石川啄木

登録日2025/05/13 Tue 17:33:09
更新日2025/06/02 Mon 15:05:04
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はたらけど

はたらけど(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり

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石川(いしかわ)啄木(たくぼく)(1886〜1912)
画像出典:wikipedia「石川啄木」( 外部リンク )の添付ファイル*1

石川啄木は明治時代中期〜末期の歌人・詩人。
最初の雅号は白蘋(はくひん)。 啄木はキツツキのことを指し、後述する詩人・与謝野(よさの) 鉄幹(てっかん)から勧められたという説がある。

本名は石川(はじめ)豚木ではない。



【概説】

代表作である『一握の砂』は従来の形式にとらわれない「三行分かち書き」を採用し、身近な題材を取り上げることで、短歌に新たな表現の可能性を示した。
当時の社会情勢を鋭く観察し、時代の閉塞感や矛盾を歌に反映させる一方で、言葉のもつ音韻やリズムの美しさを追求、詩人としても非凡な才能を発揮し、独自の詩的世界を構築した。


【生涯】

1886年2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(ひのとむら)(現:盛岡市日戸)の常光寺(じょうこうじ)住職・石川(いしかわ)一禎(いってい)、カツ夫妻の間に生まれる。
一男三女の長男で、きょうだいには姉2人と妹1人がいる。
幼少期は身体が弱く薬の服用が絶えなかった反面、唯一の男子という事から父母から溺愛された。

出生当時父の一禎が曹洞宗の僧侶という身分上、戸籍上の婚姻をしなかった。
そのため、母の私生児として届けられ、母の姓による工藤 一(くどう はじめ)が本名だった。
啄木誕生の翌年、一家で隣村の渋民(しぶたみ)村(現:盛岡市渋民)宝徳寺(ほうとくじ)に引っ越す。

1891年、渋民尋常小学校(現:盛岡市立渋民小学校)に母親の戸籍で入学。
だが、いざ過ごしてみると父親が居るのに母親の姓を名乗る事の手間もあり、翌年9月に戸籍上は石川家に養子に入り、石川一と名乗る。また、一禎はカツと正式に夫婦となった。

1895年に小学校を首席で卒業し、卒業後は盛岡高等小学校(現:盛岡市立下橋中学校)に入学。
母方の親類に寄宿しながら通学、旧制中学校受験のための学習塾にも通った。

1898年4月、岩手県盛岡尋常中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。
入試の成績は合格128人中10番だった。
ここまでは順風満帆の人生であったが、ここから啄木の人生は波乱万丈を迎えることになる。

第一に文学との出会いである。
2年生の時に同級生の伊東 圭一郎(いとう けいいちろう)から「歌(短歌)をやるなら」と先輩で同人活動をしている金田一京助を紹介して貰う。
学年が上がると本格的に同人サークルを結成して文芸活動を始めた。
だが、文芸活動に熱を上げ過ぎて授業をサボり譴責処分を受けてしまう。

第二は後に妻となる堀合 節子(ほりあい せつこ)と出会い、交際を始めたこと。節子の父・忠操(ちゅうそう)は岩手郡役所勤務の士族で、節子は私立盛岡女学校(現∶盛岡白百合学園)に在籍していた。出会いは堀合家に居候していた山崎 康平(やまさき こうへい)を訪ねるうちに節子と知り合う。

第三は替え玉試験がバレて中学を中退した。
そのため1902年に文学で身を立てることを決意し上京。

ここから啄木のサブマリン人生が始まる。

詩人・与謝野鉄幹・晶子(あきこ)夫妻を訪問し知遇を得るが、職を得られず東京での生活に行き詰まり、病を患って帰郷。
その後故郷で暮らしながら文芸雑誌に作品を発表し続け、少年詩人として注目を集める。
1903年12月頃から啄木の号を使い始めた。

1904年2月3日、交際のあった堀合節子と結納。
尚、定職に着かず、安定した収入の無い啄木とキチンと女学校を卒業して代用教員として生計を建てていた節子の結婚は両家から猛反発された。
同年10月31日に再び上京。

翌年5月には詩集『あこがれ』を刊行し、世間からは天才詩人と呼ばれ、将来を嘱望された。
この月末には結婚式を行うが本人はなんとドタキャン。新婦のみの参加となり、この行為に周囲の友人から絶縁された。
それでも6月4日からは盛岡で父母、妹、妻の5人家族で生活を始めたが、一家の扶養は啄木が負うようになる。

地方文芸誌『小天地』を主宰したが、出来は良いが売れないと酷評され赤字であり商才は無かった。

1906年4月14日、母校の渋民尋常小学校に代用教員の職を得て働き始めた。同じ頃、徴兵検査を受けたがフィジカルが虚弱で免除となった。同年12月29日には長女・京子が生まれた。

夏目 漱石(なつめ そうせき)島崎 藤村(しまざき とうそん)に刺激され、小説にも挑戦したが、酷評された。

1年後の1907年4月、啄木は代用教員を辞めて函館に移る。
妻子は盛岡の実家、母は渋民の隣村に住む知人に預ける単身生活だった。
函館の同人サークル・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)に詩才を評価されて誘われた。
函館商工会議所の臨時雇い、函館区立弥生尋常小学校の代用教員、函館日日新聞社の遊軍記者などで生活費を工面したが、8月の函館大火で全てを失い貧乏のドン底に。

札幌に新聞記者としての仕事を斡旋してくれる人がいて札幌に移ったが、小樽の新聞記者の方が収入が良いと聞くと、さっさと札幌の仕事を辞めて小樽に移った。
上沢直之「義理を通せよ!せめて1年」

さらに、小樽の新聞記者より釧路の新聞記者の方が収入が良いと聞くと、釧路の新聞記者に転職。
収入は良かったし、記事の評価も良かった。
まあ、取材と称して遊郭に入り浸り、芸者にうつつを抜かし、酒に溺れて、借金漬けになったが……。
啄木は田舎はイヤだ!ネオン街が恋しいと称して、釧路の新聞社を無断欠勤で退職し、そのまま函館に立ち寄り、函館時代に友人になった宮崎郁雨(みやざきいくう)に相談すると、東京への旅費を渡してくれた。1908年4月の事である。

東京に移った啄木は、東京の文芸界に殴り込みを掛けるも小説家としての才能は認められず朝日新聞の校正係として就職。後に朝日歌壇の選者となり、雑誌『スバル』への参加など、文学界の発展にも尽力し詩人、歌人として評価された。
先輩社員にあの夏目漱石が在籍。漱石は啄木に詩人、歌人だけとは勿体ないと上司に相談しており、後述する見舞い金も10円を支払うなど、見どころのある後輩とみており、葬儀にも参加したとある。

家族を東京に招くが、妻が姑から結核を移され、憤慨して実家へ帰るなどトラブルも多かった。
妻が実家に帰った事は啄木のトラウマらしく、今までの作風を全て改めたという。
その甲斐あってか、3カ月後に妻は帰ってきてくれた。

1910年には処女短歌集『一握の砂』を出版。
口語的な三行書きや鮮やかな表現技法から啄木は生活派詩人として知られるようになる。
1910年10月4日、節子が男子を出産、真一(しんいち)と名付けたが同月27日に死去。

1912年4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町の自宅にて肺結核のため死去。満26歳。

同年に友人達の尽力によって啄木の第二歌集『悲しき玩具』、第二詩集『呼子と口笛』が出版。各方面の文学者から絶賛された。

妻・節子はその後夫の死後に次女・房子を産むも1913年5月5日、肺結核で死去。
啄木と節子の遺した娘2人は妻の実家が引き取った。
だがその後長女は夫と子供2人を遺し肺炎により23歳で、次女もその後を追うように18歳で肺結核により夭折したという…。

1920年には友人たちの手で新潮社から『啄木全集』が発刊され、2800円の印税が堀合家に渡され、遺児の学費になった。

JR盛岡駅の東口駅舎には啄木の筆跡による「もりおか」の文字が掲示されているが、これは氏の原稿から文字を集めて完成させたものである。


【人物】

「夭逝した天才詩人」として知られ、冒頭で引用した有名な短歌の存在もあり、詳しくない人からはなんとなく「お金で苦労した清貧な人」という印象を持たれがちな人物。
だが実際のところ、私生活においては清貧どころか無責任で金遣いの荒い放蕩者であり、あまり褒められた人物ではなかった……というか直球な言い方をすればクズだったこともよく知られている。
もっとも中原中也とか太宰治とか、作品はともかく人間性がかなりアレだったらしい文豪というのはそんなに珍しいものでもなかったりするのだが。


一度でも 我に頭を 下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと


という短歌では、オレに一度でも頭を下げさせたような奴なんて全員死ねばいいのにという、身も蓋もない傲慢な本心が詠われている。
この短歌は、滞納した家賃や借金の取り立てなどに追われ、頭を下げて詫びなければいけなかったことに屈辱を感じて作ったと言われており、ますますどうしょうもない。

浅草で娼館に入り浸る、朝から金田一を飲みに誘って連れ回し、ワリカンと言っていた飲み代を全額金田一に支払わせる……などなど、金が無いのに贅沢を好む人物でもあった。
東京に出て来てからは中学の先輩・金田一京助に良く金を借りに行き、呆れた金田一の妻が「私と啄木のどっちが大事なんだ(意訳)」と夫に迫ったり、息子・春彦からも「石川五右衛門の子孫なんじゃないのか」と泥棒扱いされたりしていた様子。
借金のリストを記していて、文芸で一山当てたら返済するつもりだったんだろうが、返済された試しはない。亡くなった時点で今の額に換算すると1500万円相当とか。

給料の前借を頻繁におこなっていたり、勤務態度も悪く、無断欠勤や仮病の常習犯だったという。

日記を記していたが、内容は遊郭で遊んでいたなど、妻に見せられる内容では無かったのでローマ字で綴っていた。
しかし、妻も女学校で英語を学んでいたので、啄木の死後、あっさり判読されてしまった。その挙句の果てに出版までされ、公の目に黒歴史を晒される羽目になった。*2

まぁ、本人は小説家として世の中に評価されたかったのに、世の中に小説は酷評され、金を稼ぐ手段として作った詩や短歌が評価されるというのは不本意だったのかもしれない。
後述するが詐欺まがいの手紙で金を借りたのだから文才はある一方、先輩の金田一京助に指摘される様に「周りが見えない」「自分ファーストな姿勢」が人物としての大成を阻んだのかも知れない。

【啄木の金銭感覚】

啄木は借金のメモを記していて、その内訳が
渋民分∶154円
盛岡分∶283円
仙台分∶17円50銭
北海道分∶483円
東京分∶297円
不明分∶218円50銭
計∶1453円とある。

収入に関しては啄木全集などに拠れば、
1906年4月・渋民小代用教員勤務(月8円)
1907年4月・同職退職(合計104円)
1907年6月・弥生小代用教員勤務(月12円)
1907年8月・同職退職(合計36円)、函館新聞記者(月15円)
1907年9月・小樽新聞記者(月25円)
1907年12月・同職退職(合計100円)
1908年1月・釧路新聞記者(月25円)、翌月、小説『病院の窓』を執筆、原稿料22円70銭が支払われる。
1908年3月・釧路の新聞記者を退職(合計75円)
1908年11月・小説『鳥影』を毎日新聞に連載される。原稿料120円が支払われる。
1909年3月・朝日新聞に就職、校正係に就く(月30円)
同年10月、歌集『一握の砂』が出版、20円の収入。
1912年1月・見舞い金として34円40銭をカンパされる。
同年4月、歌集『悲しき玩具』が出版、20円の収入。
1912年4月に亡くなるまで、朝日新聞での総収入430円20銭。
総合計は977円30銭となる。

20歳から働き始めた啄木が26歳で亡くなるまでの勤務平均月収は11円20銭(現在なら168000円)。
生活費が足りない為、月に借り入れた金の平均が27円50銭(現在なら412500円)。
実際の生活費は38円70銭(現在なら580000円)。
先輩の金田一京助が東京帝国大学文学部卒から海城中学(現・海城中学校・高等学校)の教員で月収40円(現在なら600000円)の生活をしているから、ほぼ同じ額ではあるが•••••

歌集『悲しき玩具』の中に

何故かうかとなさけなくなり
弱い心を何度も叱り
金かりにいく

という歌があるが、彼の日記には「金を借りにいって25円も借りられた。しめしめ、次、行ってみよう!(意訳)」とある。

ある時には、妹の夫が病気で大変なんです、と妹の筆跡を真似た手紙を書いて相手の同情を誘って金を借りる、という詐欺まがいの手口まで披露している。

先輩の金田一が「あいつ、オレですら家計を思い安い煙草で我慢しているのに、最高級の煙草を惜しみも無く吸えるよな(意訳)」と少しは家族を省みろと諭したが、啄木には響かなかったそうである。


【創作における扱い】

文豪としての知名度の高さ故に創作においてもたびたび取り上げられている一方、SNS等の影響で放蕩者としてのイメージがある程度一般化したこともあってか、特に近年ではクズな一面にクローズアップした作品もよく見られるようになっている。
演じた俳優の中には、クズ役をやらせれば日本一でおなじみ藤原竜也も名を連ねている。

氷室の天地 Fate/school life

Fateの外伝漫画である本作の作中ゲーム『英雄史大戦』で第2回募集時に作中で蒔寺楓が投稿した偉人の一人。
Fate Projectの特番『Fate Project 大晦日TVスペシャル2017』で放映されたアニメ『Fate/Grand Order × 氷室の天地 ~七人の最強偉人篇~』では蒔寺楓が石川啄木の疑似サーヴァントとしてカルデアへと召喚された。

ゴールデンカムイ

北海道で記者をしていた頃の啄木が登場。CVは鳥海浩輔
こちらもダメ人間っぷりを晒していて、永倉新八から大層呆れられていた。
しかし一応これでも現実よりはマイルドな描き方をされている

〔『坊ちゃんの時代』シリーズ〕

谷口ジローの描く石川啄木は、上述のクズっぷりに呆れた金田一が
「夢ばかり見るなクズ。お前はいい加減に借金生活やめて妻子を養うんだよ。俺への借金はどうでもいいから、まともになれ。」
と説教するも啄木には馬の耳に念仏であった。
実際、史実でも金田一は全く反省の色を見せない啄木に対して匙を投げてしまった模様。もっともこれについては嫁に咎められたのも大きかったらしく、晩年には見舞いついでに金を渡したりもしているようだが。

〔『文豪とアルケミスト』〕

声:松岡禎丞 演:櫻井圭登(文劇7,8)
黄色い髪の毛をショートカットにした青年。髪の毛はところどころ赤メッシュが入っている。
服装は赤いフード付きパーカーの上に黒い上着を着ている。白と赤の腰布を巻き、黒いズボン。腰布には明星のメンバーが
つけている月と星のタッセルが付いている。

初期実装三十五人の文豪のうちの一人。武器は銃(詩歌・童話を主に作った文豪の装備)。指環で武器種を
変更すると刃(ナックル型のナイフ)になる。覚醒の指環で覚醒も出来る。
趣味は気ままに散歩すること。ヒトの愛や寂しさを描いた歌を詠うのだが本人は傲慢な俺様借金王で矛盾しているところがある。
他の文豪にも借金をしているため場合によってはいつの間にかいなくなってしまうが、憎み切れずに
愛されている。その不思議な魅力も才能であるかもしれない。

【余談】

雅号の「啄木」とは啄木鳥(キツツキ)のこと。
故郷で療養中に聞こえてきたキツツキが木を叩く音に感動し、創作意欲を新たにしたことからとったペンネームとされる。
なお、字面から「豚木」と間違われるのはある種の定番ネタ。

1996年に放送された中央出版のCMを覚えている人もいるのではないだろうか。
勉強を見てやろうとした島田紳助扮する父親が、問題集から『偉人の名前を漢字で書け』という問題を出すのだが、
いたちまさむね・いしかわぶたぎと読み上げ、子供があきれながら伊達政宗・石川啄木と記すも父は自分の誤りに気付かない
『親は当てにならない』という辛辣なテロップの後に商品を抱える子供



追記せど 追記せど猶わが項目完成せざり。
追記、直し願ひたてまつる。

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最終更新:2025年06月02日 15:05
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*1 パブリック・ドメイン

*2 啄木本人は生前、証拠隠滅のためか自分が死んだら日記を燃やすようにと妻に釘を差していたらしい。