台湾沖航空戦

登録日:2014/10/12 Sun 19:01:15
更新日:2024/02/13 Tue 18:27:53
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台湾沖航空戦

戦争:太平洋戦争
年月日:1944年10月12日 - 10月16日
場所:台湾東方海域

交戦勢力 
大日本帝国
アメリカ合衆国

指揮官
日本側:寺岡謹平中将、福留繁中将
アメリカ側:マーク・ミッチャー中将

戦力
日本 航空機 1,251機
アメリカ 航空母艦 17隻 戦艦 6隻 重巡洋艦 4隻 軽巡洋艦 10隻 駆逐艦 58隻



背景


1944年10月、マリアナ沖海戦に大勝利を収めたアメリカはフィリピン攻略への布石を敷いていた。
日本はフィリッピンを陥落させられると石油が途絶えてしまうため決死の防戦に出る。
しかし、陸はなんとかなっても航空隊は百戦錬磨のベテランやエースを損耗し尽くしかけている時勢で、上層部の思惑とは裏腹にハエとさえ揶揄される学徒動員や若年兵が戦力の大半であった。
しかもこの時期には軍の人的資源の枯渇が顕著になっていた。戦闘機はあっても載せる人間が居ない状態。
おまけに、6月にあったサイパン島を巡る戦い(マリアナ沖海戦含む)でミッドウェー海戦後からの二年でせっかく苦労して錬成した若年搭乗員の大半が戦死してしまったのである。
そのため、現在いる乗員は飛行時間が500時間あればいい方で、戦意が豊富でも正当な判断が出来る保証など無いという有様であった。
しかも、空母機動部隊が根こそぎ壊滅した影響で戦略的自由度が削がれている以上、基地航空隊に頼るしかないという絶望的状況だった。


そして、アメリカ海軍の主力艦隊はフィリピンの奪還の伏線として各方面にある日本軍の基地を空襲する。
その中には日本に近い台湾もあった。当然ながら日本側はこれを見逃すはずはなく台湾沖に展開するアメリカ海軍の艦隊に対して総攻撃を実施した。
本来なら艦船を使うのが正当だが大部分が作戦中であり陸揚げした航空機による攻撃が実施されることになった。
が、ここで陸軍も加わった。海軍を中心とした作戦であるが、不仲であるにもかかわらず陸軍が名乗り出たのは主要の基地や司令部を守るためだったのである。
しかもこの頃には絶対国防圏が呆気無く瓦解し、本土空襲も始まっていた。
日本海軍の戦闘機機材はゼロ戦からの機種更新が未だにできずにおり、頼みの綱の局地戦闘機 紫電局地戦闘機 雷電の生産は遅延していた上に、雷電はともかくも紫電は性能的にも微妙な存在で、日本海軍主力となり得る存在ではなかった。
しかも正統後継機の烈風に至っては試作中。紫電は上層部の期待の星として配備されていたのだが……結果はお察しください



海戦の流れ


日本海軍は期待の攻撃部隊として、『T部隊』を編成していた。
これは当時の搭乗員の中では比較的練度の高い者を選抜した部隊で、マリアナ沖海戦の時の空母よりずっと強いとされ、乾坤一擲の戦果を期待されていた。
作戦開始日、鹿児島の鹿屋基地より海軍爆撃機「銀河」や艦上攻撃機「天山」が出撃し、陸軍からは陸軍爆撃機「飛龍」が出撃した。
この大航空兵力に、上層部の誰もが勝利を信じていたのだが、実際は訓練の成績がいいだけの実戦経験過小の者が多数であったのが災いした。
日本軍の航空機は訓練通りに敵艦隊の目前に出現したが、夜戦にもかかわらず最新エレクトロニクスで統制された激烈な対空砲火を浴びることになった。
銀河や飛龍すら一瞬で火達磨にする対空砲火に、瞬く間に被害は激増した。初日だけで90機あまりの航空機がアメリカ海軍に襲いかかったが、実に54機が海の藻屑と消えた。
原因は、低く垂れ込めた雲によって照明弾が効果をほとんど発揮しなかっためと、あまりの対空砲火でパイロットが認識するよりも早く乗機が粉微塵にされるなどである。


翌日の10月13日、アメリカ海軍は前日(1,378機出撃)に引き続き、947機の攻撃隊を台湾の新竹に展開させ空爆させた。
しかし、第38任務部隊の司令官であったマーク・ミッチャーは全ての飛行場を壊すのは困難であると述べている。


14日、第3艦隊は日本軍機が更に集結しつつあることを把握した。台湾への空爆はこの日も行われたが、早めに切り上げたため出撃した機体は146機と大幅に減少した。
日本側は前日の攻撃による敵艦隊の消耗を察知した(というよりは、消耗させたと思いこんだ)ため、航空機380機で昼間に総攻撃を仕掛けた。未熟な兵ばかりの日本機は針の筵どころか、スコールと表現される激烈な攻撃に晒されると為す術もなく撃墜され、結局380機中244機撃墜という大損害に終わった。
アメリカ第3艦隊はこの日をもって台湾への空襲を終え、第7艦隊のレイテ島上陸を支援するために14日夜にはフィリピンに南下を始めた。更に艦艇は2つのグループに分かれて第1群を残して他は皆フィリピンへと移動を始めた。


15日以降、日本の航空隊は再三再四攻撃隊を送り込んだものの、部隊単位で壊滅するなどの損害が増える一方だった。ところが、航空隊を通して大本営に寄せられる戦果は華々しいものであり、空母だの戦艦だのを撃沈したとの報告が次々と舞い込んだ。
多くの将兵はもちろん、作戦を指揮した海軍の司令官から普段は不仲な陸軍までもがこの戦果に心を躍らせた。


かくして、台湾沖航空戦は16日の夜で終了した。その3日後には寄せられた搭乗員の報告を元に総合戦果が報じられたのである。
それは、空母11隻を筆頭に戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻を撃沈し、空母8隻・戦艦2隻・巡洋艦4隻・駆逐艦1隻・艦種不詳13隻を撃破。敵機を112機撃墜するという過去類を見ない、日本海海戦以来の大戦果だったのである。



その後


この結果には全国が驚喜し一般国民はもちろん総理大臣や各参謀、司令長官、天皇陛下までもが次々と喜びの声を上げた。
祝賀会も開かれ、ついにはこの海戦を謳った軍歌まで創られたのである。
陸軍の面々に至っては、この戦果を受け入れるが否や「アメリカの艦隊は壊滅した。今や敵は飛行機を飛ばせない。」と判断してルソンからレイテに巨大な防衛陣地を編制するため輸送船を繰り出すことになる。



実際の損害



さて、実際の戦果はというと、用兵側が喧々諤々となって顔面蒼白になる散々な有様であった。
沈めたはずの空母は1隻もなかったのだ。空母1隻を小破させ、巡洋艦各1隻を大破させただけに過ぎなかったのである。航空機に至ってはわずか89機のみというあまりにも過酷な状況。
ただし、日本側の312機の損害は間違っていない。大本営発表といえば現在にも過大発表の代名詞として知られているが、今回は本当に航空隊要因から寄せられた結果をそのまんま表示した結果こうなったため、いうなれば大本営自身も被害者である。
しかし、これが後世に『大本営ほど信用出来ないものはない!』と罵られる結果の代名詞として残ってしまった。
なぜこうなったかは様々な理由がある。


  • 1:敵の対空砲火の強化・状況が夜戦
参加していたアメリカ海軍のエセックス級空母やインディペンデンス級空母は戦訓や技術改良で対空兵装を充実させており、完成時の時点で既に近づくのが容易ではなかった。
実際、米軍の火力はマリアナ沖海戦を契機に大幅な増強がなされており、開戦当初は散発的に撃たれていた砲火は弾のスコールと化していた。
これでは国力と技術力の限界で貧弱にならざるを得なかった日本機が歯がたたないのは自明の理であった。
また、夜戦では視界の制限などにより戦果確認がしづらく誤認が発生しやすい状況であった。


  • 2:真下にある炎を敵艦が燃えていると誤認した
いかに大型艦といえども、大空から見下ろすと豆粒のように小さくなってしまう。
まして日本軍は夜戦を仕掛け照明弾を頼りに目標を探したため、魚雷や爆弾を投下しても当たったか外れたか全くわからなかった。
仮に高度数十メートルで飛べば敵艦が燃えているかいないかを判断できる。が、実際の日本機は対空砲火を避けるために高高度から攻撃をしており、真下にあるものが敵艦か飛行機かの区別がつかなかった。そのため、燃えている炎を見ると何でも敵艦が燃えていると誤認した者が多かった。


  • 3:敵機が高度を下げたのを撃墜と判断した。
飛行機は激しく機動するためどういう状態なのか判断しづらい。夜中なら尚更である。
日本側は敵機が急降下するのを見て撃墜したと判断した、煙を吹いたので安心したなどの証言が残されている。


  • 4:なにもかもがプラス思考
戦力の中核を担うはずのベテラン搭乗員をほぼ失ったと言うことは、敵の被害について的確な判断ができる人もいないという事である。
未熟な日本兵は2や3の誤認を繰り返し、「撃破した」・「撃沈した」との報告を繰り返した。常日頃の雷撃訓練で慢心していたことも大きい。


  • 5:日本機の電子戦能力の不足
アメリカではこの時期、夜間での戦闘や偵察のために戦闘機にレーダーを搭載し始め、攻撃機を改装した早期警戒機までもが現れ始めていた。
しかし日本軍は海軍がレーダーを『闇夜の提灯だよ!』と疎んじていた影響で、海軍のレーダー技術レベルは大きく立ち遅れており(皮肉にもその大本の技術は日本人が確立させたものであった)陸軍のほうが実は先進的で、ドイツ軍から最新エレクトロニクスとレーダーを導入し、国産化も進めていた有様であった。(本土防空の任は本来は陸軍の任務なので、当たり前であるが)
一方の海軍は電探研究が本格化したのは1940年前後であり艦艇への搭載は現場からは対空用などに早期に実用化してほしいと要望されていたが、艦艇での運用はミッドウェー海戦前に伊勢で試験運用が始まった所であった。シンガポール攻略時に捕虜からなんで八木アンテナはお前らの国の人間が作った技術なのに知らないの?と言われる話もあったとされ、その性能レベルはお粗末。1940年のバトル・オブ・ブリテンで使われた初期型程度しかないという現状だった。
しかも単発戦闘機に積めるほど小型化は遅れ、H-6型電探の実用化は大戦後期であり、夜間戦闘機の月光や攻撃機の銀河に積んだレーダーの信頼性は乏しかった。しかも現場でかってにレーダーを『使い物にならん!』と防弾装備共々外してしまうという行為が横行していた。(メーカーに文句言われて初めて気がついた上層部と、飛行性能向上を信仰する現場で責任のなすりあいになったという逸話も残されている。
ちなみに当時にメーカーで開発を担当していた技術者が後に自伝などで恨みつらみを書き、その結果、後の世の一般人に『日本軍は精神論至上主義』と認識されてしまった顛末がある。当事者は出来る範囲で確かに努力は払ったのである)



その後の動き


日本軍は搭乗員の救出と残存艦艇の掃蕩を第5艦隊に命じて出撃させたところ、搭乗員を回収するさなかで偵察機が事もあろうに航行している米艦隊を捕捉してしまった。しかも前よりすごく増えてる!という陣容であった。
この時は戦果を各方面に伝えて間もない頃。士気を保つため、あるいは面子を保つため、本当の戦果は握りつぶされてしまった。
勝ちたいと思う気持ちが先走った末に生まれた典型的な誤報であった。


しかし、ここから後味の悪いところである。


誤報が発覚した時点で海軍は陸軍に事実を伝えなければならない。
陸軍はアメリカの艦隊が壊滅したのだからフィリピンの防衛計画の変更を検討している。だからこそ伝えなければならない、はずなのだが、なんとこの事実を陸軍に一切伝えなかった
陸軍と海軍の不仲は亡国を招くほどであった。戦後に槍玉にあげられるのは陸軍であるが、諸悪の根源は陸軍だけではないということである。
陸軍は事実を知らないでルソンからレイテに戦力を移動。その過程で兵員や装備に大きな打撃を受けた部隊も発生した。
そこへ壊滅したはずのアメリカ軍が上陸してくるわけだが陸軍は台湾沖の敗残兵と考えていたという。
果たして無数の無傷の空母と艦載機、戦艦群に囲まれた陸軍は制空権・制海権を握られてしまい、数十万単位で戦死する血みどろの戦いを繰り広げ、日本軍の戦争継続力を絶望的に落ち込ませる結果を産んでしまうのだ。


なお、この大誤報はアメリカ側にも深刻な打撃を与えた。戦果を聞いた投資家達は大混乱を引き起こしニューヨーク株式市場の株価を暴落させるに至った
これが台湾沖航空戦が日本にもたらした数少ない戦果だった。この際にホワイトハウスは『日本の発表は絶対に真実でない!!」と声明を出すほどに驚いたとのこと。





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最終更新:2024年02月13日 18:27