サッカーアルゼンチン代表

登録日:2024/12/25 (水) 23:00:05
更新日:2025/03/27 Thu 22:20:30
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サッカーアルゼンチン代表は、アルゼンチンサッカー協会(AFA)によって構成される、アルゼンチンのサッカーのナショナルチームである。
愛称はアルビセレステ(白と空色)

そしてW杯優勝3回、コパ・アメリカでは最多の16回優勝を誇る、名実ともに世界屈指の強豪国の一角である。


概要


サッカー王国ブラジルと並ぶ南米の盟主。
だがそのスタイルは正反対で、ブラジルが華麗なパスワークに派手なテクニックを用いた華やかなスタイルなら、アルゼンチンは質実剛健で無駄のないプレーを好むスタイル。
両国の環境の違いから、ブラジルのスタイルは「砂浜のサッカー」、アルゼンチンは「牧草のサッカー」としてよく対比される。
ブラジルはビーチサッカーが盛んで、砂浜の上だとボールの動きが不規則になるので浮き球の扱いに優れる。
逆に草原の国アルゼンチンは草が深くボールが止まりやすいため、ショートパスや狭い空間を抜け出すドリブル技術、競り合いの強さが発達したと言われる。
こうした背景から、アルゼンチンは歴史的に小柄ながらも優れたドリブラーやDFを輩出することが多い。
一方で、個人技や大スター頼りになりがちで組織力が弱いとされる面も。*1
逆に言えば、その大スターがカリスマ性をうまく発揮すればまとまるので鬼に金棒である。
育成にも優れ、U-20W杯では最多6度の優勝、オリンピックでも2度の金メダルに輝いており、この年代で結果を残した選手がフル代表でも主力として活躍するケースが多い。

そんなアルゼンチンだが、日本での人気は高い一方で南米や欧州ではヒール的ポジション
まず、南米随一の白人国家であり、他の南米諸国から浮いた存在であること。実際、選手たちを見ても黒人はまずいない。*2
他の南米の国では、もしW杯で自国が負けたらブラジルを応援し、ブラジルも負けたら渋々アルゼンチンを応援するという感じらしい。
欧州でも、戦後ナチスの残党が亡命していたという歴史から悪印象がついてしまっている。*3
さらには勝つためには手段を選ばないプレースタイルの荒さも、悪印象に拍車をかける要因になっている。
もっとも、それを補って余りあるだけの大スターを輩出してきたのも、また事実であるのだが。

普段あまり語られないであろう南米で最初にサッカーが伝来した背景、ヒール役化していった背景、1978年の自国開催のW杯の背景……
そして、誰もが知る大スター、マラドーナとメッシの時代。
順を追ってその道のりを見ていこう。

歴史


・黎明期


アルゼンチンは南米で最初にサッカーが伝来した国であり、スペインから独立後はサッカーの母国・英国が関係を強めていた。
1840年代にはすでに、英国人の船員がブエノスアイレス港の近くでボールを蹴っている姿が目撃されていたが、当時のアルゼンチン人は関心を示さなかった。
曰く、「頭のおかしな英国人が奇妙な格好で奇妙な遊びをしている」

そこに現れたのは、後に「アルゼンチン・フットボールの父」と呼ばれるスコットランド人、アレクサンダー・ワトソン・ハットン博士。
ハットン博士はスポーツによる教育を重視しており、赴任先のセント・アンドリュース校でサッカーを教えていたが、学校の設備が整っておらず、資金不足から校長職を辞任。
その後全財産を投げうって、サッカー専用グラウンドを持つブエノスアイレス英語学校を設立。
やがて男子生徒たちはこの新しいスポーツに夢中になり、他の学校でもサッカーが教えられるようになったことから、サッカークラブが設立されていった。
1891年、ブエノスアイレスの5クラブがフットボール・リーグを設立。
イングランドでFAカップが始まったのが1871年、リーグ戦が始まったのは1888年。当時の欧州と南米の隔たりを考えると、驚異的な速さである。
このリーグは資金不足から1年で解散したが、2年後ハットン博士は同名の別リーグを設立し、初代会長に就任した。この組織こそ、アルゼンチンサッカー協会(AFA)の前身である。

代表の試合が初めて行われたのは1901年、ウルグアイとの親善試合だった。
アウェイながらも3-2でアルゼンチンが勝利し、ラプラタ川を隔てた国同士の伝統の一戦の始まりとなった。
そしてこれが英国以外では初の代表戦であり、黎明期のサッカー界において、アルゼンチンとウルグアイの二か国がいかに時代の先を進んでいたかが窺えるであろう。

1930年にウルグアイで開催された記念すべき第一回W杯では、アルゼンチンのギジェルモ・スタービレ*4が得点王に輝いた。
……ところが2年前のアムステルダム五輪と同様、ウルグアイに敗れ準優勝。
怒り狂ったブエノスアイレス市民はウルグアイ大使館に投石する事件を起こし、これが引き金となって、両国は一時的とはいえ国交を断絶する事態に陥った
ちなみに、アルゼンチンの国民的タンゴ歌手カルロス・ガルデルはこの2大会で選手たちを鼓舞するために自慢の歌を披露したが、結果は上記の通り。この時代から逆神はいたようである
こういうこともあって、ウルグアイ人はガルデルもまたウルグアイ人だと信じているらしい。

その後の1934年イタリアW杯は、プロリーグが始まったばかりで主要クラブが選手の供出を断ったためベストメンバーが組めず、一回戦であえなく敗退。
1938年フランスW杯は、南米と欧州とで交互に大会を開催すべきとの意見を袖にされ大会をボイコット。
以降、アルゼンチンは3大会連続でW杯を辞退している。*5
その間に、ライバルのウルグアイは1950年ブラジルW杯で開催国相手に歴史的な大逆転勝利で2度目のW杯優勝を成し遂げていた。

ワールドサッカー黎明期において、これほど先進的でありながらW杯のタイトルに恵まれなかったアルゼンチン。
その理由の一つに挙げられるのは、当時は選手の帰化に対するルールが固まっておらず、優秀な選手が他の国籍に鞍替えしていったことが挙げられる。
1934年イタリア大会では、前回大会の主力がイタリアに引き抜かれたことで大きく弱体化していた。*6*7
しかもアルゼンチンサッカーの黄金期*8と言われた1940年代は、よりによって第二次世界大戦中。その間、W杯は開催されなかった。
そのため、南米では「もし1942年と1946年にW杯が開催されていたら、どちらもアルゼンチンが優勝していたのではないか」と言われている。

追い打ちをかけるように、後発だったブラジルが「サッカーの王様」ペレの登場により台頭。彼の時代で実にW杯を3度制覇するという黄金期を迎えた
対するアルゼンチンは、1958年スウェーデンW杯で久々に出場するが、進化した欧州のスピードについて行けず、チェコスロバキア相手に1-6の大敗。グループステージ敗退となった。
その後もW杯で目立った成績を残せず、1970年メキシコW杯に至っては南米予選敗退
今まで出場してこなかった大会は「辞退」であるが、この時は「敗退」。しかもブラジルはこの大会で3度目の優勝。完全に立場が逆転してしまった。

ライバルのウルグアイは2度W杯を制覇し、それまで眼中になかったブラジルは、あっという間にウルグアイさえも追い抜いた。
南米最大の伝統国なのに、未だにW杯優勝ゼロ。*9アルゼンチンが勝つために選んだ手段。
その結論は……「どんな手を使おうが……最終的に…勝てばよかろうなのだァァァァッ!!」

こうしてアルゼンチンには、試合中に絶え間なく相手を挑発し、ラフプレー上等で相手のエースを潰す、破壊的なプレースタイルが定着
1966年イングランド大会で監督を務めたカルロス・ロレンソによってこれが提唱され、多くのクラブで採用された。
結果、コパ・リベルタドーレスで多くのクラブが優勝したが、あまりにも汚いプレーの数々からアルゼンチンサッカーのイメージは低下し、完全にヒール的立場と見なされるようになった。


・1978年W杯


転機が訪れたのは、自国開催の1978年W杯。
優勝が至上命題の中、チームを率いていたのは、1972年に弱小ウラカンをリーグ優勝に導いたセサル・ルイス・メノッティ
メノッティは荒々しいプレースタイルとは対極的な、自分たちの良さを生かす、創造的で攻撃的なサッカーを志向した。彼が選ばれたのは、代表のイメージアップのためでもあったのだ。
強いチームを作るため、メノッティはW杯開幕の3年前から国内選手の海外移籍を禁じ、それまで無視され続けていた地方のクラブからも選手を丹念に発掘。組織力を足固めしていった。*10
結果、前回大会を経験しているのはGKのウバルド・フィジョルとエースのマリオ・ケンペスと控えのレネ・ハウスマンのみで、他はまだ無名の若手選手が中心というピーキーな構成となった。

迎えた本大会。
一次リーグの相手はハンガリー・フランス・イタリア。かつて最強と呼ばれるほどの強さを誇ったハンガリー+欧州列強という、いきなり死の組み合わせ。
ハンガリー、フランスには勝利したが、エースのケンペスが一次リーグ無得点と絶不調でイタリアに敗戦。まさかの2位通過となる。
二次リーグ、グループBの相手はポーランド・ブラジル・ペルー。
舞台が古巣ロサリオ・セントラルの本拠地であるヒガンテ・デ・アロシートに移ったためかケンペスは復調。
ポーランド戦2得点、ペルー戦2得点の大活躍。得失点差でブラジルを上回り、決勝進出を果たした。

決勝の相手は前回大会準優勝のオランダ。
中核だったヨハン・クライフこそ本大会出場を辞退していたものの、アルゼンチンとは対照的に前回大会のメンバーの多くが健在だった。
1-1で迎えた後半終了間際、オランダのロブ・レンセンブリンクがルート・クロルからのロングパスを受け、左足でシュートを放つ。
ボールはGKのフィジョルの脇を通り抜け、これでオランダの優勝は決まった───
と思いきや、ボールはゴールポストを直撃。アルゼンチンは命拾い、オランダはトドメを刺しそびれた。
結局これが明暗を分け、延長でケンペスとダニエル・ベルトーニのゴールで勝負あり。アルゼンチンはついに、悲願の初優勝を成し遂げた
代表の初試合から苦節77年。南米最大の伝統国はW杯の視点で見れば意外なまでに遅咲きであったのだ。



……しかしこの大会は、W杯の歴史でも屈指の曰くつきの大会としても知られている
というのも、当時のアルゼンチンは政情不安で1976年にクーデターが起き、軍事独裁政権が始まっていたのである。
この時代は「汚い戦争」と呼ばれており、左翼ゲリラの取締を名目として実に3万人以上が死亡・行方不明になったと言われる。
クライフが参加しなかったのも、この独裁政権に反対するためだったと言われていた(後年になって本人から、子供が誘拐未遂事件に遭い、家族を守るため辞退したことが明かされたが)。
おまけに監督のメノッティは左翼。つまり、少しでもしくじれば命の保証はない状況で大会に臨んでいたのである

また、70年代後半にもかかわらず、当時のアルゼンチンにはカラー放送すらなかった
当初見積もられていた5倍もの国家予算が大会につぎ込まれ、開催は強行された。各国が衛星放送で大会を楽しむ中、自国民はモノクロの画面で試合を見ていたのである。
前回大会のマスコット「チップとタップ」のアニメ*11はカラーで作られているのに、本大会のマスコット「ガウチート」のアニメ*12がモノクロなのを見ると色々察するものがあるだろう。
ガウチートは現代でも通用しそうな可愛いキャラデザなだけにもったいない……


実際大会でも、

  • 初戦のハンガリー戦、相手側は不可解なジャッジで選手二人を退場に追い込まれた。これについてハンガリーの監督は「アルゼンチンの12人目の選手は審判だ」と批判した。
  • 二次リーグのポーランド戦では、SBのタランティーニがハンドでゴールを防いだにもかかわらずお咎めなし(流石に相手にPKが与えられたが、フィジョルが阻止)。
  • ペルー戦は、4点差以上で勝利しないと二次リーグを突破できない状況で6-0で勝利したが、ペルーの選手からアルゼンチンの軍事政権がペルー側に負けを依頼したことが暴露されている*13
  • 二次リーグで同居したブラジルは、なぜか3試合とも主力のリベリーノを出場させなかった。
  • 決勝戦では、スタジアムの隣の建物で拷問が行われていた

など、様々な疑惑や闇が取りざたされている。
そのため、欧州でも南米でもこの大会は半ば黒歴史のような扱いをされているという。
一方で、軍事独裁政権だったからこそ選手の海外流出を抑えられたり、国内のクラブを協力させられたわけで、それが結果的に代表の強化につながったのは皮肉な話である。


とはいえ、アルゼンチンにとって初めてのW杯制覇。国中が歓喜に沸いていた。
……だが、その光景を一番複雑な思いで見つめていたであろう選手がいた。






あの時はすごく泣いた。とにかくよく泣いたんだ……


俺はメノッティを許さなかったし、あの件については今後も絶対許す気はない。彼がしくじったと今でも思っている。


……彼を憎んだことはない。憎むということと、許さないということは違うからな。






彼こそが、サッカー界不世出の大スター、ディエゴ・マラドーナである。


・マラドーナの時代 1982~1994


プロデビューから間もなく代表に招集されるようになった神童マラドーナだが、若すぎるという理由で本大会メンバーから外されていた。
それでもメノッティに対する敬意は変わらず、その後も共にワールドユース1979日本大会で優勝している。
1982年スペインW杯では、前回大会優勝メンバーに加えてマラドーナやラモン・ディアスといった若手が加わり、前評判はかなり高かった。

ところが、ベルギーとの開幕戦にいきなり敗戦。
マラドーナは今でいう所のゼロトップで、ケンペスはインサイドに近い位置で使われていたがかみ合わっていなかった。
それでもマラドーナはハンガリー戦で2ゴールを挙げ、何とか一次リーグを突破したものの、二次リーグの相手はブラジルとイタリアがいる死の組だった。
マラドーナは徹底したマンマークに遭い、ブラジル戦に至っては報復で相手の腹を蹴飛ばし一発退場。
アルゼンチンは二次リーグで敗退し、メノッティも退任。その後カルロス・ビラルドが監督に就任した。

このビラルドは、前述のロレンソが率いていたエストゥディアンテスの「エースキラー」だった。
つまり弟子筋というわけで、代表のスタイルは「勝てばよかろうなのだァァァァッ!!」に回帰していった。
これには就任してから34試合中13勝という低迷ぶりもあって、批判の声も大きかったのだが……
あの男が全てをひっくり返してしまった。

迎えた1986年メキシコW杯。
この大会は一言で言うなら「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」
特にベスト8のイングランド戦は、アルゼンチンにとってフォークランド(マルビナス)紛争の弔い合戦という背景もあった。
そこでマラドーナが見せつけた「神の手ゴール」「5人抜きゴール」は、サッカーの歴史を語る上で絶対外せない名(迷)シーンとなっている。
その勢いのままに、準決勝のベルギー戦もマラドーナの2得点で一蹴。
決勝の西ドイツ戦は2点差を追いつかれながらも、マラドーナの絶妙のパスからホルヘ・ブルチャガが決勝ゴールを決め勝利。2大会ぶりの優勝を達成した
マラドーナは記録上は5ゴール5アシストだが、アルゼンチンが大会で挙げた14ゴールのうち、実に13ゴールに関与したと言われるのだから、どれだけ絶対的な存在だったかが窺えるであろう。
八百長など黒い話に溢れていた地元開催の時と違い、今回は正真正銘、神の手ゴールはともかく純粋に実力を見せつけての優勝。
批判し続けていたサポーターたちも、「Perdon Bilardo Gracias(ビラルドごめんなさい、そしてありがとう)」と横断幕を掲げて謝罪したのだった。
24年後に似たようなことをやってのけたチームがあるらしいゾ

1990年イタリアW杯では主力の高齢化に加え、マラドーナも左足首の負傷を抱え、イタリアとの関係も悪化と満身創痍の状態だった。
事実、初戦のカメルーン戦で敗れ、1勝1分1敗と3位通過。そのため、ベスト16でいきなりブラジルと当たる羽目に。
これにはマラドーナも「ブラジルは本当に強い。今の俺たちよりもな」と珍しく弱気な発言をしており、事実耐えに耐え抜く劣勢を強いられたのだが……
やはり、マラドーナはマラドーナだった。

81分、自陣内でボールを持ったマラドーナは相手ゴールに向けてドリブルを開始し、ブラジルの選手3人を抜き去る。
さらに別の4人に取り囲まれた所で、彼の放ったパスはCBリカルド・ロッシャの股を抜けて、クラウディオ・カニージャの元へ。
乾坤一擲のパスを受け、ゴール前でフリーになっていたカニージャは、GKタファレルをかわすと無人のゴールへボールを蹴り込み勝負あり。
この試合は、アルゼンチンがW杯の舞台で初めてブラジルを破ったということで大変重要な試合とされ、年末になると再放映されるのが恒例となっている。
これを見てアルゼンチン人は、自分たちのアイデンティティーを確認するのだという。
誰もが真っ先に思いつきそうなメキシコ大会のイングランド戦ではなく、苦しみ抜いた末に勝利したこの試合というチョイス。そこに、彼らの気質が窺える。

その後もアルゼンチンはユーゴスラビア、イタリアとPK戦の末に勝ち抜き、前回と同じ西ドイツとの決勝となった。
しかし、マラドーナが本調子でなかったとはいえ、ラフプレー上等で相手を消耗させる戦術のツケが回り、決勝は主力が4人も出場停止に
おまけに試合中も2人退場者を出すという踏んだり蹴ったりな展開に。
結局マラドーナの孤軍奮闘も報われず、準優勝に終わったのだった……
このように、メキシコ大会・イタリア大会のビラルド政権は2大会連続で決勝進出とメノッティ時代をしのぐ成績を叩き出したが、人気面ではメノッティが上らしい。
創造的でクリーンなメノッティ、現実的でダーティなビラルド。今でもアルゼンチンでは、メノッティ派とビラルド派に分かれている。

その後代表は薬物問題で出場停止処分を受けたマラドーナを差し置いて若返りを図った。
それが功を奏し、コパ・アメリカでは1991年・1993年と連覇を達成。
ところが1994年アメリカW杯予選、アルゼンチンはホームで、当時屈指の個性派集団として知られていたコロンビアに0-5の大敗を喫し、敗退の危機に。
なりふり構っていられないアルゼンチンはついにマラドーナを呼び戻し、無事にプレーオフ突破。
本大会では、若手とマラドーナの力が融合した強さを見せつけ、爆発的な攻撃力を発揮するが……待っていたのは、ドーピング違反によるマラドーナ追放だった。
チームは大黒柱を失ったショックからベスト16敗退。
こうして、マラドーナの時代は悲しく、あっけない形で幕を下ろしたのだった……


・ディエゴのいない世界で 1998~2006


マラドーナのいなくなったアルゼンチン代表だが、その後もタレントを輩出し続け、強豪の立ち位置を揺るぎないものにしていた。

1998年フランスW杯では、W杯初出場を決めた我らが日本代表の記念すべき初の対戦相手となった。
試合前、岡田監督はこう発言している。
「日本代表の実力からして100戦やって1勝出来るかどうかの相手。だとしたら、その1勝をこの試合に充てるつもりで闘います」
いきなりの強豪が相手ながらも、結果は0-1の惜敗。当時の状況を考えれば、大量失点を喫さずに済んだだけでも大健闘だったと言えるだろう。

アルゼンチンは無失点でグループリーグ3連勝。ベスト16で再び因縁のイングランドと対戦。
2-2で迎えた後半開始早々、事件は起きた。
ディエゴ・シメオネに後ろから倒されたイングランドのデヴィッド・ベッカムは、彼に足を出して転ばせるという報復行為をやらかし一発退場
PK戦の末イングランドを破るが、ベスト8のオランダ戦でアルゼンチン側が同じような事件を起こしてしまう。
1-1で迎えた86分、これまで4試合2得点3アシストの活躍を見せていたアリエル・オルテガはPA内でダイブ。
この行動に詰め寄ってきたエドウィン・ファン・デル・サールに頭突きをかまし一発退場
これで総崩れとなったアルゼンチンは試合終了間際、デニス・ベルカンプの美しいトラップからのW杯の歴史でも屈指の見事なゴールで敗れた。

2002年日韓W杯でアルゼンチンが入れられたのは、三度のイングランドにスウェーデン、ナイジェリアの死の組。
初戦のナイジェリア戦に1-0で勝利するも、イングランド戦ではベッカムにPKを決められ0-1の敗戦。
4年前の過ちにより「10人の勇敢なライオンと1人の愚か者」とレッテルを貼られたベッカムに借りを返されたアルゼンチン。
スウェーデン戦は1-1の引き分けだったが、得失点差でイングランドに及ばず、まさかのグループリーグ敗退となってしまった。
余談だが、この時のアルゼンチン代表の応援ソングは何と日本の『島唄』だった。*14

2006年ドイツW杯、グループリーグはオランダ、セルビア・モンテネグロ、初出場とはいえタレント揃いのコートジボワールと、再び死の組に入れられた。
コートジボワール戦は2-1の勝利、セルビア・モンテネグロ戦は6-0の大勝。
残るオランダはスコアレスドローだったが、セルビア・モンテネグロ戦で点を稼いだおかげで首位通過。
ちなみに、セルビア・モンテネグロ戦でW杯デビューし、試合終了間際に得点も決めた選手がいた。
彼こそリオネル・メッシ。後にFCバルセロナにて21世紀最高のフットボーラーとなるプレイヤーであった。

ベスト16のメキシコ戦。
1-1で迎えた後半、ホセ・ペケルマン監督はカルロス・テベス、パブロ・アイマール、そしてメッシと、次々に豪華なカードを切る。
そして延長前半8分、ファン・パブロ・ソリンからのクロスを、マキシ・ロドリゲスが豪快なボレーを叩き込み勝利。
ベスト8のドイツ戦は地元開催のドイツ相手に初めて先制点を奪うも、後半35分、ミロスラフ・クローゼが得意のヘディングによって、同点に追いつかれる。
試合は延長でも決せずPK戦にもつれこみ、2人目ロベルト・アジャラと4人目エステバン・カンビアッソのシュートが止められここで敗退となった。

ここから、新たなる大スター、メッシの時代に移っていくと思われたが……
待っていたのは茨の道であった。


・メッシの苦戦 2007~2020


2010年南アフリカW杯の予選、成績低迷に苦しむアルゼンチンはとんでもない人事を発表した。
マラドーナの代表監督就任である
さらに脇を固めるスタッフは、ゼネラルマネージャーにビラルド、コーチにメキシコ大会でチームメイトだったセルヒオ・バティスタと、過去の栄光よ再びと言わんばかりの人選。
そこから先はツッコミ所満載の展開である。

  • チームにとって最重要選手の一人であるフアン・ロマン・リケルメをメディアを通じてこき下ろし、これに怒ったリケルメは代表引退を表明。
  • 監督就任前に、高地でのW杯予選を禁止しようとするFIFAに大見得を切っておいて、結局アウェイのボリビア戦で大敗する
  • ホームのブラジル戦、雰囲気がいいという理由だけで代表のホームのモヌメンタルからヒガンテ・デ・アロシートに試合会場を移したが、結局敗れる。
  • 監督就任後100人以上もの選手を代表に召集。しかも親善試合翌日にコパ・リベルタドーレスを控えている選手に召集を出し、代わりの選手も怪我していたという失態さえあった。

それでも本戦出場を果たしたわけだが……ぶっちゃけマラドーナのリアクション芸ばかり印象に残ったという方も多いのではないか。
マラドーナはカリスマ性はあっても、戦術というものがなかった。
そのため、ベスト8のドイツ戦で0-4とあえなく大敗。メッシもノーゴールに終わった。

2011年にはかつてエストゥディアンテスを率いて、クラブW杯にて当時世界最強だったバルサを敗退寸前まで追い詰めた名将アレハンドロ・サベーラが監督に就任。
選手たちの役割が明確に整理されたことで、アルゼンチン代表の長年の課題だった個人技頼みからついに脱却。
散々「代表では輝けない」と叩かれ続けてきたメッシも、この頃から代表でもゴールを量産するようになり、南米予選では1試合残して首位通過を決めるなど無双といっていい成績を残す。

2014年ブラジルW杯では、メッシはキャプテンになり、アンヘル・ディ・マリア、セルヒオ・アグエロなどが本格的にチームの中核になっていた。
決勝トーナメントに進出後は、相手から研究されつくされ攻撃が機能しなくなりつつあったが、ハビエル・マスチェラーノ筆頭に守備陣が奮闘。
28年ぶりの決勝進出を果たすが、延長でマリオ・ゲッツェの一発でドイツに敗れ準優勝に終わるのだった……
ちなみに開催国のブラジルはその前日に、アルゼンチンを軽くしのぐ惨劇に見舞われていた。

さらにアルゼンチンはコパ・アメリカ(2015・2016)でも、2大会連続でPK戦の末チリに破れ、準優勝に終わっている。
2007年のコパ・アメリカも含めると、メッシの時代に入って実に4度も準優勝に終わるというシルバーコレクターっぷりである。
そしてついに、恐れていた事態が起きた。
メッシが代表引退を表明したのである。






僕たちはプロだし代表が好きだ。じゃなかったら辞めてるよ。


家で家族と息子と楽しんでりゃいいんだから。


誰かに強制されてるわけじゃない。


僕は代表で何かを成し遂げたいんだ。僕はトライし続けたいよ。


僕は代表で何かを成し遂げたい。戻りたいしプレーしたいけど、反対する人がたくさんいる。


家族も友達も苦しむだけだから戻るなって言うよ。


6歳の息子も、「なんでアルゼンチンではあんな風に言われるの?」って言うんだ。


「なんでプレーする必要があるの?」ってね……






クラブでは数えきれないほどのタイトルを手にしながら、フル代表では尽くタイトルに手が届かない。
マラドーナとの比較やバッシングが悪化し、心が折れてしまったのである。
「よそ者」「失敗の象徴」「国家も歌えない非国民」「Pecho frio(冷たい心)」……他国から見たら信じられないレベルの醜い言葉を浴びせられてきたメッシ。
極貧の環境から成り上がり、国内のクラブで実績を上げた後、弱小ナポリをスクデットに導いたマラドーナと違い、メッシは幼くしてバルサへ渡り逆輸入されたエリート。
さらに気さくで何でもかんでも率直に発言するマラドーナとは違い、メッシは控えめでスーパースターらしからぬ性格。
多くのアルゼンチン人が思い描く理想像と真逆の背景やキャラクターだったことも、叩かれやすい要因となった。
しかもアグエロやイグアイン、マスチェラーノらも追随する意向を示し、代表は崩壊の危機に。
国中の道路情報板に「No Te Vayas Lio(行かないで、レオ)」の文字が表示され、大統領が電話で説得までした。そこまでするくらいならもっと大切に扱うべきだったのに……

その後彼らの引退は撤回されたが、そもそも代表はさらに根本的な問題に直面していた。
アルゼンチンサッカー協会で長年にわたって権力を握り続けていたフリオ・グロンドーナ会長が2014年に死去してから、その後釜をめぐって後継者争いが勃発。
汚職が蔓延、放映権料やスポンサー料などの大半は彼らの懐へ。会長選挙は不正だらけで、FIFAが介入する事態にまでなった。
結果、監督・スタッフは約半年無給。練習相手はおろかホテルや飛行機、食事の手配すらままならない……
世界的サッカー大国の実情がこれ。こんな状況では選手たちが辞めたくなるのも無理はないだろう。
2018年ロシアW杯の予選でも、4試合を残して5位に位置する不振に陥り、エドガルド・バウサ監督が解任された。
それでもエクアドルとの最終戦はメッシのハットトリックで勝利し3位浮上。本戦出場を果たしたのだが……*15

やはりチーム状態はボロボロで、初戦はW杯初出場のアイスランドにまさかの引き分け、クロアチア戦に至っては0-3の大敗。
ナイジェリア戦は2-1で勝利しどうにかグループリーグを突破したが、ベスト16のフランス戦は3-4という点の取り合いの末に敗れた。
さらにバウサの後を引き継いだホルヘ・サンパオリ監督と選手たちとの信頼関係が崩壊していたことも発覚。
アルゼンチンを破ったクロアチアやフランスは決勝に進出したとはいえ、この状態ではむしろよくグループリーグを突破できたなという感じである。

サンパオリ退任後多くのコーチやスタッフが追随したが、リオネル・エスカローニだけが残り暫定監督に就任した。
兼務していたU-20代表では、わずか3か月の準備期間ながらアルクディア国際ユース大会で優勝。
とはいえ、翌年のコパ・アメリカは監督業初となる公式大会。
初戦のコロンビア戦で敗れ、続くパラグアイ戦はかろうじて引き分け。準決勝ブラジル戦では2-0で敗戦。新米監督で優勝するのはさすがに無理があった。



タイトル奪還を目指し苦闘を続けるアルゼンチンだったが、追い打ちのように、2020年11月25日、悲しい出来事が起きる。




Murió Diego Armando Maradona(ディエゴ・アルマンド・マラドーナ死去)




まだ還暦を迎えたばかりでの死という、あまりにも早い別れとなってしまった。
この不世出のスーパースターの訃報に、アルゼンチン国内はもちろん、全世界のサッカー界が悲しみに包まれた。


……こうして、一つの時代が幕を下ろした。
そして新たな時代の幕開けは、思っていたより早く訪れるのであった。


・黄金時代 2021~2024


メッシが初出場したドイツW杯から、2021年のコパ・アメリカで早15年。
その間に、彼の活躍を子供の頃から見て育った世代が台頭してきた
ロドリゴ・デ・パウル、レアンドロ・パレデス、フリアン・アルバレス、クリスティアン・ロメロ、ラウタロ・マルティネス、エミリアーノ・マルティネス(以下エミマル)etc……
「大好きなメッシと一緒にサッカーがしたい」「メッシに今度こそ栄誉を」───
かくして、かつてメッシに憧れた子供たちが成長し共に戦うという激熱な構図が完成。
極度のメッシ依存から脱却し、「メッシ親衛隊」と呼ばれる世代の選手たちが彼の分も走って守り、時には点も取るチームに生まれ変わった。
……そして長い年月、常に世界最高の選手であり続けたメッシには頭が下がる思いである。

迎えたコパ・アメリカ。
初戦のチリ戦は、メッシがFKを決め先制。
しかし後半チリにPKが与えられ、アルトゥーロ・ビダルのキックはエミマルが弾くも、跳ね返ったボールをエドゥアルド・バルガスに押し込まれ引き分けに。
ウルグアイ戦とパラグアイ戦は共に早い時間帯で上げた先制点を守り切り勝利。グループリーグ最終節のボリビア戦は4-1の大勝。
ベスト8エクアドル戦も3-0で大勝、準決勝コロンビア戦はPK戦でエミマルが3本セーブを決める大活躍で決勝進出。
そして決勝のブラジル戦。お互い激しいプレーが目立つ中、22分、デ・パウルからのロングボールをディ・マリアがループシュートで決め先制。
52分にはエリア内右に抜け出したブラジルのリシャルリソンがクロスのこぼれ球を自ら押し込んでネットを揺らしたが、オフサイドの判定。
このまま虎の子の1点を守り切ったアルゼンチンは、実に28年ぶりのコパ・アメリカ制覇。そしてメッシにとってはフル代表初タイトルという記念すべき大会となった。

さらに付け加えると、この大会は元々2020年にアルゼンチンとコロンビアで共催する予定だった。
が、コロナ禍で延期となり、コロンビアは政情不安を理由に共催から降り、アルゼンチンも感染拡大から開幕2週間前に辞退してしまった。
そのため、ブラジルが前回のオリンピックの施設を全て使って開催することになったわけだが、各チームは厳重に隔離され、毎日朝昼晩、1か月半もずっと一緒に暮らしていた。*16
結果、アルゼンチン代表は監督やコーチ陣も含め、チームの結束がこれでもかと強まったのだった

EURO王者との対決であるフィナリッシマでも3-0とイタリアを圧倒したアルゼンチン。
残すはもはやW杯のタイトルのみ。

メッシ自身最後のW杯として臨んだ2022年カタールW杯。
ところがグループリーグ初戦、サウジアラビア相手にまさかの逆転負け。サウジアラビアはその翌日を祝日にしてしまったほどの大番狂わせだった。
いきなりのピンチに見舞われたアルゼンチンだったが、先発5人を変えて臨んだメキシコ戦はメッシとエンソ・フェルナンデスのゴールで勝利。
ポーランド戦はメッシのPKを防がれるも、アレクシス・マクアリスターとアルバレスのゴールで勝利。逆転で首位通過を果たした。
ベスト16のオーストラリア戦は2-1で突破し、メッシのクラブと代表キャリア通算1000試合出場達成を祝う形となった。

ベスト8のオランダ戦は、試合前から異様なムードに包まれていた。
監督会見でオランダのルイス・ファン・ハール監督は「メッシはもう走れない」「PK戦になったらこっちが有利」などと挑発。
試合も両チーム合わせてイエローカードが18枚。W杯史上最大数が飛び交う荒れ放題の展開に。
1点リード中の73分、メッシがPKを決めると、ファン・ハールに対しトッポ・ジージョのゴールパフォーマンスを見せつけた。
これはリケルメのゴールパフォーマンスで、リケルメはバルサ時代ファン・ハールから冷遇されていた。
さらにディ・マリアもマンチェスター・ユナイテッド時代に冷遇され*17、メッシ自身も2019年に「チームプレーヤーとしては好きではないね」と嫌味を言われていた。
このパフォーマンスはまさに、かつての仕打ちへの仕返しだったのだ。
それでもオランダは2点差を追いつき、ファン・ハールの言葉通りPK戦に持ち込むが……
オランダのシュートはエミマルが2本止め、アルゼンチン側は4人が成功。ベスト4への進出を果たした。

しかし、試合後も荒れた展開は続く。
メッシがインタビューを受けている中、試合で散々彼を挑発し続けていたオランダのボウト・ベグホルストが通りかかった。
すると……






何言ってんだバカ(QUE MIRAS BOBO)


あっち行けバカ!(ANDA PARA ALLA BOBO)





今まで何を言われても、何をされてもひたすら黙って耐え続けている印象だったメッシがガチギレした。
それまでも、2019年コパ・アメリカではブラジル寄りの判定が連発された時に怒りをあらわにするなど、変化の兆候はあった。
だが、この試合での変貌ぶりは、それまで彼のことを「Pecho frio(冷たい心)」と罵り続けていたアルゼンチン人ですら凍り付くレベルだったという
同時に、それだけの闘志を見せたことは、チームにも国内にも大きなプラスの影響を与えた。
この時発した「QUE MIRAS BOBO, ANDA PARA ALLA BOBO」はアルゼンチンの流行語となり、大量にグッズ化されたのだった。
なお、メッシ自身は子供たちへの悪影響を危惧し、この発言を悔いていたらしい。その辺はやはり優等生である。

準決勝クロアチア戦。
前回大会同様、得意のPK戦で勝ち上がってきたクロアチアだったが、アルゼンチンは前半だけでメッシのPKとアルバレスのゴールで2点をリード。
69分には右サイドを突破したメッシが相手DFヨシュコ・グヴァルディオルを振り切ると、PA右隅からクロスを送り、アルバレスのゴールをアシストし勝負あり。
終わってみれば3-0と完勝。前回大会と同じスコアできっちりリベンジを果たしたのだった。

決勝の相手はフランス。
前回大会王者にしてリベンジ相手。まさにラスボス感あふれる相手である。
そしてこの戦いは……W杯史上に残る名勝負となった。

22分、PKをメッシが決め先制すると、36分には完璧なカウンターからディ・マリアがネットを揺らし、2-0。
これに対し、フランスのディディエ・デシャン監督は前半41分の段階で2枚のカード*18を切る賭けに出る。
が、チーム内で風邪のような症状を示す選手が複数出るなどコンディションも悪かったフランスは結局盛り返せず、前半のシュート本数はゼロに終わる。
後半に入ってもアルゼンチンが圧倒する構図は変わらず、64分、ディ・マリアを下げDFのマルコス・アクーニャを投入して守備固めを図る。
こうして、このまま楽勝ムードで優勝かと思いきや……
前回大会でも圧倒的なスピードと才能を見せつけたキリアン・ムバッペが立ちはだかった。

79分、ムバッペがPKを決めると、わずか1分後にテュラムとのワンツーから再びムバッペが豪快なボレーシュートを叩き込み、あれよあれよという間に同点に。
2失点目はメッシのボールロストがきっかけ。この嫌すぎる流れの中、彼は……微笑みすら浮かべていた
その時の心境を、彼は以下のように振り返っている。*19




サッカーから、「このカップは僕がチャンピオンになるために作られたものではない」と言われたように感じた。

2014年の時を思い出し、また悲しみが繰り返されるだろうと思った……

すると、心の中から何者かの声が聞こえた。


「目を覚ませ愚か者。これはもう君の夢じゃない。世界の夢になったんだ」


そして再び立ち上がってつぶやいた。




「僕を止めるものは何もない」




監督のエスカローニ曰く、この大会でメッシは「心」でプレーしていた。
さらに練習の時点で、声すらかけられないほどに鬼気迫るオーラを纏っていたという。*20
それまで代表で苦しみ続けていた姿からは、明らかに違っていたのだ。

試合は90分で決着がつかずに延長へ。
109分、メッシがアルゼンチンに勝ち越しゴールをもたらすが、118分にムバッペがPKを決め再び同点に。
ムバッペ、1966年イングランド大会のジェフ・ハースト以来56年ぶりの、決勝戦でのハットトリックを達成
さらに延長後半終了間際、完全にフリーで抜けたコロ・ムアニとエミマルが1対1になるという、絶体絶命の大ピンチ。
しかしここはエミマルが、何と左足一本でセーブ
こうして命拾いしたアルゼンチン。名勝負の行方はPK戦に委ねられた。

先攻はフランス。
1人目のムバッペのシュートはエミマルがコースを読むも止めきれず。しかしメッシも決め1-1。
2人目のキングスレイ・コマンはエミマルがセーブ。アルゼンチン側はパウロ・ディバラが真ん中に決め1-2。
3人目のオーレリアン・チュアメニの放ったシュートは左の枠外に外れる。アルゼンチン側のパレデスは左隅に冷静に押し込み1-3。フランスは後がなくなった。
4人目のコロ・ムアニは真ん中上部に叩き込み望みをつなぐ。アルゼンチン側は、延長でPKを与えてしまったゴンサロ・モンティエル。
モンティエルは見事逆を突き、ついに勝負あり───


アルゼンチン、36年ぶり3度目の優勝。メッシも全試合フル出場、7ゴール3アシストで文句なしの大会MVP。
長年代表でW杯が取れずにいたメッシが、名実ともに「史上最高(Greatest Of All Time)」「神」になった瞬間であった。
そしてそこに何度も食らいつき立ちはだかる若きムバッペという構図も、ドラマ性を引き立てていたと言えるだろう。

この大偉業に、アルゼンチン国内は歓喜に包まれお祭り騒ぎに。
凱旋パレードには、実に400万人もの大群衆が押し寄せるという凄まじい光景が繰り広げられた。
ちなみにアルゼンチンの人口は2022年で約4,623万人。つまり、国民の1割弱がパレードに押しかけてきたということになる。
ぶっちゃけ、渋谷で騒ぐサポーターがかわいく見えるレベルである。

フィクションならここで完結してもおかしくないところだが、物語はもう少し続く。
2024のコパ・アメリカ、アルゼンチンは王者らしくグループリーグを3連勝無失点で突破。
ベスト8のエクアドル戦はPK戦となったが、何とメッシが外すという展開に。しかもパネンカまでやって外すというやらかしぶりである。
しかしそこはエミマルが1人目から2本連続でセーブ。残りは全員が決めてベスト4進出。
カタールW杯といい、失敗してもすぐ立て直し、メッシだけに依存しない彼らのメンタリティは計り知れないものがある。
準決勝の相手は、初戦の相手にして、北米の新興国ながら大健闘のカナダ。この試合はメッシの本大会初ゴールもあり2-0で勝利。

決勝の相手はコロンビア。
試合前から、チケットを持たないサポーターら数千人がスタジアムのゲートを破り入場を試みる大騒動で試合開始は大幅に遅れるという異様な展開。
前半をスコアレスで折り返すと、後半悲劇が訪れた。
前半の時点で右足を痛めていたメッシだったが、ついにプレー続行不可能レベルになってしまい、無念の途中交代に。
ベンチで顔を覆いながら号泣する彼の姿に衝撃を受けた人も多いだろう。
それでも試合は一進一退の展開の中延長まで進むが、なかなかゴールをこじ開けられない。
すると111分、相手PA内に侵入したラウタロ・マルティネスが、GKとの1対1を危なげなく決め1-0に。
最後はこれを守りきり、アルゼンチンはコパ・アメリカ連覇達成。通算16回目の優勝と単独トップとなった
たとえピッチからメッシがいなくなっても、彼の存在はチームにとって大きな力となっていたのだ。


主な選手



○アルフレッド・ディ・ステファノ


レアル・マドリー最大のレジェンドと呼ばれる選手で、1955年から1960年にかけて欧州チャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)5連覇という偉業を成し遂げている。
実は元々バルサが獲得するはずだったが、国家権力の介入により放棄せざるを得なくなり、その因縁を決定づけた。
活躍した時代が古すぎるため実感を持って語られづらいものの、その実力はペレやマラドーナですら自分たち以上と認めるほどで、攻守問わずあらゆるポジションでプレーできた
その万能ぶりは、「ディ・ステファノが1人いればあらゆるポジションが2人いるのと同じことだ」と言われた。
代表では1947年の南米選手権で優勝した後コロンビア代表、スペイン代表と鞍替えしている珍しい経歴となっているが、結局W杯の舞台に立つことはなかった。

○マリオ・ケンペス


アルゼンチンW杯の得点王に輝いたストライカーで、「闘牛士」と呼ばれていた。
優勝メンバーで唯一の海外組でもあり、バレンシアでも得点王に輝いている。
長髪にワイルドな風貌に反して謙虚な性格であり、スペインW杯ではマラドーナに10番を譲ったほど。*21
しかし、後継者があまりにも濃い面子ばかり揃ったせいか、アルゼンチン国内でもあまり話題にならないなど不遇な立ち位置らしく、マラドーナも嘆いていた。

○ダニエル・パサレラ


アルゼンチン大会のキャプテンで、CBにしては小柄ながら空中戦に強く、FKなど攻撃面でも力を発揮。
DFとしての得点数はロナルド・クーマンに次ぐ2位である。
その厳格な姿勢から「偉大なキャプテン」と呼ばれたが、やがて後から入ってきたマラドーナと対立するように。
メキシコW杯でもメンバーに選ばれたが、マラドーナに国際電話を一人でかけまくっていたことを暴露されチームの信頼を失ったこと*22や、全腸炎とふくらはぎの負傷のため出場しなかった。
監督になっても厳格な姿勢は変わらず、フランスW杯では、選手たちが試合中に髪を触る回数をビデオでチェックし長髪禁止令を出すなど物議を醸した。
マラドーナ「あいつはそのうち、チ×ポを触る回数が多ければチ×ポを切れと言い出すんだぜ」

○オズワルド・アルディレス


小柄ながらも類まれな技術と、弁護士資格を持つほどの知性を持つ攻撃型MF。
アルゼンチンW杯制覇後トッテナムへ移籍。イングランドで初のアルゼンチン出身プレーヤーとして大活躍するが、フォークランド(マルビナス)紛争が勃発
パリSGへの移籍を余儀なくされたが、スパーズのサポーターからは、「フォークランドはくれてやる。だがオジーは渡さない」と言われるほど愛された。
その後トッテナムに復帰し、1984年にUEFAカップ獲得に貢献している。
引退後は各国のクラブで監督を歴任しているが、Jリーグでは清水エスパルスでナビスコカップ獲得、横浜F・マリノスで第1ステージで優勝、東京ヴェルディでは天皇杯のタイトルを獲得した。
というわけで、アルゼンチンW杯の優勝メンバーの中ではおそらく最も日本人になじみ深い選手だろう。

○ウバルド・フィジョル


70~80年代の南米を代表するGK。
西ドイツ大会から3大会連続で出場しており、その飛び抜けた反射神経から「スーパーマン」と呼ばれていた。
クラブでも同様にパサレラと共にリーベルで長年活躍し、リーグ3連覇に導いた。

ディエゴ・マラドーナ


ご存じ20世紀で最も偉大なサッカー選手にして、最大のネタ選手
「神の手ゴール」や「5人抜きゴール」に弱小ナポリを優勝に導いた功績はもちろん、薬物問題に隠し子騒動など、とにかく功も罪もエピソードには事欠かない。
詳しくは個別記事にて。というか、あちらでも書き足りないくらいである。

○ホルヘ・バルダーノ


86年メキシコW杯でマラドーナの女房役を務めたFW。
マドリーの黄金時代の一つ「キンタ・デル・ブイトレ」の主力選手でもある。
監督時代は1991-92シーズン、離島の小クラブのテネリフェを率いて残留に導き、最終節では古巣マドリー相手に大逆転劇を演じ優勝を阻止していた。
その後マドリーの監督に就任しラウールを発掘。1994-95シーズンにリーガ優勝を果たした。

○オスカル・ルジェリ


リーベル時代にトヨタカップを制覇した経験を持つCB。
空中戦を得意とするスタイルから「デカ頭」と呼ばれていた。
86年メキシコW杯では大会で最も優れたストッパーと称賛され、代表キャップ数はディエゴ・シメオネに抜かれるまで最多記録を持っていた。

○クラウディオ・カニージャ


ジョホールバルの歓喜の立役者である岡野雅行氏が憧れた快速ウインガー。
幼いころから陸上競技をやっていただけあって、その俊足ぶりは100m走で10秒5を記録するほど。
その長い金髪をたなびかせるワイルド系イケメンな風貌もあって、愛称も「天使」「風の申し子」と、やたらかっこいいのが多い。
ちなみに岡野氏は彼を真似て髪を伸ばしたが、その結果つけられたあだ名は「野人」である
イタリアW杯でブラジル相手に決勝点を挙げ国民的ヒーローになった彼だが……

  • そのイタリアW杯準決勝で不用意なハンドを犯し、累積により決勝の出場不可に。もし彼がいたら優勝できたかもしれないのにと嘆く声多数
  • ローマ時代、コカイン使用により13か月の出場停止処分が科せられ、1993-94シーズンを棒に振った
  • ボカ・ジュニオルス時代、リーベルとのスーペルクラシコで点を決めると、ゴールパフォーマンスでマラドーナとディープキス
  • 長髪のためにフランスW杯を落選した後、靴屋で靴の値札を安いのにすり替えて逮捕された。しかも2、3足ちょろまかそうとしていた
  • 6年ぶりに代表復帰した日韓W杯では、試合中の判定を巡りベンチから審判に暴言を吐き、W杯初のベンチからの退場者となる
  • 妻マリアーナ・ナニスが派手好きな鬼嫁で尻に敷かれまくり
  • 現在は3人の子供のうち2人がタレントとなり、母親以上に奇抜な性格から、今やアルゼンチンの若い世代ではそっちの方が有名に

……こちらもかなりのネタ選手である。
その一方で、1996年に母親が飛び降り自殺してしまうという悲劇的な一幕もあったが……

○ガブリエル・バティストゥータ


90年代を代表するエースストライカー。愛称は「獅子王」とこちらもかっこいい。
恐るべき破壊力を持つシュートを武器にゴールを量産し、セリエAの外国人最多通算得点記録を、代表でも歴代2位の得点記録を保持している
マシンガンを撃ちまくるゴールパフォーマンスも相まって豪快である。
また、元々はバスケ選手を志望していたが、17歳で本格的にサッカーに転向したという経歴の持ち主でもある。

○フェルナンド・レドンド


フィールドの中央に構え、長短織り交ぜたパスでゲームを支配する「王子様」。
テネリフェでバルダーノに発掘された後、マドリーで長く活躍しており、特に1999-00シーズンにはキャプテンとしてチームを牽引。
中でもCLのマンチェスター・ユナイテッド戦で見せたスルーパスは語り草となっている。
しかし代表の折り合いは悪く、イタリアW杯は学業を優先するために辞退、フランスW杯では長髪禁止令に反対して辞退している。
ちなみに、マドリーと代表の後輩サンティアゴ・ソラーリの従姉と結婚しているため、現在期待の若手である息子のフェデリコはとんでもないサラブレッドということになる。

○ディエゴ・シメオネ


勝利のためなら手段を選ばず、ファウルを厭わない激しいプレーと挑発行為で数多くの選手を葬った守備的MF。
フランスW杯でベッカムを退場に追いやったことでも有名。
一方で、代表で史上初めて100試合出場を達成し、現在も歴代4位の出場試合数を誇る。
監督となった後は長年にわたってスペインの強豪アトレティコ・マドリーを指揮しており、2013-14シーズンには18年ぶりのリーグ優勝を果たすなど、今や屈指の名将の一人である。

○ハビエル・サネッティ


インテルのレジェンドの一人で偉大なキャプテン。右サイドならDF、MF問わずこなせた。
現役を退いた2014年までの19年間で公式戦通算860試合に出場するなど40歳までトップコンディションを維持し、最前線でチームを牽引してきた鉄人。
さらにはプロキャリアを通して退場はわずか1回のみという紳士でもある。
長友佑都とサイドバックコンビを形成した時期もあり、長友が初ゴールを決めたときは共にお辞儀パフォーマンスを披露したことも。
インテルで彼の背番号4は永久欠番となっており、2024年現在はここの副会長を務めている。

○アリエル・オルテガ


メッシ以前の「マラドーナ2世」の一人。
屈指のドリブラーであり、小柄でずんぐりした体格からのドリブルは抜群のスピードと切れ味を誇っていた。
しかしトラブルメーカーとしての一面もあり、フランスW杯では前述の通り4試合2得点3アシストの活躍を見せながら、オランダ戦の頭突き事件で戦犯に。
さらにキャリア晩年はアルコール中毒に苦しんでおり、確かな実力を持ちながら各地のクラブを転々としていた。

○ロベルト・アジャラ


代表では歴代2位となる113試合に出場、その内半分以上で主将を務めた闘将。
優れた跳躍力で空中戦に強く、特にセットプレーで強さを発揮した。
その激しいプレーと殺気は、あのロナウドや大久保嘉人を恐れさせたほど。
クラブではバレンシアで2度のリーグ制覇を達成し、CL決勝に導いた際には大会オールスターに選出された。

○フアン・パブロ・ソリン


並外れた運動量を武器に主たる左SBを始め左サイド全般でプレーし、やろうと思えばMFでもFWでもプレーできる万能型。
ドイツW杯ではキャプテンを務めている。
クラブではブラジルのクルゼイロでの功績が大きく「ブラジル人に最も愛されたアルゼンチン人」と言われるほど。
ワイルドな風貌とは裏腹に知性派で、自身のラジオ番組では政治や音楽についても語ったり、ガルシア=マルケスやヘッセの小説を愛読する読書家という一面も持っている。

○エルナン・クレスポ


バティストゥータ後の代表のエースストライカー。
1996年にリーベルでコパ・リベルタドーレス制覇に貢献するとパルマに渡り、コッパ・イタリアとUEFAカップの優勝に貢献。
在籍した6年間で通算94得点を記録しており、クラブ史上最多得点者となっている。
その後パルマが破産した時は、副会長として復帰したこともある。
監督としては、デフェンサ・イ・フスティシアという無名クラブをコパ・スダメリカーナ優勝に導いている。

○ファン・セバスティアン・ベロン


ナッパみたいな風貌のテクニシャン。
愛称は「Brujita(小さな魔法使い)」。これは代表の左ウイングだった父ラモン氏が「Bruja(魔法使い)」と呼ばれていたことが由来。
同じパルマで活躍したクレスポとは親友で、共にコッパ・イタリアとUEFAカップの2冠を達成。
キャリア晩年にはエストゥディアンテスをクラブ史上39年ぶり4度目のコパ・リベルタドーレス優勝に導き、さらに給料の40%を下部組織のために寄付した
その後のクラブW杯でバルサと死闘を繰り広げていた姿を覚えている方も多いだろう。

○ファン・ロマン・リケルメ


現代サッカーの流れに真っ向から逆らう古典的なタイプの司令塔。
動きの少ない古風なスタイルで「恐竜」と揶揄されながらも、一撃必殺のスルーパスと異次元のボールキープ力を併せ持つ。
ほぼトップ下一本でプレーし2001年に南米年間最優秀選手賞を受賞、ボカでは5度のリーグ制覇に貢献。2024年現在はボカの会長を務めている。
南アフリカW杯予選でマラドーナと仲違いし代表引退を表明したが、ボカのサポーターたちの多くはリケルメの側についた。
これは、いくらレジェンドと言えどマラドーナはボカではリーグ優勝1回しかしていなかったためである。

パブロ・アイマール


かのメッシも憧れたファンタジスタ。
その予測不能でエンタメ性あふれるプレーは、マラドーナに「高いお金を払っても見たいのは彼だけ」と言わしめたほど。
バレンシアではCL決勝進出を果たし、2003-04シーズンにリーグ優勝を達成している。
また、天パながらも愛らしい風貌もあって女性人気も高かった。
詳しくは個別項目にて。

○ハビエル・サビオラ


「ウサギ」の呼び名通り、素早い身のこなしとパスセンスやドリブルスキルを持ったストライカー。
こちらも童顔の愛らしい風貌から人気が高かった。
16歳でリーベルのトップチームデビュー。翌年にはリーグ最優秀選手、得点王、新人王、そして南米最優秀選手に輝いた。
ワールドユースでも優勝、得点王、MVPに輝いている。
しかしその後クラブの方には恵まれず、バルサに所属していたのはあの暗黒期。
レンタルでたらい回しにされた挙句マドリーへ禁断の移籍までしているのだが、その扱いの不遇さからあまり叩かれておらず、むしろ同情の声すら上がったほど。

○ハビエル・マスチェラーノ


相手のボールを刈り取る守備の要。
バルサ入団初年度の2010-11シーズン、守備陣が相次いで負傷離脱していたためピボーテ(ボランチよりやや攻撃的なイメージ)からCBにコンバートされたが、これがフィット。
ブラジルW杯では、チームが決定力不足に悩まされる中奮闘していた姿が印象的だった人も多いはず。
というか、この大会の代表はある意味彼のチームだったといっても過言ではないだろう。
特にオランダ戦の後半終了間際、アリエン・ロッベンのシュートをスライディングで阻止したシーンが語り草。
なお本人曰く、この時にケツ穴が開いてしまったというが、おかげでチームメイトからイジられたらしい……

○カルロス・テベス


優れたテクニックと闘志に活動量、スピードとキック能力。いずれも高い水準でまとまったFW。
2007-08シーズンはマンチェスター・ユナイテッドで2冠(CL・リーグ優勝)を達成し、クラブW杯でも優勝したため、南米・欧州の両代表で同タイトルを獲得した史上初の選手となった
マンチェスター・シティでは2010-11シーズンからはキャプテンに就任。クラブ35年ぶりのタイトルとなるFAカップ優勝と、クラブ初となるCL出場権獲得に貢献。
サッカー選手の生い立ちは貧しい環境から成り上がって……というパターンが多いが、彼の場合屈指の過酷な育ち。
生まれる前に実の父親が殺され、幼い頃に大火傷を負い2か月間も入院した。親友は悪の道に行ってしまい警察に射殺されたetc……
首に火傷の跡が残っているが、これは生きた証として、あえて治さないようにしている。

リオネル・メッシ


ご存じバルサのレジェンドにして21世紀最高のサッカー選手
バルサで獲得したタイトルはCL4回、リーグ優勝10回、国王杯7回。さらに最高の選手に与えられるバロンドールは前人未到の8回受賞
代表でも歴代最多出場、歴代最多得点、W杯歴代最多試合出場、W杯歴代最多出場時間に加え、カタールW杯制覇まで成し遂げたのだから、もはやその功績は神レベル。
詳しくは個別項目にて。

○セルヒオ・アグエロ


小柄ながらも強靭なフィジカルと決定力を武器に代表歴代3位のゴール数プレミアリーグ外国人最多得点記録を保持するストライカー。
特にマンチェスター・シティでは長年活躍。
44シーズンぶりのリーグ優勝決定ゴール(通称『93:20』)をはじめとした数々の記憶に残るゴールを積み上げ歴代最多得点者となり、レジェンドとして本拠地に銅像が建立されている。
そしてメッシの大親友で、マラドーナの次女と結婚した逆玉でもある。その後離婚したため義父から恨まれるハメになったが
愛称の「クン」は、まさかの日本のアニメ『わんぱく大昔クムクム』が由来。
しかしメッシと入れ違いとなったバルサ移籍後ほどなくして、不整脈で引退に追い込まれるという悲運に見舞われるが、カタールW杯ではサポートメンバーとしてメッシを支えていた。
なお、ホテルの同室で先に爆睡してネタにされたり、優勝後はメッシを肩車して背中がぶっ壊れそうになったり、歓喜のあまりうっかり息子をホテルに置いてけぼりにしそうになったのだった
2024年現在はeスポーツのみならず、Twitchの登録者数470万人、YouTube公式チャンネルでも430万人超えの人気を博し、ストリーマーとして大活躍中。

○アンヘル・ディ・マリア


「Ángel(天使)」で「マリア」と厨二心くすぐる名前のサイドアタッカー。ついでに誕生日はバレンタインデー
手でハートを作るゴールパフォーマンスで有名。
典型的な左利きのドリブラーだが、パス、ドリブル、シュートのクオリティ全てが世界トップクラスで、特にラボーナを得意とする。
マドリーでは2013-14シーズンのCL、アトレティコとの決勝でMVPに選ばれ、マドリーは10回目のCL優勝を達成した。
代表における「メッシの相棒」筆頭格。十分にスターと言えるキャリアを送っているのだが、何かと隣に大スターを擁しがちなせいで「名脇役」の呼び声が高い。
ブラジルW杯では、ベルギー戦での怪我さえなければアルゼンチンが優勝していたろうにと嘆かれることもあるほど。しかしその後の代表はご存じの通り。
2024年のコパ・アメリカを最後に代表引退。代表は連覇を果たし、有終の美を飾ったのだった。

○ゴンサロ・イグアイン


的確な判断力と圧倒的なシュート技術を持つストライカー。
マラドーナからは「バティとクレスポの資質を備えている」と評されており、クレスポからも後継者と認められた。
南アフリカW杯では、この大会唯一のハットトリックを決めている。
また、フランス生まれのため、フランス代表から声がかかったこともある。
ちなみに声をかけたのはあのレイモン・ドメネク監督。行かなくてよかった……

○ニコラス・オタメンディ


CBとしては決して大きくない身長だが、堅実な守備力や怪我のしにくさでシティなどで活躍した。
ただカードが多く、2020-21シーズンのベンフィカでは15枚のイエローカードと1枚のレッドカードをもらっている。
ロシアW杯ではクロアチア戦でイヴァン・ラキティッチに、フランス戦ではオリビエ・ジルーやポール・ポグバに対してラフプレーを露呈してしまっている。
逆にコパ・アメリカでは十分な実力を発揮しており、大会ベスト11に選ばれたことが2度もある(2015と2016)。

○ニコラス・タグリアフィコ


アルゼンチン代表の中ではクリーンな守備スタイルの左SB。
多くのアルゼンチン選手に違わずイタリア系だが、「タグリアフィコ」*23という苗字はイタリアで91家族しかない、かなりの珍名である。*24
実は日本文化オタクで、日本代表のユニフォームを何枚も所持していたり、日本の工房に特注の居合刀を発注したりしている
さらには本来の意味でも画伯。つまりプロ並みの画力の持ち主なのである。

○エミリアーノ・マルティネス


長年GKの人材不足に悩まされていたアルゼンチンに現れた希望の星。
愛称の「ディブ」は、子供の頃のテレビ番組のキャラクターが由来。日本では単に縮めた「エミマル」呼びが多い。
ソツなく総合力の高いGKだが、PK戦に異様に強く、そのメンタルの強さや相手への煽りぶりはサイコパスと言われることも。
W杯やコパ・アメリカ優勝時の、股間にトロフィーを当てるパフォーマンスは下品すぎると物議を醸し、彼の奇人ぶりを表す代名詞となった。
1回目で具体的なお咎めはなかったからって2回やるやつがあるか
一方で、若くしてアーセナルに引き抜かれるもレンタルでたらい回しにされ、20代後半になって完全移籍した先でようやく正GKの座を掴んだ苦労人でもある。
そのため、言葉の壁に悩む若手をサポートするなど聖人としての一面を併せ持つ。

○ロドリゴ・デ・パウル


メッシ親衛隊の若頭と評される選手で、よくメッシの隣にいる。
その忠誠心は、「メッシが俺達のキャプテンになってくれれば、彼のために戦場にでも行く」と語るほど。
実際、彼とはチームで最も親しい友人の一人らしい。
仲良くなったきっかけは、ロシアW杯後傷心状態のメッシが6試合欠場し復帰した時のこと。
キャプテンを代行していた彼はパレデスを連れて、メッシの部屋の扉をノックした。
「メッシパイセン、一緒にマテ茶でもいかがっすか?」
こうしてメッシは新しいチームメイトたちと打ち解け、真のリーダーとしての自覚を持つようになったという。*25
つまり、メッシと若手選手の橋渡しをしたというファインプレーをやってのけたのである
ウディネーゼ時代の2018-19シーズンにはリーグ戦36試合で9ゴール8アシストを記録し、セリエA屈指のチャンスメイカーに。
その後のアトレティコでは、チームの中盤を支える必要不可欠な存在となっている。
2021年のコパ・アメリカのエクアドル戦では、メッシのアシストから初ゴールを決めている。
カタールW杯でもグループステージ初戦から準決勝に至るまで先発出場し、決勝でも延長でパレデスと交代するまで攻守に奔走し続けた。

○レアンドロ・パレデス


デ・パウルと並ぶメッシ親衛隊の若頭。
その忠誠ぶりは、試合中にメッシが削られたり暴言を吐かれたりすれば真っ先に飛んできて守ろうとするほど。
ボカでデビューし、レジェンドのリケルメ本人からアドバイスを受けていたという、本家公認のリケルメの後継者。
2023-24シーズンにはローマに完全移籍し、レジェンドのダニエレ・デ・ロッシの背番号16を受け継いでいる。
デビュー当時は攻撃型MFだったが、時が経つにつれセントラルMFや守備型MFになっていった。

○クリスティアン・ロメロ


ボールの流れを読み出す予測力と守備センスに優れたCB。
2020年からローンで加入した中堅アタランタでリーグ3位、コッパ・イタリア決勝進出に貢献。リーグ最優秀DFにも選出された。
その後トッテナムへ移籍し、プレミアリーグを代表するDFとなっている。
2023年のエクアドル戦でクリーンシートに貢献した時、メッシから「僕にとって彼は今世界最高のDFだ」とお褒めの言葉を賜っている。
そして2024年コパ・アメリカでは、リサンドロ・マルティネスと共に大会中6試合でわずか1失点のみという鉄壁の守備を見せた。

○フリアン・アルバレス


FWと攻撃型MFの両方を高いレベルでこなせるユーティリティアタッカー。
愛称は「araña(蜘蛛)」で、幼い頃からずっとその名前で呼ばれているのだという。
欧州入りしたシティ時代は同時加入した「怪物」アーリング・ハーランドの陰に隠れながらも加入初年度からリーグ戦31試合に出場して9ゴールをマーク。
2023-24シーズンは先発出場の機会が増加し、公式戦54試合で19得点13アシストを記録した。
カタールW杯時には、自身のインスタグラムに10年前に撮ったメッシとの記念写真を投稿。
かつてメッシに憧れた子供が今、共に戦っているという、そのドラマチックな運命が話題になった。

○ラウタロ・マルティネス


FW大国のアルゼンチンで、現在エースストライカーの系譜を受け継ぐと目されているFW。
175cm程と小柄ながらパワフル、かつ様々なプレーに対応できる万能型。
インテルでは当初マウロ・イカルディが君臨していており、トップ下という慣れない役に苦労していた。
その後イカルディがチームと揉めて欠場するようになると徐々に出場機会を増やし、エースの立場に近づいていく。
ロメル・ルカクとの相性は抜群でゴールを量産し、「ラウカク」と呼ばれていたが、ルカクの不義理によりコンビ解散してしまう
2023-24シーズンから正式にキャプテンに就任。リーグ優勝に導き得点王に輝いた。
カタールW杯では不発だったが、2024年コパ・アメリカ決勝では、メッシを欠いた状況下での延長戦で値千金の決勝ゴールを挙げており、大会得点王にも輝いた。

○アレクシス・マクアリスター


中盤であればほぼ全域でプレーできる万能MF。
スペイン系やイタリア系が多いアルゼンチンでは珍しい響きの名前だが、実際スコットランドとアイルランドの血を引いている。
サッカー一族の出身で、2人の兄もプロ選手。
父はアルゼンチンの観光・スポーツ大臣を務めた経験があり、現役時には僅かながら代表でマラドーナと共にプレーした経験を持つ。
叔父はJSLの三菱重工業サッカー部(後の浦和レッズ)に所属していたことがある。
カタールW杯ではサウジアラビア戦を除く6試合で先発出場。ポーランド戦では代表初ゴールを挙げ、決勝のフランス戦ではディ・マリアのゴールをアシスト。
この活躍に加えてクラブでも三笘薫らと共にブライトンを躍進させたことで、短期間で一躍知名度を高めることとなった。

○エンソ・フェルナンデス


優れたボール奪取力と精度の高いロングパスを誇るMF。
「エンソ(Enzo)」の名前は、父がエンツォ・フランチェスコリのファンだったことからつけられた。
カタールW杯ではポーランド戦でスタメン起用されるとアシストを記録し、その後はアンカーやダブルボランチの一角として活躍しW杯制覇に大きく貢献。
大会最優秀若手選手に選ばれ、直後にプレミアリーグ史上最高額でチェルシーFCにぶっこ抜かれることに。
2024年コパ・アメリカではペルー戦や準決勝カナダ戦でアシストを決める活躍を見せた。が、優勝後に人種差別的チャントをやらかして大炎上した。



追記・修正は、決勝で涙する年月を過ごしたとしても、みんなでW杯優勝の夢を見てからお願いします。


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最終更新:2025年03月27日 22:20

*1 一例として、2010年代は前線にワールドクラスの選手がひしめく一方、それ以外のポジションが人材不足気味になった結果バランスを崩していた

*2 同じ白人国家とされるウルグアイでも、ホセ・アンドラーデやオブドゥリオ・バレラといった歴史に名を残した黒人選手がいるのだが

*3 イタリアは別で、アルゼンチン人には必ず先祖にイタリア人がいると言われるほど結びつきが強いため、お互い兄弟のように感じている模様

*4 引退後は1940年~1960年と、実に20年もの間代表監督を務め、コパ・アメリカで6回優勝した。また、その合間にアルゼンチン国内のクラブの監督も兼任しており、その時に発掘したのがアルフレッド・ディ・ステファノだった

*5 1950年ブラジルW杯を辞退したのは、1945年のアルゼンチンとブラジルの対抗試合コパ・ロカで大乱闘になり、両国協会が絶縁状態になったからという説がある

*6 選手の引き抜きにより弱体化が深刻化した南米各国はFIFAに働きかけ、1962年チリ大会後から「選手は生涯1代表」というルールが定められた。もっとも、2000年代のカタール代表などは、その穴を突いて代表公式戦の経験のない他国の選手を帰化させまくっているのだが

*7 1930年ウルグアイ大会でアルゼンチンの主力だったルイス・モンティは、イタリア大会でイタリア代表に鞍替えして優勝した。つまり、「W杯決勝に異なるチームでそれぞれ出場したことがある史上唯一にして最後の選手」である

*8 例として、この時代のリーベル・プレートは「ラ・マキナ(マシン)」と呼ばれるほど爆発的な攻撃力を持っており、6度の南米選手権のうち4度制覇するなど圧倒的な強さを誇った。その先進性からオランダの「トータルフットボール」の原型になったと言われている

*9 そもそも1970年代前半までW杯に対してそれほど力を入れていなかったのか、1974年西ドイツW杯では大会直前に代表チームが到着、そこでようやく欧州組が合流という悠長さである

*10 元々アルゼンチンの国内リーグは、首都圏のリーグと地方都市のリーグに分けられていた。それだけ、首都圏のクラブと地方のクラブでは力の差があると思われていたわけで、この試みは当時は画期的なものだった

*11 https://www.youtube.com/watch?v=wU73nBCMsfY

*12 https://www.youtube.com/watch?v=HhoERhVfSAU

*13 ペルーのGKラモン・キローガがアルゼンチンからの移民だったことも、その疑惑を裏付けていた

*14 アルゼンチンのマルチタレント、アルフレッド・カセーロは、現地の寿司バーで聴いた『島唄』に心奪われカバーしたところ、アルゼンチン国内で大ヒット。そのまま応援歌にまでなってしまった

*15 ちなみにこの南米予選でメッシが出場した試合は6勝3分1敗、メッシなしだと1勝4分3敗。「メッシいらね」という論調が、いかに的外れなものだったかがわかるだろう

*16 アルゼンチン側は感染を避けるため自国でキャンプを行い、試合当日にブラジル入りし、試合後は当日中に帰国という手段を取っていた

*17 ディ・マリア自身ファン・ハールのことを「最悪の監督」と断言するほど嫌っていた

*18 マルクス・テュラムとランダル・コロ・ムアニin、オリビエ・ジルーとウスマン・デンベレout

*19 https://x.com/BarcaWorldwide/status/1789594482561765503

*20 https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=fKi1bd9uukg

*21 当時のアルゼンチンは名前のアルファベット順に背番号を決めており、ケンペスの場合ポジションと番号が偶然一致した。ちなみに後述のアルディレスは「A」から始まる名前だったために、フィールドプレーヤーでは非常に珍しい1番をつけた選手となった

*22 代表では国際電話の料金は選手全員で分担するルールだった

*23 イタリア語の発音だと「ターリャフィコ」

*24 https://www.cognomix.it/origine-cognome/tagliafico.php

*25 ロシアW杯の時は、部屋に数時間引きこもってほとんどアグエロとしか口を利かないような状態だったらしい