直江兼続(戦国武将)

登録日:2010/06/23(水) 22:59:12
更新日:2024/04/01 Mon 22:14:05
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彼は利を捨て義に生きた男だった……。

直江兼続(1560〜1619)は安土桃山時代から江戸初期の上杉家の武将、政治家である。
越後上田庄(現在の新潟県)で生まれたとされている。

幼名は与六。
父は長尾政景に仕えた樋口兼豊(木曾義仲の重臣・樋口兼光の子孫と言われている)。母は上杉家重臣・直江景綱の妹(信州の豪族・泉重歳の娘説もある)。
父・兼豊の身分についても見解が分かれており、長尾政景家老、上田執事との記載がある一方、薪炭官吏だったとも言われる。
なお、江戸期に入った時期には諱を「重光」に変更しているのだが、関ヶ原の戦いでの活躍の方に注目が集中している為に、あまり知られていない模様。


幼い頃に仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)に見いだされ、景勝に小姓として仕える。
後に景勝が上杉謙信の養子となり春日山に移り住んだ為、謙信の薫陶を受けたとされる。

上杉謙信の死後に起こった「御館の乱」では父・兼豊ともに景勝方として参戦し、この頃から景勝の右腕として頭角を現し始める。
当初、春日山城と蓄えられていた黄金を抑えた景勝が優勢だったが、景虎方が実家の北条家とその同盟国である武田に援軍を要請すると絶体絶命の危機に陥る。
そこで景勝は起死回生の一手として武田に東上野の割譲と黄金一万両を送ることで武田と同盟を結んだ。この時に使者となったのが兼続だったという。
これにより景勝方は盛り返し、北条軍も撤退した景虎方は敗れ、景勝が上杉家当主となった。
一説には謙信が危篤状態の際に狼狽する老臣たちを尻目に「御一同様、まずは落ち着かれませ」と制した上、謙信が再起不能と判断すると景勝を次期当主とするため、
謙信の看病にあたっていた直江景綱夫人(兼続の叔母に当たる)や本庄繁長や権四郎らと計って景勝を跡継ぎにするという、謙信の偽の遺言を偽造したとも言われている。
なお、景虎側が和睦交渉の人質として送った道満丸も、保護を命じた景勝に背いて、兼続自ら(あるいは直江信綱)の手で殺害されたとも言われている。
ただし、当時はまだ一介の小姓の身分であり、御館の乱以前の活動については色々と疑問点も残っている。

しかしその後、兼続の人生を一変させる事件が起こる。
御館の乱の論功行賞を巡る遺恨で景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害されたのだ。
兼続は景勝の命より、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。

ちなみにお船は兼続の三歳年上の従姉。
従姉弟同士だったためか、夫婦仲は再婚ながらかなり良かったとされる。

以後、上杉家は兼続と謙信の側近であった狩野秀治の2人の執政体制に入るが秀治が病に倒れ、兼続は内政・外交の取次の殆どを担うようになる。
秀治の死後は単独執政を行ない、この状態は、兼続の死去まで続く事になっている。


明智光秀によって起こされた本能寺の変後の局面では、豊臣秀吉が勢力を拡大する中、景勝に秀吉との和睦を進め危機を乗り切った。
秀吉にはこういった知略を非常に高く評価され、『天下執政の器量人』と賞賛された(ただし、それには知恵が足りない、と秀吉に苦言も呈されているが。)。
それも豊臣の姓を授かる程であり、この辺りにも兼続の非凡さが見て取れ、特に内政面において兼続は優れた手腕を発揮した結果、
上杉家最盛期においては、当主である景勝以上の発言権を持っていたのではないかという通説さえ出ていた。
また、秀吉に仕えていた文治派である石田三成とは、同年代で相通じるものがあった為か、懇意の仲であったとも言われている。


しかし、秀吉の死後に起こったある戦いが原因で、上杉家は転落の一途を辿る事になる。


そう、かの有名な関ヶ原の戦いである。


秀吉の死後、上杉家は秀吉から命じられた領地替えによって、越後から会津へと移る事になったのだが、
兼続は旧領の越後を有する堀家、自領の庄内三群を分断する最上家に対する上杉家の軍事侵功を企てようとする。
その最初の標的として選んだのは堀家であった。
兼続は上杉家の会津への移動の際、本来なら蔵にある米を半分残さなければならない決まりを破って全ての米を持ち出し、
米作りにおいて必要不可欠な百姓達までも、強引に会津へと連行してしまう。
兼続による堀家への嫌がらせ政策はその後も続いた。
米の返還を求める堀家川に対し、兼続は「米を全て持ち出さない堀家の方が悪い」と完全に居直った返答を行い、
越後に残しておいた元・家臣の浪人達には、農民達を扇動させて何度も一揆を起こさせており、
更に上杉家の旧家臣である河村彦左衛門から米を借りたのを知れば、買収して借用書を手に入れて堀家にしつこく催促をする等、
越後の農民達の不満をこれでもかと煽り続けた兼続の悪意に満ちた行いの数々は、
遂に堀家の当主である秀治が、豊臣家の実質的最高権力者である徳川家康に助けを求める事態となった。


上杉家が堀家への嫌がらせだけでなく、会津に新規の築城(神指城)、土地の整理によって峠を要塞化、大勢の浪人達や武器を集めているという情報も得た家康は、
直ちに兼続の主君である景勝に対し、事の真意を聞き出す為の上洛勧告を要請する書状を出すのだが、
兼続の行いについて知らない景勝にとって、越後に起きている事態に関しては寝耳に水な話でしか無かった為、
兼続は、上杉家の潔白を証明する為の書状をしたためて送り付けるよう景勝に命じられる。

兼続は家康に屈して野望を諦めるか、それとも10万の徳川の大軍を迎え撃ち『謙信の家』に恥じぬ戦いよって家康を討ち取り、上杉の義を世に知らしめるか、思案する。
そして兼続はある返書を書く。
世に名高い『直江状』である。(現代用語にて要約)

『内府様、(内大臣家康のこと)ご機嫌麗しゅう。
さて、潔白の誓紙を差し出せとのことでしたが、いくら出しても大した意味はありません。
これまでもさんざん出してきましたが、内府様は読んでもいないのですか。
太閤殿下の死後に色々と心変わりしている大名がいるようですが、当上杉家をそんな連中と同じに思われては甚だ迷惑至極。
こちらも大名ですから、武器は確かに集めておりますが、これは人たらしの好きな上方大名が茶道具を集めることと同じでして、
我々田舎武士は武器を集めることしか出来ないのです。
謀反の疑いをかけられるのは誰か密告者がいるのでございましょう。
その密告者を詮議もしないでそのまま鵜呑みにするとはそちらの手落ちと云うしかござらん。
それでも此方に非があるというのであれば致し方ありません。
いつでもお相手いたしましょう』

静かな言葉に秘められた挑戦…もとい挑発だった。
簡単に言うと「上杉家をそこらのすぐ心変わりするような奴と一緒にすんな!!あんたのとこは素性の知れない密告者のいうことを調べもしないで鵜呑みにすんのか?それでもこっちが悪いっていうならきやがれ!!相手してやんよ!!!」という喧嘩腰丸出しの文である。
兼続は景勝から命じられた「潔白の証明」どころか、「家康を討ち取って上杉こそが義である事を証明する道」を英断したのである。
当然、こんな内容の書状を受け取った家康は「こんな無礼な書状は見たことがない」と激怒。会津征伐の軍を起こし、ここに関ヶ原の戦いの戦端が開かれる。

兼続の望む戦いが発生しようとする一方、当然上杉家の家臣団でも藤田信吉や栗田国時の様に家康との戦いに反対する者もいたが、
兼続は目障りであった彼等を徳川家に内通した裏切者のレッテルを張り付けた上で暗殺者を送り、
栗田国時は死へと追いやり、藤田信吉もまた徳川方へと出奔する。

かくして、徳川と上杉による仁義なき戦いである「会津征伐」が勃発しようとしていたが、
家康不在の隙を突く形で大坂城に入城した兼続の盟友・石田三成が挙兵した事で徳川軍は東軍として関ヶ原へ引き返す。
兼続は東軍を追撃することを主張するが、景勝は引き上げる東軍を追撃することは義に反するとその案を却下。
兼続は自ら二万の精鋭を率いて当初の目的である最上領へ矛先を向ける。
尤も東軍の追撃を行えば、会津が最上家や伊達家の侵攻を一気に許す事になった為、景勝の判断は間違いでは無かったと言える。

兼続は千の兵が立て篭もる長谷堂城を一万八千で攻めるが、大軍による力攻めという短期攻略戦法を用いながら戦闘は長引き、
関ヶ原敗報がもたらされるまで、上杉軍は最上軍の奮戦もあり、約2週間長谷堂城で足止めを受け、ついに攻略できなかった。
そして、関ヶ原本戦で西軍は敗退。首謀者である三成も、小西行長や安国寺恵瓊と共に捕縛され、
会津への撤退を余儀無くされた兼続は、自ら殿に立って最上軍の追撃を受け止めた。この時の兼続の盟友・前田慶次の活躍はあまりにも有名。

無事に会津に帰還した兼続だったが、家康に屈するか、それとも滅亡覚悟で戦うか決断を迫られた。

「家康に屈するくらいならば、滅亡するのも当然だ!」

そう口々に発する家臣達と同様、兼続もまた家康との徹底抗戦に出ようとする。
しかし、そこで主である景勝に止められる。

「お前達の言いたい事も解かる。だが天下の趨勢が決まってしまった今、戦うことは犬死にすると同じことだ。そして多くの民がまた犠牲になる。
それが亡き謙信公の目指していた義を取る者の道だというのか?」

徹底抗戦を望む兼続達に対し、上杉家当主の景勝が選んだ道は降伏する道であり、盟友・三成を失った兼続もまた、自らの野望を諦めざるを得なかった。
景勝と兼続は家康に謝罪。領地を米沢三十万石へと大幅に減らされる。だがこの時の二人の態度は悪びれもせず、堂々としたものだったという。

米沢へ移った兼続は上杉家の窮状を救うべく奔走し、ひたすら家康に臣従する道を選ぶ。
大坂の陣が勃発した際も、兼続率いる上杉軍は積極的に豊臣家への攻撃を行い、
その功績を家康から認められた兼続は、感状を得るまでに至った。
しかし、会津征伐から関ヶ原に至るまで、自らが積極的に「家康討つべし」を唱えて上杉家を扇動していながら、
謝罪後は一転して家康の機嫌を取る為の政策を行い続けた兼続の日和見も良い所な姿勢は、
実弟の大国実頼からは完全に愛想を尽かされて、徳川からの使者を斬られる形で反発された挙句に高野山へ出奔され、
大坂の陣で感情を得た際にも安田能元や水原親憲から容赦の無い嫌味を言われる事になる等、
関ヶ原の戦い後の上杉家臣達からの兼続への態度は厳しいものとなっている。


その後も殖産業に力を入れ、十年かけて米沢の城下町を作り上げた。
この間、子供たちの相次ぐ死という悲しみを乗り越え、兼続は学問所建設、鉄砲の生産強化、直江版の発行など、黙々と上杉のために働き続けた。
だが長年の過労がたたったのか、兼続は病に倒れた。
景勝は必死の治療をさせたが、その甲斐なく江戸屋敷で静かに息を引き取った。
享年六十。

生前、兼続と親交があった僧侶・南化玄興は彼のことをこう評している。

「人というものは利を見て義を聞こうとしないものだ。そんな中で直江公は利を捨て義をとった人だった」

と。

また、兼続は跡継ぎとなるはずだった娘婿や息子を、前者は妻であった娘が亡くなったために、
後者は病気で亡くなったためにそれぞれ失った後、養子をもらって跡を継がせることをせずに直江家を断絶させているが、
これは財政難に苦しむ上杉のために、高額な直江家の家禄を無くすことで少しでも財政が良くなるようにと考えたためだとも言われている。

真偽のほどは不明だが、そんな説が出るほど兼続は義に厚い武将だったのだろう。

ただし、当時における『義』とは、義理人情を意味する現代の『義』と大分意味の異なる物である。
当時の『義を取る』の意味は、乱世の時代においても学問の大切さを心得ている事…つまりは、現代で言う一種のインテリであり、
この点に関しては、盟友の三成だけでなく、散々敵視していた家康にも通じる物であった。
また、兜の前立てである『愛』の意味も、愛情や親愛、仁愛といった物では無く、愛染明王や愛宕権現の事を指している。
しかし、現在において兼続の『義』や『愛』の意味は、当時とは照らし合わさず、率直な形で現代風にとらえられてしまっており、
それが聞きかじりな戦国ファンや歴女等から「 直江兼続は義理人情に厚く愛に生きる正義の武将だった 」という間違った解釈にまで発展してしまっている。
その誤解は、ゲーム「戦国無双シリーズ」や大河ドラマ「天地人」、漫画「義風堂々」等によってより加速してしまう事になり、
兼続や盟友の三成、真田幸村等が「英雄」として持ち上げられるのに反し、
逆に敵対した徳川家康や堀秀治、藤田信吉らは一方的に「極悪人」の烙印を押される事にも繋がっている。

上述の堀家に対して一起の扇動や、藤島城攻略における助命の約束を反故にした上での大虐殺の指揮、
閻魔大王への嘆願書における家臣に無礼討ちされた者の遺族達の処刑等、義とは程遠い卑劣な行いも散々しており、
逸話に関しても伊達政宗を標的にした嫌味なものが多い為、その義はあまり受け入れられるものではなかったようだ。
そして戦下手。長谷堂の時も軍監、水原親憲に戦線が間延びしているのを散々指摘されても無視していた。

直江状も傍目にはかっこいいが身も蓋もなく言えば単なる無謀な喧嘩であり、
お蔭でこの後の上杉家は移転・大厳封を食らった上に配下の武家たちは食うや食わずやの苦労を背負い込む事になってしまう。
世間一般に言われる軍師というよりは、嫌味かつ優秀な官僚型の人間だったようだ。


直江状について

愛と義に続く直江兼続の有名要素の一旦を担うのが、本記事でも上述した直江状なのだが……

この直江状、内容に不可解な面が多い。

例えば本文中に増田右衛門少尉(増田長盛)や大谷刑部少輔(大谷吉継)の名前を挙げた部分では、彼らの名前を増田殿や大谷殿の敬称呼び、あるいは右衛門少尉殿や刑部少輔殿のような役職呼びではなくなぜか「増右」「大刑少」と妙な略し方をしている点。
これは言い換えると「田中太郎社長」を「田社」と略すようなもので、相手への敬意的にも手紙の形式的にもどう考えてもあり得ないこと。

さらに、家康から景勝に贈られた書状では冒頭から既に「勝手に新しい城を建てたり、道や橋を作ってんじゃねえぞお前」と釘を刺されているのに対し、
直江状では「道や橋は交通が不便だから作ったんだよ」と反論していて築城に関してはガン無視している。
家康を挑発する目的なら城を作る=戦いの準備=お前と殺り合うつもり というニュアンスを含めているので問題は無いが、他の質問に対しては懇切丁寧に答えているのにこれだけ無視するのも変な話。


他にも当時の手紙の書き方では不自然な箇所が多く指摘されているので、現存する直江状は偽書、あるいは後世に内容を改竄された別物であるという説が出ている。

現代では有名人の偽造サインを精巧に作りYahooオークションやメルカリで販売しては逮捕される――というニュースがたまに発生するが、
実は江戸時代にも有名戦国武将の架空の書状を精巧に作って販売して金を稼いだり、まるで本当に数百年前に起こったかのようにデタラメを本物っぽく書いて『歴史の真実』として発表する人間は実在した*1
仮にそのような人間が書き換えたものであるならば、本物の直江状の内容は、兼続の言い分ははたしてどのようなものだったのか……?


追記・編集を『義風』とともに月に語らん―――。

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最終更新:2024年04月01日 22:14

*1 この辺のやらかしで有名なのが沢田源内