オタモイ遊園地

登録日:2016/05/10 (火) 00:40:05
更新日:2020/09/30 Wed 23:03:37
所要時間:約 10 分で読めます




北海道・小樽市の観光地として皆さんは何を思い浮かべるだろうか?
冬には雪あかりの路が照らされ、ロマンチックな雰囲気を生み出す「小樽運河」。
昭和の大スター・石原裕次郎ゆかりの品々が展示されている「裕次郎記念館」*1
他にもスキー場や寿司屋、数々のガラス店やオルゴール堂に美術館を挙げる人もいるかもしれない。

…が、今回紹介するのはかつてこの街に作られていた、とある遊園地の話である。
今回は帯広のドイツ王国芦別の巨大観音とは違いバブル期は一切関係ない
何せ戦前の話だからだ。

1:オタモイ遊園地、開園まで

そもそものきっかけは、富豪・加藤秋太郎が小樽の景勝地としてオタモイ*2海岸を紹介されたのが始まりである。
加藤は東京・浅草の「蛇の目寿司」という寿司屋で修行後、同店の小樽支店を任されており、料理用の鯉を卸していた業者からオタモイのことを聞いたと伝わっている。

今でこそ「札幌から近いしちょっと遠出してみようか」とか「積丹半島までツーリングに行くから途中で寄ってみよう」と、観光地としての側面が強い小樽だが、そうして栄えたのは実は戦後の話。
戦前は「北のウォール街」の異名を持つ金融や経済の重要都市で、日銀はじめ数々の銀行が支店を構えていたし*3、石川啄木・伊藤整・小林多喜二等が一時暮らした文豪の地でもあった。ただ、これといった見どころに欠ける面が否めなかったのだ。

そこで加藤は昭和7年、自ら私財を投げ打ち、白蛇弁天堂というお堂を建立。
更に10万坪の土地を購入し、収容客数130人という当時としては破格の規模を誇る弁天閣という食堂の経営も始める。
もひとつおまけに白蛇弁天洞というトンネルも掘削し…

弁天だらけじゃねえか!!弁天フェチかよ加藤秋太郎!!
*4

ともあれ、トンネルの先に龍宮閣という料亭を建設。海上から建材を持ち込み、断崖絶壁に建てられたこの建物は
1F:女中部屋(要はスタッフルーム)、大衆食堂、炊事場等
2F:宴会場(50人収容)、一般客用の部屋
3F:乙姫・浦島の間(要はVIPルーム)、上客用の部屋

と分けられており、天井には魚の絵が描かれ「清水寺を凌ぐ」とも絶賛されたそうだ。
更に800人を収容できる演芸場や相撲場を作り、来客を楽しませる事も忘れない。
2000坪の敷地には滑り台やブランコといった遊具も備え付けられ、子供から大人まで…そう、大の大人も滑り台やブランコで楽しんでいる映像が残っているのである。
うーん、今の生活からは全く考えられん…
ともあれ、当時のお金で27万円(現在の価格に直すと4億円ぐらい)という総工費をかけ、昭和11年オタモイ遊園地は完成したのだった。
http://kamokamo.net/%E5%B0%8F%E6%A8%BD%E5%B8%82-%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%82%A4%E9%81%8A%E5%9C%92%E5%9C%B0%E8%B7%A1
(『北海道バンザイ Viva Hokkaido!』消えた楽園 オタモイ遊園地 より引用)

2:開園後の盛況ぶり

交通の便の悪さを解消するため、自社製の送迎バスを運行。
毎週日曜日・祝日には演芸場で手品や民謡、落語などのイベントも開催された。
かの柳家金五楼師匠もここで公演を行った事もあるそうだが、何と入場料は無料。
5/5から11/3までの限定的な開場にも関わらず、至れり尽くせりのサービスに当時は1日数千人が訪れたという。
また、元々この地にはオタモイ地蔵が祀られており、オフシーズンには参拝に訪れる人々もいたそうだ。
それ以外にも、遊園地の屋上には航空機のために「オタモイ」の文字と共に「N↑」の表示が書かれており、帝国飛行協会から感謝状が手渡されたとのこと。

こうして経営は順風満帆に見えた。だが…

3:終焉とその後

約5年後、太平洋戦争が開戦。
日本中が「贅沢は敵」「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」等と倹約ムードが漂い、客も従業員も問わず男性達も徴兵に取られ、観光どころではなくなっていた。
加藤が経営する蛇の目寿司も倒産、小樽市が抵当に取っていた。
開園から9年後の昭和20年、ようやく終戦。
人々は復興に目を向け始め、オタモイ遊園地も唯一無事だった龍宮閣を中心に事業の回復を図ったのだが…

昭和27年、5月10日…事件は起こる。

調理場から出た火*5が龍宮閣全体に燃え移り、大火事となったのだ。
元々強風で火事が多発していた日だった事、消防車が出動するもホースが届かず手の施しようがなかった事も重なり、
誰も手を出せずに焼け落ちる様を見るしか出来なかったそうだ。

奇しくも営業開始日の前日に起こったこの事件が決定的となり一帯は廃墟と化し、
加藤は失意のうちに北海道を去ったという…。

唯一残っていた白蛇弁天堂は少し離れた場所に昭和53年に移転し、残った海岸は非公認ながら地元の若者や観光客の知る人ぞ知る海水浴場となったが、
2000年代に再び強風に見舞われ、唯一の道であった白蛇弁天洞が崩落したため立ち入りは不可能となった。
現在はかつての栄華がウソのように寂れており、心霊スポットとして紹介するHPも多い。

ただ、小樽市の博物館「小樽市総合博物館・運河館」には当時の様子を撮影したテープや店内で使われていた法被、実際に使われていたパンフレットといった貴重な資料が残されている。
興味のある方は一度訪れてみてはいかがだろうか。

また、同地には遊園地完成以前からお地蔵さまが置かれている。
盛者必衰の歴史を知る、物言わぬ証人…なのかもしれない。

追記・修正は海辺から料亭を建設してお願いします。

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最終更新:2020年09月30日 23:03
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