真田幸村

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真田幸村 - (2022/09/29 (木) 21:26:22) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2009/09/17(木) 12:39:25
更新日:2024/04/27 Sat 13:05:06
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注意:この項目では戦国武将について記載されています。
漫画、小説、ゲーム等での真田幸村についてはそちらに該当する項目を読むようにして下さい。



真田幸村-さなだ ゆきむら(本名…真田信繁-さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。(1567-1615)

永禄10年とされる生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明。


本名の信繁(のぶしげ)は、武田信玄の弟・武田信繁の名を是非にと父・真田昌幸が信繁の息子に言って使わせて貰った名であるため改名はしていない。


●「真田幸村」の由来
講談などの影響で「真田幸村(さなだゆきむら)」の名で広く知られているが、
信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しない
架空の名前だがかっこいい名前のためか幸村のままになっている。
例えるなら三国志の張益徳(張飛)が張翼徳とされているような感じである。

幸村という名前の初出は1672年の軍記物語「難波戦記」と言われる。
江戸初期、真田家は徳川家を苦しめた記録を残すことを遠慮しており、
当時、「昌幸の次男」の名前は記録に残っておらず、
真田家の通字「幸」と姉「村松殿」の「村」を組み合わせて創作されたと言われている。
真田家の公式記録が編纂されたのは「幸村」の名前が広まった後の江戸中期以降。
  • 1633年の『慶元記 大阪夏冬両陣始末』も現存する版では「幸村」
  • 1695年の『滋野通記』に信幸の言葉として「高野山蟄居ノ折カラニ幸村ト改シト物語有リ」と書かれる
  • 幸村直系の仙台真田家伝来の系譜『滋野姓海野氏真田氏略系』にまでも「幸村」と記載
等々、信繁ではなく幸村という名前が色々な公式記録に採用されるという事態が起きた。

●六文銭
旗印である六文銭(ろくもんせん)は、冥銭を表しているといわれている。
冥銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のこと。
これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれている。

真田家の家紋は正しくは六連銭(りくれんせん)であるが、幸村の名前と同じく誤って流布している。

なお、大坂の陣での戦闘シーンで六文銭の旗を掲げて家康本陣に突撃するシーンが定番だが、史実では真田家に憚って六文銭の旗は使わなかったこととされている。

●真田幸村としての活躍


真田幸村(さなだ ゆきむら)と言う名称は、江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称
義の志と共に戦場を駆け抜ける熱血漢で、日本征服を目論む悪逆非道の権力者である徳川家康に生涯に渡って立ち向かった正義の武将である。

幼少期より人質として預けられる日々を送っていたが、上杉家の人質となっていた時期に真田家が徳川家康の侵略を受けている事実を聞いた幸村は、
義の志を持つ直江兼続の粋な計らいによって上田城への帰還を許され、彼の友情に応えるべく幸村は馬に跨って上田城を目指す。
徳川軍の待ち伏せも物ともせず、休む間も無く上田城へと辿り着いた幸村は、「第一次上田合戦」に参戦。
圧倒的な数を誇る徳川の軍勢を相手に大・奮・戦し、真田軍の勝利へと導いた。

真田家が豊臣家の臣下となってからは、馬廻りの一人に抜擢され、そこで豊臣家随一の忠臣である石田三成と出会う。
性格は対照的ながらも、互いの心の中に眠る正義の魂で通じ合った結果、上杉家での人質時代に友情を育んでいた直江兼続も交えて義の同盟を結ぶ。
そして、小田原征伐における北条家との戦いでは、三成の指揮する忍城の攻略戦に参加。
父・昌幸、兄・信之の二人と共に、北条家を見事に打ち破り、指揮官であり、友である三成を感涙させた。

その後、最大の怨敵である家康が、三河から関東へと移封された事もあって、天下統一された日本の未来は明るいかと思われた…。
しかし、太閤秀吉が亡くなったのを機に、それまで関東で大人しくしていた家康が一気に野望を剥き出しにし、暴虐の限りを尽くす事になり、
盟友である三成は、家康によってけしかけられた福島正則や加藤清正といった武将達に襲撃された挙句、蟄居へと追い込まれてしまい、
正義の炎を燃え上がらせた幸村は、すぐにでも家康を討ち取ろうと、鎧を着て出陣しようとしていたが、
「今はその時ではない」と昌幸や兼続に諫められた幸村は、大阪城を去っていく三成を涙ながら見送るしかなかった。

しかし、家康によって起こされた会津征伐で上杉家が滅びの危機を迎えようとしていた事で、遂に幸村の怒りは爆発。
同じく佐和山城で蟄居の身となっていた三成が、正義の志と共に挙兵を決意したのを知った幸村は、父・昌幸と共に迷わず三成の率いる西軍へと突く道を選ぶが、
兄・信之は時世は「徳川の方に向いている」という理由から、「義」よりも「利」を取る道を選び、兄の裏切りに戸惑いながらも、幸村は「関ヶ原の戦い」へ参戦。
前哨戦である「第二次上田合戦」では、真田家に仕える忍者軍団を使い大・活・躍し、徳川秀忠率いる軍を撃退する事に成功する。
だが、関ヶ原の戦いの本戦では、家康の卑劣な策略によって西軍の小早川秀秋が裏切った結果、西軍の敗退と言う形で戦いは終わってしまい、
三成は斬首刑に処せられる形で死亡。自らも昌幸と共に高野山への蟄居へと追いやられる事になってしまった。
そして、屈辱の日々に耐える中、昌幸は無念の言葉と共にこの世を去る事になり、父の死に号泣した幸村は、父の遺志を継いでいつの日か必ず家康を断罪する事を誓う。

父の死から数年後、豊臣の危機を聞かされた幸村は、息子・大助やいずれ家康を自らの手で討つ為に結成していた「真田十勇士」を引き連れて高野山を脱出。
無事に大阪城へと入城した幸村は、長宗我部盛親、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登の4人と共に「大坂牢人五人衆」を結成。その筆頭として家康を迎え撃つべく、
大阪城の中でも防御ので薄い南側の防衛を目的とした巨大な出城「真田丸」を考案し、それを建造する。
そして、大阪冬の陣が開戦してからは、真田丸にて歴戦の猛者に相応しい名指揮を発揮する事になり、豊臣軍の大・勝・利へと見事に導いた。

しかし、真田丸の脅威を目の当たりにした家康の策略によって、大阪城の堀全体が埋め尽くされた上に真田丸も取り壊されてしまう事になり、
更には追い打ちを掛けられる形で大坂夏の陣が勃発する事になるが、それでも諦めなかった幸村は、自ら前線に出陣して、家康の首を討ち取る事を決意。
真田十勇士と共に家康の本陣に向かって突撃を敢行し、家康を恐怖のどん底におとしめるも、遂に討ち取るまでは叶わず、大・激・戦の末に壮絶な討死を遂げた。

一説には秀頼を擁して大坂を脱出し、薩摩へ落ち延びたとも東北へ逃げたとも言われる。

正に、戦国武将きっての浪漫の塊の人生を送った偉大なる英雄で、その後も真田幸村は「英雄」として語り継がれる事になった。


ゲーム等での活躍

現在までシリーズとなっている作品のみ記述する。
いずれにしても赤い甲冑を着た熱血漢の若いイケメンとして描かれておりどちらの作品でもまるで主役のような扱いである。


●戦国無双シリーズ
CV:草尾毅
戦国無双シリーズを通しての主人公的存在であり、戦国無双4では兄・信之もPC参戦。
同じ無双シリーズである三国無双の趙雲とは、共にジャケットを飾る事が多い事からか無双OROCHIのOPで共闘している。
ほぼ全ての作品通して真面目で礼儀正しいながらも熱血漢という性格は共通しているが、
2の時はいきなり「義…ではないでしょうか」と話しかけて直後(何を言っているのだ私は)と一人ツッコミする天然なところも。


●戦国BASARAシリーズ
CV:保志総一朗
ゥヲォヤカタサムァァァァッ!!」で有名な人。やたら熱血&愛すべきバカ。アニメでは本格的に人間を辞めてきている。最近は影が薄めで窓際に近づいている。
保志氏迫真の演技も光る。
戦国大戦にてコラボ参戦し、高コストだがクセのない使いやすい槍兵として一時期環境を支配した数年後
LoV3ともコラボして、こちらも中コストの使いやすいアタッカーとして大暴れした。


●仮面ライダー電王-俺、誕生!-
陣内智則が演じる。
神の路線を使い、戦国時代にタイムスリップしてきた牙王と半ば強制的に手を組まされた。
ここでは前述の様にイケメンではない。
アメトーーク!では「怪人クソ大根」呼ばわりされた。


●パチンコ-花の慶次-
「一本気大将!真田幸村!」
といえば打てば誰でも見れるリーチ。

「人間には、触れちゃならねぇ"痛み"ってもんがあるんだ…」

「そこに触れたらあとはもう命のやり取りしか残っちゃいねーんだ!」
「冗談じゃねぇぞ!コノヤロォォオオー!!」

全く期待出来ないが、幸村リーチで2R当たりだった場合は確変確定。

原作では慶次の馬、松風をくれとせがんだが一蹴される。
あまりにしつこいので慶次は似たような馬をあげた。
喜んでた

沙霧編での茶会は涙なくしては語れない、ストーリーリーチにしてほしいくらいである。


●信長の野望シリーズ
大体真紅の赤備にイケメンと通例だが、リアル路線なゲームゆえに若干渋い強面になる。
最近の作品では常時騎馬適性Sに加え、統率と武勇、そして知略がトップクラス で、戦闘用の数値を一人で満たす野戦上手。

けど政治は弱い。

●真田魂
作者は重野なおき
髪の色は母親譲りのやんちゃな人物。
文武に優れ標高120mの崖を難なくクライミングするなどリアルチートそのもの。
ただ、あまりに何でもすぐにこなしてしまう天才ぶりを父からは危惧されている。

殿といっしょ
作者は大羽快
立ちまわりは概ね史実通りだが、父昌幸と並んでとにかくフリーダム。
九度山に流されていたはずの時期に、堂々と兄信之の家、更には変装して江戸城へと侵入し家康、秀忠、お江をいじり倒す。
連載順では後から登場になった祖父幸隆はそっくり*1で孫同様フリーダム、
信玄と勘助を介して初めて出会った際に、信玄が色々不味いと慌て、それに対し孫にそっくりなのは当然とか、メタ発言をかましまくっている*2

10巻の表紙でコミックスを宣伝する際には帯にて「来年のドラマで主役!!!真田幸村関連本 いかがっすか――!!!」
ダメな方の真田家なら任せてください!!! と暴れまくった。





ここから先は、実際の真田信繁(幸村)の解説となるので、注意。





●実際の真田信繁(幸村)

信濃国小県郡(現在の長野県上田市辺り)にて、真田昌幸の次男として生まれる。幼名は弁丸(べんまる)。
生涯において、彼が「真田幸村」と呼ばれた事は一度たりとも無い。

若い頃は父・昌幸の指示で、同盟を結んだ勢力の元で人質生活を行っており、目立った活躍は皆無に等しい。
「第一次上田合戦時に参戦(初陣)していた」という説があるが、この当時は上杉家で人質の身になっていた為に、
有識者の間では「あり得ない」と否定されており、実際にこの戦いで奮戦していた名の知れた武将は兄・信幸(信之)のみであったとされている。
しかし、別に遊んでいた訳ではなく、真田家が豊臣家に仕えてからは、馬廻衆として仕えて1万9000石の知行を得ていた事も判明している。
ただし、この時になっても、信繁は元服をしても一度も戦の経験が無く、ようやく初陣を飾れたのは小田原征伐における忍城の攻略であるが、
この時の年齢はなんと23歳と言うかなりの高齢での初陣であった(戦国武将の初陣の平均年齢は、大体15歳くらいである)。
兄の信之でさえ、17歳の時に「天正壬午の乱」で初陣を飾っているのだが、おそらくこの当時の昌幸の頭の中では、
信之が戦(いくさ)担当であったのに対し、信繁は完全に人質担当になってしまっていたのだと思われ、
戦での活躍に関しては、昌幸からそれ程期待されていなかったのかもしれない。
小田原征伐後は、秀吉によって天下統一されてしまった為に、これといって戦に出る機会を得られない年月を過ごす事になり、
秀吉によって朝鮮出兵が宣言されても、あくまでも昌幸や信之と共に名古屋城にまで兵を率いるだけに留まっている。
近年では馬廻り衆(秀吉の親衛隊)として薄田兼相(講談で有名な岩見重太郎)らと同僚だったともいわれている。
後に秀吉の重臣である大谷吉継の娘を娶れたのもここでコネがあったからかもしれない。

皮肉にも、信繁が二度目の戦への出陣を果たす事になったのは、天下人である秀吉が死去して、三成と家康の政治的対立が激化してからであった。

そう、関ヶ原の戦いである。ただし、関ヶ原の本戦には参戦していない。

元々は、会津征伐にて家康の命令に従う形で上杉家と戦い、武功を挙げるつもりだった真田家であったが、
三成が挙兵して家康を討とうとしていた事実を知った昌幸は、元々家康の存在を毛嫌いしていた事もあって、三成率いる西軍側へとつき、
信繁もまた、義理の父親となる大谷吉継が西軍についていた為、同じく西軍側について家康の討伐に参戦しようとする。
しかし、信之の方は養父である本多忠勝や父の裏切りを許した家康に恩義を感じていた結果、家康率いる東軍側につく事になり、
この時の「犬伏の別れ」によって実質的に兄弟として袂が分かつ事となった。

そして関ヶ原の戦いでは、第二次上田合戦に参戦して昌幸の補佐を務める形となり、昌幸の指揮によって徳川秀忠率いる軍の撃退に成功するが、
肝心の関ヶ原の戦いの本戦では西軍の敗北という結果で終わってしまい、その事実を知っても最後まで抵抗しようとしていた昌幸と信繁であったが、
信之に説得された結果、最終的に降伏する結末となってしまった。

敗軍の将となってしまった信繁と昌幸の二人は、二度目の裏切りもあって家康からは切腹が命じられようとしていたが、
信之と忠勝による必死の助命嘆願によって、九度山への流罪という形で生き永らえる事になっている。
一部の真田幸村の熱心なファン達からは、「昌幸や信繁に対し死よりも勝る精神的苦痛を与えてやろうと言う家康の意図があったのではないか」と解釈されているが、
実際の所は…

  • 妻や侍女達の動向が認められ、当初は女人禁制の高野山送りであったのを、家康の裁定でわざわざ麓の九度山にまで変更してもらっている。
  • 上田藩主となっていた信之や監視役を担っていた浅野行長からの仕送りや援助が認められていた。
  • 昌幸、信繁の屋敷が別々に建てられており、近くには家臣達専用の屋敷まであった。
  • 九度山の浦野川の淵や、九度山周辺上下1550m(5町分)の間だけ行動の自由を許されていた。

等、おおよそ反逆者に対する措置とは思えない程までに、昌幸、信繁親子には「贅沢」とさえ言える環境での生活や自由がある程度は認められており、
逆賊として追われ逃げ隠れする日々を送るしかなかった他の反逆者達とは雲泥の差があったと言えなくも無かったとされている。
また、流刑人の身でありながら、用事で京都にまで来ていた信之とも一度は対面する事が許されていたとされており、
正室や側室と共に生活出来た事で、彼女達との間に真田大助を始めとする子供達を作る事まで出来ていたりする。
流罪なのに何やってんだ、あんた…。

しかし、これだけの不自由の無い暮らしながらも、収入が殆ど無かった事で生活は困窮していたとされており、
妻の考案した「真田紐(さなだひも)」を討って生計を立てていたとも言われている*3
特に昌幸の方は、自身の屋敷が火事で焼失してしまった事もあってかなりのストレスが溜まっていたらしく、家康に赦免嘆願を何度も出したとされているが、
敵対した者に割と情けを掛けようとする事の多かった家康でも、流石に二度も裏切った昌幸を赦すはずが無く*4
最後まで家康から赦される事の無いまま、昌幸は無念の死を遂げる事になった。

それから数年後、方広寺鍾名事件を経て、再び豊臣家と徳川家の対立が高まっていき、豊臣家側からの誘いを受けた信繁は高野山を脱出し、大坂城に入城する。
通説では、信繁が村人を宴会に招いて酔わせてその隙に大阪へ出発したとされているが、実際は信繁に好意的であった彼等が酔ったふりをしてわざと見逃したらしい。
かつて家康の徳川軍を二度にも渡って敗退に追い込んだ昌幸の子である信繁は、豊臣秀頼を始めとする豊臣家側からそれなりに期待を寄せられていたらしく、
長宗我部盛親、毛利勝永の二人と共に大坂城に集った牢人達の代表である「大坂牢人三人衆(後に五人衆)」の一人として、
序列では末端の3位ながらも数えられる事になる。

大阪の陣に参加するまでは無名に近く、真田入城の知らせを聞いた家康が狼狽して「安房(父・安房守昌幸の事)か、否か」と問うたが、息子と聞いて安堵した程。
冬の陣では、大阪城の南面における防備の欠陥を補うべく、父・昌幸が考案したとされる出城「真田丸」を築き上げ、防衛戦によって大阪城を守り抜く事に成功した。
しかし、徳川軍の容赦ない大阪城への直接砲撃に屈した淀殿の意向で、和睦が決定。その条件として外堀・内堀の双方が埋め尽くされ、真田丸も取り壊される。
夏の陣では、後藤又兵衛と奇襲・挟撃を行なう筈だったが、霧の為に合流に失敗。又兵衛や兼相ら有力な将を多く死なせてしまっている。
更にその直後には伊達隊と激戦になり、豊臣軍が撤退の際には殿を務めた。
ちなみに霧は後世の創作で、最近の研究では後藤又兵衛が自ら囮になったという説がある。

最終的には小数精鋭を率いて家康の本陣へ突撃を敢行。
決死の覚悟を帯びたその突撃は守りを突破して2度本陣に迫り、徳川軍どころか家康すらも恐怖させたと言われているが、
結局は家康を討ち取ることはできず、討死。
休息中に討たれたとされているが、一説には戦闘での負傷が致命傷となって、発見時には既に力尽きて死亡していたという見解もある。
また、共に戦場で戦い、大阪城に帰還していた息子・大助も秀頼と運命を共にする形で自害したとされている。
この直前に家族を内密に白石城当主片倉小十郎に託し、宮城県の矢附村(現蔵王町)に避難させていた。
蔵王町には子孫の墓が梅の木の下にまだ現存している。
家族は村で塾を開いて生活をしていたと記録されている。

ちなみに、幸村の勇猛振りを讃えた『真田日本一の兵』は島津忠恒が言ったとされる有名な言葉だが、
忠恒本人は大坂の陣での信繁の活躍を見ていない。
この時の忠恒は兵站に失敗して夏の陣に盛大に遅刻し、家康の所までダッシュしてスライディング土下座したら逆に同情されて褒美として馬を貰い、その後薩摩に帰っただけである。
ちなみにコイツ、冬の陣の時にも船の手配を間違えて大遅刻をやらかしている。実際に参戦した武将達からは「不思議な弓取り」と評された。

大坂時代は秀頼から大きく信頼され、彼からは大阪城に集った牢人達のまとめ役になってくれる事を期待されていたが、
信繁の戦の経験は極めて少ない上に、常にその傍には名将である昌幸の存在があった為に、その実力を疑問視する牢人や武将達もかなりいた様で、
実際に牢人達を纏め上げる役割を担っていたのは、信繁よりも序列が上で戦の経験もずっとある勝永の方であったとされている。

また、敵方への内通(甥が参戦していた)を疑われたり、作戦を提案しても中々採用されなかったりと苦労したとされる。
が、そうなってしまったのは、実は開戦前の信繁の行動にもかなり問題があった為でもあり、
人間関係においても真田衆の内輪としか関わり合いを持とうとしなかった事から、中間管理職の勝永や大野治長は大変頭や胃を痛めていたとも言われている。

大阪城へ入城した際には、信繁は数十名の護衛も引き連れてきたのだが、実はそれらの殆どは、戦の経験など皆無である浪人ですらない百姓や漁師達ばかりで、
戦争によって出世と大金が得られる等と甘い考えをしていた彼等を連れて入城してきた信繁を見た大坂城側の人間達は呆れかえっていたとされており、
彼等の中には、冬の陣の最中にあっさり逃亡した者や、あろう事か金子を受け取った直後にさっさと姿を晦ましてしまった者さえいたという。

更に、出城である真田丸の建造を行う際にも、信繁は厄介な問題をやらかしている。
実は、真田丸の築かれた大阪城の南面には、後藤又兵衛が出城を築く予定で、既に建造する為の資材も用意されていたのだが、
父の考案した真田丸を築きたいと言う欲求を抑えられなかったのか、信繁は又兵衛の用意していた資材を勝手に撤去をさせて、真田丸の建築を始めてしまっている。
立場的には信繁の方が上で、治長から許可も得ていたとはいえ、自分よりも遥かに戦の経験のある又兵衛に対し無断でのこの行いは、あまりにも礼に欠ける物となり、
当然激怒した又兵衛は、同格の兼相に宥められても怒りが収まらず、遂には自分に賛同する兵達や牢人達を引き連れて信繁達真田衆を追い出そうとまでした。
しかし治長に説得を頼まれた明石全登が仲裁に入った事で、何とか内乱までには至らずに終わっている。
しかし、信繁は又兵衛から真田丸の建造を認めてもらう代わりとして、「自分も軍議に参加させろ」と要求され、これを呑む事になり、
結果的に牢人達のまとめ役は「三人衆」から「五人衆」へと変わる事になるのだが(新たに加わったのは又兵衛と全登の二人)、
牢人達のまとめ役が増えた事で、当然ながら牢人達の間における派閥も複雑化してしまい、結果的にただでさえまとまりの悪い状況を悪化させてしまっている。
この為、大坂の陣開戦前より、これだけの問題を起こしてしまった信繁に対する大坂城側からの印象が悪くなってしまうのは、ある意味「当然」であった。

また、信繁を始めとする牢人達が軍議において積極的に主張し認められなかった城外出撃策に関しても、
いくら戦の経験が豊富にあるとは言え、烏合の衆である牢人達では、行軍や連携が必須となる夜戦は非常に困難となってしまい、大敗してしまうリスクの方が高く、
戦の経験が乏しくとも連携は取れている徳川軍を相手に局地的勝利は出来ても、いずれ数と連携に押し返され結局は包囲される形で確固殲滅となってしまう事から、
実行に移していれば、早期に有力な武将達を失い、「机上の空論」という結果で終わっていたと思われる。
実際、大坂夏の陣の前半でこれに近い作戦に出た結果、又兵衛を始めとする有力な武将達の死に繋がっている。

夏の陣で信繁が家康を討ち取る為に部下達と共に実行した数度の強襲も、身も蓋もない事を言ってしまえば、ドン・キホーテと同じ無謀な「特攻」でしかなく、
事実、この行いによって部下の殆どが徳川軍に討ち取られてしまい、信繁が家康を討ち取る寸前に至ったのも、様々な「要素」が重なった「偶然」だったと言える。
むしろ、徳川軍の有力な武将を討ち取った上で信繁と同じく本陣への突入に成功し、退却した後も大坂城への帰還にまで成功した勝永の方が優れていただろう。

後世では現在に至るまで「日本一の兵」として賛美される信繁ではあるが、
戦の経験の少なさや蟄居生活時代の贅沢さ、兄の苦労を省みない身勝手さ、周囲への配慮の足りなさから見ても、
多くの苦労を重ねた父や兄に比べて、実際の真田信繁は「苦労知らずかつ世間知らずなお坊ちゃん」という部分の強い人物だったかもしれない。

彼を取扱った作品


司馬遼太郎『軍師二人』(後藤基次とのダブル主役)

池波正太郎『真田太平記』(1985年NHKドラマ化、主演:草刈正雄)

東映映画『真田幸村の謀略』(1979年公開、主演:松方弘樹)

テレビ東京 12時間超ワイドドラマ『家康が最も恐れた男 真田幸村』(1998年放送、主演:松方弘樹)

NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年放送・脚本三谷幸喜、主演:堺雅人)




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