあふれたカリスマ経営者だったといえる。


まず河北に割拠したことからして尋常ではない。
というのも、もともと彼の故郷は予州汝南郡であり、中国全体ではやや南より。冀州とはかなりの距離がある。
加えて、袁紹には血族を引き連れていた描写がない。
彼の政権において、袁紹の「一族」といえるのは三人の息子のほかは甥が一人だけで、
曹操における夏侯惇や曹仁、孫家における孫賁や孫静、袁術における袁胤などのような組織を支える同世代の親族がまったくいない。

つまり河北袁紹政権は、「名門袁家」の血縁や地縁がまったく及ばない、純粋に「袁紹の力」だけで運営された政権だったということである。


親族衆を中心とした統治は、勢力を集めやすく、結束を固めやすいというメリットがある。
なにせ血族である。昔からのつきあいがあるし、土地のつながりも強いし、敵に寝返る可能性も低い。
もし敵対勢力に寝返っても「やっぱりあいつの帰属先は実家だろう」と白い目で見られ続けるのである。よほどの事態がない限り、血族が敵に寝返ることはない。
また名門一族なら、子女には生まれた時から相応の学を身につけさせられる。大成する人材は限られていても、無難な人材程度は継続供給できる。
曹操が覇者としての地位を確立できたのも、優れた人材が一族に多かったのも一因だ。

しかしデメリットもある。最たるものは「当主の乗っ取り」だろう。なにせ血族である。
なにかしら血のつながりがあれば、「戦死された殿のご子息はまだ幼い、これからは一族の年長である私が束ねる」「殿もお年です。隠居なさって〇〇に当主を譲られては」となっても、そんなにおかしくはない。
実際、袁術の死後に一派を率いたのは息子の袁燿ではなく従弟の袁胤だし、馬超は息子がいるのに後事を馬岱に託した。
孫策でさえ、当主の座を従兄の孫賁と争っていた形跡がある。日本史ならば武田勝頼が、一門衆によって破滅した例だ。
曹操陣営の中では一族による乗っ取りが起きなかったが、曹操自身がカリスマで比較的長生きしており、死ぬまでに後継者の権力を確立できていたことと無関係ではないだろう。

血族は血族そのものを裏切りはしないが、血族の内部で裏切りうる。

しかし袁紹の周辺には子と甥しか一族がいない。
反董卓連合軍結成の際に中央にいた袁一族が董卓に族滅させられているのが最大の原因だろうが、袁家ほどの名族であれば相応の生存者はいたと思われる。実際袁術の周囲には袁一族を慕う者もやってきていたようだ。
袁紹が天下を握りそうな情勢にもかかわらず周囲に親族がいないとなると、近寄ってくる一族を故意に排除していたか、仮に保護しても何の力も与えず飼い殺しにしていたかもしれない。
(ほぼ)族滅状態である以上一族に生存者はいたとしても大した力はなく、そんなのを吸収しても勢力拡大にはつながらないし、却って紛争の種になりかねないからだ。*5

それだけに、袁紹には出自を卑しんで足を引っ張り、隙あらば取って代わろうと考える、やっかいな親戚は組織にいなかった。
血族から自由になり、自分の能力とカリスマだけで権力を握れたのだ。

こうしたタイプは、三国志なら劉備や劉表が該当する。
劉備は東北の幽州の出身だが、最後は西南の益州に割拠した。現地に地縁など皆無であるし、めぼしい親族など養子くらいだ。
劉表は由緒正しい皇族だが、荊州に派遣されたときは単身赴任同然であった。

この手の君主は、自前の権力に乏しいから、へたすると実権を失ってしまう。
劉表は赴任当初、地元豪族に阻まれて荊州に入ることすらできず、そのあと蔡瑁たちに擁立されることでやっと荊州支配ができたが、
今度は彼らの傀儡となり、後継者は蔡瑁に擁立され、すぐに曹操に降伏した。
しかし逆に、劉備や劉焉のように智恵と気力さえあれば、地元豪族を束ねて活動できる。
それに権力を簒奪しようという血族がほとんどいないため、クーデターは起きにくい。
あまり聡明でない劉禅のもとでも、魏や呉のような皇族由来の政変がほとんど起きなかったのは、皇族そのものが少なく管理しやすかったというのも一因だ。

袁紹の場合、出自が卑しく、とくに袁術からは散々敵視されて生きてきた。
恐らくはその経験から、袁紹はあえて「名門袁家」を頼りとせず、自分の智恵と気力、カリスマだけで決起しようとしたのだろう。
つまり袁紹は「名門出身の御曹司」とは程遠い、「独立志向の一匹狼」だったのだ。


◆勢力拡張

旗揚げ直後に起きた「反董卓連合」では、袁紹は盟主でありながらリーダーシップを発揮できなかった。曹操からも非難されている。
だがこれは河北逃亡から三カ月後のことであり、地縁も血縁も時間もなかった袁紹には兵を集める余裕すらなく、
主導権云々以前に「権力」そのものがなかったからである。
袁紹に決断力があろうとなかろうと、連合を動かすことは不可能だったし、だからこそ祭り上げられたとも言える。


しかしその後、袁紹は「根無し草」にもかかわらず驚異的な飛躍を見せた。

まず、策略を巡らせて冀州を制圧すると、冀州の豪族たちを瞬く間に統率。
袁紹の冀州入りに反対していた沮授たちでさえ組織に組み込み、君臨してみせた。
先述の劉表もそうだが、権力を持たない支配者は、権力を握る地元有力者の傀儡になりかねない。
袁紹は自前の軍事力はほぼない。にもかかわらず冀州の権力を完全に掌握できたのは、
単なる「出自の尊さ」だけではなく、類希なる智恵とカリスマ、政略センスがあってこそである。

加えてその後、袁紹は十年間で冀州のみならず、幽州・并州・青州に進出し、これらを統一してのけた。

「三国志」の群雄は、実のところあまり勢力拡張には熱心でなかった。一州全体まで勢力を広げるとそこで固定し、あとは守勢に回る、というパターンがほとんどだ。
群雄個人に拡張意欲があっても、実権を握る在地豪族の大多数に拡張の意欲がなければ絵に描いた餅になってしまうし、在地豪族は迂遠な天下統一より自領土の保全に関心が強く下手な拡張は負担が大きいと考えるからだろう。
劉表亡き後の荊州劉氏のように、例えトップの群雄が破れても、新たな主が現れたらさっさとそちらにつけば良い豪族は、併呑されることがさほどリスクではない。
それだけに、外征をするならば在地豪族の協力を取り付けられるだけの群雄の意欲・気力・力量は本当に桁外れなものが要求される。
一州でとどまらず、さらに進撃しようとしたのは、袁紹のほかは曹操、孫策&孫権兄弟、劉備、諸葛亮姜維、ぐらいのものである*6
しかし一地方政権にとどまるだけでは決して状況は好転しない。むしろ積極的に統一しようとする勢力が現れた場合、守勢に回り続ければいずれは滅ぼされてしまう。
諸葛亮や姜維の北伐は「国力の浪費」と批判されやすいが、「守勢に回る」というのは国力の回復どころか、主導権の喪失、ひいては戦略の放棄につながる。
戦術がいかに巧みでも、対処療法では駄目なのだ。

ところで袁紹の場合、彼は常にイニシアティブを取ろうとしてきた
冀州制圧のためにさまざまな手を打ち、次は四方に猛攻を掛けて数年で河北を統一、さらには曹操よりも先に南征を開始した。
袁紹は終始一貫して、積極的に行動し続けていたし、それをするだけの河北豪族の支持を取り付け続けることに成功していたと考えられる。曹操を打ち破れていれば、次は天下統一を目指したと考える方が自然だろう。


袁紹には「優柔不断で決断力がない」という認識が強いが、彼の行動と結果は、袁紹の「類希なる覇気と気力」を強く印象づけている。
同時代において、これほどの覇気を持っていたのは、それこそ曹操と劉備、孫策だけだろう。


◆統治能力

袁紹は根無し草から、ものの十年で河北を占領したわけだが、その河北の統治能力はどうだったのか。
これもまた、かなり優秀なものだったようだ。

袁紹政権は曹操に滅ぼされたため、その治績はどうしても史書「三国志」ではおとしめられてしまう。
プロパガンダ的にも「袁紹の統治からよりよい曹操の統治にシフトした」と書かないと、魏晋の正当性が立たないのだ。

しかし、それでも各史書には「袁紹は仁政を敷いていた」という記録・発言が散見される。
郭嘉や荀攸といった、袁紹と直接戦った参謀たちからも、袁紹の優れた政治について言及されているし、
袁紹の死が公表されると、河北の人民はだれもが嘆き悲しんだという。

実際の活動を見ても、官渡決戦に動員した「十万以上の大軍」は、袁紹の統治がよほどうまく行っていないとできないことである。
人々が嫌悪しているなかで無理やり十万もの大軍を編成しても、すぐに崩れてしまうというのは、袁術が証明している。
袁紹と同じく四州を制圧している曹操に至っては統治が行き届かず、官渡決戦の際にも十万にすら届いていない。

加えて、袁紹ら首脳を失いかつ内紛を起こした袁家残党が、曹操を相手に五年間も持ちこたえた事実や、
袁紹の勢力を吸収したあとの曹操政権が赤壁の敗戦でもびくともしないほどに強勢になったという事実を考えれば、
袁紹が河北において行なった統治がどれほど良かったかが察せられる


◆官渡決戦

「官渡の戦い」において、袁紹は曹操に敗北し、ついに覇権を失う。
この敗因は、一般には「沮授・田豊の説く持久戦を却下し、逢紀・郭図らの説く即時決戦を採用したから」とよく言われる。

沮授・田豊の説いた持久戦は、「今は我々の国内も荒れている。国内を整えた上で軽騎兵を使ってあちこちを攻め、曹操の勢力を国内ともども疲弊させよう、3年でケリは付く」というもので、短期決戦自体を前提としないものであった。
そして、策を聞いた当の曹操も、「その策で来られたら負けたのはこちらだっただろう」と評している。

短期決戦を挑んだ結果が敗北…ということであるから、持久戦策を取らなかった袁紹の失敗…ということもできなくはない。

しかし、持久戦策をとればそれは曹操にも時間や対応の余力を与えることとなる。
時間と余裕があれば曹操がどんな奇策を使ってくるか分かったものではない
曹操以外の有力な群雄が動いてくる可能性も出てくる。
勝てるときには機を逸さず攻めるというのは当然の考え方であり、決して落ち度ではない。
曹操の評も、「持久戦でも短期決戦でもどちらでもやばい戦いだったに過ぎない」と見ることも可能である。


そして、沮授に関しては実際に決戦が開始した後にも、「我が軍は多数なれど、曹軍は精鋭揃い。しかし食糧は曹軍が少なく、我が軍に及ばない。故に我が軍は持久戦に持ちこむべきである」と、改めて持久戦を提案していた。

確かに当時の社会状況的には人口が大激減していた時代。
特に曹操の支配領域であった中原は常に戦禍や天災に見舞われており、更には孫策や劉表、馬騰といった外敵が健在し、領内も反乱が頻発するなど安定とは程遠く、かなり荒廃していた。
袁紹と同数の4つの州(兗州・豫州・司隸・徐州)を保持していながら、官渡決戦に動員した曹操の兵力は袁紹のそれと比べて僅か10分の1という少なさや、
その少なさにもかかわらず食糧事情が厳しいというのは、
これらの事情を鑑みれば理解できる事であり、沮授の指摘自体は的を射ている……ように見える


しかし、よくよく考えると、現実に決戦を挑んでいる状況下では、『敵以上の大軍』で遠征を仕掛けている以上、袁紹軍には速攻を仕掛けるべきともいえ、持久戦はより危険になる可能性が高い

いくら袁紹の方が兵糧事情が豊かとはいっても、
正史ですら10万と言われる大軍である袁紹軍の日毎の食糧消費量は、ざっくり考えれば曹操軍の10倍だ。
しかも領内の戦いではなく『領外遠征』である為、本国から距離がある食糧の補給線もあり、これを維持しなければならない。
史実でも袁紹軍は、曹操軍に補給線を攻撃されたことで食糧補給に難が生じ始めたとされる。
つまり戦闘が長引けば長引くほど、逆に袁紹軍にとって不利になる可能性も高く、沮授の指摘が明らかに正しい、とは断言できないのが実際のところなのである。

そして現実はどうだったか。
決戦が半年に及ぶ「長期戦」「持久戦」になった結果、曹操軍が袁紹軍の「補給基地」を攻撃し破壊した(=曹操の運をも味方につけた奇策を受けた)ことで決着したのだ。
つまり事実として、「袁紹軍は持久戦に持ち込まれた結果、曹操の奇策に敗れた」のである。

実際の戦闘面でも、袁紹は果敢に猛攻を掛けていた
高櫓からの射撃・地下道の掘削といった正面からの攻撃に加えて、曹操軍への内通工作、孫策・劉備・汝南豪族などを利用し、あの手この手で曹操を突き崩そうとした。
結果としては持ちこたえた曹操に敗北するのだが、これは袁紹の攻め方に問題があったのではなく、
袁紹の総攻撃を捌き抜いた曹操がすごかったと言うべきだろう。
とはいえ、烏巣の焼き討ちでも曹操は淳于瓊に苦戦し、全滅さえ覚悟したという。
最初から最後まで、袁紹と曹操は全力でぶつかり、ついには曹操の粘り強さと火事場の馬鹿力が競り勝ったのである。


ただこの戦いで、本当に袁紹の致命傷となったのは、烏巣ではなく許攸の裏切りであっただろう。
許攸が寝返らなければ烏巣奇襲がない、というのもそうなのだが、それ以上に許攸は袁紹政権における、最古参の大幹部なのである。
袁紹は血族なしで旗揚げしたため、政権の幹部を自分の側近で固めざるを得なかった。
劉備なら関羽張飛にあたる「両腕」が、袁紹の場合は逢紀と許攸なのだ。
そんな許攸の離反は、袁紹にとってはすべての機密が漏れるのみならず、政治力そのものの一大損失であった。

逆にいうと、許攸一人が寝返るだけで致命傷になるほど、袁紹には脆い点があったともいえる。
自分のカリスマを頂点として成り上がった袁紹の、一番の弱点は、側近を含めた「自分自身」であったと言えよう。
ちなみに曹操は戦後、袁紹軍が置き忘れていった部下が内応する手紙の存在を聞いた際、
「俺だって心が折れそうだった。部下たちは当然のこと。不問にするから手紙は中身を見ずに焼き捨てろ」と命じている。
内応リスクを抱えていたのは、曹操軍も同じだったのだ。


以上、官渡決戦について解説したが、それ以前の河北進出時代も、袁紹の戦争のうまさや土壇場の爆発力は散見される。
公孫瓚の騎馬隊に本陣まで攻め込まれたときには、避難を勧める田豊を突き飛ばし、
兜を投げ捨て「男たるもの、戦って死んでこそ本望だ!」と啖呵を切って兵を掌握、撃退に成功した。これは三国演義にも引用されている。
黒山賊が領内の反乱と呼応したときには、食客たちがパニックに陥るなか、顔色一つ変えずに鎮圧の指示を出したという。
盟友・曹操と同じく、軍人としても非凡な能力を持っていたようだ。


◆臣下について

大きく分けて「袁紹側近」と「河北豪族」と「潁川名士」の三大派閥があったとよく言われる。
袁紹直属として手足となって働く、逢紀・許攸ら「側近組」。
河北出身で実際に兵力や財力を供出する、審配・沮授・田豊ら「河北豪族組」。
荀攸らの同郷で、主に知識層を形成した、淳于瓊・郭図・辛評・荀諶ら「潁川人士組」。
袁紹自体がヨソ者であるため、よけいに彼らのあいだでモメやすかったという。
また、当たり前だが一つの派閥のなかでも足の引っ張りあいが起きる。とくに田豊はわりと浮いていたようだ。

+ 「派閥と豪族について」
これについては史書に間違いなくそう記されているわけではないが、状況はこれを示唆している。

まず中国は文字の表記が統一されたのだが、漢字は表意文字なので発音までは統一できない。
そのため、出身地が違うと会話ができないとは現代でもいわれるところであり、それゆえに出身地方で固まりやすい。
それでなくとも地縁・人脈は重要な繋がりである。

なにより、当時の人口問題がある。
「三国志における人口」、具体的には魏・呉・蜀の「戸籍に登録された人口」の総数は、わずかに800万だった。
この数値は後漢最盛期の6000万に比べるとたった1/7である。
疫病などで多くの死者が出たのは確かだが、それにしても異常な数値であり、
実際は「国家が直接徴税・徴兵できたのは国土の15%前後に過ぎず、まともに政権を運用したければ、実際に人間を抱えている地方豪族・各派閥の支援を受けなければ無理だった」とされる。
当時の情勢を見渡しても、荊州刺史劉表は在地豪族に拒まれて荊州入りすらできず、
豪族の蔡瑁・蒯越が擁立してくれてやっと赴任できた、というエピソードがある。蜀漢に荊州派と益州派が存在したというのもこのあたりに由来する。

日本の選挙を揶揄して、政治家に必須なのは「地盤(後援組織)・看板(知名度)・鞄(資産)」という。
これは中国も同様で、まして古代・中世ならなおのこと、「地縁」「豪族」「派閥」といった存在は大きい。
もちろん、それらはあくまで条件に過ぎず、そうした条件下でどう動くかは歴史人物個人の判断によるが、条件を軽視することもならない。


沮授についてアタリがきついのもよく言われるところ。
沮授はもともと軍権を一手に握るほどの重鎮だったが、官渡決戦の直前に、軍権を沮授・郭図・淳于瓊の三人に分割されている。当然彼は不満に思ったという。
もっとも、沮授はただでさえ冀州出身の大豪族で、河北に勢力を誇っていた。
そんな彼がいつまでも軍権を一手に握っていては、権力が沮授>袁紹となりかねず、極めて危険である。
沮授と袁紹が本気の殺し合いにならないうちに、軍権だけでも分散させるというのは、
むしろ双方の殺し合いを予防したといえそうだ*7
袁紹が沮授を嫌っていたということはないようで、白馬津攻撃を顔良に専任しないよう進言したときは受け入れている(支援部隊として郭図・淳于瓊を派遣)。
沮授の死後も息子の沮鵠が幹部になっていた。


◆献帝拒絶について

献帝を袁紹が拒み曹操が迎え、その結果曹操が外交の主導権を握れたことから、これは袁紹の敗北と見なされがちである。
ただ、袁紹は何度も述べたが、自前の権力でのし上がったのではなく、個人のカリスマと手腕で束ねたタイプである。
こんな袁紹がうかつに献帝という「君主以上の権威」を迎え入れると、かえって組織内部の権威が二分し、組織そのものが分裂しかねない。

まだ曹操の場合、献帝が来ようと夏侯惇がゆらいだりはしないだろうが(曹操が失脚すれば次は夏侯惇の番)、
袁紹の場合は、それこそ淳于瓊あたりが董承らと結託して良からぬ画策をしかねないのである。
(淳于瓊は後漢朝廷直属の官僚で、袁紹とは同格であった。そのため「献帝に仕える」形式をとって袁紹に並び立つことも理論的には可能。
 ついでに彼は潁川の名門出で、実は郭図・辛評・荀諶らとは同郷でもあり、横の繋がりもあったとみられる。また、彼らは袁譚派である。
 もし彼らが、献帝と袁譚を接近させて担ぎ上げ、袁紹を駆逐する、なんてことになったら大ごとになる*8

それでなくても袁紹は献帝を特に嫌っていたので、彼が擁立することは絶対になかっただろう。
もし宮中殴り込みの際にちゃんと二皇太子の身柄を確保できていたら、果たしてどう立ち回ったことだろうか。


【三国演義の袁紹】

三国演義では、基本的に正史準拠。
名将だった淳于瓊が酒飲みの無能にされるなど多少の脚色はあるが、ほとんど変わりない。三国演義成立過程ではかなり後期に流入したタイプなのだろう。

しかし、実際の袁紹にはかなりアクティブな面があるため、ときどき変に威勢のいい場面がある。
呂布を従えた董卓に向かって正面から罵倒し、剣を抜いてにらみつける場面は、中国の実写ドラマでもすさまじい名シーンとなった。
公孫瓚戦での啖呵も採用されている。

ただ、やっぱりというかなんというか、作中ではことあるごとに「おぼっちゃま」「優柔不断」と連呼されており、とにかく哀れな扱いとなっている。


【各作品】

正史~演義の時点で評価が安定しているうえ、そこにあるのが「金持ちのボンボン」という時代を問わず理解しやすく弄りやすいキャラ像であるため、創作でのキャライメージは大分固まっている。
とはいえそのイメージから過度に貶められたり、三国以外に興味なしの方針であえなくハブられることもしばしばではあるが。

  • 横山三国志
原作では反董卓連合終了あたりでフェードアウトするが、アニメ版では官渡の戦いが描かれている。
曹操軍の面々から決断力に欠けるだの散々な言われようだったが、その決断力は悪い方向に発揮されることになる。
圧倒的兵力差の慢心からか、とにかく戦時中にもかかわらず酒浸りになり、重臣達からの献策・助言を悉く無視し、演義同様許攸の離反を招く。
ちなみに許攸はアニメでは清廉な人物であったことにされ、家族の汚職は彼が黒幕であったという謂れなき罪を着せられそうになったため曹操の下に奔るという展開になっていた。
袁紹が許攸を問い詰めるときのセリフはある意味語り草。
「許攸!貴様の甥が税を横領したぞ!」「貴様の指図に違いあるまい!いや、そうに決まった!

  • コーエー三国志
顔グラは名門らしく金ピカ鎧に身を包んだヒゲの偉丈夫という感じで一貫している。勢力のイメージカラーは黄色。

最近ではどの能力値も70~80台、魅力があれば90台とバランスよくまとまっている。
政治は「Ⅶ」から70台安定、悪い時は「Ⅲ」~「Ⅳ」の50前後とナメられ傾向だが、全体的な評価はシリーズ通して大差ない。
そこらの凡庸な君主とは比べ物にならないが、魅力以外突き抜けることがなく特技もあまり優遇されないため、かなり優秀ではあるものの曹操には及ばない1.5流。
似たような能力傾向の劉備より少し弱いくらいのところに収まりがちで、良くも悪くも劉・曹・孫に次ぐ4番手である。

後年の作品では魅力の重要性(行動力、配下の忠誠)が高まったのでマシになっているが、能力以上に深刻なのが隠しパラメータの「相性」
ライバルの曹操と真逆に設定されていることが多いのだが、曹魏の人物は単純に割合として多く、また曹操が身近の敵勢力という立場ゆえ、それは思った以上に痛い。
黄河を越えて中原に出ても人材が思うように揃わなかったり、たとえ揃っても多大な俸禄を要求してきたり、官渡の戦いを制しても曹操達が全然傘下に加わってくれなかったり…
臣下は一線級を擁してはいるがあまりバランスがよくない上、能力の高い人物に相性の悪い奴が多いため、後半になればなるほど苦戦しがち。
しかも袁紹の寿命は(史実の没年を参考にしているため)基本短く、後継の息子たちの能力は悲惨なので、なおのこと攻略を急ぎたいところ。
さらに、「Ⅱ」では魅力に反して、魅力と並んで忠誠や外交に関わる「人徳」のパラメータが残念なことになっているので、家臣たちの初期の忠誠が低め(ひどい場合は60台のものも)なうえに、忠誠も自然低下しやすいのでさらにきつい。重要な家臣は早いうちに褒美をやって忠誠を上げたいところだが……

ただ、幸い彼を嫌っている武将もかなり少ない(上に割とすぐ死ぬ奴らばかり)なので、戦力はあくまでも揃いにくいだけで揃わないわけではない。
しっかり袁術には嫌われてる(上に相互嫌悪)ので完全に袁家の栄光とはいかないが。

物量や攻城力に長けていることが多いので、数に物を言わせる戦略がベター。
また魏勢力との相性は悪い反面、蜀勢力とも呉勢力とも相性がいいという特徴がある。
もし近くに劉備の勢力があるなら、先に併合して関羽・張飛・趙雲を部下にする手もあり。

  • 三国無双
詳細は袁紹(三國無双)を参照。
初期から登場。名族の誇りを連呼するお騒がしキャラ。覇気はあるが、自尊心が強すぎて打たれ弱い。
一時期はやたらと歪んだプライドを強調され「それはどちらかと言うと袁術では?」という声もあったが、
その袁術が脱モブした『8』にて路線転換し、周囲が自然にヨイショしたくなるような格好良いキャラへと変わった。一方で最近はなんだか老けてきているのが哀しい。
一番さみしいのは、未だに脱モブした部下が曹操に降伏する変態貴公子寝取られ貴婦人しかいないことだろう。
呂布陣営には曹操に所属しない無双武将が多いので、是非とも開拓してもらいたいところ。

序盤は一般的な「蒙昧な青びょうたん」という点が強調されていた。
中盤からは蒙昧さをそのままひたすら強化させた「太陽のような明るい力強さ」を発揮し、曹操とはまったく別ベクトルのカリスマの怪物と化す。
圧倒的な力と王気は曹操をして「語るすべなし、為すすべなし」といわしめ、知略の一切を放棄した「人間の力」を結集することになる。
しかし……

  • 白井式三国志
ほとんどモブ扱いで、先に登場した袁術の髭と冠を変えただけのコンパチキャラ。
「家族だ! 家族の為なら頑張れる」

  • 一騎当千
一応Aランクなので弱くは無いのだが、卑怯な手も辞さない悪党。曹操の軍門にあっさり下ったことが語られるのみ。

  • 恋姫†無双
真名は「麗羽」。美羽(袁術)は従妹。
ひたすらゴージャスな金髪縦ロールにお嬢様口調で巨乳、明るい声に仁王立ち、名門のプライドガン積みといった、いかにもな袁紹像。
もちろん能力では華琳(曹操)に大きく水をあけられている…が、スタイルでは華琳に大きく水をあけている。
実は涙もろくてお人好し。また、アホ呼ばわりされているが意外なことに学力そのものは華琳よりも高い。

  • 十三支演義
CV:周瑜ヒャクシキ
銀髪をたなびかせた美丈夫。
一見分け隔てなく接する温厚篤実な人物に見えるが、実の所性格は最悪で、人を利用価値でしか判別できない卑劣漢。
PS版でとってつけたかのような個別ルートができた。

  • 三国志大戦
登場は2からで袁術とともに袁勢力ごと参戦。
以降は一貫して「優秀なステータスを持ち強力な号令を扱えるカード」として参戦している。
号令持ちとしては高い武力と中程度の知力に魅力をはじめとした豊富な特技を兼ね備え、
「栄光の大号令」「大兵力の大爆進」「王者の決断」などといった一発で勝敗を決定づけるような大型号令を所持するキーカード。
主導権を握った状態で号令を使えると非常に強いが、使わされる展開になると弱い計略デザインもシリーズを通して共通。

リブート後は勢力が漢に移るものの、やはりキーカードとしての位置は揺らがない。
光魔法が使える勇者になってもそれらのせいで立ち位置がないほどに重要な位置を占めている。
でも人を惹きつける熱唱はA面B面共に良好なので結局勇者が微妙というだけの気がする。

  • BB戦士三国伝
演者はバウ。中の人は師匠
家の権威を振りかざす無能なボンボンであり、劉備のような在野の侠を露骨に軽蔑している。
当初は敵から逃げようとして後ろを振り向いた瞬間、弟である袁術ズサが遥か彼方まで逃走していて呆れるといったコメディリリーフ的な側面も目立ったものの、
袁術ズサが暴走し始めた辺りからは野心家として覚醒。
彼の残した玉璽を入手した事で覇道を進み始め、遂には地獄を彷徨う弟の魂を取り込んで四本の腕を持つ異形の姿「龍飛形態」へと変貌。
最期は官渡の戦いを経て幼なじみにしてライバルである曹操ガンダムに討ち取られた。
初代のコミックワールドだと空気で、伝説の「公孫瓚憤死!」をやったのは彼では無く曹操という事になっている。




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最終更新:2024年03月12日 23:35

*1 実際に曹操は献帝の処遇で難儀した。周辺諸侯に「専横反対」「献帝救出」の大義名分を与えたり、朝臣たちに謀反されたり、暗殺されかけたり……

*2 この「子供」は袁尚ではなく、袁買らしい。ただし彼は袁紹の四子とも、袁尚の甥で袁紹の孫ともされ、不明確。

*3 高幹は死ぬまで并州を「七年」治めたらしい。逆算すると彼が并州に赴任したのは199年である。

*4 具体的な汚職や収賄の記録は残っていないにもかかわらず、袁術や荀彧に口を揃えて「貪欲で身持ちが悪い男」と酷評されている。よほど金にがめつかったのであろう

*5 袁術に対しては保護のため袁譚を派遣しているが、結果として保護前に袁術が没している。利用価値があると見たかもしれないが、仮に保護されたとしてどうなったかは分からない。

*6 孫権にしても、荊州を取ったあとは「満足」して拡張をやめたフシがある。まあ孫呉の国防方針である長江流域の確保が終わったので満足したのであろう

*7 実際、麹義は袁紹軍筆頭の地位にあったが、軍権を握りすぎて袁紹を軽んじたために粛清されている。

*8 ただし史書では淳于瓊は「献帝受け入れ反対派」だった。もっともこの献帝受け入れ、記述により賛成者と反対者が入れ替わっていたと、割と複雑なのだが。