石川啄木

登録日2025/05/13 Tue 17:33:09
更新日2025/05/15 Thu 12:58:01NEW!
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はたらけど

はたらけど(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり

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石川(いしかわ)啄木(たくぼく)(1886〜1912)

啄木は雅号。本名は石川(はじめ)



https://img.atwiki.jp/aniwotawiki/attach/58833/17236/Takuboku_Ishikawa.jpg画像出典∶wikipedia「石川啄木」より抜粋



概説

明治時代中期〜末期の歌人・詩人。
代表作である『一握の砂』は従来の形式にとらわれない「三行分かち書き」を採用し、身近な題材を取り上げることで、短歌に新たな表現の可能性を示した。
当時の社会情勢を鋭く観察し、時代の閉塞感や矛盾を歌に反映させる一方で、言葉のもつ音韻やリズムの美しさを追求、詩人としても非凡な才能を発揮し、独自の詩的世界を構築した。

生涯

明治19年(1886)2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(ひのとむら)(現:盛岡市日戸)の常光寺(じょうこうじ)住職・石川(いしかわ)一禎(いってい)、カツ夫妻の間に一男三女の長男として生まれる。*1

出生当時、父の一禎が曹洞宗の僧侶という身分上、戸籍上の婚姻をしなかったため、母の私生児として届けられ、母の姓による工藤一(くどうはじめ)が本名だった。
啄木誕生の翌年、一家で隣村の渋民(しぶたみ)*2宝徳寺(ほうとくじ)に引っ越す。

子供の頃、身体が弱く薬の服用が絶えなかった反面、唯一の男子という事から父母から溺愛された。

明治24年(1891)、渋民尋常小学校(現:盛岡市立渋民小学校)に入学する際、母親の戸籍で入学したが、いざ過ごしてみると、父親が居るのに母親の姓を名乗る事の手間もあり、翌25年(1892)9月、戸籍上は石川家に養子に入り、石川一と名乗る。*3

明治28年(1895)に小学校を卒業する際、成績は一番であった。

卒業後、盛岡高等小学校に入学(現:盛岡市立下橋中学校)に入学、母方の親類に寄宿しながら通学、旧制中学校受験のための学習塾にも通った。

明治31年(1898)4月、岩手県盛岡尋常中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)に入学、入試の成績は合格128人中10番だった。
ここまでは順風満帆の人生であったが、ここから啄木の人生は波乱万丈を迎える事になる。

第一に文学との出会いである。2年生の時に同級生の()(とう)圭一郎(けいいちろう)から「歌(短歌)をやるなら」と先輩で同人活動をしている金田一京助を紹介して貰う。
学年が上がると本格的に同人サークルを結成して文芸活動を始めた。文芸活動に熱を上げ過ぎて授業をサボり譴責処分を受けた。

第二は後に妻となる堀合(ほりあい)(せつ)()と出会い、交際を始めた。

第三は学校中退である。替え玉試験がバレて中学を中退した。明治35年(1902)、文学で身を立てることを決意し上京。

ここから啄木のサブマリン人生が始まる。

詩人・与謝野(よさの)鉄幹(てっかん)(あき)()夫妻を訪問し知遇を得るが、職を得られず東京での生活に行き詰まり、病を患って帰郷。その後故郷で暮らしながら文芸雑誌に作品を発表し続け、少年詩人として注目を集める。明治36年(1903)12月頃から啄木の号を使い始めた。

明治37年(1904)2月3日、交際のあった堀合節子と結納。尚、定職に着かず、安定した収入の無い啄木と節子の結婚は両家から猛反発された。

同年10月31日に再び上京、明治38年(1905)5月、詩集『あこがれ』を刊行し、世間からは天才詩人と呼ばれ、将来を嘱望された。

5月末に結婚式を行うが本人はドタキャンし、新婦のみの参加となり、この行為に周囲の友人から絶縁された。

それでも6月4日からは盛岡で父母、妹、妻の5人家族で生活を始めたが、一家の扶養は啄木が負うようになる。

地方文芸誌『小天地』を主宰したが、出来は良いが売れないと酷評され赤字であり商才は無かった。

明治39年(1906)4月14日、母校の渋民尋常小学校に代用教員の職を得て、働き始めた。

同じ頃、徴兵検査を受けたがフィジカルが虚弱で免除となった。

(なつ)()漱石(そうせき)島崎(しまざき)藤村(とうそん)に刺激され、小説にも挑戦したが、酷評された。

1年後の明治40年(1907)4月、啄木は代用教員を辞めて函館に移る。妻子*4は盛岡の実家、母は渋民の隣村に住む知人に預ける単身生活だった。
函館の同人サークル・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)に詩才を評価されて誘われた。
函館商工会議所の臨時雇い、函館区立弥生尋常小学校の代用教員、函館日日新聞社の遊軍記者などで生活費を工面したが、8月の函館大火で全てを失い貧乏のドン底に。

札幌に新聞記者としての仕事を斡旋してくれる人がいて札幌に移ったが、小樽の新聞記者の方が収入が良いと聞くと、さっさと札幌の仕事を辞めて小樽に移った。
上沢直之「義理を通せよ!せめて1年」

小樽の新聞記者より釧路の新聞記者の方が収入が良いと聞くと、釧路の新聞記者に転職した。
収入は良かったし、記事の評価も良かった。
取材と称して遊郭に入り浸り、芸者にうつつを抜かし、酒に溺れて、借金漬けになったが。
啄木は田舎はイヤだ!ネオン街が恋しいと称して、釧路の新聞社を無断欠勤で退職し、そのまま函館に立ち寄り、函館時代に友人になった宮崎郁雨(みやざきいくう)に相談すると、東京への旅費を渡してくれた。明治41年(1908)4月の事である。

東京に移った啄木は、東京の文芸界に殴り込みを掛けるも小説家としての才能は認められず、朝日新聞の校正係として就職し、後に朝日歌壇の選者となり、雑誌『スバル』への参加など、文学界の発展にも尽力し、詩人、歌人として評価された。

家族を東京に招くが、妻が姑から結核を移され、憤慨して実家へ帰るなどトラブルも多かった。妻が実家に帰った事は啄木のトラウマらしく、今までの作風を全て改めたという。3カ月後、妻は帰ってきてくれた。

明治42年(1910)には第一の短歌集『一握の砂』を出版し、口語的な三行書きや鮮やかな表現技法から啄木は生活派詩人として知られるようになる。

明治45年(1912)4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町の自宅にて肺結核のため死去。満26歳。

同年に友人達の尽力によって啄木の第二歌集『悲しき玩具』、第二詩集『呼子と口笛』が出版。各方面の文学者から絶賛された。

妻・節子はその後夫の死後に次女を産むも、大正2年(1913)5月5日、肺結核で死去。啄木と節子の遺した娘2人は妻の実家・堀合家が引き取った*5

大正9年(1920)には友人たちの手で新潮社から『啄木全集』が発刊され、2800円の印税が堀合家に渡され、遺児の学費になった。

JR盛岡駅の東口駅舎には啄木の筆跡による「もりおか」の文字が掲示されているが、これは氏の原稿から文字を集めて完成させたものである。

人物


「夭逝した天才詩人」として知られ、冒頭で引用した有名な短歌の存在もあり、なんとなく「清貧な人」という印象を持たれがちな人物。
だが実際のところ私生活においては無責任で金遣いも荒ければ女癖も悪い典型的な放蕩者であり、あまり褒められた人物ではなかった……というか直球な言い方をすればクズだったこともよく知られている。
もっとも中原中也とか太宰治とか、人間的にはかなりアレだったらしい文豪というのはそんなに珍しいものでもなかったりするのだが。

一度でも 我に頭を 下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと

という短歌では、オレに一度でも頭を下げさせたような奴なんて全員死ねばいいのにという、身も蓋もない傲慢な本心が詠われている。この短歌は、滞納した家賃や借金の取り立てなどに追われ、頭を下げて詫びなければいけなかったことに屈辱を感じて作ったと言われており、ますますどうしょうもない。

浅草で娼館に入り浸る、朝から金田一を飲みに誘って連れ回し、ワリカンと言っていた飲み代を全額金田一に支払わせる……などなど、金が無いのに贅沢を好む人物でもあった。
東京に出て来てからは中学の先輩・金田一京助に良く金を借りに行き、呆れた金田一の妻が「私と啄木のどっちが大事なんだ(意訳)」と夫に迫ったり、息子・春彦からも「啄木は石川(いしかわ)()右衛()(もん)の子孫なんじゃないのか」と泥棒扱いされたりしていた様子。
借金のリストを記していて、文芸で一山当てたら返済するつもりだったんだろうが、返済された試しはない。亡くなった時点で今の額に換算すると1500万円相当とか。

給料の前借を頻繁におこなっていたり、勤務態度も悪く、無断欠勤や仮病の常習犯だったという。

日記を記していたが、内容は遊郭で遊んでいたなど、妻に見せられる内容では無かったのでローマ字で綴っていた。しかし、妻も女学校で英語を学んでいたので、啄木の死後、あっさり判読されてしまった。その挙句の果てに出版までされ、公の目に黒歴史を晒される羽目になった。*6

創作における扱い

「夭折の天才詩人」として古くからテレビドラマや映画で取り上げられることが多かったが、SNS等でクズというイメージが浸透した2010年代以降は人格面や素行の悪さをクローズアップして描いている作品も増えつつある。
演じた俳優の中には、クズ役をやらせれば日本一でおなじみ藤原竜也も名を連ねている。

ゲームでも取り扱われたことはないが、漫画『氷室の天地 Fate/school life』の作中ゲーム『英雄史大戦』で第2回募集時に作中で蒔寺楓が投稿した偉人の一人。
Fate Projectの特番『Fate Project 大晦日TVスペシャル2017』で放映されたアニメ『Fate/Grand Order × 氷室の天地 ~七人の最強偉人篇~』は蒔寺楓が石川啄木の疑似サーヴァントとしてカルデアへと召喚された。
宝具は『一握の砂』と『一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねと祈りてしこと』の二つ。
『一握の砂』は超振動によって手で触れた者を分子構造から破壊し砂へと帰す。
『一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねと祈りてしこと』は、上述の理由からくる啄木の願いが心情豊かに込められた一句から生まれた宝具で、頭を下げた相手は問答無用で爆死するチート能力。

また、それ以前のドラマCDではマキジのTRPGのキャラクターとしても登場しており、その際の能力は『東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる』の歌から、大宇宙に輝く蟹座にあるとされる積尸気ともつながり、自在に霊魂を操れるが、その代償としてのりぴー語でしか喋れなくなるという余計にカオスな設定になっている。


漫画『ゴールデンカムイ』にも登場しており、こちらもダメ人間っぷりを晒していて、永倉新八から大層呆れられていた。
しかし一応これでも現実よりはマイルドな描き方をされている。


谷口ジローの『坊ちゃんの時代』シリーズの石川啄木は、上述のクズっぷりに呆れた金田一が
「夢ばかり見るなクズ。お前はいい加減に借金生活やめて妻子を養うんだよ。俺への借金はどうでもいいから、まともになれ。」
と説教をするも啄木には馬の耳に念仏であった。
実際、史実でも金田一は全く反省の色を見せない啄木に対して匙を投げてしまった模様。もっともこれについては嫁に咎められたのも大きかったらしく、晩年には見舞いついでに金を渡したりもしているようだが。





追記せど追記せど完成せざりけり。
追記、直し願ひたてまつる。

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最終更新:2025年05月15日 12:58
添付ファイル

*1 姉2人と妹1人がいる。

*2 現盛岡市渋民

*3 一禎はカツと正式に夫婦となる。

*4 明治39年(1906)12月29日、長女京子が、妻の実家で生まれる。

*5 だがその後長女は夫と子供2人を遺し肺炎により23歳で、次女もその後を追うように18歳で肺結核により夭折したという…。

*6 啄木本人は生前、証拠隠滅のためか自分が死んだら日記を燃やすようにと妻に釘を差していたらしい。