昭和天皇崩御

登録日: 2012/03/06(火) 16:57:46
更新日:2025/04/09 Wed 15:48:07
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時間系列は日本時間、呼称は当時のもの。



1989年・昭和64年1月7日未明。
前年に胃腸の通過障害の手術を受けられた天皇陛下は、前年11月の吐血以来、病状が日に日に悪化、ついに危篤状態に陥った。

首相官邸にいた竹下登首相と小渕恵三内閣官房長官は危篤の一報を受け、急きょ皇居内の吹上御所に陛下を見舞われ、
直ちに官邸にいた記者団に危篤の一報を伝えた。

NHKでは、リアルタイムに伝えていた陛下の体温や血圧などの表示を消し、NHK緊急放送のチャイムを鳴らして危篤の一報を伝えた。この時午前6時30分。

民放も官邸からとんだ情報により、やはり午前6時30分くらいから報道特番を始めた(この中には、テレビ東京系列も含まれていたが、詳細は後述)。

テレビ東京系列を除く各局は民間放送始まって以来初めてのCM飛ばしを実施。

以後50時間以上に及ぶ史上例をみない特番がスタートした。
なお、CM飛ばしの報道特番が組まれたのは、日本はもとより他の民間放送のある国のテレビ放送でも記録にある限りでは初めてであった。

午前7時。
皇居内に皇太子ご一家、陛下にゆかりのある方々、各国大使、政府高官等が相次ぎ入る。竹下首相は官邸に対策本部を設置。

午前7時30分。
テレビ東京系列が一旦特番を打ち切る。

午前7時40分頃。
何とAP通信が「天皇裕仁死す!」という電文を流し、共同通信も「天皇陛下が崩御したもよう」と打ってしまった。
民放は「アメリカのAP通信が、昭和天皇の崩御を伝えました」というアナウンスを流し、民放の報道フロアは大混乱に陥った。

NHKは宮内庁の正式な発表ではないとしてこの時点ではAPと共同通信の報道は無視。その一方、テレビ・ラジオで唯一TOKYO FMが「JFN報道特別番組」内でフライングで報道してしまった。
この頃宮内庁から、藤森昭一宮内庁長官の会見を7時50分から開くと発表。担当記者たちはいよいよかと騒ぎだす。


そして午前7時50分。
藤森宮内庁長官が、



「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分、吹上御所にて崩御あらせられました。まことに痛恨のきわみであります」


と発表し、事実上の昭和の終わりが宣告された。この際、NHKでは最上級のチャイムが鳴らされた。

同時刻。
小渕官房長官も同じ内容の記者会見を行い直ちに外遊中であった宇野宗佑外務大臣を除く全閣僚が官邸に召集された。
竹下首相は臨時閣議で、元号法に基づく新元号制定のための有識者会議を直ちに開くこと、
皇太子明仁親王の即位を示し、全閣僚の賛同を得て閣議決定した。

実はこの有識者会議の関係者に毎日新聞とパイプのある人物がおり、光文事件のリベンジ(「大正」の次の元号を巡る誤報事件)に燃えていた。

この頃から店があちこち開き始める。
また、当日は土曜日であったが会社に行く人も当然いたため、いつもの土曜日の通勤風景となった。
東京証券取引所はこの日の取引の中止を発表。(当時、土曜日の午前中だけ取引があった)

中央競馬など公営ギャンブルは軒並み中止、全国高校ラグビー決勝が引き分け両校優勝扱いにして取り止め、高校サッカーは日程を変更した。
翌日が初日であった大相撲初場所も一日延期、月曜日初日、月曜日千秋楽という変則日程とした。
テレビ東京系列は、午前9時から翌日早朝までの22時間あまりの特番に突入した。
一旦特番を打ち切ったことに関し、当時のテレビ東京は、
「午前7時半から9時までの釣り番組とアニメ番組の計3本は、こちら側の不手際により、スポンサーとの協定を見直していなかったため、
担当者との連絡が間に合わなかった」としている。

この3本は、人命に関わる災害、事件、事故の際の協定は結んでいたが、皇室関連の協定は結んでいなかった。

また、早朝であったため、テレビ東京側がスポンサーや広告代理店に連絡を入れても権限のある人物がいなかったことも災いした。
あるスポンサーは「別に特番にしてもかまわなかった。テレ東はそれだけ仁義に厚かったということだが」と回想する。
NHKでは陛下の手術を担当した外科医のVTRが流され、その時すでに「陛下は末期ガンで手の施しようがなかった」とする彼のインタビューが流された。

彼はすでにこのインタビューが収録された後にガンで亡くなっていて、NHKの記者に「これは僕の一生一代の遺言。昭和が終わったときに流してくれ」と託した。

このインタビューの存在は、彼とインタビューを行った記者、カメラマンと録音スタッフ、科学部のキャップしか知らず、
皇室担当記者ですら知らなかったトップシークレットであり、マスターテープはNHKではなく、録音スタッフの自宅にある簡易耐火金庫に保管してあった。

崩御の報を聞いてこの録音スタッフが、亡くなった担当医の家族から承諾を得た上で初めて渋谷のNHKにテープを持ってきたという。

ちなみにテープの編集は、渋谷ではなく別のNHK関連施設で録音スタッフが極秘に行ってあった。
(まあテロップが入っているだけでノーカットのテープと何ら変わりはなかったが)
ちなみにこの後、各局が全てのレギュラー番組の休止を発表すると、
お昼過ぎからレンタルビデオ店、セルビデオ店、書店、コンビニ、家電量販店に人が集まり、商品が消え、
書店からは漫画や小説本、コンビニからは雑誌が片っ端から消えていった。

副次的効果により、家電量販店にはビデオデッキを求める客が相次ぎ、下手をするとビデオにつなぐ端子がないからとテレビまで買う強者までいたという。

それだけ昼過ぎには視聴者は皆、関連報道に飽きてしまった証拠であるが。


ちなみにこの現象は、東北地方太平洋沖地震の際も若干見られたが、この時の比ではなかった。時代背景やこちらは災害であったことからであろうが。
そして、新元号である「平成」が発表されるわけだが、
小渕官房長官が発表する前に毎日新聞東京本社には「新元号は平成」とリークされ、いち早く号外を出すことができ、光文事件*1のリベンジを果たした。

テレビ東京系列は、1月8日未明に特番を打ち切り、当日放送予定の番組の他に、前日放送できなかった番組も一部繰り下げて放送した。
テレ東は系列局が少なく、応援にも限界があることから、翌日未明に打ち切らざるを得なかった。

なお、今回の崩御の段取りはすでに、1981年から宮内庁と各皇室担当記者との間で大まかな図式は確立されていて、
崩御した際は宮内庁長官が宮内庁で一番大きな食堂の一角で会見を行うとし、
各マスコミも「Xデー」として、予定原稿をすでに作り、社内でも周知徹底ははかられていたが、やはりマニュアル通りにはいかなかった。

この時に至るまでのマスコミ取材の状況を語る書籍の一つとして、日本テレビ取材班が記した『昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたのか』(新潮文庫)が存在する。
昭和天皇の体調悪化から崩御まで詳細に取材した日テレスタッフの苦労と「昭和の終わり」に関する各所の反応などを示した名作…だが、「天皇周辺の心境に配慮して『手遅れ』・『癌』等の用語は使わない」としながらも、
皇室のみならず担当医にすら連日張り付き、苦情が来ても取材を続けるというパパラッチ状態と化した迷惑マスコミの無自覚さも記している。これで「配慮」した方なら他テレビ局はどんだけだったんだよ。

余談ではあるが、レンタルビデオ店では、昭和天皇の葬儀にあたる「斂葬の儀」が国民の休日に指定されたため、終日特番が組まれると判断し、
人気作品をコピーしたりして、急場をしのぐ作戦に出たところが多数出て、著作権絡みでちょっとした問題も発生したが、
やはり、レンタルビデオ店やセルビデオ店からは映像ソフトは空っぽになった。
なお、特番を打ち切ったテレビ東京は、子供を持つ親などに配慮して、
午前中はレギュラーのアニメ番組、午後から夕方は前日に放送できなかったアニメと、再放送のアニメでつないだ。
これが、テレビ東京の伝説の始まりだが、どういうわけか、前日の7日と混同してしまう人が多く、7日にテレビ東京でも特番であった事を知らなかったという。

また崩御に際しては恩赦が取り行われ、この時も例外ではなかった。
このため昭和天皇の体調が思わしくないことを知った弁護士らが崩御による恩赦を期待し、囚人に対し上告を取り下げ刑を確定させるといった行為が多数行われたが、その中には殺人事件を起こした死刑囚も含まれていた。
しかし当然ながら恩赦が行われたのは社会復帰しても問題を起こさないような人物や社会への影響が少ない人物に対してのみであり、死刑囚に対しては当然ながら行われずそのまま死刑が確定した。


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最終更新:2025年04月09日 15:48

*1 大正15年(1926年)12月25日の大正天皇崩御の折、毎日新聞(当時は「東京日日新聞」という名前)が「大正の次の元号は『光文』」と報道したが、直後に昭和と発表された誤報事件。