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本多猪四郎(映画監督)

登録日:2011/06/27 Mon 14:43:23
更新日:2026/04/27 Mon 17:02:26
所要時間:約 5 分で読めます




本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした


映画のために力いっぱい働き十分に生きて


本多らしく静かに一生を終えました


平成五年二月二十八日
黒澤明

本多(ほんだ)猪四郎(いしろう)は、日本の映画監督。


プロフィール

生年月日:1911年5月7日
没年月日:1993年2月28日
出身地:山形県東田川郡朝日村(現:鶴岡市)

生涯

1933年にPCL(現:東宝)に入社し、山本嘉次郎監督門下の助監督として活躍した。
同門に黒澤明や谷口千吉がおり非常に仲が良く、特に黒澤明とは生涯の友となった。

その後戦争に召集され、7年間を戦地で過ごし、帰還中には原爆の被害を受けた広島も見ている。

その後東宝へ復帰し、空白はあり黒澤明よりは遅れたが、1951年『青い真珠』で監督デビューとなる。
そして、『太平洋の鷲』で初めて円谷英二氏と組んでの製作となり、『ゴジラ』の監督を任されることとなった。

『ゴジラ』は大ヒットとなり、以降多数の特撮映画を手がけ、邦画が斜陽化してからはテレビの監督もこなし、『帰ってきたウルトラマン』等の作品も担当した。
その後『メカゴジラの逆襲』を監督した後は実質的に引退する。

その後、黒澤明に請われチーフ助監督(演出補)として黒澤映画に参加、一部の場面では黒澤監督の代わりに演出も行っている。

『まあだだよ』の撮影終了後に風邪をこじらせ、1993年2月28日に呼吸不全のため死去した。81歳没。

人物

東宝特撮を多数撮っただけでなく、邦画黄金期には1年で4~5作演出する職人監督として東宝を支えていた。

その人柄は温厚で誠実であり、撮影中に叱られることは殆ど無く、その人に見合った指導をしており、その人柄に応えようと頑張ったと当時の俳優達は語っている。

自然体でリアリズムを重視した演出が多く、またテンポが良く特撮との相性は抜群であった。
英二とも画面の色調を合わせたりする等、よく連携を取っていた。

誠実な人柄は作品にも反映され、避難する人を誘導する警察等によく表されているとされる。
黒澤明が本多作品を見て、あんな状況じゃ警察だって逃げると言ったが、猪四郎は「警察はああじゃなきゃいけないんだ。」と言ったというエピソードを土屋嘉男が紹介している。

また、脚本の執筆や演技指導も上手く、さらにコンテに演出プランを細かく書く事で、スタッフが仕事をしやすいように気を回す方だったとの事である。

交友関係

先述したように黒澤明とは生涯の友であった。
また、当時の映画会社では監督と俳優がある程度固定化されており、特に付き合いが深いのは○○組と呼ばれた。

本多組と呼ばれた俳優達とは、よく猪四郎の家で酒宴を開き、毎年新年会をする等、非常に仲が良く、猪さんと呼ばれていた。

主に本多組と呼ばれるのは佐原健二、平田昭彦、田島義文あたりである。

特に佐原健二はよく可愛がられ、彼も応えるべく頑張ったそうである。
また、黒澤明に叱られそうになった時も、友人の猪四郎監督門下だからと大目に見てもらったというエピソードもある。

また、土屋義男氏は黒澤門下の俳優であったが、猪四郎監督ならと、特撮映画への出演や宇宙人役を演じさせてもらったという話もある。

余談

DVD『メカゴジラの逆襲』には猪四郎の妻へのインタビューが収録されているが、彼女へのインタビューは少なく、監督の人柄が窺えるエピソードも聞ける。
音声解説はカメラマンの富岡素敬が担当しており、こちらも猪四郎や英二の話しを聞ける。

作品には真摯に接する人であり、『妖星ゴラス』の時は大学に話しを聞きに行ったり、上層部がマグマを出すと言った時は蛇足だと反対したが、決まってからは特撮班とより良いマグマの演出について相談していたらしい。

1980年代は商業誌のインタビューだけでなく、ファンの同人活動へのインタビューも受けており、亡くなった今となっては無理な話である。

現在、猪四郎の公式サイトが存在する。親族や佐原健二が中核になり、水野久美や高島忠夫、小泉博といったゆかりの方からのメッセージも載せられている。

DCドラマ『レジェンド・オブ・トゥモロー』のシーズン4:第5話『怪獣タグモ』で歴史上の偉人のメインゲストで登場。海外ドラマとしては珍しく、ゴジラ制作に隠された猪四郎の壮絶な想いが描写されている。




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最終更新:2026年04月27日 17:02