マラカナンの悲劇

登録日:2016/06/09 thu 19:57
更新日:2024/01/09 Tue 11:24:58
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刑期を終えた犯罪者も、借金を払い終えた者も許される。


だが、私が許されることは決してなかった。


ブラジルでは、犯罪を犯した場合の刑期は最長で30年だ。


私は43年間にわたって、犯してもいない犯罪の代償を支払い続けてきた。



───モアシール・バルボーザ・ナシメント


4年に1度開かれるサッカーの祭典、FIFAワールドカップ。
世界各国のスターたちが、母国の誇りと魂を賭け、培ってきた技を駆使して繰り広げる熱い戦いは、何時の時代でも全世界を熱狂の渦に巻き込む。
だが、その熱狂は、時として予期せぬ事態を招くこともある。
ここに記すのは、そんな熱狂が引き起こした、あまりにも悲しい事件の顛末である。

◆概要

1950年にブラジルで開催された、第二次大戦後初のワールドカップ。
この大会は、他の大会と異なり決勝トーナメント方式を採用しておらず、一次リーグの上位4チームによる総当りで優勝を決める仕組みを取っていた。
その決勝リーグに勝ち残ったのは、初優勝を目指す地元のブラジル、ワールドカップ初代王者ウルグアイの南米2カ国に、スウェーデン、スペインのヨーロッパ2カ国を加えた計4カ国であった。
そして始まった決勝リーグは、地元のブラジルが2勝で首位、ウルグアイが1勝1分けで2位という状況で最終戦を迎え、この両国による直接対決で優勝が決まることになった。
ブラジルは勝つか引き分けで優勝、一方のウルグアイは勝つ以外に優勝の目は無いという、ブラジル圧倒的優位な情勢であった。
ブラジル最大の都市、リオデジャネイロのエスタジオ・ド・マラカナンで開始されたこの優勝決定戦、前半は両者とも無得点で折り返した。

迎えた後半立ち上がりの2分、ブラジルのアルビノ・フリアカ・カルドーゾが待望の先制ゴールを奪い取った。
20万人近い大観衆で埋め尽くされたスタジアムは地鳴りのような大歓声に包まれ、ブラジルの初優勝への期待が俄然高まった。
だが、引き分けすら許されないウルグアイはまだ諦めていなかった。守護神ロケ・マスポリや主将オブドゥリオ・バレラを中心に追加点を許さず、反撃のチャンスをうかがった。

そして21分、ファン・アルベルト・スキアフィーノが同点ゴールを挙げると、さらに13分後の34分、アルシデス・ギジャが勝ち越しゴールを叩き込んだ。
ギジャの勝ち越しゴールが決まった瞬間、スタジアム内は時が止まったかのように静寂に包まれたと言われている。
引き分けでも優勝が決まるブラジルはその後総攻撃を掛けたが、ウルグアイゴールをこじ開けることは叶わずそのままタイムアップ、ウルグアイの2度目の優勝が決まった。

ブラジルの優勝を信じて疑わなかった大観衆は、この結果を受け入れられず、場内はさながらゴーストタウンのように静まり返ってしまった。
この異様な雰囲気に恐れを為したウルグアイの選手たちは、優勝の喜びを表現することもできず、まるで敗者のような暗い表情で優勝トロフィーを受け取り、逃げるようにスタジアムを後にした。

一方、ブラジルの初優勝を見届けるべくスタジアムに詰めかけたおよそ20万にも及ぶ大観衆は、この信じがたい結末に打ちひしがれていた。
ある者は人目をはばからず涙に暮れ、ある者は光を失った目でピッチを見つめ、ある者は精魂尽き果てた顔でその場にへたり込んだ。
それから時が経ち、悲しみ、悔しさ、絶望、虚しさなど、様々な感情とともに観衆は少しずつスタジアムを去って行った。
そんな中、何時間経ってもスタジアムから去ろうとしない者が4人いた。
あまりのことに、帰る気力すら失ってしまったのか。
否、帰りたくても、帰ることが出来なくなってしまったのだ。
彼らのうち2人は信じがたい結末のショックに命を落とし、もう2人は悲しみに耐え切れず自ら命を絶ってしまったのである。

さらにこの後、リオデジャネイロ市内では彼らの後を追うかのように自殺者が続出したという。
このあまりにも悲劇的な結末を迎えた一戦は、後に「マラカナンの悲劇」と呼ばれるようになり、半世紀を過ぎた現在でも語り継がれている。

◆後日談

その1

当時のブラジルは白いホームユニフォームを着用していたが、この敗戦を忘れるために、ユニフォームを黄色に変えた。
現在のブラジル代表の愛称である「カナリア軍団」は、いわばこの試合が契機となって生まれたのである。

また、当時はまだ人種差別が激しい時代だったため、ブラジル国民の怒りの矛先はこの試合に出場していた3人の黒人選手に向けられる事になった。
とりわけ逆転を許したGKのモアシール・バルボーザ・ナシメントは、その後死ぬまで疫病神扱いされることになってしまった。*1
そして、黒人選手はGK適性があっても他のポジションにコンバートされるのが常となり、90年代にジーダが登場するまで、黒人のGKが代表に招集されることがなかった

その2

試合終了後、悲しみに暮れる一人の男性を、その息子である9歳の少年がこう励ました。

「泣かないで父さん、いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」

この9歳の少年こそ、後にブラジルを3度のワールドカップ王者へ導き、「サッカーの王様」と謳われた不世出のスーパースター・ペレその人だった。

その3

マラカナンの悲劇以来、上述のペレなど多数のスター選手を輩出したブラジルはワールドカップ優勝5回を誇る名実ともにサッカー王国へと成り遂げた。
そして2014年、ブラジルでは2度目となるワールドカップが開催された。
母国開催での大会優勝を課せられたカナリア軍団は、苦しみながらも準決勝まで勝ち進んだ。

しかしそんな彼らを準決勝で待ち受けていたのは、ある意味マラカナンの悲劇以上に厳しい現実であった…



◆最後に

この一戦は、そのあまりにも悲しすぎる結末ゆえに、ワールドカップの熱狂が引き起こした悲劇として語られることが多い。
しかしながら、引き分けさえも許されない圧倒的不利な状況に置かれ、さらには20万人近いブラジルサポーターに囲まれた完全アウェーの雰囲気の下、決勝リーグ2試合で13ゴールを叩き出した破壊力を誇るブラジルを相手に臆することなく戦い、鮮やかな逆転勝ちで優勝を勝ち取ったウルグアイイレブンの雄姿もまた、後世に語り継ぐにふさわしいものであったということを記しておかなくてはならない。






「泣かないで父さん、いつか僕がこの項目を追記・修正してあげるから」


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最終更新:2024年01月09日 11:24

*1 94年W杯前には、チーム全員が「成功する前に呪いにかけられたくなかった」として彼に会うことを拒否した