武田信玄(戦国武将)

登録日:2009/11/14 Sat 10:28:24
更新日:2025/03/06 Thu 19:35:59
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疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し



▽目次

◆概要

武田(たけだ) 信玄(しんげん)(1521〜1573)は戦国時代の武将、大名である。

「信玄」の名は出家後の法名「徳栄軒信玄」から取られたもので、本来の名は「晴信(はるのぶ)」。出家した時期には諸説あり、はっきりとは分かっていない。


◆来歴

甲斐の守護大名武田信虎の嫡男である竹松(晴信の兄)が7歳で夭折した為、晴信は1523年に嫡男となる。
しかし、父親・信虎は晴信を嫌い、弟・信繁ばかりを大切にしたとされる。
その一方、信虎は晴信の2度の結婚に関しては一度目は扇谷上杉の姫、
その死後*1に再婚した二度目の結婚に関しては三条左大臣の娘と格上の家から妻を迎え、
更に朝廷に働きかけて息子に元服と二度目の結婚と同時に従五位下・大膳大夫の官位を貰っている。
一度目は、父・信虎が扇谷上杉氏との関係強化を図った事による婚姻。二度目は、今川の仲介で三条の方が嫁いでいる。
この事実を見れば信虎は跡取り息子の晴信を、最低でも公の場では自家の跡取りとして厚遇していた点が記録に残っている。


父・信虎に関して、信虎の行動は(怪しい情報はさておくと)中央集権化を意識していたのだろうと言われている*2
しかし信虎と家臣との間に軋轢があった事は事実である。
信玄(晴信)以外の息子とは関係も悪くはなさそうな間柄がうかがえるため、人間性や戦国武将として異常だったから追放されたのではないと思われる。
ただし、勝山記などの記載から経済的な疲弊が追放の要因の一つであった可能性を指摘されている。
信虎の統治時代に周辺諸国と激しく対立して四方が敵であった時期もあり
1519年に今川氏による路次封鎖と前年の凶作が重なり過去にない程の物価高騰が見られ
1529年にも小山田氏との対立で路次封鎖があった事により物価高騰が見られる。幾度かの路次封鎖や凶作が物価高騰や飢饉を招いたとされる。
更に1540年に甲信地方を襲った大規模水害が原因と見られる凶作の影響か
翌年に大飢饉(天文の飢饉)に陥った事により、国内の領民から信虎への反発や不満が高まり
これに危機感を抱いた晴信と家臣などが信虎を追放したとする説がある。主だった重臣たちに担がれた晴信は信虎が今川家を訪ねた隙をついて国境を封鎖。
家督を得た。なお、甲斐国志によれば双方合意の上で、信虎が隠居したとする説もある。
信虎はその後、娘の定恵院が嫁いだ今川家に身を寄せる事となる。亡命先の大名今川義元は晴信に、信虎の隠居料を請求する書状を出しており、晴信もそれに応じた。
信虎の隠居費用は、武田家から隠居料が支払われ続けた。
信虎は、1543年に京都から高野山、奈良を遊歴し、国主時代から交流のあった本願寺証如も使者を派遣して挨拶している。
さらに信虎は高野山引導院を参詣し(晴信は実弟・信繁を介して謝礼を行っている)、奈良にも赴いている(多聞院英俊が信虎の奈良遊歴を記している)。
信虎は奈良を遊歴の後、1558年以降は生活の拠点を京都に移して、幕府に在京奉公している。
晴信死後(父なのに息子が死ぬ翌年まで生きていた)、勝頼により信濃までは入ったが、終生甲斐には戻れなかった。

その父に可愛がられていた信繁は、戦国の世の常として晴信の家督相続を不服として後継者争いを起こす…ことはなく、
すんなりと晴信に家臣として仕え、晴信を補佐し続けた。その働きから、彼は『名将』の一人として讃えられている。
いずれにせよ、追放に際し重臣からも同盟国からも大きな非難がなかったので、信虎の追放は広く支持を得ていたようだ。
晴信はその後、甲斐の内政を充実させると隣国・信濃へと攻め込む。

諏訪氏、小笠原氏と有力豪族に対し攻撃を加えるが、小田井原城の攻城では討ち取った将兵3000の首を晒したために反感を買い、開城に失敗したり、
上田ヶ原では村上義清に敗れ、甘利、板垣と言った名臣を失う大敗北を喫するなどかなり苦戦している。*3

ちなみにこの頃には分国法「甲州法度之次第」を制定している。

苦戦しつつも南信濃・中信濃を治めた晴信では有ったが、砥石城では再び村上に大敗北を喫した。(砥石崩れ)

この砥石城は真田幸隆の謀略で陥落し、村上は遂に、信濃を追われ、晴信は信濃を制圧する
しかし、越後から白い悪魔、もとい毘沙門天の化身が降臨する。彼の終生の宿敵(とも)である上杉謙信である。
彼とは都合5度戦ったが、最大の激戦は4度目(1561年)の第4次川中島の戦い。

それまでに甲相駿三国同盟を結び、背後を固めた晴信は輝虎軍と激しく激突。
決定的な勝敗は付かなかったが、諸角虎清山本勘助、そして弟・武田信繁など多くの家臣を失った。
その代わり合戦の間に征夷大将軍足利義輝より信濃守護の名を得ており、名実ともに信濃を手に入れ戦略的には勝利している。

その後、関東に進出し、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られた後は、
彼の死から8年後に駿河を、独立した徳川家康と同時期に攻めるなど、勢力を徐々に拡大

義元を討って勢いに乗ったその信長とは、互いに敵対したくないという思惑もあって姻戚関係を結び、
さらに、駿河を巡って悪化する家康との関係も、信長が間に入る形で決定的な激突には至らなかった。
(なお、信玄の長男義信はこの織田の同盟に反対していた。この意見対立が原因となって、信玄は義信を廃嫡するに到る)
しかしその信長が比叡山の焼き討ち事件を起こすと、信玄は信長を批難し、焼き討ちされた延暦寺を自国で復興させようと画策。
これによって信長との同盟関係に亀裂が走り、同様に信長との関係が悪化していた第15代将軍・足利義昭が出した信長討伐令に応じ、
1572年には信長討伐のための「西上作戦」を開始し、上洛の途に就く。

その道中、三方ヶ原にて家康軍を撃破。後世で言うところの「三方ヶ原の戦い」である。
信玄はまず、籠城の構えを見せる家康をあえて無視して前進する様子を見せ、追ってきたところで武田軍が反転、総攻撃をかけて動揺する家康軍を大いに打ち破った。
家康を蹴散らした次は信長とばかりに軍を進める信玄だったが、ここで思わぬ事態に見舞われる。
この時、自分たちと同じように信長討伐令に応じて出兵していた朝倉義景が、積雪を理由に撤退するという(信玄目線で)有り得ない行動を起こしたのだ。
この行動に激怒した信玄は義景に強い批難の手紙を送りつけるも、朝倉軍が再度出兵してくることはなかった。

また、三方ヶ原の戦いに前後して、信玄は持病が悪化して喀血を繰り返したため、武田軍は進軍を停止
信玄は長篠城で療養し、事態を重く見た近習たちは撤退を決断するも、1573年4月、甲斐への帰還途中に信玄は死去した。
彼は遺言で「自分の死を3年は隠せ」「(本来の跡取りである)孫の信勝が成長するまでは勝頼がその後見役となり、越後の上杉謙信を頼れ」としたが、
結局信勝に家督が引き継がれる前に「長篠の戦い」にて武田軍は信長に敗北し、また信玄の死後に武田一族・家臣団は団結力を失い、武田家は滅亡することとなった。


信玄はその華々しい戦歴から「戦国最強」と言われるほどに極めて戦上手であり、砥石崩れ以外では戦略的な敗北は無い。
更に情勢を見る目がある上に外交手腕にも優れ、時に冷徹に同盟国を切り捨てるのも富国や近隣勢力とのバランス取りの一環である。
遠く中・四国地方まで情報を探りながら的確に情勢を利用して自国の利へと利用するほどの政治力を持つ。

また、周囲を宿敵の上杉謙信を始めとした強敵に囲まれている上に、山岳地帯故に交通は不便、
海に面していないので物資(主に塩)は不足気味で、土地は貧しいのに川の氾濫などの水害がよく発生するなど、
非常に悪条件が重なっている甲斐という国を、一大強国へとのし上げた経営手腕は神憑り的ですらあった。

当時の家臣や領民にはまさしく神の如く崇拝されていたが、それだけに甲斐は「信玄だからこそ治められる」ともいえる状態になり、
その死後には後継者政策の失敗、一大勢力となった織田家との敵対、金山に依存した財政、
既に発展の限界で水害も発生しがちな本拠地(なので勝頼は家臣の反対を押し切ってでも新府城築城を断行)、
悪く言えば中途半端に敵対したり同盟を結んだり切り捨てたりを繰り返したことで敵意を持つ家臣も多いなど、
それらがまとめて大きな負の遺産になってしまった勝頼の代はいわば超ハードモードであり、それが武田家の滅亡を早めてしまった。

また、「北の上杉と敵対している状況で今川、下手をしたら北条まで敵に回すのは拙いのでは?」という長男・義信の危惧は的中しており
果たして彼の危惧通り、信玄が北・南・東を敵国に包囲されている間に、後の宿敵である信長が勢力を大幅に広げることに成功してしまっている。
武田の遺臣が書いた甲陽軍鑑でも義信を「賢明過ぎて身を滅ぼした大将」と評しており、その賢明で人望も厚い後継者候補筆頭を粛清したのも武田家と言う勢力にとって大打撃であった。

信長と比べた場合、勢力拡張スピードにも差があった。
信玄には近隣に北条・今川・上杉と敵が多かったから……と言われるが、
それを言うなら信長も浅井・朝倉・三好・石山本願寺など四方に敵を抱えており、天下布武の道は険しかった。*4
信玄は生涯かけても国全土を収めたのは甲斐と信濃と駿河のみで、上野・美濃・三河・遠江・飛騨はその一部しか治められなかった。
そうするうちに信長は十か国を支配下に収め、石高では信長が三百万石、信玄が百四十万石ほどになってしまい、国力差で大きな格差ができてしまった。
結果、信長とは兵力動員数において劣っている。*5

ただし信玄は甲斐という山地で耕作の可能な面積が少なく、幾度も氾濫しやすい川という農耕に不向きな土地や、
海が無い事で塩や海産物を得られない、限られた財源、更には風土病という厳しい環境である事に対し*6*7
信長は父親が熱田神宮から伊勢神宮を始めとする伊勢湾一帯に大きな商業圏を獲得しており財政的には裕福だった点が大きく違う事は考慮すべき点であろう。
その代わりにというか、信長直属の尾張兵はかなり弱く、対して信玄直属の甲斐兵は戦国最強と恐れられるぐらいには差はあったが。
信長が鉄砲を生産し増産出来たのも親の代からの財を順調に増やして行けた財テクによるものである。
信玄もそれを意識しており、海に出るべく駿河国を狙っていたが、信長が上洛してすぐ堺を支配下に置いたのと比べるとやはり大きな差があったといえる。

また支配下に置いた各国も(長く治めた甲斐と信濃はともかく)影響力はまだ弱かったようで、西上作戦の時には想定したより予算が集まらなかったという記録もある。
結果、勝頼期には武田と織田の勢力差は覆しようもない格差となっていた。
あの長篠の戦いにおいて、武田軍1万5千人に対し、織田軍は徳川の援軍含めて3万8千人という倍以上の戦力だったという*8






◆家臣

家督を得た後、しばらくは家臣団が纏まりなく荒れたが、紆余曲折の末に信玄の元に結集。
その為か家臣団が優秀。

四名臣

馬場信春…長篠撤退戦で殿、戦死。不死身の鬼美濃。一国を任せれるほどの才と言われた。

山県昌景…赤備第二世代。長篠では柵に突撃、破壊するも銃弾に倒れる。彼の軍団は後に、井伊直政に受け継がれた。当時で見てもちびっ子(135cm)だったと言われる*9

内藤昌豊…地味。出来る男。信繁亡き後は武田の副将となる。長篠で戦死。

高坂昌信…智将。最後の生き残り。逃げ弾正のあだ名でも知られる。信玄には(男色的な意味でも)寵愛されたと言われていたが実際の手紙の相手は春日源助である。
高坂が、春日源助と名乗っていた公式の記録が無い事から、別人である可能性が高く、更に手紙が本物なのか偽物なのかすら定かではないとする説がある。*10

他の家臣

秋山信友…猛牛と呼ばれる猛将であり、同時に未亡人で信長の伯母である岩村殿を城ごと美味しく頂いちゃった策士。

甘利虎泰…あ~ま~り~ぃ!信虎世代での四天王。

板垣信方…いたがきぃ~!晴信の守役。後の戊辰戦争時、彼の子孫だとされる土佐の「乾」退助は甲斐を制すため「板垣」退助と改姓している。

飯富虎昌…赤備え第一世代。あの恐怖はここから始まった。

真田幸隆…チート集団真田家の爺ちゃん。グッとガッツポーズしただけで砥石城が落ちた。

武田信繁…よく出来た弟。天下の副将。秀長も手本にしたとか。通称は古典厩。なお、真田信繁(幸村)は彼に肖って同じ名前を付けられたとか。

武田信廉…(顔が)よく出来た弟。影武者。こっちが信廉、こっちが晴信…。「有名武将そっくりの弟」という創作的に美味しそうなポジションのわりにいまいち影が薄い。

原虎胤…義に厚い不死身の鬼美濃。怪我した敵将に肩を貸して敵陣まで送り届けたという、なんとも漢気溢れる逸話が伝わる。

山本勘助(晴幸)…この光を失った目には、人の心の闇が見えまする。最強軍師として有名。出典『甲陽軍鑑』故に実在を疑われていたが、現在では「山本菅助」と記された人物≒山本勘助説が有力視されている。


◆彼を扱った作品

小説

新田次郎「武田信玄」
井上靖「風林火山」

漫画

宮下英樹「センゴク」

ゲーム

信長の野望
太閤立志伝
決戦III
戦国無双武田信玄(戦国無双)
戦国BASARA武田信玄(戦国BASARA)


◆余談

  • 内政
内政に非常に力を注ぎ、川の氾濫の被害を抑えるべく作らせた「信玄堤」等が後世にも伝わっている。

そんな信玄だが、武田家の呪いともいうべき後継者問題は避けられず、長男は反逆に関する事件の二年後に病死、次男は盲目で出家、三男は夭折、と不幸が続き、
諏訪家を継がせた四男の四郎勝頼を呼び戻して(その息子である信勝が成人するまでの期間限定で)家督を相続させる事になる。
その勝頼が最後に頼った(頼りになったとは言っていない)のが、ほぼ唯一同盟を結ばなかった上杉謙信亡き後の上杉家だったのは、皮肉という他ない。

  • 甲陽軍鑑
「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」と人の心を大切にした。
なお、このような信玄の人となりを記した『甲陽軍鑑』は、日付の不正確さから、歴史学者からは史料としての価値を疑問視され、無視されることも多かったが、
近年国語学者がその成り立ちを調べたところ、原本は文字を書けなかった信玄の部下が、信玄の死後の武田家を憂いて記憶を頼りに口述筆記にて残したものだと判明。
しかし武田氏滅亡以降、原本は傷んでいく。それを入手した小幡勘兵衛景憲(江戸時代の軍学者)は、傷んだ原本の書写に行い1621年頃に写本を作り上げた(この写本は現存していない)。
『甲陽軍鑑』は部下から見た様々なものを現代に伝える貴重な史料として再評価されると共に、
古文書の史料としての価値を判断する際に、記された日付の正確さを重んじすぎる歴史学会に一石を投じることとなった。
また『甲陽軍鑑の否定説』の論拠となっていた論文は、明治中期に当時30歳の学者が書いた、たった五ページほどの小論文だったということもあって、
史料としての「甲陽軍鑑」の価値はまた大きく変わりつつある。
本来、全23冊構成の写本である為、記述の抜けなども考慮するべきである。
ただし、のちの時代の加筆により江戸前期と江戸後期で記述に大きく差異がある事柄や人物がいる事、
また江戸時代の時点で肥前平戸藩主の松浦鎮信が書いた「武功雑記」に山本勘助に関する描写を批判する記述があったり、
湯浅常山の「常山紀談」にも、「甲陽軍鑑、虚妄多き事」と記述されている事も考慮すべきである。

  • 風林火山
風林火山とは孫子の兵法の一文であり疾きこと〜動かざることまでのフレーズが有名だが続きが存在する。
その全文は
疾きこと風の如く
静かなること林の如く
侵略すること火の如く
動かざること山の如く
知り難きこと陰の如く
動くこと雷霆の如し
郷を掠めて衆を分かち
地をひろめて利を分かち
権を懸けて動く
となっている。
意味としては「状況によって柔軟に立ち回るべき」と戒めた文章である。
また兵法は「兵は詭道なり」という一文から始まり、可能であれば外交によって戦を避けるべきと記されている。

  • ()(はた)楯無(たてなし)も御照覧あれ」
「御旗」・「楯無」共に甲斐武田家の祖・源義光の代から伝わる家宝にして神器。
「御旗」は義光の父・源頼義が後冷泉天皇から下賜された日章旗、「楯無」は「盾も要らぬ」と称された義光の鎧にして、清和源氏が代々伝えた8種の鎧「源氏八領」のひとつを指す。
武田家では重大な決断を下す際、惣領たる信玄が「御旗・楯無も御照覧あれ!」と先祖に誓う習わしがあり、
信玄がこの言葉を発したら以降は一切の議論・反論が禁じられたという。
『信長の野望』等の創作でも信玄の専用台詞として用いられる事が多く、彼の絶対性の象徴となっている。

  • 女性関係
信玄は(男色関連でも有名だが)多くの側室を抱えたことで有名であり、特に有名な側室としては武田勝頼の母親である諏訪姫こと諏訪御料人が挙げられる。

彼女はその名の通り諏訪氏の生まれで、この諏訪氏の当主であり、父である諏訪頼重は信玄と同盟関係にあったが、とあるきっかけで同盟を破棄した信玄が諏訪に侵攻。
頼重が死去した後、信玄は当初その息子である千代丸を諏訪家の後継者として据えようとしたが、当時の文献に「かくれなきびじん」と評される諏訪姫の美貌からか、
「諏訪姫を自身の側室として迎え、自分と彼女との間に出来た男子を諏訪家の後継者とする」という方針に転換し、かくして諏訪姫は父を死なせた男に娶られることとなった。
その後、諏訪姫は上述の通り後に武田家最後の当主となる勝頼を産み、1555年頃に若くして(25歳くらい)亡くなったとされる。
「敵方の娘」「父を殺した男に嫁ぐ」「その男の後継者となる男児を産む」「若くして亡くなった」という生涯から、彼女は現在の諏訪市の萌えキャラにされるほど有名であり、
彼女や信玄を扱ったフィクションではしばしば悲劇のヒロインとされる上、勝頼が後継者に指名されたのは信玄の諏訪姫への愛が理由であるとか、
諏訪姫を良く見せる反動として、信玄の正室である三条の方が嫉妬深い等の負の要素を付け足されたりすることがかつては多かった。

史実では信玄と三条夫人は仲が良かった。
三条夫人の人物像について、武田家と交流のあった快川和尚(快川紹喜)が記した円光院の葬儀記録によれば
とても慈悲深く 民に気を配り大切にする性格や、仏への信仰心の篤さ、夫である信玄に寄り添い物事を考える内面性などが綴られており
「そして御人柄はまさに円光日の如く、あたかも春の陽ざしのように周りの者をやわらかく暖かく包む御気性であられました。」とも記され
「武田信玄公とは、比翼の契り*11、夫婦仲が睦まじかった」と書かれている。
また武田家の近習衆の警護等を務めていた御料人衆がおり、五味新右衛門をはじめ十人の家臣が三条夫人に付けられていたとされる。
『円光院寺伝』によると、信玄が臨終間際の際に馬場信春を呼び寄せ、信玄が日頃から信仰していた陣中守り本尊と刀八毘沙門及び勝軍地蔵を託して
三条夫人の墓がある円光院に納めてもらう様に伝え、更に自分の遺体も円光院に三年間密葬させるよう遺言したという。
この二体の仏像の方は遺言通り、現在も円光院に所蔵されている。

ただ、史実では勝頼が後継者になったのは、三条の方の子である長男~三男までが上述の通り様々な理由で家督を継げなかったからであり、
また、勝頼には武田の通字*12である「信」ではなく諏訪家の通字「頼」を名乗らせていることから見ても、
信玄は当初の予定通り勝頼には諏訪家を継がせるつもりであり、彼が自身の後継者となったのは信玄にとっても予定外のことだったと思われる。

  • 戦国最強
武田軍はとにかく強い。レート(<で約3:1、≦で約1.5:1)で表すと、

尾張<美濃≦近江<三河<甲斐≦信濃=越後

くらいの強さである。

その強さ故か、本拠地には城を立てず、館を本拠とした。
尤も、攻めたところでクソ強い信玄・武田軍と戦う上に、勝っても得られるものが金山くらいしかないので、
ハイリスク・ローリターン過ぎて好き好んで攻めようとする戦国武将はいなかったかもしれないが。

ちなみに、信玄の晩年の宿敵であった信長の率いる尾張軍は、甲斐と比べるべくもないほど弱く、
戦国時代を扱う作品では、容赦なく(有名な戦国武将の中では)「最弱」の烙印を押されることが多い。
まぁ兵の強弱と国の生産力が反比例しているだけとも見えるが。

  • 2007年の大河ドラマ『風林火山』
この作品は、軍師の山本勘助を主軸に、信玄を始めとした武田家の隆盛を描いた作品である。
主要な役は、いわゆる「話題性に富んだイケメン俳優」を排し、実力派の役者を多く起用した為に演技にかなり力が入った作品である。
また、イケメン俳優を排する事で浮いた費用をロケに回す事でリアルで壮大な合戦を演出した。


ある意味では、イケメン俳優を多用した結果、スタジオ撮影が多くなった2009年度大河ドラマ『天地人』の対極的な作品といえるだろう。





大ていは地に任せて肌骨好し紅粉を塗らず自ら風流
*13


風林火山の如き、追記、修正宜しくお願い致します。

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最終更新:2025年03月06日 19:35

*1 政略結婚だったが夫婦は仲睦まじかったとされる。しかし結婚の翌年、難産に耐えきれず母子共に命を落としている

*2 当時うち続いた災害や甲斐国平定後の甲府城下町建設による負担なども考慮されるべきであろう

*3 板垣信方の死から320年目に子孫の乾正形(通称:退助)が甲斐への進軍に際して板垣に復姓している。

*4 浅井・朝倉・三好・石山本願寺が北条・今川・上杉に比肩するほど強敵であるかはかなり微妙なところだが、領土の守備範囲が広大だった事には苦労も多かった事は間違いない

*5 まぁ山間部の甲斐・信濃と平野部の尾張・近江・山城ではそもそもの人口比率が違いすぎるだろうが

*6 信玄は、この厳しい環境を改善するべく「甲州法度之次第」による法整備、領国内の度量衡の統一や交通路を整備して伝馬制度を確立、治山や治水工事、新田開発、鉱山(金山)や森林資源の開発を行い、小麦・大麦・大豆・蕎麦・粟・ひえ・きびの穀物類を作る事を領民に推奨する等している。

*7 ただし武田家を信虎が群雄割拠の時代を制して宗家統一を果たし発展させ大きな礎を築いたので、引き継いだものは充分大きい。

*8 但し、武田軍は過去の西上作戦において2万5千人もの兵力を動員しており、長篠における人数が最大動員という訳ではないと思われる。

*9 さらに口唇裂であったとも。後年徳川家康が家臣にそうした子が生まれた際名将にあやかるよう慰めた説がある

*10 手紙の「春日」の部分に後から付け足したような痕跡が指摘されていたり、他の手紙と筆跡が違うのではないかと疑問視する意見もある。

*11 比翼の契り=比翼連理(比翼の鳥)。相思相愛の仲や夫婦仲の睦まじい例え。

*12 代々世襲で名前に使う同じ文字

*13 訳:此の世は、世相に任せるものだ。その中で、自分を見出して、死んで行く。見せ掛けで生きるな。生きるのは、本音で生きることが、一番楽である。