二式飛行艇

登録日:2014/04/12 (土) 22:59:00
更新日:2022/07/18 Mon 15:31:29
所要時間:約 5 分で読めます




二式飛行艇 鹿屋航空基地史料館野外展示*1

二式飛行艇は、大日本帝国海軍が第二次大戦中に運用した大型飛行艇である。連合軍内でのコードネームは「Emily(エミリー)」。
レシプロエンジン搭載型飛行艇としては当時最高峰と名高く、今なお「これを超える設計の飛行艇は生まれていない」とまで賞される傑作機。


性能諸元

略符号:H8K2(一二型)
通称:二式大艇
開発:川西航空機
全幅:38.00m
全長:28.13m
全高:9.15m
翼面積:160m2
自重:18.4t
正規全備重量:24.5t
最大重量:32.5t
発動機:三菱製 火星22型(離昇出力1,850hp)4基
最高速度:465km/h
航続距離:7,153km(偵察過荷)
固定武装:20mm旋回機銃5門、7.7mm旋回機銃4門
爆装:爆弾最大2t(60kg×16または250kg×8または800kg×2)または航空魚雷×2
乗員:10-13名

誰の目から見てもデカァァァァァいッッ説明不要!な巨人機である。

開発経緯

ワシントンとロンドンで行われた二度の軍縮会議の結果、列強各国は「海軍休日」と呼ばれる建艦停滞期へ移行することとなった。
これを受けて対米劣勢を決定づけられた大日本帝国海軍は、不足するであろう艦艇戦力補充のために大型超長距離攻撃機の開発を構想する。
それらは大中の陸上攻撃機と飛行艇の4種に大別されていたが、その先鞭となったのが本機の前身機である九七式飛行艇だった。

こいつはこいつで、最大速度385km/hかつフル装備時航続距離5,000kmというバケモノだったが、開発内示から制式採用まで4年もかかっている。
後継機の開発にも同等の期間がかかることを懸念した海軍は、九七式制式採用からわずか7ヶ月後の1938年8月21日、後継機開発計画として『十三試大型飛行艇』の正式試作を川西に発令する。
その性能要求はもはやイジメか何かのような過酷なもので、ざっと挙げると

  • 最高速度は240ノット(444km/h)以上。これは当時の主力戦闘機と同格であることを示す。
  • 航続距離は偵察装備時7,400km以上、攻撃装備時6,500km以上。ぶっちゃけB-29よりも3割増で長い。
  • 20mm機銃を多数装備し、なおかつ重装甲で敵戦闘機との接敵時においても生存性を高く保つこと
  • 雷撃任務においてその確実性を期すべく小型機並みの操縦性を保持すること
  • 1t爆弾または800kg魚雷2発を装備可能な重攻撃機としての搭載能力

何これ……ふざけてるの?ってか本当に完成させる気あったのかこれ!?

川西側は九七式の設計に携わり経験を積んでいた菊原静男技師を設計主務に任命、総力を上げて開発に邁進することとなった。
初飛行こそつつがなく行われたが、水上滑走/着水時の波飛沫からくるプロペラや尾翼の破損問題の解決に難航、制式採用決定は1942年2月5日となった。
奇しくも前任機と同等の開発期間となっており、結果的に海軍の懸念は的中した。まあ開発が遅れたの半ばあんたらのせいだけどな

その性能と技術的特徴

川西の総力をあげて開発されたその性能はまさに白眉と言うべき傑作だった。それをここに挙げていこう。
※性能は最もデータの多かった一二型を基準とさせて頂く

最高速度は当時の陸上爆撃機等と比較してもなお優良とされるほどのもので、実際当時の主力戦闘機ほどではなくとも高速足り得るものだ。
それを担保していたのが当時帝国で最強と言われていた火星エンジンの搭載と、スリムかつ背の高い独特の機体構造だった。
飛行艇というものは着水時の安定性を第一とするためずんぐりとしているのだが、本機では高速力もまた必須だったためにこんな体型となっている。

各バイタルパートに施された防弾鋼板と20mm機銃のもたらす防衛能力は破格のものであり、哨戒任務中に接敵した敵爆撃機や哨戒機を追い回して撃墜した例も多々見られたという。

画像検索で見ていただくとよくわかるが、機首下面にかつお節のような出っ張りがちょこんとふたつある。
これは開発経緯で少し述べた波飛沫による破損問題解消のための消波装置だ。

また機体は防御力をよく維持しながらもギリギリまで軽量化されており、さらには長距離行のために便所や仮眠用ベッド、冷蔵庫まで完備している。
銃座は20mm機銃に合わせて動力式を採用しており、長期間の任務における兵員の疲労緩和などにも目を向けていた。

ただ防水塗料は粗悪だったようで、機体底部の水密は不完全だった。事故予防のための水の汲み出し(人力)は欠かせなかった。
また気化ガソリン漏出のため艇内火気厳禁で、この点はアメリカには敵わなかったという。

派生機

晴空
十三試大艇試作一号機の改修機をベースとした輸送型。最終生産機数は36機。

実戦での活躍

大型で高速、かつ大火力な防御火器を備えた本機は連合軍機から見ても侮り難く危険な機体だった。
イギリスの航空評論家であるグリーン氏曰く「Formidable(恐るべき、手に負えないの意)」。
その速力と長大な航続距離を活かした長距離偵察/哨戒/爆撃任務に従事し、その過程でフォイっと寄ってきた哀れなカモを血祭りに挙げている。

1943年11月にP-38ライトニング3機と交戦した玉利義男大尉機はエンジン2基停止、被弾230箇所という壮絶な損害を受けてなお帰還し、本機の防御能力の高さを証明している。
大戦後期-末期においても帝国軍多発機で唯一と言ってよい、連合軍機を撃退しうる強力な機体であったことは疑いようがない。

しかし、戦況の悪化に伴う制空権喪失からその防御力にも限界が見え始め、巨体であるがゆえに早期退避・隠蔽もままならず空襲による喪失機も出ている。
生産・運用コストの高さや川西の紫電への注力もあって、末期には生産はほぼ打ち切りとなっていた。
最終生産機数は167機。そのうち終戦時の残存機数は二式大艇5機、晴空6機の計11機。
そのうち8機が事故喪失や海没処分等で喪失したため、米軍からの引き渡し通達時の現存数はわずか3機のみだった。

現存する二式大艇

詫間海軍航空隊所属の第426号機(詫間31号機)がアメリカに引き渡されて性能確認試験が行われている。
この際アメリカ式の徹底的な整備と良質な燃料を提供されたことで持てるポテンシャルをフルに発揮し、その際の指揮官から

「日本は戦争にこそ負けたが、飛行艇技術では世界を相手取り勝利した」

という最上級の評価を受けている。
この詫間31号機は長らくアメリカで保管されていたが、1979年11月13日、返還運動と協議の果てについに日本への帰還を果たす。
その後はお台場の船の科学館で野外展示されていたが、2004年以降は海自の鹿屋航空基地で野外展示されている。

また、サイパン島近海には二式大艇の残骸が眠っている場所があり、ダイビングスポットとして同地の観光資源となっている。*2

創作における二式大艇

有名な機体だけあってウォーシミュレーションにはだいたい参戦している。
松本零士の『ザ・コクピット』シリーズの「大艇再び還らず」に本機が登場しているが、劇中ではB-17との撃ち合いの果てに

フライングボディプレスで海没極刑処分を執行する

という荒業を見せている。できない……とは言い切れないのが恐ろしい。
と言うか志摩元の『帝国護衛艦隊、太平洋を往く』でも全く同じ事をやっている

艦隊これくしょん -艦これ-では、2015年春、二式大艇の母艦であった水上機母艦、秋津洲の実装に伴って実装。
触接率が大幅に上がるなど侮れない効果を持っている…のだが、秋津洲、神威、日進しか使えないのと3人とも二式大艇を装備するよりも重要な仕事があるため、基本的に彼女達には使って貰えない。秋津洲は二式大艇ちゃんLOVEなのだが
一方で2016年春イベントで追加された新要素「基地航空隊」で、航空隊に二式大艇を配置するとその部隊の僚機の行動半径が延伸されるという付加機能が備わり一転して重宝される存在となった。
機体後方部のみだが映画版この世界の片隅にでワンカットながら晴空も出演している。

立体化

日本が誇る飛行艇ということもありハセガワなどから1/72や1/144のプラモデルがリリースされている。
1/144では何度か塗装済み組立品のものが発売されているがいずれも人気が高くプレミアがついている。

余談

本機を設計した菊原技師は後、試作中の水上戦闘機「強風」を紫電への改造案の提示、更には紫電改への改造などに尽力した。
同氏は終戦後も引き続き川西に在籍、新明和工業になっても長年勤め取締役にもなっていた。
1952年に航空機の研究・生産禁止は解除されたものの、既にジェット機などの分野では大きく後れを取っていることを自覚しており飛行艇での生き残りを模索していた。
資金不足だったことから間に合わせで様々な実験を行っていたがある程度研究成果が出ており、更にはアメリカで試験された二式飛行艇を
アメリカの飛行艇技師が賞賛したことでこれに興味を抱いたUF-1など飛行艇を製造していたグラマンを通じて日本にアメリカ海軍からUF-2の供与。
更には防衛庁から研究の依頼を受けたことで試験飛行艇UF-XSの製作を行い、これを元に国産対潜飛行艇PS-1の開発が行われた。
菊原技師はその間にも堀越二郎などと共にYS-11の開発にも参加しておりまさに日本が誇る飛行艇設計者の頂点に立つ方であった。

だがPS-1は哨戒機運用の変化や旅客機としては失敗したが軍用機では成功を収めたP-3の登場などもあり受注数は伸び悩んだ。
しかし早い段階から救難機としての価値を見出しており、受注を打ち切られる前に構想をまとめたことから救難機US-1として飛行艇の開発・運用は継続された。
US-1は1982年から2017年に引退するまで約900回の出動と800人以上の人命救助に貢献した。
菊原技師は1991年に亡くなったが亡くなる前に既に次の飛行艇の基本構想を固めており、これは次の飛行艇に引き継がれた。
そして現行最終発展形こそが世界に誇る救難飛行艇US-2であり、菊原技師の遺した飛行艇の系譜は今なお脈々と受け継がれている。


追記・修正は二式大艇に乗ってからお願いします。

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最終更新:2022年07月18日 15:31
添付ファイル

*1 2020年11月28日 編集者撮影

*2 ただしポイント名をB29としている店あり