登録日:2024/09/07 (土) 20:20:02
更新日:2025/01/08 Wed 21:35:08
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サッカーをする子供は減る一方だし、優雅にプレーする者はいよいよいなくなった。
にもかかわらず、ウルグアイ人である限り、サッカーの戦術戦略にかけては博士と認じてやまないし、
サッカーの歴史を語らせれば右に出る者はいないとも思っている。
ウルグアイ人のサッカー熱の由来は遠く、その根の深さは今なお明々白々だ───
ナショナル・チームが試合をするたび、対戦相手がどこであろうと、国中が息をのみ、
政治家も歌手も縁日の香具師も口を閉ざし、恋人たちの愛の行為も蠅の羽音もぴたりと止むのである。
サッカーウルグアイ代表とは、ウルグアイサッカー協会(AUF)によって構成される、ウルグアイのサッカーのナショナルチームである。
愛称は「ラ・セレステ(空色)」。本拠地は首都モンテビデオにある「エスタディオ・センテナリオ」。
そして、記念すべき第1回W杯開催国にして優勝国である。
概要
あなたがもし、地図帳などで南米大陸の大国、アルゼンチンとブラジルを調べていたら、大西洋側にその両国に挟まれる形で小さな国があることに気づくはず。
そこが日本から一番遠い国、ウルグアイである。
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基礎データ |
正式名称 |
ウルグアイ東方共和国 |
首都 |
モンテビデオ |
面積 |
17万6220㎢ |
人口 |
347万人 |
主な言語 |
スペイン語 |
通貨 |
ウルグアイ・ペソ |
独立 |
ブラジル帝国より |
宣言 |
1825年8月25日 |
承認 |
1828年8月27日 |
時差 |
UTC-3(日本より12時間遅い) |
|
名前的にパラグアイと混同されがちだが、あちらは大陸の中心部に位置している。
近年では「世界一貧しい大統領」ことホセ・ムヒカ氏や、ブロンコビリーでこの国の牛肉を取り扱っていたこともあったりと、サッカー以外でも少しずつ知名度を上げているウルグアイ。
とはいえこの国を代表するものと言ったら、やっぱりサッカーだろう。
プレースタイルは伝統的に堅守速攻。ただし、アルゼンチンより守備的で、前線のワールドクラスのタレントが手数をかけずにゴールを狙う。
さらにこの国のプレースタイルの根幹にあるのが、「ガーラ・チャルーア」という概念である。
直訳すると「チャルーア族の爪」だが、これはウルグアイの地にかつて存在し、白人からの侵略に最後まで抗った先住民チャルーア族由来の不屈の精神を表す。
そのため、「ウルグアイ人は神も悪魔も恐れない」と言われる。
日本語だと「大和魂」がニュアンス的に一番近いだろうか。
そして最大の特徴は、南米で二番目に小さく、人口はわずか350万人足らずという小国でありながら、常に優秀な選手を輩出していること。
人口はアルゼンチンの13分の1、ブラジルの70分の1。さらには日本の静岡県以下。
才能の取りこぼしや無駄遣いが許されない分、国内クラブの育成組織が発達しており、選手たちへの扱いは手厚い。
具体的には、選手一人ひとりを、継続してきめ細かく指導。
学業も重視しており、心理カウンセラーによる精神面のケアも行なって、色々な角度から選手をサポートしてくれるのである。
そこから、世代別代表→A代表の強化へつなげていく。このシステムの完成度においては、アルゼンチンやブラジルですら及ばないと言われる。
しかし、サッカー黎明期に2度W杯優勝を果たし、コパ・アメリカでもアルゼンチンに次ぐ優勝15回を誇るつウルグアイだが、長年に渡って苦しんでいた時期があった。
指導者を務めている古庄亨氏がダヌービオFCでうかがった話によると、ウルグアイは小国のため、常に優勝を狙うというより、どう安定して上位に残るかに重きを置いているという。
もちろん、優勝するためには主力の年齢や対戦相手の相性など、複雑な要素が絡み合う。
それでも、安定した成績を残していれば、たとえ自分たちの代で叶わなかったとしても、いつか必ず世界王者に返り咲けると、彼らは心から信じて戦い続けている。
そのスタンスからは、初代世界王者としての自負と歴史の重みを感じさせるものがある。
ここからは、代表が歩んできた道のりについて解説していく。
歴史
・黄金期 1924~1950
昔々、W杯がまだなかった頃のサッカーの主要国際大会と言えば、オリンピックだった。
1924年のパリ五輪で初参加したウルグアイは、いきなり金メダルを獲得。
さらに、南米のチームがヨーロッパでプレーするのは初めてのことだった。
当時は飛行機などない時代で、船での長旅(南米からヨーロッパまで片道で3週間!)を余儀なくされたため、参加できる国が限られていたのだ。
ウルグアイの場合行きの旅費しか用意できなかったため、スペイン北西部のビーゴに到着した後はスペイン各地の強豪クラブと対戦しながら、滞在費と帰りの旅費を稼いでいた。
要するにドサ回りである。
しかしこれは、ヨーロッパのプレースタイルに慣れ、コンディションも整えるという一石三鳥の結果となった。
初戦のユーゴスラビア戦前、ユーゴ側はウルグアイの練習にスパイを送り込んだ。
スパイの存在に気づいたウルグアイは、わざと下手くそなプレーを連発。
スパイははまんまと騙され、このように報告した。「どこの馬の骨だか知らん国だし、相手にならねえwww」
試合でも、国旗を逆さまに掲げられる、国歌斉唱ではブラジルの行進曲を流されるという屈辱的な扱いを受けたが……ウルグアイは7-0の圧勝。
この勝利はヨーロッパに大きな衝撃を与えた。
サッカーの母国イングランドではキックアンドラッシュ、即ちボールを高く、パスを長く蹴るスタイルだった。
が、ウルグアイが披露したプレーは小刻みにボールを操り、目まぐるしく変化するリズムに多用されるフェイントと高度なものだった。
しかも5試合中4試合で、3点差以上という大差をつけて勝利しているのである。
貴族出身の作家アンリ・ド・モンテルランは、ウルグアイのサッカーをこのように絶賛した。
「啓示だ!これこそ真実のサッカーだ。僕らが知っていたもの、僕らがしてきたことは、これまでと比べたらまるで学校の暇つぶしでしかない」
4年後のアムステルダム五輪でも、最大のライバルである
アルゼンチンを再試合までもつれ込んだ末に破り、
再び金メダルを獲得。
代表のエンブレムには4つの星が描かれているが、そのうち2つはこれらの五輪が由来なのである。
ウルグアイは1930年、五輪2連覇という実績から、ついに第1回W杯の開催にこぎつける。
オリンピックはアマチュア選手に限定されるという制約があるため、出場を辞退した国もあった。
そのため、1904年に創設されたFIFA(国際サッカー連盟)は、プロの大会を作ることを目論んでいたのだ。
さらに当時、第一次世界大戦で世界が疲弊する中、ウルグアイは牛肉の輸出で潤っていた。小国のイメージと裏腹に、当時はそれだけの国力を持っていたのである。
代表のホームであるセンテナリオが建造されたのもこの時で、8カ月という突貫工事で作られた。
二度の金メダルを経験したメンバーの多く(スカローネ、ナサッシ、アンドラーデなど)が健在だったウルグアイは、この大会でもアルゼンチンを破り、栄えあるW杯初代王者に輝いた。
ちなみにこの大会、日本も招待されていたが、昭和恐慌によって大日本蹴球協会が財政難であったことから参加は見送られた。
それから20年後、第二次大戦の傷跡のなかで開かれたブラジルW杯において、ウルグアイ代表は再び脚光を浴びることとなる。
決勝リーグは、地元のブラジルが2勝で首位。ウルグアイが1勝1分けで2位。この両国による直接対決で優勝が決まることになった。
舞台は収容人数20万人以上のマラカナン・スタジアム。
ブラジル代表は決勝リーグでスウェーデン相手に7-1、スペイン相手に6-1と恐るべき爆発力を見せており、引き分けでも優勝が決まるという極めて有利な状況だった。
そのため、ブラジル中が
「Vやねん!」「負ける気せぇへん地元やし」とばかりの勝ち確ムードに。
しかし、マラカナンの観客の目の前で起きたのは、信じがたい大逆転負けであった……
特にギジャが逆転ゴールを叩き込んだ瞬間は、
「サッカーの歴史が始まって以来、最もけたたましい沈黙が炸裂した」と表現された。
あまりの展開に
ショック死する者や自殺者まで出す事態にまで陥ったと伝えられており、この事件は一般的には
「マラカナンの悲劇」と呼ばれている。
しかしウルグアイ人にとっては、
圧倒的逆境を跳ねのけて優勝したわけで、最も輝かしい歴史の1ページなのである。
2022年で第22回となったW杯の歴史において、優勝を経験したのはウルグアイの他に7ヶ国。
いずれも例外なくサッカー史に名だたる列強国であり、番狂わせだけで掴み取れる栄光ではないことは「優勝歴が複数回あるチームが多い」という歴史が裏付けている。
他ならぬウルグアイも、ここまで2度玉座を手にした。
このように、ワールドサッカー史の黎明期においてウルグアイ代表は、間違いなく時代の先を行く強さを持ったチームだったのだ。
・低迷期 1954~2009
しかし、世紀の番狂わせを達成したブラジルW杯以降、ウルグアイ代表は次第に低迷していった。
1954年のスイスW杯では、
当時4年間無敗を誇り、今なおサッカーの歴史でも最強チームの一角に挙げられる「マジック・マジャール」ことハンガリーに4-2で敗れベスト4に。
以降、2010年代を迎えるまでW杯における目だった実績は1970年メキシコW杯のベスト4くらいで、
次第にW杯本戦出場すらままならなくなっていった。
2000年代の
南米予選で、よく大陸間プレーオフ送りになっていた姿を覚えている方も多いだろう。
出場できても、1974年西ドイツW杯は初戦で「
トータルフットボール」のオランダに完敗、一次リーグ敗退。
1986年メキシコW杯ではかの
ディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチンにベスト16で敗れ、1990年イタリアW杯では開催国イタリア相手に同じくベスト16で敗退……
相手にも恵まれないが、後者二つの場合グループリーグの段階でギリギリ突破という体たらくなので、そうなるのも無理はない。
一方コパ・アメリカではその間6回(1956・1959・1967・1983・1987・1995)優勝しているが、逆に言えば内向きであったと言えるかもしれない。
また、皮肉にも根幹たる「ガーラ・チャルーア」の精神が行き過ぎて、ラフプレーで悪名高いチームと化していた。
黎明期の成功体験ゆえに、「ガーラさえあれば最後に勝てる」と聞かされ育った世代は勝つためにラフプレーを厭わなくなり、根性論に縛られていった。
特に1970年メキシコW杯でのブラジル戦は、W杯史上最もダーティーな試合と言われるほどのゲームとなった。
かつての栄光が華やかであればあるほど、退潮期のギャップは惨めなものがある。
過去の栄冠にいつまでもしがみついたまま、進化していくサッカーシーンに取り残され燻る姿から、いつしか「古豪」の呼び名が定着。
おかげで期待を何十年と裏切られ続けた国民は代表に対し、すっかり卑屈で冷笑的な態度になってしまったとか……
1995年のコパ・アメリカは開催国特権で、決勝まで絶対にアルゼンチンやブラジルと当たらないという有利なものだった。
にもかかわらず、国民の態度は「はいはい、どーせブラジルの優勝でしょ……」と、前年のアメリカW杯出場を逃したこともあってか、開催国と思えないほど冷え切ったムードだったという。
しかし優勝した時は素直に喜びを爆発させ、モンテビデオを挙げての祝祭に。何だかんだで、代表のことを見捨てたわけではなかった。
無論、代表もこの低迷期を手をこまねいて見ていたわけではない。
監督になる前は小学校の教師を務めていたことから「マエストロ(先生)」と呼ばれるオスカル・タバレス監督は、ガーラにがんじがらめの代表にフェアプレー精神を復活させようと動いていた。
だが、初めて監督に就任した1990年イタリアW杯は全4試合中わずか2点と深刻な得点力不足に泣かされ、「ガーラがまるでない、お嬢様みたいなチームが勝てるわけない」と酷評された。
代表が2006年ドイツW杯を逃した後、タバレスは再び代表監督に就任。
彼には一つの確信があった。これほど人口が少ないウルグアイでは、誰一人として無駄にしてはならない。育成年代からA代表まで方向性の一貫した育成をしなければ───
つまり、概要欄で前述した通りの内容である。
そしてこの育成メソッドが受け入れられたことにより、ウルグアイ代表は驚くべき変化を見せていく。
・復活期 2010~
長年に渡ってW杯で期待外れな結果に終わってきたウルグアイだが、転機が訪れたのは
2010年南アフリカW杯。
やっとの思いでプレーオフ
と長すぎる自国の国歌独唱を乗り越え、2002年日韓W杯以来の出場を果たしたウルグアイ。
だが、グループリーグの相手は開催国南アフリカに、強豪フランス、メキシコ……
この組み合わせに国内メディアは
お通夜ムードに。グループリーグを突破出来たら十分と言われるほどだった。
ところが、蓋を開けてみればフランス戦をスコアレスドローで切り抜け、南アフリカ、メキシコ相手に連勝。3試合無失点という内容で首位通過し、ベスト16では2-1で韓国を退ける。
なお、フランスはメキシコ戦後に歴史的な内紛を起こし、空中分解を起こすのだった
ベスト8のガーナ戦では、
延長後半の終了間際、ガーナの決定機をスアレスが神の手セーブで防ぎ一発退場
↓
尊い犠牲で失点こそ防いだがPKは献上、顔を覆いながらピッチを去るスアレス
↓
ところがキッカーのギャンの一撃はクロスバーに嫌われる
↓
スアレス大喜び
↓
PK戦へもつれ4-2でウルグアイ勝利
……という怒涛の展開で、強烈なインパクトを植え付けられた方も多いだろう。
準決勝オランダ戦ではスアレスだけでなく、左SBのフシーレが累積、キャプテンのルガーノが負傷、スーパーサブのロデイロが骨折で欠場と満身創痍の状態に。
それでも点の取り合いを演じ、後半ロスタイムに1点差に詰め寄るも、惜しくも敗れた。
3位決定戦でもドイツ相手に再び点の取り合いになるも、一歩及ばず。
しかしベスト4進出は
40年ぶり。最後まであきらめない、良い意味での「ガーラ・チャルーア」を発揮することが出来たと言ってもいいだろう。
スアレス?元祖と違ってちゃんと罰則を受けてるのでヨシ!
さらに言うなら、
同じ南米のアルゼンチンやブラジル(共にベスト8敗退)より良い成績を叩き出した。
本戦出場すらままならないほど落ちぶれていたウルグアイの大復活。まさしく、
古豪復活といっても過言ではないものだった。
それを裏付けたのが、翌年のコパ・アメリカ。
ベスト8、開催国アルゼンチン戦。伝統の一戦だけにお互いディエゴ・ペレス、マスチェラーノが退場する激しい展開となり、PK戦にもつれ込む。
アルゼンチンの3人目のキッカー、テベスのシュートを守護神ムスレラが止め、ウルグアイは全員が成功させた。
これで波に乗ったウルグアイは、準決勝ペルー戦はスアレスの2ゴールで一蹴。
そして決勝のパラグアイ戦は、スアレス1得点、フォルラン2得点と2大エース大暴れで、16年ぶりの優勝。
ちなみにウルグアイ、この大会に限らず開催国に対して妙に強かったりする。
1987年のコパ・アメリカもアルゼンチンで開催されたが、準決勝で破っている。
W杯では開催国と計5回対戦し、3勝(ブラジル・南アフリカ・ロシア)1分(イングランド)1敗(イタリア)。
なお、自国開催のコパ・アメリカでは全て優勝している。
初戦、グループ最弱と見られていたコスタリカ相手に逆転負け。
イングランド戦はスアレスの2発で勝利したが、コスタリカはイタリア相手に勝利と再び番狂わせを起こし、まさかの首位通過を決めた。
こうして2位の席に望みを託すべく、残るイタリア戦に挑むが……またスアレスがやってくれたのだった。
何と79分、彼はキエッリーニの肩にガブリ。しかもこれが初めてでなく通算3度目。
彼に限ってはもうガーラ・チャルーアより「コルミジョ・チャルーア(チャルーア族の牙)の方が合っているのではないだろうか
その前のマルキージオへの不可解なレッドもあって、イタリアは2大会連続グループステージ敗退に追い込まれた。
こうしてベスト16に進出したウルグアイだが、当然スアレスには10月までの重い出場停止処分が下り、コロンビア戦ではこの大会で大ブレイクしたハメス・ロドリゲスの2得点で敗れた。
なお、イタリア戦の事件に関しては色々と物議を醸したが、タバレス監督は「我々はちっぽけなモラルのためにW杯に来ているのではない」と一蹴。流石です……
2018年ロシアW杯では、グループリーグはロシア、エジプト、サウジアラビアと組み合わせに恵まれる。
スアレス&カバーニの強力2トップの活躍で、
3戦全勝かつ無失点とこれ以上ない滑り出しを見せた。
ベスト16では、あの
クリスティアーノ・ロナウド擁するポルトガル相手にカバーニが2得点を挙げて勝利するものの彼は負傷してしまい、次戦のフランス戦を欠場。
それが響き、フランスの徹底したマンマークで残る要のスアレスを封じられ敗北。ベスト8に留まった。
こうして2006年から長きにわたって続いていたタバレス政権だが、2022年カタールW杯予選で不振が続き、2021年11月、とうとう解任されてしまった。
70歳を過ぎながらも、難病ギラン・バレー症候群を患い歩くのがやっとの状態になりながらも、代表のためあらゆる部署で働き続けたタバレス。
誰からも尊敬された「マエストロ」が去るのを皆が惜しんだ。
後任のディエゴ・アロンソ監督のもとで代表は再スタートを切り、本大会出場権を獲得。
しかし、この頃になるとスアレスやカバーニなど主力の高齢化が顕著化し、若手との交代もままならない中で、韓国にスコアレスドロー、ポルトガルに0-2の敗戦。
崖っぷちのガーナ戦は0-2でリードするも、同時刻に始まった韓国対ポルトガルは韓国が終了間際のゴールで勝利。このままでは総得点差で韓国に負けてしまうことに。
ウルグアイは必死に追加点を狙ったが、かつてスアレスの神の手セーブによって敗退に追い込まれたガーナが守りを固め、結果道連れにされるという因果応報の結末を迎えた。
南アフリカW杯から続いたW杯連続ベスト16が、ついに途絶えた。
2023年4月6日、「エル・ロコ(狂人)」の名で知られる鬼才マルセロ・ビエルサが監督に就任。
2026年北中米W杯予選では22年ぶりの対ブラジル戦勝利に加え、初めてアウェイでアルゼンチンに勝ったりと、早くもその効果が出始める。
2024年コパ・アメリカでもベスト8でブラジルをPK戦の末に破るが、続くコロンビア戦では0-1で敗戦。
しかも試合終了後、ピッチ上で両軍の選手がもみ合いになると、スタンドのサポーター同士も衝突する事態に。
一部の酔っ払ったコロンビアサポーターがウルグアイ選手たちの家族に絡み、家族を守ろうとした数選手も小競り合いに加わるという、極めて後味の悪い終わり方になってしまった。
3位決定戦の相手は、北米のサッカー発展途上国ながらもここまで勝ち上がるという大健闘を見せてきたカナダ。
後半終了間際で1-2という、敗戦の瀬戸際まで追い詰められたウルグアイ。そのピンチを救ったのはあの男───スアレスだった。
ウルグアイは土壇場で追いつき、そのままPK戦へ。
PK戦を4-3で制したウルグアイが3位に輝いた。
エスタディオ・センテナリオ
第1回W杯のために作られた、現在の収容人数6万人のスタジアム・センテナリオ。
名前は「100周年」を意味し、ちょうどウルグアイ憲法発布100周年だったことからつけられた。
スタンドにはそれぞれ、バックスタンドはオリンピカ、北スタンドはコロンベス、南スタンドはアムステルダム、メインスタンドはアメリカと名前がついている。
サッカーの歴史上最重要クラスのスタジアムだけあって、FIFAの歴史建造物に指定されている。
観客席は石造り。シンボルの展望台には当時の移動手段だった船の意匠が施され、ロッカールームには第1回W杯のポスターが飾られていたりと、歴史を感じさせる。
一方で、14カ所に非常口が設けられており、火災が起きても8分で避難できる構造。この時代に安全対策まで配慮されていたというのは感嘆に値するだろう。
スタジアムの中にはサッカー博物館があるばかりか、何と小学校も存在する。その名も「100番小学校」。
もちろん、競技場の中に公立小学校があるのは世界で唯一。
スタンド下のスペースには体育館も作られており、窓からピッチを拝むことも可能。
さらに終業式の写真も競技場で撮ってもらえる。正直うらやましい教育環境である。
この小学校が作られたのは、実況のアナウンサーがスタンド下のスペースを発見したことがきっかけだった。
スタジアムが完成してから10年。当時まだ学校が足りなかったため、実況席から寄付を呼び掛けた。
「もう天井はある。ここに学校を作ろう!」
呼びかけに多くの援助が集まり、こうして世界に類を見ない小学校が誕生した。
このように、ウルグアイの歴史と深く結びついたスタジアムだが、如何せん古いスタジアムなので現代と規格が合わない部分が多く、老朽化が悩み。
それでも、ウルグアイには「あるものを大切に使い続ける」精神が強いため建て替えの予定はなし。
第1回W杯からの100周年としてセレモニーと記念試合を行う予定となった2030年W杯でも当然、ここを使うつもりである。
主な選手
○エクトル・スカローネ
ウルグアイ黎明期のエースストライカーで、1924年のパリ五輪と1928年のアムステルダム五輪を連覇し、1930年の第1回W杯でも主力として活躍し優勝。
南米選手権では4度の優勝(1917・1923・1924・1926)を達成。
代表での31得点は、フォルランが更新するまで80年以上破られていなかった。
クラブではナシオナルのレジェンドであり、41歳までプレーを続け8度のリーグ優勝を経験している。
○ホセ・ナサッシ
黎明期におけるウルグアイのキャプテンで、「エル・マリスカル(元帥)」と呼ばれていた。
「ピッチというのは漏斗のようなもので、漏斗の先にペナルティエリアがあるんだよ」と語る通り、そこはまさに彼の独壇場だったと伝えられる。
また、南米選手権ではこちらも4度の優勝(1923・1924・1926・1935)を経験している。
○ホセ・アンドラーデ
サッカーの歴史上初めてヨーロッパでプレーした黒人選手。
ゴムのような体の大男で、敵に触れることなくボールを運び去り、攻撃の時は体をしならせて敵を蹴散らしたと伝えられる。
また、彼の甥ビクトール・ロドリゲス・アンドラーデも「マラカナンの悲劇」にてブラジルを破ったメンバーである。
○エクトル・カストロ
第1回ワールドカップでウルグアイ初のゴールを決め、決勝アルゼンチン戦で決勝点を挙げた選手。
そして、13歳の時に電動ノコギリの事故で右前腕を切断してしまい、パラリンピックもない時代に隻腕でプレーしていたという、現在ではありえない選手である。
そのため、「聖なる隻腕」という名前で呼ばれていた。
○オブドゥリオ・バレラ
サッカー史上最高のキャプテンの一人と言われる選手で、彼が出場したW杯の試合は無敗だった。
かの「マラカナンの悲劇」の時のキャプテンであり、ピッチに出て行く時、20万の観客によるプレッシャーに気圧されるチームメイトにこう言った。
「観客を見るな。地面を見ろ。真っ直ぐ、前だけを向いて歩け」
さらにフアン・ロペス監督から守備的な作戦を言い渡されたが、監督が去った後、有名な演説をぶっている。
「フアンはいい男だ。だが、今日に限っては間違っている。受け身になったらスペインやスウェーデンのようになるだけだ。俺たちは噛ませ犬じゃねえ!食いつくんだ。全てを賭けて反撃しろ!」
彼の圧倒的なキャプテンシーがあったからこそ、あの奇跡的な勝利が生まれたと言っても過言ではないのだ。
○ファン・アルベルト・スキアフィーノ
絶妙なテクニックと技術、類まれな視野と戦術的インテリジェンスを備えていた選手で、ペニャロール時代は5度のウルグアイ選手権優勝に貢献する。
「マラカナンの悲劇」のメンバーの一人であり、同点ゴールを決めてブラジル中を絶望のどん底に叩き落した。
その活躍により、1954年には当時世界最高の移籍金で名門
ACミランへと引き抜かれ、3度のリーグ優勝とチャンピオンズカップ準優勝に貢献した。
同時にイタリア国籍を取得し、イタリア代表のメンバーとしてもプレーしている。
愛妻家として有名だったそうで、ミランに移籍する際は妻が飛行機に弱いので船で向かうと伝えたエピソードが残されている。
○アルシデス・ギジャ
「マラカナンの悲劇」のメンバーの一人で、逆転ゴールを挙げてブラジルに色々な意味でトドメを刺した人。
「マラカナンを黙らせた男はこれまでに3人しかいない。ローマ法王、フランク・シナトラ、そして私さ!」
実はウルグアイ代表ではわずか3年しか活動しておらず、その後スキアフィーノと同じくイタリア代表に鞍替えしている。
そして「マラカナンの悲劇」からちょうど65年後の2015年7月16日に死去。これにより、当時のウルグアイ側の選手は全員鬼籍に入ることとなった。
○ラディスラオ・マズルケビッチ
ウルグアイ史上最高と言われるGK。
ペニャロール時代、1968年に行われたダヌービオFC戦から同年10月13日に行われたリーベル・プレート戦にかけて985分間無失点という国内記録を打ち立てた。
1970年メキシコW杯では準々決勝までの4試合で1失点に抑えており、大会No.1キーパーという評価を得た。
○ウーゴ・デ・レオン
80年代のウルグアイを代表するディフェスリーダー。
母国のナシオナルで2度コパ・リベルタドーレスを制し、トヨタカップ優勝。
さらにブラジルのグレミオでもコパ・リベルタドーレス、トヨタカップ優勝という物凄い実績を持っている。
そのため、「ミスターチャンピオン」と呼ばれていた。
また、日本でも
Jリーグ創設直前の1991-92シーズン、東芝サッカー部(現在のコンサドーレ札幌)でプレーしていたことがある。
かのジネディーヌ・ジダンが一番憧れ、息子にその名前を授けたことで知られる、ウルグアイ最高のファンタジスタ。
華麗なドリブルやパス、シュートなどのプレースタイルは無論、サッカー選手とは思えないほど優雅な所作に立ち振る舞い、端正で憂いをたたえた風貌……
まさしく「エル・プリンシペ(王子様)」の呼び名がぴったりである。
コパ・アメリカで3度優勝(1983・1987・1995)し、アルゼンチンの名門リーベル・プレート最大のレジェンドの一人でもある。
ジダン以外にも彼に憧れて育った選手は数多く存在し、「サッカーの王様」ペレが2004年に選んだ『偉大なサッカー選手100人』にもウルグアイ人として唯一選出されている。
○ルベン・ソサ
多くの芸術的なゴールを生み出したことから「ゴールの詩人」という、大変お洒落な名前で呼ばれていた選手。
インテルでは加入当初こそ適応に苦しんだものの、加入シーズンから28試合20ゴールの大爆発。
1993-94シーズンにはUEFAカップを獲得している。
特に1995年4月9日のジェノア戦、DF二人に挟まれた状態から相手を次々かわしていき、ニアポストに叩き込んだゴールは語り草。
その後母国のナシオナルでも、国内リーグ3度の優勝を経験した。
○ダニエル・フォンセカ
レコバの前の時代にいた
ビーバー面のレフティー。
90年代にカリアリ、ナポリ、
ローマ、
ユベントスといったクラブを渡り歩いていた。
1990年イタリアW杯では、グループリーグ1分け1敗と後がない状況の韓国戦、試合終了間際にヘディングで決勝ゴールを決めてチームを窮地から救った。
そしてこれが、代表にとってW杯20年ぶりの勝利となった。
東洋人的な風貌から「エル・チーノ(中国人)」と呼ばれる、インテルやヴェネツィアで活躍したレフティー。
中でもインテルでのデビュー戦での40mロングシュートや試合終了間際のFK、2004-05シーズンのサンプドリア戦での逆転劇などは語り草。
しかし調子の波が激しく、良い時は間違いなく世界最高峰のファンタジスタなのだが、ダメな時はとことんダメという、何とも気まぐれな選手。
それも含めてご愛敬ということで、マッシモ・モラッティ会長をはじめとして愛された選手であった。
○ディエゴ・フォルラン
ゴール前で決定的な仕事をするオールラウンダー。南アフリカW杯では得点王・MVPに輝いている。
スペイン王家に繋がる貴族の家系出身というサラブレッドで、2011年には祖父・父に続く三世代でのコパ・アメリカ制覇を果たしている。
サッカー以外のスポーツも万能で、特に少年時代はテニス選手を目指していたということで、2024年現在はプロテニス選手に転身している。
さらにはスペイン語・英語・ポルトガル語・フランス語・イタリア語の5ヶ国語を操れるマルチリンガルであり、弁護士を目指していた時期もあった。
という、フィクションだったら設定過多と言われてもおかしくないほどの文武両道かつ完璧超人である。
セレッソ時代の件?あれはクラブが悪い
○ディエゴ・ルガーノ
「闘将」と呼ばれるCBで、2007年のコパ・アメリカから2014年までキャプテンを任されていた。
サンパウロFCでは、オズワルド・オリヴェイラ監督の意向に反し会長が独断で獲得したため「会長の男」と揶揄されていたが、監督の退任後は大活躍。
2004年にはリーグのベストイレブンと最優秀ディフェンダー賞を獲得し、2005年にはカンピオナート・パウリスタ、コパ・リベルタドーレス、FIFAクラブワールドカップの3冠に貢献した。
○ディエゴ・ゴディン
ルガーノと守備陣を形成しキャプテンを継いだCBで、
代表の最多出場記録を持つ。
2013-14シーズンのリーガ最終節、優勝を争う
FCバルセロナとの直接対決にて、コーナーキックから頭で同点ゴールを決めてアトレティコの優勝に貢献したのは語り草。
○フェルナンド・ムスレラ
2009年10月10日、エクアドルを相手にデビューし、当時の正GKだったファビアン・カリーニからポジションを奪取。
以降代表正GKを長く務めており、PK戦の強さに定評があった。
クラブではトルコのガラタサライで長くプレーしており、2023年10月22日のベジクタシュ戦では、ゴールだけでなくポストに激突しそうになった相手選手も守るというファインプレーを見せた。
○ルイス・スアレス
代表の歴代最多得点記録を誇る伝説的ストライカー。
同時に
オランダ、イングランド、スペインの3つのサッカーリーグで得点王を獲得した当代最高峰のストライカーでもある。
中でもバルサ時代の
リオネル・メッシ&ネイマールとのトリデンテ「
MSN」は2014-15シーズンに3人合わせて122ゴールを記録するなどもはやチート級。
一方で悪童キャラであり、
神の手セーブを決めたうえ悪びれもしない、3度にわたる噛みつき事件を起こすなど、ネタ要素も豊富である。
しかも前者の場合、累積で次戦の欠場が決定していたフシーレに罪をなすりつけようとして失敗した。そのフシーレも神の手セーブしようとしていたのがまた……
ニックネームは「エル・ピストレーロ(ガンマン)」とカッコいいのに……
そんな彼も国内では愛されキャラであり、CMでサラリーマンを演じていたりする。しかも演技も結構上手い。
○エディンソン・カバーニ
スアレスに次ぐ代表歴代2位の得点記録を誇るストライカー。
クラブでもナポリやPSGで得点王を獲得している。
彼とは同じサルト市出身かつ、生まれもわずか21日違いで、代表において長年にわたり肩を並べた。
キック精度やスピード、パワー、スタミナ共に優れた万能型FWであり、献身的な守備も特徴である。
このため、他のエースを引き立てる「黒子」と呼ばれることも。
弓矢を引くゴールパフォーマンスで有名だが、これは狩猟採集民だったチャルーア族由来のもの。
○フェデリコ・バルベルデ
名門レアル・マドリードで活躍する攻守万能型のMF。
母国から18歳でレアルに加入した後、下部組織であるカスティージャやレンタルを経てトップチームに定着。
クロアチア代表MF
ルカ・モドリッチやドイツ代表
畜生MFトニ・クロースが君臨する中盤に割って入り、2024-25シーズンからは現役引退したクロースから背番号8を受け継ぐ。
何と言っても
スティーブン・ジェラードを彷彿とさせるミドルシュート(通称「
バルベルデ砲」)が特徴的。
もちろんパスや守備力といったその他の要素も満遍なく高いが、リーグ戦やCLで定期的にイカれた威力のそれをぶっ放す印象が強いせいか、バルベルデ=ミドルシュートの構図を持たれがち。
○ダルウィン・ヌニェス
スアレスやカバーニの後を継ぐと目される大型FW。
ベンフィカでは2021-22シーズン、26ゴールでリーグ得点王に輝き、年間トータルでは34ゴールを決める大活躍。
その能力の高さはユルゲン・クロップ監督も惚れ込むほどで、7500万ユーロの移籍金で
リバプールに移籍した。
速くて強い圧倒的フィジカルや運動量が持ち味だが、決定機逸が目立つなど良くも悪くも粗削りなタイプ。
ただ時にとんでもないスーパーゴールを決めることもあり、その溢れ出すロマンを目にした日本人の一部ファンから「
桜木花道のようだ」とも称されることも。
2024年コパ・アメリカでは2得点を挙げたが、コロンビア戦の乱闘騒ぎにより、5試合の出場停止処分を食らっている。
追記・修正は、20万人以上の完全アウェイかつ引き分けも許されない状況でも、諦めずにお願いします。
- あれ?ダルウィン・ヌニェスは? -- 名無しさん (2024-09-08 00:19:58)
- 立て主による編集の繰り返しがさすがに規約上目に余るレベルに見えるので注意してね -- 名無しさん (2024-09-19 00:05:22)
最終更新:2025年01月08日 21:35