徳川家康(戦国武将)

登録日:2009/10/18 Sun 10:00:34
更新日:2024/02/14 Wed 17:23:00
所要時間:約 19 分で読めます





徳川(とくがわ)家康(いえやす)(1543年1月31日~1616年6月1日)は戦国時代の武将、大名、そして江戸幕府初代征夷大将軍である。
幼名・竹千代。通称・次郎三郎。別名・松平元信、松平元康。


◆生涯

少年時代

三河(現在の愛知県)の小豪族・松平広忠の長男・「竹千代」として生まれる。
因みに内祖父の後妻が外祖母という関係で、内祖父である清康の死後に、
お互いの連れ子同士が結婚して子供が出来る行為をした結果生まれたという、現代法でもギリギリセーフだが、かなり破天荒な出生である。
松平家は今川義元の庇護下にあったが、まだ2歳の時に、母・於大の方の実家である水野家が織田家と同盟した為に、
広忠はやむなく於大を離縁し、竹千代は母と生き別れとなってしまう。

6歳の時、今川への人質として駿府に送られる最中に運び役の戸田康光が織田家へ寝返り、その手土産として織田家の人質となる。
が、広忠はそれでも今川方に臣従し続けた。そのため殺されてもおかしくなかったはずなのだが、人質として役に立つと思われたのか生かされていた。
なお、一説ではこの時期に、家康はまだ当主にはなっていなかった織田信長と邂逅を果たしたとされている*1
2年後、父・広忠が死去。家臣によって暗殺されたとも伝わる。
こうして父の死に目に会えなかった家康であったが、そんな彼の悲劇はまだ続く事になる。

後に織田信秀の庶子・織田信広*2との人質交換により竹千代は返還されるが、
岡崎城へ入ることはなく、今度はそのまま駿府に移送されて今川家の人質となる。
父の死後は岡崎城に今川方の人物が城代として入り、父の墓参りに帰参した際も、城代をはばかり本丸ではなく二の丸に入ったという。

今川家では軍師の太原崇孚雪斎による教育(否定説もあり)や、今川一門である瀬名を妻とするなど好意的だったとも言われるが、
人質である事実には変わりなく、故郷へは帰れず、ご近所からの苛めなどもあり、全てが良かったとも言い難かった。
また松平家臣団は今川城代の元、文字通り藁を齧り泥を啜りながら生きるしかなく、
幼くして当主となった竹千代の心中が穏やかでなかったのは想像に難くない。
家臣である三河武士たちも今川家の従属に置かれ、生きるために農業をしたりと過酷な環境だったという。

1555年、元服を迎えた竹千代は今川義元から「元」を賜って名を「次郎三郎元信」に改めた。

桶狭間の戦い後・清州同盟

1560年、元信に次なる転機が訪れる。桶狭間の戦いである。
亡き祖父から一字を貰った元信改め「松平元康」は、別働隊として出陣。
元康は織田方の砦を攻略し大高城を守備していたが、今川義元の死を知ると撤退を余儀なくされる。
ところが同報を聞いた岡崎城代が城を空け撤退していたため、空城となっていた故郷・岡崎城に図らずも帰還することに成功した。
この時も、今川家と無用な争いを避ける目的で、城代を憚って一旦城下の大樹寺に入り、
今川義元の死を知った城代が帰ったのを確認してから入城する徹底ぶりであった。

その後は岡崎城に留まり、今川家を継いだ今川氏真に義元の弔い合戦を進言、
自身も信長に対して合戦を繰り返すが氏真は動かず。
結果的に対織田家の最前線に取り残される事になった元康は、桶狭間から2年後の1562年、ついに今川家を見限り信長と清州同盟を締結した。
この頃、義元から賜った「元」の字を捨て、「松平家康」に名を改めている。

「恩の厚い今川家を裏切った」という見方もあるが、前述のように前段である程度義理を果たした部分もあり、
地理的な条件からも生き残り戦略としてやむを得ない行動である。
また、家臣団との繋がりを考えても、ここで立たなければ祖父・清康の代からずっと松平家に仕え、
今川傘下の時代には苦汁を舐めてきた家臣団に対し不義理となってしまう為、妥当な判断だったと言える。

この清州同盟により母・於大とも十数年ぶりに再会、於大が1602年に亡くなるまで交流を絶やすことはなかった。
於大は久松俊勝と再婚して子供もいたが、この異父弟たちに松平の苗字を与え召し抱えている。
ちなみに異父兄弟の末弟である松平定勝の子孫が、アナウンサーの松平定知氏である。

その後、「家康三大危機」の一つ、三河一向一揆が勃発。
結束力が強みの家臣団だったが一向門徒も多かったため、信仰を重視し家康に弓を向けた本多正信らと、
家康への忠義のために改宗までした本多忠勝らに分かれ、家中が分裂することになった。
しかし一揆側に付きながらも主君に刃は向けられず、家康の姿を見ると戦わずに撤退する者や、
離反を悔いて家康の下への帰参を求める者が出るようになり、一揆は次第に収束へ向かう。
一揆発生から半年ほどで一揆側との和議を結び、離反した家臣たちには投降したうえで改宗する事を条件に帰参を許した。

その後、東三河地方の豪族を抱き込みながら徐々に勢力を拡大。
甲斐の武田信玄と同盟を結び、1568年遂に今川氏真を降伏させ、かつての主家・今川家を滅亡させた。
こうしてかつての主家とその跡取りに引導を渡す形となった家康だが、その跡取りたる氏真とは個人的には良好な関係を築いていたらしく、
今川家は滅亡させたが氏真の命は取らず、むしろ後に氏真を保護して高家として存続させた他、晩年は茶飲み友達の様な関係になっている。

この間には三河の正当な主の証である三河守への叙任を「勅許による徳川への改姓」という離れ業により実現させ、
皆が良く知る「徳川家康」を名乗るようになった。
一説にはこの三河守叙任によって、信長との同盟は形式上は対等な同盟となり続けたともいわれる。後の驚異的な政治力の片鱗であったのかもしれない。
その後は織田の同盟国として姉川に出兵。寡兵で3倍の朝倉軍に当たり、苦戦しつつも別働隊・榊原康政の活躍でこれを撃破、姉川合戦の勝利に貢献した。

次の転機は1573年、「三大危機」の一つ、三方ヶ原の戦いである。
織田と武田との関係が悪化するに伴い、遂に武田と敵対する事となった家康は1572年、武田信玄による三河侵攻を受ける。

上洛の途上にある信玄に遠江を突破されれば、信長は完全に包囲されてしまう。
緊張に包まれる徳川陣営だったが、武田軍はなんと本拠地・浜松城を無視。そのまま西進を続けた。

この行動に奮起した家康は城から出撃するも当時最強と謳われた武田軍の前にぼろぼろに打ち負かされ、
家臣、織田からの寄騎など多くの将を討ち死にさせながら浜松へと逃げ帰ったと言う(三方ヶ原の逸話は後述)。
この際、明治の文豪・夏目漱石の先祖である夏目吉信など複数の家臣が、家康の影武者となって討ち死にしている。

あわや滅亡の危機にさらされた徳川家だったが、ここで強運を発揮する。
なんと武田信玄が危篤となり軍を引いたのである。
この後信玄は世を去り、後を継いだ武田勝頼との戦いを続けたが、1575年、長篠設楽原合戦に勝利する事で、劣勢を挽回する事に成功した。

1579年、嫡男・信康と正室・築山殿に謀反の嫌疑が掛り、織田信長の命により泣く泣く処断している(異説もある。後述の逸話にて)。

本能寺の変後

そんな彼に次の転機が訪れたのは1582年。
ついに武田家を滅ぼした家康は信長に呼ばれ、堺観光を満喫していた。そこに飛び込んだ知らせは、


本能寺の変である。


この時、わずかな家臣としかいなかった家康は、後追い切腹や明智光秀に対して突撃による討死も考えたが、
家臣に説得され、伊賀から伊勢へ抜ける山道を突破、三河への脱出に成功する。
これが「三大危機」の一つ、神君伊賀越えである。


体制を整えた家康は京へ登ろうとするが、光秀が既に秀吉に敗れ死んだ事を知ると、
行き先を空白地帯となった織田領の甲斐、信濃へ向け、有能な武田遺臣団を召し抱える事にも成功した。
近年の研究では家康の甲信領有は織田家の許可を取った上でのものであるという見方もされているが、
その書状よりも前に甲斐、信濃の国人達に領地安堵の書状を送っているためおそらく事後承諾である。

その後は急速に勢力を拡大した秀吉と対立。
小牧長久手の戦いでは、大軍を擁する秀吉を相手に局地戦で圧倒したものの、
同盟者であり対秀吉の御旗でもあった織田信雄が勝手に講和したため、やむなく兵を退き膠着状態となった。
結果、秀吉は家康の勢力を削る事が出来ず、一方の家康は「圧倒的な戦力差ながら秀吉と一戦交えて勝利した」という、大きな名声を得る事に成功した。
ここでも家康は強運を発揮しており、秀吉が再度家康を攻めに大軍を差し向けようとしたところ、天正大地震が発生。
これによって秀吉は家康攻めどころではなくなり、図らずも数的不利な直接対決を避ける事になった。
最終的に力押しでは分が悪いと方向転換した秀吉は、妹や母を人質に送りつけるという「強者の立場から下手に出続ける外交戦略」を展開。
更に無位無官のままで成り上がり続けた秀吉は、朝廷への取り入り政策も行って僅か一年程で従一位という家康を凌駕する官位を手に入れ(当時の家康の官位は従三位)、
最終的には「関白」の地位まで得ることとなり、ここに至っては家康も観念せざるを得ず、上洛して秀吉に臣従する事になった。

秀吉の天下

長きに渡って上洛を拒否し続けた家康は、当然というべきか秀吉から完全に危険視されており、
最後まで秀吉に抵抗した北条家が滅亡した後の1590年、家康は秀吉から旧北条領である関東への領地替えを命じられ、
これによって先祖伝来の地である三河から引き離される事になった。
ただし、あまりにも無茶な命令をして家康に楯突かれる事態は秀吉も避けたかったようで、
この配置換えに関してもかなり家康に配慮しており、石高の上ではおよそ100万石の加増をした上、
「石高の自己申告」等の異例の好待遇を行い、ある程度の自由な経営も認めていた他、
五大老のくくりの中でも、家康は終始最も強い地位に置かれていた。

だが、家康の領地となった当時の関東は湿地帯だらけな上に、北条家を滅ぼされた事を恨んでいる反豊臣勢力が各地にいるという絶望的な状況で、
そこに豊臣の一家臣として、北条家に縁のない家康が領主として派遣されるとなると、民からの一揆・反乱は避けられないと思われた。
そこで家康は、鎌倉時代に北条家を打ち破った新田義貞に連なる源氏の姓を名乗る事で、自らが北条家に代わる領主となる正当性を喧伝。
更に北条家が本拠を構えた小田原ではなく、「江戸」に新たな居を構えて土地開発を開始した。
この江戸の地で利根川の流れを変えるなどの大規模な治水工事を行い、現代の「東京」に繋がる街の基礎を作り上げていった。

信長、秀吉と同時代にしのぎを削った相手でもある家康は、政権内の他の大名とは官位、発言力共に一段違った存在になり、
秀吉の治める天下は続いていたが、その中でじわじわと発言力を増しながら雌伏の時を過ごすことになる。
秀吉も家康の動きに対応するため、他の五大老である毛利輝元、小早川隆景、前田利家らを厚遇するなど動いている。
一応家康が最初から秀吉に反旗を翻す意思があったかは、実の所不明瞭(表向きはお互いあまり関わり合いになることがなかった)ではあり、
朝鮮出兵の際に秀吉が自ら朝鮮に出陣しようとした折には、出陣を求めていた石田三成と激論を交わしてでも反対。
「秀吉に万一の事があれば豊臣の天下が終わりを迎える」と主張して思いとどまらせているなど、当然ではあるが表向きの言動は豊臣家の忠臣だったとも言える*3

もっとも最終的に秀吉に臣従したとはいえ、前述の秀吉からの勢力弱体化と北条家残党を利用した飼い殺しあるいは謀殺狙いをされている*4上に、
幼い頃から縁があり、恩がある信長とは違って、秀吉には(家康から見て)恩義などもほぼないことから、忠誠心が強い方がおかしい。
実際、秀吉亡き後は立場を利用して勢力を広げ、大阪の陣で豊臣家を滅ぼして天下人の立場を(豊臣家から見て)簒奪した上、
大阪の陣の後も執念深く残党狩りを行うなどの行動を見れば、心から豊臣家に忠義を尽くしていたとは思えない。
忠誠心に関しては秀吉も重々承知していたと思われ、上述の家康への配慮なども彼を信用していたわけではなく、
家康と真っ向から対立する事態を避けようとしていたためであることは、その行動からも明らかである。


秀吉の死後・関ヶ原の戦い

1598年、一代で天下人へと成り上がった豊臣秀吉は、その人生を閉じた。
家康は既に50を超え、当時で言えば最早いつ死んでもおかしくない老齢に差し掛かっていたが、
太閤・秀吉の死と、それに伴う政変によって、徳川の存亡をかけた運命の時を迎える事になった。
家康、56歳。遂に、「守」の人生から「攻」の人生へと動いたのである。

朝鮮出兵での失敗が原因で、中央集権による官僚政治を目指す石田三成と、秀吉子飼いの武断派・加藤清正の対立に代表されるように、
秀吉を失った後の豊臣家は、政権の舵を巡って政争が繰り広げられていた。
かねてより家康を警戒していた三成は、秀吉の死から十日後、家康の牽制を目的として五奉行のうち四名*5と起請文を交わす遺命破りに乗り出した。
一方、秀吉存命時から政権随一の実力者として各大名家にコネクションを作りあげていた家康も、豊臣家臣団の亀裂に間に上手く入り込んでいく。
もう一人の実力者である前田利家が両者の争いを治めようと奔走したものの、その利家も秀吉の死の翌年に死去。
年代的にもかつて秀吉と渡り合った同世代の大名たちは既になく「最後の大物」となっていた家康は、次第に地方分権派の旗頭として自らに権力を集中させることに成功する。

しかし、反発する石田三成らが、1600年についに挙兵し、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した。
東西合わせて18万ともいわれる、日本史上最大級の合戦に、家康は東軍の総大将として参戦。
この戦いは僅か一日で東軍の勝利により幕を下ろし、家康の権威は最大級に高まることになった。

江戸幕府のはじまり

1603年には征夷大将軍に就任。30年間空白だったこの位に付く事は再びの武士政権、幕府の樹立を意味した。
これにより、大坂に豊臣家、江戸に徳川家と2つの大家が並び立つことになった。
2年後には三男、秀忠に将軍職を譲渡。名目上は隠居の身となったが将軍職譲渡後も実権を握り続け、「大御所」として政治を行い続けた。
政治の場から離れるつもりはなかった家康が早々と秀忠に将軍の座を譲ったのは、「将軍の地位は代々徳川家が世襲していく」ことを世に示すためで、
関ヶ原の戦い以降も大坂で強い影響力を持つ豊臣秀頼、そして彼を擁立する豊臣家に政権を譲る気はないという意志表示でもあった。

ある意味豊臣家への挑発とも取れるこの譲位と、江戸を中心に事実上の天下人として振る舞う家康の行動は当然豊臣家を刺激し、
「秀頼こそ正当な天下人である」と考える豊臣方と家康及び徳川家の関係は徐々に悪化していく。
一時は「西は豊臣、東は徳川の分割統治」や「大坂城を出て豊臣家が一大名として徳川に降る」といった穏当な案が出たとも言われるが、最終的には決裂。
1614年に、後に「大坂冬の陣」と称される戦いが火ぶたを切って落とされた。

なお、関ヶ原の戦いの後、徳川方が豊臣家の建てた寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文を「家康の名前を真っ二つに裂いており、これは徳川家を呪う文言だ」と解釈して激怒、
「そんなつもりはない」という豊臣方の弁明を無視し、両家の関係に決定的な溝が生まれるきっかけとなったという「方広寺鐘銘事件」という逸話があるが、
現在の研究では「無礼である事は事実で、豊臣方が意図して入れたとする解釈もあり、江戸側が怒る事自体は決して横暴でも不自然でもない」といった解釈が主流となっている。
一方、老齢な家康が自らの存命中の間に徳川の天下を実現しなければならないと考えた結果、方広寺の鐘銘を名目にして早期の開戦に持ち込んだという解釈も根強く、
この辺りは描かれる媒体の家康像によって差異がある*6
仮に後者の解釈を取る場合、家康は当初豊臣家を滅ぼすつもりはなかったが、
秀吉の後継者であり、既に老齢に差し掛かった自分とは対照的に若さに溢れる豊臣秀頼との会見によって、
自らの老いと秀頼の大柄な体格から来るカリスマを痛感し、「ここで秀頼を倒しておかないと間違いなく後々徳川家の禍となる」と考えを変えたと語られることも。

「冬の陣」では、強固な大坂城の護りや真田信繁(幸村)の『真田丸』での奮闘もあって豊臣家を攻め滅ぼすまでは至らず、
大砲を大阪城の天守に撃ち込んだことで豊臣家から和睦交渉が持ち掛けられ、これを受けていったん和睦。
しかし一時的なものに過ぎず、和睦の条件であった「総堀の埋め立て」を不服とした豊臣方の主戦派が勝手に堀を掘り返したのをきっかけに、
徳川方は「和睦が破られた」として「大坂城にいる浪人の追放」と「豊臣家の移封」の要求を豊臣方に突き付け、
当然受けることなどできない豊臣方がこれを拒否したことを受けて家康は出陣し、1615年に「大坂夏の陣」が開戦。

大坂城がほとんど丸裸にされたこともあり、豊臣方は「冬の陣」と違って大坂城からの出撃策を採ったが、
既に彼我の兵力の差が歴然であったこともあって、「夏の陣」では徳川方は連戦連勝を重ねる。
最終戦である「天王寺・岡山の戦い」では、豊臣方の毛利勝永らによって先鋒を打ち崩されたところに、
「日本一の兵」と称された真田信繁が徳川の本陣近くまで切り込み、家康も一時切腹を覚悟するところまで行ったが、
最終的には押し戻して豊臣方を撃退に成功し、「夏の陣」でも家康は勝利を収めた。
大勢は決しても、豊臣方は大坂城に籠って最後まで抵抗したが、裏切った味方に放火されて大坂城は炎上。
大野治長から、千姫を託した家臣を通じて「千姫の引き渡し・大野らの切腹と引き換えの秀頼・淀殿親子の助命嘆願」が届くが、
家康から対応を任された秀忠はむべなく撥ねつけて秀頼の切腹を命じ、翌日の秀頼らの切腹をもって豊臣家は滅亡することとなった*7

こうして後顧の憂いを断った家康だったが、この時には既に自身の死期を予期していたのか、
急ピッチで大御所として幕府が後々も続くように諸制度を整えるなどした後、
1616年6月1日、当時としては長生きと言える74歳で、幼少期より多くの苦難を経験した激動の生涯を終えた。
以下の二首を辞世の句として残したと言われる。

「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」*8
「先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う」*9

死後、「東照大権現」として神となり、現在も日光東照宮に祀られている。


死因については、史料に残された症状から胃癌だったという説が有力視されていたが、
  • 鯛の天ぷらを沢山食べた翌日、突然激しい腹痛に見舞われた(脂っこいものを食べた後に腹痛を起こすのは、すい臓の病気の特徴)。
  • 侍医頭(主治医)の診察で腹部にしこりが見つかった(クールヴォアジェ兆候。つまり、胆のうから伸びる胆管が閉塞し、胆汁が逆流したことで胆のうが大きくなった)。
  • 医学や薬学に精通していた家康は、持病だった寸白(サナダ虫)だと誤診した。
  • 次第に食欲が衰え、痰が増えて不整脈が出るようになった。
  • 顔色は悪く、吐き気も起こし、高熱としゃっくり、大量の痰に苦しめられた(進行すると体重減少・食欲低下・黄疸などが現れる)。
  • 症状が出てから三ヶ月余りで亡くなった。
と、これらの事から、実は癌の中でも最大とされる「すい臓癌」であったとされている。
若き日は瘦せていた家康も、晩年はメタボ体型となっていたため、通常の体型の人よりも20%ほどすい臓がんの発生リスクが上がる。
もちろん、75歳という高齢も大きな原因であったのだろう。


◆子供

占めて11男5女。後に秀忠直系の本家「徳川宗家」と「御三家」系列以外の子孫は皆「親藩」の松平一族とされた。

  • 長男:徳川(松平)信康 武田と内通していたとされ、信長の怒りを買って母と共に切腹。晩年は徳川だったが没後松平扱いにされた。享年20
  • 次男:結城(松平)秀康 小牧長久手戦後に豊臣秀吉の養子となるが、後に結城家に養子に入る。
    最終的に越前北ノ荘藩を治め小田氏治等を家臣とし、越前松平家、津山松平家の開祖となった。ナマズ顔のブサメンだったらしい。
  • 三男:徳川秀忠 2代征夷大将軍。父が濃すぎ妻の家柄が凄すぎ影が薄かったが、近年再評価の兆しがある。関ヶ原への遅刻は許してあげて。
  • 四男:松平忠吉 井伊直政の娘婿であり。妖怪首おいてけを直接打ち取ったともされる。好戦的すぎたせいで戦の傷が元で早逝。享年28
  • 五男:松平(武田)信吉 母系の縁から武田姓を名乗っていたこともある。物凄く病弱で僅か21歳で死去。
  • 六男:松平忠輝 家康に嫌われていたと言う逸話が残る残念な人(詳しくは後述)。伊達政宗の娘を娶るも素行不良から父の死後幽閉されてしまった。
    幽閉後はわりとおおらかに過ごせたようで、享年はなんと92歳という当時としては仙人レベルの長寿。
    秀吉の生前に生まれ、5代将軍綱吉の時代まで生きる離れ業をやってのけた。
  • 七・八男:松平松千代・松平(平岩)仙千代 10歳にもならずに早逝。
  • 九男:徳川義直 柳生宗厳の孫から新陰流を学んだ尾張徳川家開祖。兄・忠吉の遺した領地を基に尾張藩を築いた。
  • 十男:徳川頼宣 明の遺臣からの出兵要請を引き受けそうになったり試し切り好きだったりとやんちゃだった紀州徳川家開祖。暴れん坊将軍こと吉宗の祖父。
  • 十一男:徳川頼房 甥(といっても年齢差はほとんど無い)の家光によくない遊びを教えたり子供に対する態度が厳しかったりした水戸徳川家開祖。信吉・頼宣から水戸藩を受け継いだ。あの水戸光圀の父親。
  • 長女:亀姫 信康の同母妹。奥平信昌に嫁ぎ「加納御前」と呼ばれるようになり、生涯夫に浮気をさせなかった。
  • 次女:督姫 小田原北条氏最後の当主北条氏政の元に嫁がされ、氏政の死後は初代姫路城主池田輝政と再婚。氏政との娘を輝政の連れ子に嫁がせた。
  • 三女:振姫 蒲生秀行、ついで浅野長晟(頼宣前の紀州藩主で浅野長政の息子)に嫁いだ頼宣の同母妹。
  • 四・五女:松姫・市姫 共に夭折。市姫は政宗の息子・忠宗に嫁ぐ予定だった(督姫の娘が代わりになった)。


◆逸話

  • 人質時代
織田の人質時代に信長と面識があったと言われる。
今川の人質時代、居並ぶ今川家臣の前で縁側から放尿。「豪気な子供」と称されたとされるが、単に行儀が悪いだけとも。
なお、今川時代には隣家の孕石元泰から苛められており、今川家滅亡後、今川遺臣を召し抱えたり、前述の様に当主・氏真と親しくしていたにも関わらず元泰だけはあっさり処断。
元泰に対しては恨みが凄まじく殺してしまったのだろうと言われる。

  • 三方ヶ原の戦い
三方ヶ原では脱糞しながら浜松に逃げ帰り、家臣に鞍の上のブツを指摘され一言。「それは焼き味噌。」これが本当のくそみそテクニック
さらに逃げ帰る途中に小豆の餅を食い逃げ、婆さんに追いかけられやっと代金を払い、浜松には今でも『小豆餅』『銭取』という地名が残っている。
と、現在も知られる笑い話だが、これらの逸話は史料には一切記述が無い
現在では脱糞に関しては昭和の作家・山岡荘八の創作だろうと考えられている。
だが、三方ヶ原ではなくその前哨戦の一言坂の戦いにおいて、大久保忠佐が「殿の鞍に糞があるぞ!」と罵った話は三河後風土記に収録されている。
しかしその話も流れ上、忠佐は嘘をついて家康を罵ったようなので、やはり脱糞については冤罪だろう*10
また、「小豆餅」、「銭取」についても史料においては、それぞれ「戦死者に小豆餅を供えて供養した地」、
「山賊が人から通行料を巻き上げていた土地」と紹介されており、そもそも家康とは一切関係がなかったと判明している。

一方、この敗戦が相当堪えたのは事実で、自分の凹んでいらだった顔つきの肖像画を描かせており、戒めにした「しかみ像」が残されている。
家康にとって信玄は見習うべき相手だったようで、信玄をお手本にした軍事・政策は数多く、武田遺臣団を多く召し抱えている。

  • 死を考えたとき
三方ヶ原、本能寺、大坂の陣と危機に陥るたびに「死ぬ、もう死ぬ、ここで死ぬ」と喚いて家臣に宥められているが、
これは当時、大名や家門の当主が下級武士に討ち取られ首を刎ねられるのが大恥に当たるとされていたからであり、
別に恐慌して死を選ぼうとしてたわけではない。

  • 伊賀越えについて
この時の家康の軍勢は少なかったとされているため、そのまま居座るなり光秀と戦おうとすれば敗北待ったなしだったので危険だったことは間違いない。
一方で伊賀超えそのものについては実は命がらがらだったと記している確度の高い資料はほぼないため、他の危機に比べれば大したことなかったという説がある。
家康と距離を置いていたらしい穴山信君は亡くなっているので全くの安全というわけでもなかったのだが、
家康達は寡兵と言えど敗残兵ではないのでそこらの賊程度なら払えるし襲うのも躊躇われる戦力を保持していたことと*11
危険を遠ざけるための金品も持っていたことに加えて、織田家中や他の士族の手助けもあったことや光秀も逃走する家康を相手にする暇や余力など全くなかったことが理由。
士族が攻撃してきたら非常に危険な情勢だったが、近場の情勢上家康達を全滅させてもその後が危険すぎることが少し考えれば明白ということも理由。

  • 岩松守純への冷遇
新田義貞に連なる源氏を名乗る証明とするためか、新田系図を持つ岩松守純に対しその提出を求めたが、守純が拒否したため叶わなかった。
その後守純を僅か20石で召し抱え、江戸幕府を開いたあとにはその嫡男豊純を120石で高家に命じ、それに応じた格式や参勤交代を求めている。

  • 軍制
重臣の石川数正を豊臣家に引き抜かれた際に、軍制を丸ごと入れ替える。
これは数正が家康の片腕と呼べるほど徳川の中核を成していた武将だったためで、豊臣に情報が渡るのを恐れての決断。
軍制入れ替えの際にはかつて自分を負かした武田家のものを参考にし、既に家臣に召抱えていた武田家の遺臣たちに尽力してもらった結果、
徳川の軍はさらに強力になったという。

  • 妻の築山殿と息子の信康
信康を自害させた事を相当引きずっていたらしく、関ヶ原の戦いに際して「倅がいたら」と漏らす*12
また、信康の件について信長に呼び出されたのにまともな釈明ができなかった酒井忠次に、直後はそのことを責めずに変わらず重用したものの、
忠次ら「徳川四天王」の嫡男に禄を与えた際、他の四天王の息子には10万石規模の禄を与えたのに忠次の息子には3万石しか与えず、
抗議しに来た忠次に「お前でもやはり子は可愛いか」と返したと伝わる。

しかし、これらの話は徳川史観の偏向(※偏向と言っても歴史家の意向というよりは徳川方の資料の鵜呑み)が入っていると指摘されている。
信康は戦に長けていたと言われるため、厳しく重大な戦に際して悔やんだことそのものは有っても無くてもおかしくはないのだが。

まず大本の発端は正室であり信長の娘の徳姫と家康の正室の築山殿との不仲とされているが、
その程度で信長が家康に自刃を命ずることを促すこと自体が非常に不可解である。
そもそも、信長は大義名分のために同盟や約束事などは基本的になるべく守っている大名であり、
実際の力関係はともかく、対等な同盟関係である以上、信長は家康に命令するような立場ではなく、家康に圧力をかけていた形跡もない。
さらに、信長は謀反を企んだとされる築山殿には言及していないのに、家康が連座させていることも不可解で、
それ以前に築山殿に武田と裏で内通できるのか?ということも疑問である*13
更に徳姫に徳川政権成立後に領地を与えていることも説明がつかない。

そもそも事件前から家康自身が岡崎城から追放した上で三河国衆や岡崎衆と分断させていることから、
いずれにせよ、家康と信康の間で何かしらの深刻な懸念や問題が生じていた可能性が高い。
また、有名な「信長公記」の中で最も古いとされる「安土日記」(写本)には「信康逆心の噂あり」と記されているのに対して、
同じ「信長公記」の中で江戸時代に入って書かれた池田本や建勲神社本にはその記述が変更されたり削除されている事からも、
後世の信康やその切腹事件への記述は疑り深く見る必要性があると言える。
これに関連して、信康の処遇について信長が言ったとされる「家康の思い通りにしろ」という言葉も、
従来では「自分(信長)からは具体的な指示は出さないが、どうすべきかは分かるな?」という遠まわしな命令(脅迫)とされることが多かったが、
両者の立場を考えれば、信長は特に含むところなくそのままの意味で発したとしても筋は通るし、自然である。

家康説の補足として派閥抗争説というものもあり、岡崎城派*14に担がれた信康が武田と通じ家康を追放しようとする動きがあったのでは?という説がある。
証拠はともかくとして、これなら謀反疑いや築山殿が連座されることや徳姫の扱い、岡崎衆と分断させたことや、事件後の家臣の懲罰*15などの説明はつく。

一方、信康を一か所に留め置かなかった点などを指して「自害させる前に次々城を移動させて救うための時間稼ぎをしている」と解釈されることもあり、
疑問点は多いものの、信長主導説が完全否定されているわけではない。

余談だが、戦国時代、家中の方針を巡って親子が対立する事例は多数ある。

  • 松平忠輝
六男の松平忠輝を「容姿が醜かった」「信康に似た容姿を嫌った*16」として酷く嫌っていたとされる。
もっとも、容姿だけでなく粗暴な性格も嫌われた理由としてよく挙げられており、容姿だけで嫌われたわけではないとも思われる*17

加えて忠輝の場合は政治的事情も絡んでおり、忠輝の嫁は野心家で有名な伊達政宗の長女の五郎八姫だったり、
江戸幕府で権力を振るっていた大久保長安と近しい間柄だったりと、お家の不安材料てんこ盛りな交際関係だった事も理由として挙げられる。
特に政宗とはかなり懇意にしており、海外交易に興味を持った際は先にスペインと交易していた政宗の知恵を借り巨大な船を建造したと言われている。
こういった関係から、忠輝は上述の通り家康から勘当され、義父である正宗とも疎遠になっただけでなく、
家康が危篤という情報を受けて一目でもいいから会いたいと父の下に駆け付けるが、家康に拒否され死に目に会うことも許されなかった。
一方で、家康は忠輝に、信長→秀吉→家康と三英傑が手にした「天下人の笛」たる野風という名笛を贈ったとされ、
忠輝は幼い頃笛の名手として知られたという背景も考えれば、家康の複雑な胸中や親心が見て取れる。

  • 石田三成
上記の通り対立が多く、やがて関ヶ原の戦いにて殺し合い迄発展した間柄。
そうでなくても三成が落とした杖を家康が拾ったのだが向こうが無視をしたという話すらもある。
…なのだが実際のところは立場の違いだけであり、個人的にはそれほど不仲というわけではなかったようである。

関ヶ原決戦後、敗走する三成は捕えはしたが、彼の最期に家康は三成をほめたたえ、三成もまた潔い言葉を返したという逸話もある。
更に彼の妻子に対しては手出ししなかった所か自らの元に招き入れている
徳川家に嫁いだ石田家の娘なんかもおり、2人の血を継いだ将軍も存在している。

三成の方も、大野治長、浅野長政らによる「家康暗殺計画」を察知した時に家康に書面でその事を伝えたり、
また関ケ原のたった1ヶ月前にも家康の命に従い、謀反を企んでるという(デマを流された)前田利長をけん制している。
これらは宿敵である家康にとっては非常に痛い話であり、三成はそれを放っておくことも可能だったのだが、このときは彼を守るために行動している。
家康と三成の対立が決定的となったと言われる「家康が亡き太閤・秀吉の遺言に背いて身勝手な婚姻を進めている」事件も、
家康の潔白が証明されてから三成は何らかの謝罪をしたらしい話も残っている。
「敗軍の将」ということで貶める必要はあり、実際に三成は暗愚のように扱われていたが、そんな中でも家康やその息子は彼の遺したものをひっそりと愛していた。

尤もこれらの話は状況から顧みた予測でしかない。
また家康本人も滅ぼした家の勢力を取り込む事は多々あったので、三成らの家族もその流儀に則っただけかもしれない。
それと家康は三成の息子の重家を妙に気に入っていたのもあり単なる私情という説もある。

結局のところ互いをどう思っていたかは本人たちに聞くしかないが、一言で表せられる間柄ではなかったのは事実であろう。

  • 今川氏真
前述の通り、家康自身がかつての主家である今川家に引導を渡し、氏真とは主従関係が逆転することとなったのだが、
氏真はその辺り達観していたのか、引導を渡されたことを気にしている様子もなく、家康とは晩年まで友好関係が続いた。*18
今川義元の「息子同士」であるこの二人、実際にどのような関係だったかはわからないが、
少なくとも、晩年は「天下人」となった家康と対等に話せる、家康にとって数少ない友だったらしい。
まあ、忙しい家康の下に毎日のように遊びに行ったことで、ちょっと家康にウザがられて住居を少し遠いところに移されたというオチがつくが、
だからといって遠方に飛ばしたりしなかった辺り、家康もちょっとウザがりはしても得難い友人と考えていたのだろう。*19
なお、そんな氏真は1614年、「大坂冬の陣」が起こった年に、家康より一足早くこの世を去った。
家康はその二年後に亡くなっているが、もしかしたらそんな「生涯の友」を亡くした心労もあるのかもしれない。



◆評価

  • 家臣との絆
家臣に恵まれ、「皆の殿様」的存在。秀吉に宝物を訊かれると「自分のために死ねる家臣達」と即答。
人の話をよく聞くタイプだったようで、秀吉や信長の様な「俺についてこい!的なカリスマ英雄」とはまた違った、「理想の上司的英雄」として挙げられる事が多い。
しかしながら日本有数の忠誠心とめんどくささを誇る三河武士には随分と苦労もした。
有名なめんどくさい人としては、本多重次、大久保彦左衛門などが有名。

  • 健康オタク
剣術、砲術、水泳などを得意とした。
また鷹狩など運動を嗜んだ他、製薬も自分で行なった。玄人裸足の腕だったが、最後は施薬を間違えている(病状を考えれば仕方ないが)。
大坂の陣でも齢70超えでありながら自分で馬に乗り陣中では弓の稽古をしていたくらい。
ちなみによく狸と言われるが実際に太っていたのは大坂の陣の晩年の頃くらいである。

  • 女好き
戦国の英雄の常として家康も結構な女好きで、生涯に16人ほど子供を作っている。側室の数も二桁以上。
好みとしては貴族の娘などの所謂「上淫好み」だった秀吉に対し、未亡人やバツイチの女性を側室によく迎え入れていた。
「元気な子宮を持っている」(既に子供を産んでいるから元気な子供を産んでくれるだろう)というのが理由だったとか。
また「賢い女性」も好んだようで、秘書的な役割を果たした雲光院(阿茶局)や、
金蔵の鍵を預けられたという英勝院(お梶の方)*20など、武将たちに負けず劣らずな逸話が残されている側室も多い。
老年に差し掛かっても変わらず絶倫だったそうだが、その頃になると若い子を好んでいたとか。
ちなみに跡継ぎである秀忠には「側室作れ」と再三忠告していたが、秀忠は(少なくとも表向きは)側室を作ろうとはしなかった。

  • 質素倹約
よくケチな武将として名前が上がるが、実のところはあくまで質素倹約を旨とした領国運営をしていただけで、
大名同士で同盟を結ぶ時の贈答品など、必要経費であれば惜しみなく出費している。
嫁に「金に具足付けて出兵させろ」と言われた利家など比べると、ケチというより「金の使い所を弁えた倹約家」という言葉が当てはまる。
経済感覚にも優れ、朱印船を運行したり、外国人とも親交が深く多彩なブレーンを抱えていた。

  • 囲碁
趣味の一つとして囲碁を好んでおり、秀吉の義弟である五奉行筆頭の浅野長政とは囲碁を通じて親密になったと言われている。
また、囲碁を保護しその発展に貢献したとして、2004年に創設された囲碁殿堂の第一回表彰者の一人となった。
ちなみに囲碁以外の主な趣味は鷹狩り、薬の調合、学問。実益を兼ねているところが流石は天下人と言ったところか。

  • 将棋
囲碁だけではなく将棋も好んでいた。
当時は将棋は囲碁よりも格式が低いとされていたが少しづつ武将たちに普及が進み
将棋の棋士や名人位などが整備されたのは家康の治世下である。
この功績をもって 2012年に 将棋連盟から 十段の位を贈られた。 *21
「名誉十段」とかではなくガチの「十段」扱いらしい。
もちろん家康がどれだけの棋力があったのかは不明である。 

  • たぬき短気
忍耐強く信長・秀吉時代を生き抜いて天下統一したことから、「我慢強く温厚」というイメージもあり、
そして実際に政治的・軍事的には我慢強い点が見受けられるのだが…
実際はむしろかなりキレやすい人だったらしく、些細なことで激怒した逸話が数多く残っている。
また爪を噛む癖があったようで、大河ドラマ・葵 徳川三代でそれを再現したところ「食事時に不快だ」と苦情が来たため、
次第に描写を減らしていったというエピソードがある*22

ちなみに父や祖父もキレ易かったらしい。
祖父はそれが元で謀反に遭い死んでおり、父も同様に家臣に斬られたという説がある。

家康の場合、父、祖父の話や立場の危うい幼少時の人質生活もあって、怒っても感情的になってはいけない場所は弁え、
場を選んで爆発させる術を身につけていたのかもしれない。

  • イメージ・創作の扱い
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」という狂歌もあるように、奸臣「たぬきじじい」として扱われたりすることも珍しくない。

時代によって毀誉褒貶が非常に激しく、江戸時代は幕府の祖として譜代大名などからは神格化され(それ以外の者としてはそもそも表立って逆らえなかった)、
明治時代に入ると江戸時代後半~幕末頃の政治を受けてか評判が悪かったりと、
上がり下がりが激しかったためか昭和に入るとまた評価が変わることとなる。

特に司馬遼太郎で、「日本人を歪んだ民族にする幕府を開いた」と評し、作品内でも野心的で巨大な悪役ととして描いたため、
「司馬史観*23」として低評価扱いというよりは悪役としてのイメージが強くなった。
一方、山岡荘八の『徳川家康』、及び同作を原作とした大河ドラマにおいては幼少期から戦乱に翻弄され続けた波乱万丈な半生を経て太平を求める求道者と描写し、
この作品のヒットにより、「我慢強い苦労人」「戦乱を厭う人格者」のイメージも強くなった(もちろんこちらも創作と事実の違いに注意する必要がある)。

明智光秀を主役とした大河ドラマ『麒麟がくる』では、「王が仁のある政治を行う時に麒麟が現れる」という伝承が話の軸の一つとなっており、
主人公の光秀はその伝承の通り、「麒麟がくる」ような政治を行う『王』を探していたが、風間俊介氏演じる家康もその光秀の想いに共感し、
戦が絶えず、先の見えない戦国乱世を松平(徳川)家当主として懸命に生きながら、「麒麟がくる」ような時代が来ることを願う人物として描かれた。
ちなみに、演者の風間氏のさわやかなイメージや、史実では光秀の死後となるが、後に250年間大きな戦が起きなかった江戸時代の礎を家康が築いたことから、
物語を通して光秀が探していた「麒麟がくる」時代を作る『王』は家康であったという解釈も可能なエンディングとなっている。

平成に入ってからは、ドラマや小説、戦国無双を始めとするゲーム等において石田三成や直江兼続、真田幸村といった、
家康と対立した武将達が「義の武将」として大々的に扱われて人気が急上昇した結果、家康も多種多様な立ち位置でクローズアップされることが増えている。

いずれの家康像に則っていても、信長登場から江戸時代まで長い期間を第一線で活躍していた事もあってか、大概は存在感の強い重要人物として登場しており、
NHK大河ドラマといったメディア作品では大御所俳優、若手中堅の実力者などが演じる事がほとんどなため、俳優にとっては「演じる事がステータスになる役」として一つの到達点になっている。


  • 300年の「平和」
これまた毀誉褒貶の激しい江戸幕府の統治システムであるが、幕府一強にするために、戦国時代の主な武将の統治と比べてもかなり不公平なパワーバランスになっており、今で言う高度官僚社会の先駆けと言っても良いものでもある。
また、敵対者があまり居なくなったことから、自然と日本全体における激しい領土争いや家督争いは終止符を打たれた。
封鎖的過ぎたため、国防における海軍などの重要性を訴える書『海国兵談』を発禁にしたり、空を飛んだ浮田幸吉が罰せられたという伝説があったり、江戸末期・明治維新では諸外国に後れを取った*24

一方、戦が少なくなった影響で全体的に人口が増加し、徳川吉宗の町人調査から概算して一説には18世紀には江戸の人口は100万人になっていたとするものもある。
各地で治水事業・開墾も進み、江戸時代の平和のおかげで識字率が高まり、算額の発展や後の維新の志士達の思想にも影響を大きく与えた、古代日本を見直す本居宣長の国学の登場といった教育面の成長は著しかった。
また大衆娯楽が発展し、葛飾北斎らの浮世絵が海外の芸術家にまで影響を及ぼすなど、現代にも通じる日本文化の成熟にも一役買った。



◆徳川家康を扱った作品


★小説
  • 山岡荘八「徳川家康」
  • 司馬遼太郎「関ヶ原」「覇王の家」
  • 隆慶一郎「影武者徳川家康」(下記の同名漫画の原作)

★漫画
  • 原哲夫「影武者徳川家康」(本人はすぐ死に、影武者が主人公になるが)
  • 宮下英樹「センゴク」「センゴク天正記」

★ゲーム

★大河ドラマ
  • 徳川家康(1983年)【演:滝田栄】
  • 葵 徳川三代(2000年)【演:津川雅彦*25
  • どうする家康(2023年)【演:松本潤】
など多数…と言うより、前述のように「戦国物」なら主演作以外でも様々な役回りで大概の作品に登場している。

また、2021年の渋沢栄一を主人公とした『青天を衝け』では、栄一が活躍した幕末~明治が物語の舞台であるにもかかわらず、
彼が「徳川家最後の将軍」たる徳川慶喜と主従の関係であり、懇意の仲であった縁もあってか、語り役として登場している。
さらに、翌2022年の『鎌倉殿の13人』でも、家康が『鎌倉殿』で起こった出来事を記した歴史書『吾妻鏡』の愛読者だったことに因み、
最終回の冒頭で、同回で描かれる出来事を『吾妻鏡』で読んでいるという体で、家康役として次作で家康を演じる松本潤がサプライズ登場。
2023年にはその松本潤が主演の『どうする家康』が放送されたことで、扱う時代が異なる大河ドラマ三作に渡って家康が連続で登場するという珍事快挙が起こった。



追記、編集は、「南無阿弥陀仏」と書き続けて最後に「南無阿弥家康」と書いてからお願い致します。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 戦国時代
  • 初代将軍
  • 東照大権現
  • 簒奪者
  • 神になった男
  • ロリコン
  • 大河ドラマ主人公項目
  • 下剋上
  • 征夷大将軍
  • 武将項目
  • 人物
  • 武将
  • 大名
  • 戦国武将
  • 戦国三傑
  • 愛知県
  • タヌキ
  • 焼き味噌
  • 家光の祖父
  • 綱吉の曾祖父
  • 光圀の祖父
  • たぬき
  • 三河の希望
  • 天下餅を食べた人
  • 精神力チート
  • 死にたがり
  • 大名
  • 将軍
  • 忍耐
  • 徳川幕府
  • 三河の後家殺し
  • 絶倫
  • 徳川家康
  • 五大老
  • 影武者
  • 江戸城

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年02月14日 17:23

*1 史料的証拠はないが、珍しいもの好きな信長の気質を考えると、好奇心から会いに行っても不思議ではないだろう。

*2 信長の異母兄。合戦の際に今川方に捕えられていた

*3 家康は豊臣家でも秀吉に次ぐ権限の持ち主だった為、簒奪の野心があったならむしろ秀吉を朝鮮に向かわせた方が短期的には得策に見える。ただし、秀吉自らの出陣ともなると他の武将も当然更に力を入れねばならず、自分達やその派閥への影響もかなり大きいという切実な事情があるため、秀吉出兵が家康的に益があったのかというと怪しいところである。そのため、これをもって反意の有無は講じられない。

*4 秀吉の立場からすれば、最も危険視する人間にするには真っ当な対応である。

*5 秀吉の義弟であり、家康とも親しかった浅野長政を除く四名

*6 「征夷大将軍及び源氏長者という武家と公家双方の最高権力を手に入れ、老齢に至ってから10年近くもの間、豊臣家に戦いを仕掛けようとはせず、前述の分割統治や豊臣家の幕臣化等といった選択肢も用意する配慮を見せ、十分な時間的猶予も与えていた」という非戦重視論等が、豊臣家を滅ぼすつもりはギリギリまで無かったとする説の論拠となっている

*7 戦国時代において、落城寸前まで抵抗を続けた後に降伏する事は城主として恥すべき行いであるとされており、事実豊臣家が降伏宣言した時には、既に多くの兵士や民が戦渦に巻き込まれて犠牲になっている為、降伏が認められないのも当然であった

*8 訳:「もう目覚めることはないと思っていたが、再び目覚めてしまった。嬉しい事だ。この世で見た夢は、夜明けの暁の空のようだ。さてもう一眠り。」 秀吉の辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」の返歌とも取られている。

*9 訳:私は先に死出の旅に出るが、後に残ったお前たちもいずれは同じように死ぬのだ。だからといって、お前たちを死の道連れとはしない。ここで別れよう。

*10 そもそも三河後風土記の記述の信用度自体がないに等しいが

*11 一行から松平家忠が聞いた話では、逃走完了までに200人ほど討ち取ったらしい。

*12 三男・秀忠が戦いに遅参しており、「信康がいればこうはなっていない」といった意味合いと言われている

*13 別説の派閥抗争説ならば岡崎衆を通して内通出来てもおかしくはないが、少なくとも従来の信長が原因とする定説では説明がつかない

*14 当時の岡崎城は前本拠地という重要な城だが役割をざっくり言えば後方支援担当の城でしかなかったため、岡崎城に居るばかりでは武勲をたてられないという状況だった。つまり安全だが立身出世には不利になりがちだったと考えられる。

*15 一連の流れが信長のせいだとした場合には妙にちぐはぐな懲罰で不可解なのだが、岡崎城(信康)側に着いていた者への罰などであれば矛盾しない。

*16 ただし、出典である『藩翰譜』は1700年に編纂されたもの、つまりは当時から数えて約100年後に完成したものであり、真偽の程はかなり怪しい

*17 家康に遠ざけられた故に素行不良に至ったとする解釈も

*18 こういった「自分の家を滅ぼした人間と仲良くしている」という事実も氏真の低評価の元だが、逆に言うと「そういったしがらみを気にしない器をもっていた」ということでもある。

*19 そもそも本心から嫌ってるなら京都や駿府にわざわざ氏真を呼びつけたり来訪を喜んだりしない

*20 男装し戦場へ帯同したなど男勝りな逸話が多い

*21 当時の将棋連盟は将棋界に貢献した人には棋力に関係なくホイホイと段位を贈る悪癖があり、著名人であれば勝手に贈るどころか皇室や天皇に段位を贈ろうとして宮内庁に断られたこともある。

*22 演じた津川雅彦氏は「そもそも食事しながらTV見るのはどうなんだ」と不満と唱えたとか

*23 司馬の「創作と事実の境界を曖昧にする」という手法によって、作中の創作部分を史実と誤解して流布されてしまった現象。もちろん作者自体に罪はないが、その影響があまりに大きすぎたため、度々議論の的になっている

*24 幅広く影響があるが、外国の情報だけを見ても諸国どころか幕府ですら外国の情報を精査しようがなかったため、ほとんど聞いた情報を鵜呑みにしていた

*25 「独眼竜政宗」でも家康役で出演している