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円谷英二

登録日:2011/06/28 Tue 07:43:04
更新日:2026/08/08 Sat 01:40:57
所要時間:約 10 分で読めます




円谷(つぶらや)英二(えいじ)とは、日本の特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家。
本名:圓谷英一(えいいち)*1

代表作に『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』などがある。


プロフィール

生年月日:1901年7月7日(戸籍上は7月10日*2
没年月日:1970年1月25日
出身地:福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)
最終所属:株式会社円谷特技プロダクション(同社の代表取締役でもあった)

家族
  • 妻:円谷マサノ
  • 長男:円谷一(円谷プロダクション2代目社長)
  • 長男の第一子:円谷昌弘(円谷プロダクション5代目社長)
  • 長男の第二子:円谷英明(円谷コミュニケーションズ社長→円谷プロダクション6代目社長→円谷ドリームファクトリー社長)
  • 第二子の息子:円谷洋平(SHOWROOM株式会社 執行役員)
  • 長男の第三子:円谷浩(俳優)
  • 長男の第四子:円谷一美(シンガーソングライター)
  • 次男:円谷皐(円谷プロダクション3代目社長→2代目会長・円谷音楽出版初代代表取締役・円谷エンタープライズ初代社長)
  • 次男の息子:円谷一夫(円谷プロダクション4代目社長→3代目会長→8代目社長→名誉会長)
  • 三男:円谷粲(円谷映像社長→円谷プロダクション副社長)
  • 三男の娘:円谷優子(元アイドル歌手)
  • 兄の息子:円谷良夫(彫刻家)


生涯

母を生まれてすぐ亡くし、父親は婿養子のため離縁され、祖母に育てられる。
幼い頃から手先が器用で絵が上手く、手作りで簡易的なアニメも作っていた。
飛行機が好きで、自分で飛行機模型を作り、パイロットが夢だった。

何とか飛行学校に入るが、学校唯一の飛行機が事故に遭い教員も亡くなったため学校は閉校、玩具会社に勤めながら電機学校に通う。
この頃は様々な発明の特許で収入を得ており、その中の一つ「自動スピード写真ボックス」は今日も証明写真として街中で活躍している。
その後縁が出来、映画界へ入ることになった。

その後は兵役についたり、戻ったら関東大震災で撮影所が京都に移る等忙しい日々を過ごす。
この頃から特殊な撮影をするようになり、周りに理解されなかったがカメラマンとしての成果も出すようになる。これが後の特撮技術に繋がる。

1930年には結婚し、1932年に日活に移籍した。
1933年に『キングコング』が公開されると、フィルムを購入し、1コマずつ研究していった。

その後は日活を退社し、東宝の前身である会社に入社した。
会社が東宝になると特殊技術課を設立してもらい、課長になる(部下は無し)。

その後は様々な作品に関わりながらスタッフを補充し、1943年には「ハワイ・マレー沖海戦」の特撮を担当。
この作品は高い評価を得、戦後は記録フィルムと勘違いされGHQに押収されそうになったというエピソードもある*3

戦後は争議や公職追放のため東宝を退職、各社の特撮を担当した。
また、この頃に円谷プロダクションの前身となる研究所を立ち上げている。

その後は東宝へ復帰し、戦争映画を手がけながら、1954年には『ゴジラ』を手がけ、大ヒットとなった。
『ゴジラ』の大ヒットにより、以後東宝特撮を担当していく。

1963年には円谷プロダクションを立ち上げ、以後東宝作品を担当しつつ、円谷プロダクション社長として『ウルトラQ』や『ウルトラマン』等の作品を世に送り出す。

1970年1月25日、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去した。68歳没。

亡くなった直後の1971年4月に『帰ってきたウルトラマン』が放送開始。
この作品は生前の円谷英二が企画に参加しており、初代ウルトラマンが30年後に地球に帰還することから命名したものであった。
実際に登場したのは初代とは別のウルトラマン*4であったが、英二の意思を尊重し、タイトルは変更されずに放映された。


仕事について

一般的には『ゴジラ』の特撮と『ウルトラマン』で有名だが、
実際には戦中の時点で様々な特殊技術で脚光を浴びていた監督だった。

スクリーン・プロセスやブルーバック合成、ミニチュアの積極的使用等は英二が日本に初めて導入し、スクリーン・プロセスや合成に使うオプチカルプリンターは自分で作るほどだった。
また、常に最新の技術や素材を導入し、アメリカの最新の機材を独断で購入したりスタッフが探した新素材を喜んで採用していた。

また、仕事は厳しくも普段は優しい人物であり、寝たふりをしながらスタッフを観察をする等お茶目な面もあった。

監督として東宝特撮を手がけた頃は、特にミニチュアと編集に凝っていて、ミニチュアは自作もしていた。
また、暇があれば編集室にこもり、果てはスタジオに編集用の小屋を作りスタッフを監督しながら編集もしていた。
多少のミスは編集で何とかしてしまう(それどころか演出に組み込んでしまう)、特撮の神様であると同時に編集の神様でもあった*5

また、戦中も含めれば、東宝、東映、大映、松竹、日活、新東宝と大手の映画会社全ての作品に参加していた。そのためか交友関係も非常に広い。

弟子や部下の面倒見も良く、常に宴会はおごりだった他、
半ば決別して松竹へ移った弟子の川上景司氏を20年後にまた雇ったりしている。

その他、『ウルトラマン』を製作してた頃はウルトラマンより、
弟子のうしおそうじが製作してたライバル番組の『マグマ大使』の心配ばかりしていたというエピソードもある。
その面倒見の良さから弟子達からは「オヤジ」と呼ばれており父親のように慕われていた。

作品には妥協せず、『ウルトラマン』は英二がOKしないと納品出来ず、スケジュールを圧迫し打ち切りになったのは有名である。
予算面でも妥協を許さず、良いものを作るためには金を掛け、グッズの売り上げなどで後から回収して行こうとする傾向があった。
このため、円谷プロダクションの万年赤字体質を引き起こした一方で、「ウルトラマン」は子供向け番組ながら、技術が未成熟な当時としてはかなり質の高い特撮となっている。
近年のウルトラマンが2クール放送になったのも赤字体質が関係している。

また、子供を大事にしマンネリを嫌ったためゴジラにシェーをさせてみたりと色々なことをしていた。

グロテスクな表現も嫌ったため、流血は少なく、ガイラが人を食べるシーンも上手く隠されていた。
演出上、怪獣の流血を表現する必要がある場合、大抵は血の色を緑色にすることでショッキングな印象を和らげる工夫がなされており、子供も楽しく見られる、明るく楽しい東宝映画のイメージとも繋がっている。


交友関係

友人

最も多く組んだ黄金コンビである。英二は色を合わせるためによく本多氏の撮影現場を見に行ったらしい。

  • 黒澤明
東宝全盛期における二大巨頭であった。
一緒に仕事をすることは無かったが、お互いに認め合うライバル関係で、試写は必ず観ていたとのこと。
ちなみに猪四郎ともとても仲が良かった。

  • 伊福部昭
ゴジラのテーマを作曲した音楽家。
フリーランス時代にお互い名も知らずによく飲み合い、『ゴジラ』のスタッフの顔合わせで初めて名前を知ったらしい。
おかげで気を使わず仕事が出来たとか。

弟子

  • 高野宏一
ウルトラシリーズの特技監督で活躍した。
東宝よりは研究所からの流れの人で、ゴジラへの参加は「ゴジラの逆襲」のみ。

4代目特技監督。1962年に円谷組に入り、作画合成を中心に担当した。
平成シリーズではその時の経験が活かされたとのことである。

  • 有川貞昌
後の2代目特技監督。フリーの時期に弟子入りした。
円谷組ではチーフカメラマンとして活躍、英二と同じく飛行機が操縦出来たため、一緒にセスナ機を飛ばしていたらしい。

  • うしおそうじ
後の『マグマ大使』、『スペクトルマン』の製作者。
戦中は部署は違えど一番弟子に近い存在だった。一緒の仕事は少ないが晩年まで仲が良かった。
うしお氏は手塚治虫や三船敏郎とも友人というある意味凄い人物である。

後の3代目特技監督。助監督として活躍し、英二亡き後の東宝特撮を支えた。

その他

  • 渡辺明
『ゴジラ』等で美術スタッフとして参加し、独立後は『ガッパ』の特技監督になった。

  • 川上景司
戦中のスタッフで松竹に引き抜かれたが、後に円谷組に復帰した。
「ギララ」で特撮の監修を勤めた。

  • 村瀬継蔵
大怪獣バラン』や『宇宙大怪獣ドゴラ』に参加、その後は『ガメラ』の造形に参加し、
後に東映作品や円谷作品の怪人や怪獣の造形を担当するツエニーを設立した。

  • 矢島信男
松竹時代に英二と公私共に付き合いがあった。東映特撮に欠かせない人物となる。

このように、有名な昭和の特撮関係者の多くが英二の関係者である。また円谷氏の死後、孫の一人(長男の円谷一の三男)円谷浩は『宇宙刑事シャイダー』の主役として有名になっている。


余談

『ゴジラ』が製作される前に、クジラが港を襲う映画とタコが船を襲う映画の企画を作っていた。

子供にサインを求められると自分の名前を基にしたスキーボーヤというイラストを、大人には「子供に夢を」と書いていた。

爆発時の「キノコ雲」は、夕飯の味噌汁からヒントを得た。

彼が最後に監督した作品は『日本海大海戦』で、怪獣映画は『キングコングの逆襲』である。
晩年の『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』、『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』で監修とクレジットされたが、これは長年の功績を労ってのものである。

妻の勧めでキリスト教に入信しており、円谷一族は全員カトリックである。

「映画を撮れない時はこの(スピード写真の)特許料と販売で食いつないでいた。」と日記に記されている。
後にウルトラマンオーブの第1話ではそのオマージュ(半分はスーパーマンオマージュ)として登場している。

2015年7月7日のGoogle Doodleは円谷英二の誕生日を記念したものだった。
当初は円谷怪獣(っぽいもの)が町を破壊するムービーの予定だったが、ウルトラマンXの撮影を見学したことでスタッフが感銘を受け、実装されたDoodleは特撮現場を体験するミニゲームで遊べるようになっている。





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最終更新:2026年08月08日 01:40

*1 兄弟のように育った叔父の円谷一郎への敬意からペンネームを「二」にしたという。

*2 誕生日は、現在までの様々な文献によると、1901年7月5日説や7月7日説があったが、円谷家の子孫(英二の叔父の円谷一郎の孫)である円谷誠が家系図を調べているうちに、円谷英二(家系図では円谷英一) の項目が誕生日7月10日であることを確認し、念のため市役所の戸籍も調べたが、7月10日に間違いがなかったという。但し、英二の三人の子息(一、皐、粲)は「親父は、『誕生日は7月7日だ』と言っていた。」と各種インタビューで証言している。これは実際に生まれたのが7日で、戸籍の上では月10日生まれとなっている可能性もあり、当時は戸籍上の誕生日と実際の誕生日が違う人が少なからずいたためである。

*3 誤解は解けたはずなのだが、パールハーバー(映画)にて、作戦会議の構図が「ハワイ・マレー沖海戦」の撮影風景の写真と酷似していたため、「まだ微妙に誤解が解けていないのではないか」という声があるとか無いとか……。

*4 後にウルトラマンジャックの名が与えられた。

*5 やりくりが上手すぎて回を重ねるごとに予算を減らされ続けるという弊害もあったそうだが。