武田信玄(戦国武将)

登録日:2009/11/14(土) 10:28:24
更新日:2020/05/22 Fri 09:51:13
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疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し


この項目では戦国時代の人物としての武田信玄(武田晴信)について記述します。
戦国BASARAの武将は武田信玄(戦国BASARA)を、また他のメディアでの武田信玄について、
ここで記載するか、別に項目を立てるかは各人の判断に御任せ致します。

●目次

◆概要

武田晴信(たけだはるのぶ、1521〜1573)は戦国時代の武将、大名である。別名、信玄。


◆来歴

甲斐の守護大名武田信虎の嫡男として生まれた。
しかし、父親・信虎は晴信を嫌い、弟・信繁ばかりを大切にしたとされる。

父・信虎は妊婦の腹を裂き、胎児を引きずり出す等の残酷な振舞いが多かった(後世の記述が多く、晴信の謀反を正当化する為ではとの見方も)ことや、
その戦馬鹿っぷりに家臣・領民が酷く疲弊していたことから、主だった重臣たちに担がれた晴信は信虎が今川を訪ねた隙をついて国境を封鎖。家督を強奪する。
信虎はその後、各地を転戦。晴信死後(父なのに息子が死ぬ翌年まで生きていた)、勝頼により信濃までは入ったが、終生甲斐には戻れなかった。

その父に可愛がられていた信繁は、戦国の世の常として晴信の家督相続を不服として後継者争いを起こす…ことはなく、
すんなりと晴信に家臣として仕え、晴信を補佐し続けた。その働きから、彼は『名将』の一人として讃えられている。
いずれにせよ、追放に際し重臣からも同盟国からも大きな非難がなかったので、信虎の追放は予定調和であったようだ。
晴信はその後、甲斐の内政を充実させると隣国・信濃へ攻め込む。

諏訪氏、小笠原氏と有力豪族に対し攻撃を加えるが、小田井原城の攻城では討ち取った将兵3000の首を晒した為に反感を買い、開城に失敗したり、
上田ヶ原では村上義清に敗れ、甘利、板垣と言った名臣を失う大敗北を喫するなどかなり苦戦している。

この頃分国法「甲州法度之次第」を制定した。

苦戦しつつも南信濃・中信濃を治めた晴信では有ったが、砥石城では再び村上に大敗北を喫した。(砥石崩れ)

この砥石城は真田幸隆の謀略で陥落し、村上は遂に、信濃を追われ、晴信は信濃を制圧する。
しかし、越後から白い悪魔、もとい毘沙門天の化身が降臨する。彼の終生の宿敵(とも)である上杉謙信である。
彼とは都合5度戦ったが、最大の激戦は4度目(1561年)の第4次川中島の戦いである。

それまでに甲相駿三国同盟を結び、背後を固めた晴信は輝虎軍と激しく激突。
決定的な勝敗は付かなかったが、諸角虎清、山本勘助、武田信繁など多くの家臣を失った。
その代わり合戦の間に足利義輝より信濃守護の名を得ており、名実ともに信濃を手に入れ戦略的には勝利している。

その後、関東に進出したり、今川義元が死んだ後の駿河を攻めたりと徐々に勢力を拡大する。(駿河侵攻に反対し、謀反を画策した長男義信と飯富虎昌を逆に誅殺している)
そして1573年、上洛の途に付き、三方ヶ原にて徳川家康を破った後、持病が悪化し死去した。

極めて戦上手であり砥石崩れ以外では戦略的な敗北は無い。
更に情勢を見る目がある上に外交手腕に優れ、時に冷徹に同盟国を切り捨てるのも富国や近隣勢力とのバランス取りの一環である。
遠く中四国地方まで情報を探りながら的確に情勢を利用して自国の利へと利用するほどの政治力を持つ。
また甲斐という、周囲の敵がチート・山岳地帯の交通の不便・海に面しておらず物資(主に塩)の不足・土地が貧しくそれでいてよく川が氾濫する、
と存在自体が悪条件な国でありながら、一大強国へとのし上げた手腕は神憑りですらある。
ただ、後継者政策の失敗、織田家への敵対、金山に依存した財政などが負の遺産として残り、武田氏の滅亡を早めたことは否めない。一個人にそこまで求めるのは酷というものでもあろうが。


◆家臣

父から家督を簒奪した後、しばらくは家臣団が纏まりなく荒れたが、紆余曲折の末に信玄の元に結集。
その為か家臣団が優秀。

四名臣

馬場信春…長篠撤退戦で殿、戦死。不死身の鬼美濃。一国を任せれるほどの才と言われた。

山県昌景…赤備第二世代。長篠では柵に突撃、破壊するも銃弾に倒れる。彼の軍団は後に、井伊直政に受け継がれた。当時で見てもちびっ子(135cm)だったと言われる。

内藤昌豊…地味。出来る男。信繁亡き後は武田の副将となる。長篠で戦死。

高坂昌信…智将。最後の生き残り。逃げ弾正のあだ名でも知られる。信玄には(男色的な意味でも)寵愛されたらしく、信玄からのラブレターも現存している。

他の家臣

秋山信友…猛牛と呼ばれる猛将であり、同時に未亡人で信長の伯母である岩村殿を城ごと美味しく頂いちゃった策士。

甘利虎泰…あ~ま~り~ぃ!信虎世代での四天王。

板垣信方…いたがきぃ~!晴信の守役。後の戊辰戦争時、彼の子孫だとされる土佐の「乾」退助は甲斐を制すため「板垣」退助と改姓している。

飯富虎昌…赤備え第一世代。あの恐怖はここから始まった。

真田幸隆…チート集団真田家の爺ちゃん。グッとガッツポーズしただけで砥石城が落ちた。

武田信繁…よく出来た弟。天下の副将。秀長も手本にしたとか。通称は古典厩。なお、真田信繁(幸村)は彼に肖って同じ名前を付けられたとか。

武田信廉…(顔が)よく出来た弟。影武者。こっちが信廉、こっちが晴信…

原虎胤…義に厚い不死身の鬼美濃。怪我した敵将に肩を貸して敵陣まで送り届けたという、なんとも漢気溢れる逸話が伝わる。

山本勘助(晴幸)…この光を失った目には、人の心の闇が見えまする。最強軍師なのに有名。出典『甲陽軍鑑』ゆえに実は実在人物かすら疑念が持たれていたが、現在では「山本菅助」と記された人物≒山本勘助説が有力視されている。

◆彼を扱った作品

新田次郎「武田信玄」
井上靖「風林火山」

宮下英樹「センゴク」

ゲーム

信長の野望
太閤立志伝
決戦III
戦国無双
戦国BASARA

◆余談

  • 内政
内政に非常に力を注ぎ、「信玄堤」等後世に伝わっている。

そんな晴信だが、武田家の呪いともいうべき後継者問題は避けられず、長男は反逆し誅殺、次男は盲目で出家、三男は夭折、と不幸が続き、諏訪家を継がせた四男、四郎勝頼を呼び戻して家督を相続させる事になる。
その勝頼が最後に頼った(頼りになったとは言っていない)のが、ほぼ唯一同盟を結ばなかった上杉謙信亡き後の上杉家だったのは、皮肉という他ない。

  • 人物
「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」と人の心を大切にした。
信玄の人となりを伝える『甲陽軍鑑』について、日付の不正確さから歴史学者から無視されてきたこともあるが、
国語学者がその成り立ちを調べたところ、文字も書けなかった信玄の部下が、信玄の死後の武田家を憂いて記憶を頼りに口述筆記にて残したものだと判明。
それゆえ『甲陽軍鑑』は部下から見た信玄の人となりを伝える書として再評価され、資料の日付の正確さを重んじすぎる歴史学に一石投じる形ともなった。


  • 戦国最強
武田軍はとにかく強い。レート(<で約3:1、≦で約1.5:1)

尾張<美濃≦近江<三河<甲斐≦信濃=越後。

その強さ故か本拠地に築城をせず本拠が館である。
攻めたところでクソ強い信玄と戦う上に勝っても得られるものが金山くらいしかないが。

てか尾張が弱すぎ…
まぁ兵の強弱と国の生産力が反比例しているだけとも見えるが。

  • 2007年の大河ドラマ『風林火山』
この作品は、軍師の山本勘助を主軸に晴信を始め武田家の隆盛を描いた作品である。
主要な役は、所謂、話題性に富んだイケメン俳優を排し、実力派の役者を多く起用した為に演技にかなり力が入った作品である。
また、イケメン俳優を排する事で浮いた費用をロケに回す事でリアルで壮大な合戦を演出した。


ある意味では、イケメン俳優を多用した結果、スタジオ撮影が多くなった2009年度大河ドラマ『天地人』の対極的な作品といえるだろう。





大ていは地に任せて肌骨好し紅粉を塗らず自ら風流
*1


追記、修正宜しくお願い致します。

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