マラカナンの悲劇

登録日:2016/06/09 Thu 19:57:48
更新日:2025/04/16 Wed 22:44:24
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刑期を終えた犯罪者も、借金を払い終えた者も許される。


だが、私が許されることは決してなかった。


ブラジルでは、犯罪を犯した場合の刑期は最長で30年だ。


私は43年間にわたって、犯してもいない犯罪の代償を支払い続けてきた。



───モアシール・バルボーザ・ナシメント


4年に1度開かれるサッカーの祭典、FIFAワールドカップ。
世界各国のスターたちが、母国の誇りと魂を賭け、培ってきた技を駆使して繰り広げる熱い戦いは、何時の時代でも全世界を熱狂の渦に巻き込む。
だが、その熱狂は、時として予期せぬ事態を招くこともある。
ここに記すのは、そんな熱狂故に起きてしまった、あまりにも悲しい事件の顛末である。

◆概要

1950年にブラジルで開催された、第二次大戦後初のワールドカップ。*1
この大会は、他の大会と異なり決勝トーナメント方式を採用しておらず、一次リーグの上位4チームによる総当りで優勝を決める仕組みを取っていた。*2
当初はヨーロッパからイングランド・スコットランド・トルコ・ユーゴスラビア・スイス・スウェーデン・スペインの7か国が、南米からはボリビア・チリ・パラグアイ・ウルグアイの4か国。
北中米からはアメリカとメキシコの2か国が、アジアからはインドが出場権を獲得していた。
そこに開催国ブラジルと前回王者イタリアを含めれば16か国となるはずだった。

ところが、スコットランドとトルコ、インドが出場を辞退。
FIFAは予選で敗退していたポルトガルとアイルランドとフランスに参加を呼びつけるも、ポルトガルとアイルランドは辞退。
出場に前向きだったフランスも、グループDの移動距離の長さを理由に結局辞退。
結果、グループ1とグループ2は4か国、グループ3は3か国、グループ4は2か国という歪な構成になっていた。


グループ1
勝ち点 得失点差 得点 失点
ブラジル 5 2 0 1 +6 8 2
ユーゴスラビア 4 2 1 0 +4 7 3
スイス 3 1 1 1 -2 4 6
メキシコ 0 0 3 0 -8 2 10

グループ2
勝ち点 得失点差 得点 失点
スペイン 6 3 0 0 +5 6 1
イングランド 2 1 2 0 0 2 2
チリ 2 1 2 0 -1 5 6
アメリカ 2 1 2 0 -4 4 8

グループ3
勝ち点 得失点差 得点 失点
スウェーデン 3 1 0 1 +1 5 4
イタリア 2 1 1 0 +1 4 3
パラグアイ 1 0 1 1 -2 2 4

グループ4
勝ち点 得失点差 得点 失点
ウルグアイ 2 1 0 0 +8 8 0
ボリビア 0 0 1 0 -8 0 8

その決勝リーグに勝ち残ったのは、初優勝を目指す地元のブラジル、ワールドカップ初代王者ウルグアイの南米2カ国に、スウェーデン、スペインのヨーロッパ2カ国を加えた計4カ国であった。
そして始まった決勝リーグは、地元のブラジルが2勝で首位、ウルグアイが1勝1分けで2位という状況で最終戦を迎え、この両国による直接対決で優勝が決まることになった。
ブラジルは勝つか引き分けで優勝、一方のウルグアイは勝つ以外に優勝の目は無いという、ブラジル圧倒的優位な情勢であった。


最終戦前の決勝リーグ順位
勝ち点 得失点差 得点 失点
ブラジル 4 2 0 0 +11 13 2
ウルグアイ 3 1 0 1 +1 5 4
スペイン 1 0 1 1 -5 3 8
スウェーデン 0 0 2 0 -7 3 10


◆両代表のこれまでの歩み


ブラジル

初戦のメキシコ戦は4-0で圧勝したが、2戦目では伏兵スイス相手にまさかの引き分け。次戦のユーゴスラビア戦で勝利しないと敗退という瀬戸際に追い詰められていた。
ところがユーゴ側は試合直前、攻撃の組み立て役のミティッチがスタジアムの地下通路で天井から突き出ていた鉄骨に頭をぶつけ、額が割れる大怪我を負う不運に見舞われる。
これにより、ユーゴは10人でキックオフを迎える羽目になった。
ミティッチは試合開始から10分後に頭に包帯を巻いてピッチに立ったが、その間にブラジルが先制。
後半24分には追加点を挙げ、2-0で勝利。大会直前の練習中に左膝を捻挫し、1戦目・2戦目と欠場した攻撃の要、ジジーニョは1得点1アシストの大活躍。
無事に一次リーグを突破した。

決勝リーグに入ると、スウェーデンに7-1、スペインに6-1の圧勝。
これにより、ブラジル中が勝ち確ムードに。ウルグアイにも圧勝すると、誰もが思い込んでいた。
実際に前年の南米選手権では、ブラジルが5-1の圧勝を収めていたので、そう考えるのも無理はなかったのかもしれない。

スウェーデン戦後、代表の拠点は閑静な郊外のジョアから主力選手の多くが在籍するヴァスコダガマの本拠地サン・ジャヌアリオの中にある選手寮に移された。
が、このことにより多くの問題が発生した。
部屋は狭くて薄暗く、工場や商店街が近所にあるため朝から晩まで騒がしい。マスコミものべつ幕なしに押し寄せてくる……選手たちはまともに休むことが出来なかった。
「優勝すれば土地や高級腕時計をプレゼント」といった申し出が殺到したが、それを受けたのは攻撃の選手ばかりで、守備側の選手との間に軋轢が生まれた。
試合当日も、大物政治家の演説を聞かされ続けたり、表彰式の段取りについて聞かれたり……

このように、圧倒的有利な状況はブラジル中に気持ちの緩みをもたらし、やがて選手たちに悪影響を与えることになる……


ウルグアイ

フランスが辞退した影響で、一次リーグの相手はボリビアのみ。
ボリビアは南米で最も遅くサッカーが伝わった国であり、実力差は歴然。試合は8-0の圧勝だった。
しかし決勝リーグではスペインに2-2の引き分け、スウェーデンに3-2の辛勝。決して楽な道のりではなかった。
少なくとも協会の役員からはブラジルに勝つことを期待されておらず、「負けても4点差までならいいからな」とまで言われていたという。

ブラジルとの試合前日、主将のオブドゥリオ・バレラはホテルに戻る途中、新聞スタンドの前を通りがかった。
どの新聞の見出しも、試合前だというのに優勝を宣言するようなものばかりだった
これを見たバレラは新聞を買い占めると、チームメイトの前でそれを見せつけた。
戦う前から勝った気でいるという、対戦相手に対し失礼極まりないブラジルの姿勢に、ウルグアイの選手たちは激怒。
バレラは新聞を破り捨てて踏みにじり、他の選手たちもそれに倣った。
しかしこれは、怒りを力に変えればブラジルにも勝てるという、バレラの計算のうちでもあった。

ブラジルにとってウルグアイは、かつて自国の領土だった。とはいえ、それは遠い昔のごく短い期間のみ。
同じ南米の大国アルゼンチンに対しては強い競争心があるが、比べ物にならないほどの小国であるウルグアイにはさしたる意識はない。
しかしウルグアイ側から見れば、サッカーはブラジルに対抗できる唯一の手段。
だからこそブラジルに対しては、アルゼンチンとはまた違った対抗意識を燃やすのである。


◆試合展開


ブラジル最大の都市、リオデジャネイロのエスタジオ・ド・マラカナンで開始されたこの優勝決定戦。
コイントスで勝ったウルグアイは、ブラジル守備陣が後半西日を受けるよう、メインスタンドから見て右から左へ攻めるサイドに陣を構えた。
この大会でここまでブラジルはコイントスで負けたことがなく、いつもブラジルが右から左へ攻めることを選んでいただけに、不吉な前触れととらえる者もいなくはなかった。
前半は両者とも無得点で折り返したが、後の趨勢を決める出来事がいくつか起こっていた。

前半6分、ブラジルの左CBビゴッジがアルシデス・ギジャをタックルで倒してしまい、主審がビゴッジのファールを取る。
「ブラジルの名誉のため、フェアプレーを心がけよう」……試合前の監督の言葉がビゴッジの頭の中をよぎる。
以後、ギジャへの対応を慎重にせざるを得なくなった。

前半28分、ギジャとビゴッジが激しくボールを奪い合った時、ビゴッジが背後からギジャを強く押した。
ギジャはパスを出そうとしたがバランスを崩し、ボールはタッチラインを割った。
これを見たバレラがビゴッジに近づき一喝。それ以降、ビゴッジのギジャへのマークが明らかに甘くなった。
……これが、試合の行方を大きく左右することに。

後半立ち上がりの2分、PAに入ったブラジルのアルビノ・フリアカ・カルドーゾが右足で低く抑えたシュートを放つ。
これがファーサイドの下の隅を襲い、ウルグアイGKロケ・マスポリの手をかすめてゴールへ。
待望の先制ゴール。20万人以上の大観衆で埋め尽くされたスタジアムは地鳴りのような大歓声に包まれ、ブラジルの初優勝への期待が俄然高まった。

だが、引き分けすら許されないウルグアイは諦めていなかった。
バレラは線審にオフサイドだと猛抗議。アデミールからフリアカへパスが出た直後、線審がフラッグを上げたのを確認していたからである。
それでも、判定は覆らない。これをを見て、バレラは早口のスペイン語でまくし立てたが、審判団にはスペイン語が分からない。
ブラジルの主将アウグストがバレラからボールを取り上げようとしたが、バレラはアウグストを怒鳴りつけ、頑なにボールを手放さない。
それは、ブラジルの勢いを止めて苛立たせ、冷静さを削ぐためのバレラの策だった。
……彼は審判団やブラジル選手、20万人以上の観客、すなわちブラジル全土を敵に回して、たった一人で戦っていた。
やがて数分に渡る抗議を終えたバレラは、チームメイトに向かって叫んだ。
「本当の試合はここから始まるんだ。絶対に勝つぞ!」

迎えた21分。
ビゴッジのスライディングタックルをかわしたギジャがゴールライン近くまで独走。
グラウンダーのクロスを入れると、ファン・アルベルト・スキアフィーノがブラジルのDF、ジュベナウが足を出すより一瞬早く右足を振り抜く。
ボールはゴール右上隅へ突き刺さり、ウルグアイ同点。
これを見て、観客たちは一斉に沈黙した。それまでの勝ち確ムードのお祭り騒ぎが嘘のように。
残り時間は24分もあり、なおかつブラジルはこのまま引き分けでも優勝だったのにもかかわらず、である。

そして13分後の34分、ビゴッジを振り切ったギジャがPAに入ると、相手GKのモアシール・バルボーザ・ナシメントがクロスを予測していることを見抜き、すぐさまシュートを放った。
角度があまりなかったが、ボールはバルボーザとゴールポストの間を正確に突き刺した。
ギジャの逆転弾が決まった瞬間、スタジアム内は再び時が止まったかのように静寂に包まれたと言われている。
この時リオ市内ではラジオ中継を聴いていた58歳の男が、ショックのあまり心臓発作を起こし、帰らぬ人となった
同じ頃ウルグアイのモンテビデオ市内では、興奮のあまり3人が心臓発作を起こし、帰らぬ人となった

ブラジルはその後総攻撃を掛けた。
もう大量得点で勝たなくてもいいから、とにかく1点取って追いついてくれ……マラカナンの観衆は、祈りじみた悲痛な気持ちで必死に応援していた。
だが、ウルグアイゴールをこじ開けることは叶わず、そのままタイムアップ。
ウルグアイ、2度目の優勝。あれだけ予期されていたブラジルの夢が、露と消えた。

ブラジルの優勝を信じて疑わなかった大観衆は、この結果を受け入れられず、場内はさながらゴーストタウンのように静まり返ってしまった。
ある者は人目をはばからず涙に暮れ、ある者は光を失った目でピッチを見つめ、ある者は文字通り精魂尽き果てた顔でその場にへたり込んだ。
この異様な雰囲気にウルグアイの選手たちも優勝の喜びを表現することができず、
正々堂々戦い抜いた後とは思えない沈痛な面持ちで優勝トロフィーを受け取り、立ち去るようにスタジアムを後にしたという。

それから時が経ち、悲しみ、悔しさ、絶望、虚しさなど、様々な感情とともに観衆は少しずつスタジアムを去って行った。
この時の大混雑で、一部の観客が倒れたり、スタンドとスタンドの間の溝に転落したりで、96人が骨折や打撲などの怪我を負い、73人が気分が悪くなって手当てを受けた。
なお、この時スタジアム内に自殺者とショックによる心不全による死者が2人ずつ出たとまことしやかに語られているが、実際の記録は残っていない。

このあまりにも悲劇的な影響をもたらしたこの一戦は、後に「マラカナンの悲劇」("Maracanaço(マラカナッソ)")と呼ばれるようになり、半世紀を過ぎた現在でも語り継がれている。

◆後日談

その1

当時のブラジルは白いホームユニフォームを着用していたが、この敗戦を忘れるために、ユニフォームを黄色に変えた。
現在のブラジル代表の愛称である「カナリア軍団」は、いわばこの試合が契機となって生まれたのである。

また、当時はまだ人種差別が激しい時代だったため、ブラジル国民の怒りの矛先はこの試合に出場していた3人の黒人選手に向けられる事になった。
とりわけ逆転を許したGKのバルボーザは、その後死ぬまで疫病神扱いされることになってしまった。*3
そして、黒人選手はGK適性があっても他のポジションにコンバートされるのが常となり、90年代にジーダが登場するまで、黒人のGKが代表に招集されることがなかった

その2

歴史的勝利を収めたウルグアイだが、状況が状況なだけに協会の役員から外出禁止令が出されていた。
しかしバレラはブラジル人がどんな反応をするのか興味を持ち、ホテルを抜け出した。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った街の中、彼は開いているレストランを見つけた。
店の中は、負けたことへのショックや苛立ちをぶちまけている客で一杯だったが、バレラは気にせずビールを注文。
すると、一人の客が店にバレラがいることに気づいた。すわ一触即発か、と思いきや……
何と客たちは、誰もが悔しさこそ滲ませつつも、ウルグアイ選手の戦いぶりを称賛し、潔く優勝を祝福してくれたのである
これを見たバレラは、心からサッカーを愛し、ライバルの優勝を称えることのできる人々を図らずも悲しませてしまったことに深く葛藤したという……

その3

試合終了後、悲しみに暮れる一人の男性を、その息子である9歳の少年がこう励ました。

「泣かないで父さん、いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」

この9歳の少年こそ、後にブラジルを3度のワールドカップ王者へ導き、「サッカーの王様」と謳われた不世出のスーパースター・ペレその人だった。

その4

マラカナンの悲劇以来、上述のペレなど多数のスター選手を輩出したブラジルはワールドカップ優勝5回を誇る名実ともにサッカー王国へと成り遂げた。
そして2014年、ブラジルでは2度目となるワールドカップが開催された。
再度の母国開催で、今度こその大会優勝を課せられたカナリア軍団は、苦しみながらも準決勝まで勝ち進んだ。

しかしそんな彼らを準決勝で待ち受けていたのは、ある意味マラカナンの悲劇以上に厳しい現実であった…



◆最後に

この一戦は、そのあまりにも悲しすぎる結末ゆえに、ワールドカップの熱狂が引き起こした悲劇として語られることが多い。
しかしながら、引き分けさえも許されない圧倒的不利な状況に置かれ、さらには20万人以上のブラジルサポーターに囲まれた完全アウェーの雰囲気の下、
決勝リーグ2試合で13ゴールを叩き出した破壊力を誇るブラジルを相手に臆することなく戦い、鮮やかな逆転勝ちで優勝を勝ち取ったウルグアイイレブンの雄姿もまた、
後世に語り継ぐにふさわしいものであったということを記しておかなくてはならない。
本気で応援して倒れたサポーターも、勝負をかけて全力でプレイした選手達も、本来なら祝福され、或いは労われるべき人々だろう。スポーツに悲劇を望む者などおそらく誰もいないのだから…。





「泣かないで父さん、いつか僕がこの項目を追記・修正してあげるから」

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最終更新:2025年04月16日 22:44

*1 当時ヨーロッパ/アジア各国は戦争の損害と後遺症によりとても開催できるような状態でなく、唯一開催地に立候補したのがブラジルだった

*2 FIFAは「カップ」の名を持ちながらトーナメント制を一切使わない本大会のレギュレーションに難色を示していたが、少しでも試合数を多くして収入を増やしたいブラジル側の強硬姿勢により折れていた

*3 94年W杯前には、チーム全員が「成功する前に呪いにかけられたくなかった」として彼に会うことを拒否した