ロベルト・エンケ

登録日:2015/06/13 (土) 21:25:35
更新日:2024/04/03 Wed 16:20:58
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ゴールキーパーは、他とは違う生き物なのだ。

毎試合カメラに収められ、失点シーンは何度もリプレイが繰り返される。

ゴールキーパーは、その道を極めるため、自分なりに精神状態をコントロールする必要がある。

シュートを止めるだけでは、やっていけないのだ。

ゴールキーパーは、常に完璧という不可能を追い求めている。




───2012年9月放送の『Foot!』で紹介された言葉


ロベルト・エンケ(Robert Enke,1977年8月24日-2009年11月10日)は、ドイツ(旧東ドイツ)出身の元サッカー選手。ポジションはGK。


プレースタイル

ドイツのGKと言えば、かつてはオリバー・カーン、イェンス・レーマンといった激情型タイプの印象が強かったが、エンケは正反対の冷静なタイプ。
当時若手のレネ・アドラー、マヌエル・ノイアーの存在感もあって、どちらかというと彼は地味だった。
派手さがないのでメディアから頻繁に取り上げられる選手でもなかった。
が、選手や監督など、同業者たちからの評価は抜群に高い選手だった。

動作の俊敏さ、守備範囲の広さ、そして持ち前のクレバーさ。エンケはどれをとっても超一流だった。
さら足元のテクニックも優れ、時折参加していたミニゲームではフィールドプレーヤー顔負けのテクを披露したことも。
何より特筆すべきは、極限レベルの状況においても常に冷静さを保っていられるほどのメンタルの強さ。
また、ドイツ人GKとしては珍しく、海外経験が豊富だった。
下記のような数々のつらい試練を乗り越えてきたからこそ、代表正GKまで上り詰めることができたと言っても過言ではないだろう。


しかし……


経歴

若手時代

精密機械メーカーとして世界的に有名なカール・ツァイスの地元イェーナ出身で、祖父母の家の庭でサッカーを始めた。
地元の小さなクラブでサッカーを始めるとめきめきと頭角を現し、1995年古豪カール・ツァイス・イェーナ*1に入団。
その年の11月11日、後に彼の最後のクラブとなるハノーファー96戦でブンデスリーガ(2部)デビュー。
96-97シーズンには、1部リーグのボルシア・メンヒェングラッドバッハ(ボルシアMG)に移籍。
最初の2シーズンは控えに甘んじたが、3シーズン目にレギュラーGKの座をゲット。32試合出場を果たした。

ボルシアMGは99年に降格してしまったが、その年ポルトガルリーグの名門ベンフィカから移籍の声がかかる。
かつてボルシアMGで8年監督を務めていた名将ユップ・ハインケス*2が監督に就任、新チームのGKとして若きエンケに目をつけたのだ。
ハインケスの当初のアイデアではエンケを控えキーパーとしてベンチにおき、徐々に経験を積ませようというものだった。
だがエンケはプレシーズンでの予想外の大活躍で、シーズン開始と共にスタメン出場となった。
エンケは期待に応え、シーズンが始まってから最初の5か月間で実に4回のPKを止めている。
翌シーズンはさらなる成長を遂げ、最終的にポルトガルリーグの最優秀選手に選ばれる栄誉にも輝いている。
加えて、当時のベンフィカは在籍した3シーズンで3回も監督が変わったり、選手への給料の遅配など様々な問題を抱えていた。
そんな中でキャプテンを任されたり、マンチェスター・ユナイテッド*3アーセナル、アトレティコ・マドリーといった名門から注目されていたというのだから、
いかに活躍したかが窺えるであろう。
02年、最終的に移籍したのはスペインの名門FCバルセロナ

……だが、この移籍が彼を生涯にわたって苦しめるきっかけになるとは、誰にも予想できなかったことであろう。
02-03シーズンのバルサ、その後迎えた黄金期からは考えられないことだが、当時は暗黒期のただ中にあった。
さらに言うと、ベンフィカと契約を結んだ直後、突然パニックに襲われ行方をくらますという、後の悲劇の予兆を見せていたのである……


バルサでの挫折~不遇時代

結局、バルサでプレーしたのはわずか4試合。ポジション争いに敗れ、在籍期間中は常にロベルト・ボナーノの控えGKに甘んじていた。
特にデビュー戦となった国王杯ノベルダ戦は、彼のその後の運命を決定づけたと言える。
前半に幸先よく先制したものの、後半に入ると思わぬ展開に。
後半13分、FKのチャンスをつかんだノベルダがゴール前に飛び込むアントニオ・マドリガルにセンターリング。
彼をマークしていたミハエル・ライツィハーを振りきりゴール。ノベルダが同点に追いつく。
そして6分後、今度はフランク・デ・ブールの決定的なミスによりマドリガルに再びゴールを許し逆転に追い込まれる。
PKを得て2-2としたバルサだが、今度はデ・ブールとエンケのミスによりまたまたマドリガルにヘディングを決められ再逆転。
この失点に至っては、誰がどう見ても明らかに何とかできたであろう失点だった。
こうしてバルサは、ゴールがオフサイドとなる不運もあったとはいえ、無名クラブの選手にハットトリックをかまされまさかの敗戦
さらにこのクラブ、当時リーグ戦で2試合を消化したところで獲得したゴール数わずか1点、失点7の3部リーグ最下位

試合後バッシングの嵐だったのは言うまでもないが、デ・ブールはインタビューにおいて主将としてあるまじき発言をする。
あろうことか、自分のミスを棚に上げてチームメイトのエンケに敗戦の責任をなすりつけたのである。

最初のゴールはライツィハーがあまりよくなかったことが原因だと思う。
しかしもっと悪かったのはキーパーのエンケだ。彼は飛び出してあのゴールを防ぐべきだった。
2点目のゴール、あれは相手の選手がうまいこと自分を抜いていってゴールを決めたと思っている。
そして3点目、あれは明らかにエンケのミスだった。あれは取らなくてはいけないゴールだった。

もちろん、何てことのないシュートを決められたエンケの責任は大きいが、それは本人が一番自覚していること。
エンケにとってはまさに傷口に塩を塗り込まれたようなものだっただろう。
さらにデ・ブール、試合前には「カテゴリー下のチームとの試合はモチベーションを高めるのに非常に難しい」とまで発言していた。
ノベルダは3部とはいえ、あまりにも相手を見くびった発言である。
キーパーコーチのフランツ・フックも、そして監督であるルイス・ファン・ハールもその存在さえ知らなかったエンケ。
彼がうつ病を患ったのは、この出来事がきっかけだったという。
後にエンケは、バルサ時代を「欧州でもっとも難しいGKのポジション」、「思い出は今も僕を苦しめる」と振りかえっている。

翌年、出場機会を求めてトルコのフェネルバフチェにレンタル移籍。
しかしここでも試練が襲いかかる。
結局出場したのはわずか1試合で、その試合も0-3で大敗した。
怒り狂ったファンは試合中にライター、空き瓶、石などを投げ付け、敗戦の責任を押し付けた。
これにはエンケも「なんてひどいクラブなんだ。ここにはカオスしかない」と怒りをあらわにし、すぐさまクラブへ辞めることを告げた。
エンケはその後しばらく失業状態になった。この時の経験を、彼はこう語っている。

サッカー選手が失業するのって、電気工事の人やパン屋の人が職を失うのとはまるで意味が違うんだよ。
寂しさ、つらさ、悲しさは多分彼らの失業とは比べ物にならない。再就職を許されず、自分の価値がゼロだと思い知らされるわけだから。

それでもなお、2004年1月にはスペイン2部のテネリフェへレンタル移籍。この小さなクラブで活躍した後ドイツへ帰国。
ハノーファー96に入団して5シーズンぶりにブンデスリーガへ凱旋したのである。


ハノーファー96時代

ここでは水を得た魚のごとく正GKに定着してついに成功を収め、kicker誌による04-05シーズンのブンデスリーガ最優秀GKに輝き見事復活を遂げた。
その後も安定感たっぷりのプレーで、07-08シーズンにはチームメイトによって主将に選出され、
08-09シーズンは所属クラブが11位だったにもかかわらず、再びkicker誌のベストイレブンに選出された。
代表では、EURO2008以降正GK候補となり、欧州予選では5試合に先発、そのうちの4試合を完封した。
まさに順風満帆そのものに見えるが、人生最大の悲劇に見舞われたのもこの時代であった。



最愛の娘ララちゃんを2006年9月17日に心臓病で失ったのである。享年2。



彼女は先天性の左室形成不全で、生まれながらに心臓に重い欠陥を抱えていたのだ。*4
生き延びるためには成功率わずか5%の手術を生後1年の間に3度受けなければならなかった。つまり、ほぼ助からないレベルの難病。
さらにこの子は、なかなか子供が生まれない中でやっと授かった子だった。
それだけに生まれた喜びも大きかったはずなのに、運命はあまりにも残酷だった。
おそらく、わが子の成長を毎日薄氷を踏むような思いで見守っていたのではないだろうか……

悲しみと絶望のどん底にありながらも、エンケは週末の試合に出場。
プライベートと仕事を完全に切り離し、懸命に闘い続けるその姿を見て、世間は「プロの鑑」と絶賛した。
だが、人間そう簡単に割り切ることなどできないものである。
エンケは当時の心境をこう振りかえる。

悲しみと絶望で、何かをやっていないと気が変になってしまいそうだった。
実戦から離れれば離れるほど、復帰するのが難しいことは分かっていたから、なりふり構わず出場したんだ。
でも、最初の半年間はずっと娘のことを思いながらプレーしていた。
今でも、当時どうやってボールを止めていたのか分からないんだ。
まるでロボットみたいに無意識に動いていたんだろうな。

……あまりにも悲壮すぎて何て表現したらいいのかわからない。
ビッグクラブからのオファーに乗らなかったのも、娘の眠る墓地のあるハノーファーから離れたくなかったためであった。

2009年5月には当時生後2か月の女の子ライラちゃんを養子に迎える。
その子にもわが子同然の愛情を注いでいたエンケだが、自分の病気が周囲にばれたら親としての養子権を失うのではないか、
娘に知られたらまた失ってしまうのではないかとの恐れが常に付きまとっていた。

「僕の頭の中を30分体験してみなよ。なぜ僕がおかしくなるかわかるから」と妻に語るレベルまで追い詰められていたエンケ。
しかし、自分がうつ病である事実は妻と代理人、主治医以外に対しては徹底的に隠し通していた。*5
弱みを見せたらあっという間に蹴落とされてしまうプロスポーツの世界に身を置いていたのだから、必死に隠したくなるのも無理はない。
ましてやエンケのポジションはGK。出場枠が一つしかない上、たった一度のミスでも失点、ひいては敗北に直結する……
極度のプレッシャーと病の中で、彼は神経をどんどんすり減らしていった。


───決定的な悲劇が訪れる時は、刻々と近づいていた。


そして来る日

2009年11月10日の朝。エンケはいつものようにライラちゃんにキスをして、妻にじゃあねと言って家を出た。
チームの練習に出て、いつも通り6時過ぎには戻るから、と。
しかし暗くなっても、エンケは帰ってこなかった。携帯電話も全くつながらない。
心配になったテレサ夫人はGKコーチに電話した。
「今日の練習の後、うちの人は何時ごろ帰れるでしょうか?」
電話の向こうに重い沈黙があった。コーチは言葉を選ぶように、注意深く言った。
「今日は……練習はありませんでした」

午後6時過ぎ。エンケの車は、自宅から2.5キロほど離れたアイルベーゼ地区の踏切からわずか10メートルしか離れていない小道に停めてあった。
車のドアには鍵さえかかっていなかったという。
車から降りたエンケはそのまま線路の中へと歩を進めていき……その先にはブレーメン行きの急行列車の姿が見えた。
そして……!
数分後、ドイツのテレビ各局は一斉に臨時ニュースを流した。




ドイツ代表GK、ロベルト・エンケ氏が列車に飛び込み死亡しました




この一報に、文字通りドイツ全土が悲しみに打ちひしがれ、涙した。彼は娘の墓からわずか200メートルの場所で斃れていた。
代表のメンバーがこの訃報を知ったのは11月14日のチリ戦へ向けて合宿をしていたときであった。*6
この知らせを聞かされた選手たちはとても試合に臨めるような精神状態ではなく、親善試合はキャンセルされることに。

キーパーとしての実力だけでなく、優れた人格者であったことも、人々の悲しみに拍車をかけた。
娘を失ってからは、病気や障害を抱えた子供たちの支援に取り組み、
サインを頼まれればどんなに時間がかかっても、待っている子みんなに書いてあげていた。
テネリフェ時代にはポジション争いのライバルたちに、スポンサーによる特注のグローブを8セットもプレゼントしている。
下位リーグでプレーし続けていた彼らにとっては、到底手の届かない代物である。
他にも、元シュツットガルトの守護神、スヴェン・ウルライヒが若手時代、試合でミスをして監督から公の場で批判された時も、
一度しか話をしたことがないにもかかわらず、すぐさま励ましの電話をかけていた。
まさに子供たちや選手にとって、手本とすべき選手だったのだ。
また、動物愛護の面からも評価されており、ベンフィカ時代から捨て犬を何頭も拾って飼っていた。
あるスポーツ紙はその人柄を「他人の支援には積極的だったが、自身へ差しのべられた救いの手には見向きもしなかった」と評し、死を惜しんだ。

遺された遺書には家族や周囲に対し、病状が改善されたと偽っていたことと、それが自殺の計画に必要だったことをわびる旨が記されていたという。
テレサ夫人は、涙をこらえながら語った。

このことを公にしないよう隠しているのは難しいことでした。全てを失うことを恐れていた彼の希望だったのです。
今になって思えば、これは尋常でないことでした。
うつ病との闘いは簡単ではありませんでしたが、私たちは医師の力添えもあって、バルセロナ、イスタンブールと乗り越えてきました。
娘のララの死後も共に戦い、愛情があれば全て乗り越えられると思っていましたが、常にそうとは限らなかったのです。
フットボールが全てではなく、人生には多くの素晴らしいことがあり、今は娘ライラが、以前はララがいた。助け合えば、何事も解決策がある。
彼に病院の助けを借りることも話しましたが、事が公になりライラを失ってしまうことの恐怖から、それを受け入れることはありませんでした。

悲劇の最中、行動をいち早く移したのはハノーファーのサポーターたちだ。
訃報からわずか数分後には、本拠地AWDアレーナは明かりを燈したろうそくを持った数百人ものファンが集結。
やがてその数は瞬く間に増えて、3万5千人まで膨れ上がった。

自殺から5日後にはそこでエンケの告別式が執り行われた。
そこにはドイツ代表のメンバー、ハノーファーのチームメイト、ユルゲン・クリンスマン元代表監督、
ドイツサッカー界のレジェンドであるフランツ・ベッケンバウアー、シュレーダー元首相といった錚々たる顔ぶれが列席。
ドイツで一人の人間の死をこれほど悲しんだのは、1967年アデナウアー元首相が死去した時以来のことだった。
皆が涙と共に見守る中、司祭の話で始まった式で、ハノーファーのマルティン・キント会長が語り掛けた。

このスタジアムで我々のハートをつかんだロベルト・エンケは、もう二度と戻ってこない。
君は真の意味でナンバーワンだった。だからこそ、我々の心はこれほど痛んでいる。
ロベルトはサッカーにも、真心や温かさがあることを示してくれた。
だが、病が彼の心を打ち砕き、ひどいやり方で、彼を家族、仲間、スタジアムからさらっていってしまった。
どうしてこんなことになってしまったのかという問いが頭を回り続けているものの、答えを見つけられずにいる。
ロベルトが我々の一員であったことは贈りものであり、幸運だった。
だが、残念なことに、あまりにも短すぎた。これからも我々の心に君は生き続ける。

式の後、エンケの亡骸を収めた棺はハノーファーのチームメイトたちにスタジアムの外へ担ぎ出されていった。
そして棺はララちゃんの墓の隣に寄り添う形で埋葬され、彼は永久の眠りについたのである。


その後のエピソード

〇そのシーズンのハノーファーの成績はエンケの死後一気に下降線を描き、12試合で勝ち点1という深刻な大不振に。
控えGKだったフローリアン・フロムロヴィッツがゴールを守ることとなるが、
2010年1月に監督に就任したミルコ・スロムカ監督が水面下で新しいGKの獲得に動いていたことが発覚。
選手たちがこれに反発してチームは崩壊状態に陥り、あわや降格寸前に。
ちなみにフロムロヴィッツはその後、各チームを転々とした後、膝の怪我もあり2017年に現役引退した。

〇カーン、レーマンの後混沌としていた代表の正GK争いはアドラーの負傷も加わり、最終的にノイアーが南アフリカW杯の正GKとなった。
南アフリカ大会で優勝こそならなかったが3位入賞。ブラジル大会でついに世界最高のGKの称号を得たのは、みなさん御存じの通り。

〇ニーダーザクセン州とハノーファーは、エンケのことを忘れないためにロベルト・エンケ記念館を協力して設立。
さらにハノーファー市とクラブは、スタジアムまでの通りに「ロベルト・エンケ・シュトラーセ」と名付けた。

〇2011年エンケと親交のあったスポーツジャーナリスト、ロナルド・レングによる伝記『A Life Too Short:The Tragedy of Robert Enke(短すぎた命:ロベルト・エンケの悲劇)』が出版され、
英ウィリアム・ヒル・スポーツブック賞に輝いた。
日本でも2018年12月12日に『うつ病とサッカー 元ドイツ代表GKロベルト・エンケの隠された闘いの記録』というタイトルで邦訳が出版された。
この本で、うつ病に苦しんだ時期は03年と09年の夏以降と明かされている。
再発の決定打になったのは、国内カップ戦で4部リーグの格下トリーア相手に敗れたこと。
つまり、彼にとっては因縁のノベルダ戦の再来だったことになる……

〇サッカー選手の代理人の活動を描いたドキュメンタリー映画『Spielerberater(ドイツ語で代理人の意)』にエンケの代理人であったヨルグ・ネプルングが出演。
元代表GKティモ・ヒルデブラントの代理人も務めていた彼は、映画の中で「自分がエンケの代理人をしていたことを知ると、相手がはっとしたりする」と語っている。

〇エンケの死後、うつ病に罹患していることを告白したアンドレアス・ビアマンという選手も、2014年自ら命を絶つことになった。
それまでにも3度の自殺を試みていたという。

〇テレサ夫人は2014年、うつ病がタブーでなくなってきていることを述べつつも、スポーツ界だけでなく社会全体でサポートする必要があることと、
スポーツ選手はうつであることを無理に公表する必要はなく、サポートは内部でする必要があることを主張している。

〇2015年9月、元ドイツ代表DFペア・メルテザッカーが「究極のイレブン」を選出する動画が公開された。
メルテザッカーがゴールキーパーのポジションに選出したのは他ならぬロベルト・エンケ。
彼らはドイツ代表だけでなくハノーファーでも2004~06年にチームメイトであった時期があり、メルテザッカーのエンケへの思い入れが深いことを窺わせると同時に、
エンケの活躍と悲劇を知るサポーターにとっても感慨深いエピソードであると言えるだろう。


総括

結局何が、ここまで彼を追い詰めてしまったのか?
バルサから続いた不遇時代?娘を病で失ったこと?
自殺の直接の原因になったもの、それは誰にもわからない。


ただ、屈強な体と精神、恵まれた才能を持ち、極めて厳しい競争社会を生き抜いているスポーツ選手も、私たちと同じようにミスをするし、
悩みや弱みを持った人間であることは決して忘れてはならない。
ジャンルイジ・ブッフォンアンドレス・イニエスタ、ヘスス・ナバス、マイケル・キャリック、セバスティアン・ダイスラー、アドリアーノといった有名選手もうつなどの精神の病に苦しみ、
シャルケの監督やRBライプツィヒのSDの経験を持つ鬼才ラルフ・ラングニックはシャルケでの監督時代バーンアウト(燃え尽き症候群)で休業に追い込まれたことがある。
前述のメルテザッカーもまた、長年大きなプレッシャーに苦しみ、出場した600を超えるほとんどの試合前に吐くなどの体調不良に見舞われ、
ベンチかメンバー外になると安堵するまでに追い詰められていたことを明かしている。
FIFPro(国際プロサッカー選手協会)によると、現役選手の38%、元選手の35%が鬱または/かつ不安障害に苦しんだという。


心の病は、誰の身にも起こり得ることなのだ。


最後に、ドイツサッカー協会のテオ・ツバンツィガー会長(当時)の弔辞でこの項目を締めくくろう。

サッカーが全てではないし、決して全てであるべきではない。
我々に与えられた生は多様なもので、生きるに値するだけのものだ。
我が子が代表になれるかもしれないと考えたとき、そこにある光の面だけでなく、人間の中にあるもの、弱さや不安についても考えてほしい。
サッカーが人生の大きなものであってもいいが、全てを引き換えにしてしまうものであってはならない。
サッカーは人生の強力な一部分になり得るが、そうするためには記録ばかり追いかけていてはならない。
真のトロフィーはピッチ上で勝ち取れるものではなく、さらに言えばこの世で勝ち取れるものでもないのだ。
私は今週ハノーファーで本物の謙虚な姿勢、そして他者を敬う気持ちを感じることができた。
いずれも、ロベルト・エンケが生前大切にしていたものだ。


追記・修正は、彼の冥福を祈りながらお願いします。


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最終更新:2024年04月03日 16:20

*1 1981年にはローマ、バレンシア、ベンフィカといった強豪を倒してカップウィナーズカップ準優勝

*2 12-13シーズンにはバイエルンで三冠を達成した

*3 しかしこのオファーは控え前提の物だったため、最初からゼロのスタートでスタメンを競うのが筋と考えていたエンケはすぐに断った

*4 ララちゃんにはその他にも、聴覚障害や、ターナー症候群という染色体の異常があった

*5 スポーツ系の心理療法士だった父親は息子の異変に気付き心配していたが、立場上関わることができなかったという

*6 エンケは秋にカンピロバクター症を患ったためメンバーから外れたと発表されたが、実際は出場できる精神状態ではなかったため、かかりつけの精神科医やハノーファーのチームドクターと相談のうえで、感染のために出場辞退とドイツ代表サイドに伝えていた