山口良忠(裁判官)

登録日:2017/03/13 Mon 23:45:02
更新日:2024/07/25 Thu 19:50:00
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山口良忠とは、日本の有名な裁判官である。
(1913年11月16日 - 1947年10月11日)

死亡時で数え年34歳。しかも、戦後すぐに、大して出世もせず亡くなった東京地方裁判所の一裁判官にすぎない。
最高裁判所の裁判官だって、知らない人の方が多いだろう。

ではなぜ、この山口裁判官は有名になったのだろうか?
それは彼の死をめぐる悲しく、考えさせられるエピソードにある……。


プロフィール


佐賀県出身。
旧制中学・高校・大学と順調に進学。大学院で刑法を学び、卒業して当時の司法試験を受け、裁判官となった。
戦前の旧学制では、中学でも今の大学以上のエリート。
山口裁判官は超エリートと呼ぶにふさわしい人物だったのだ。

佐賀にいたころは、学業の傍ら、同級生にも知らせず自分の父親がやっていた夜学の塾の手伝いをしていたという。
死後も、山口裁判官の周囲の人物が親愛の情をこぞって示した。ただの機械的な堅物やルール大好きな偏執狂などではなかったのである(←ここ重要)。

1942年には、東京で民事裁判を担当する。
そして1946年10月から東京で経済事犯、つまり盗みや殺人と言うような犯罪ではなく、会計帳簿を操作したり、ダンピングのような経済的な犯罪行為を裁くための裁判官となった。

1946年当時、彼の下に連れてこられる被告人の多くは、いわゆるヤミ米を使った食糧管理法違反で起訴された被告人であった。

このことが、後に彼を餓死へと追い込むことになるのである。

時代背景


その死について知るには、まず時代背景を紐解く必要がある。

山口裁判官が刑事の裁判官になった1946年当時は、日本が太平洋戦争で敗戦した直後である。

戦前の日本では、人口が爆発的に増加。それに食糧生産が追い付いておらず、太平洋戦争以前から食糧の生産基盤は脆弱な状態だった。
足りない食料は中国や朝鮮半島などの旧日本領の外地で生産し、日本に輸送していた。

ところが、その食料を輸送する船は戦時中の徴用や通商破壊で甚大な被害を被っていた。
しかも、終戦に際して輸送船は外地からの復員輸送にとられた挙句、中国や朝鮮半島の食料生産拠点をも日本は喪失してしまっていた。
一方で、復員輸送に伴って外地の日本人が大量に帰国し、日本国内の人口が大幅に増えてしまった。
国内で生産しようにも、働き手*1が大量に太平洋戦争で失われ、生き残りを復帰させるにも時間がかかる。
人手が復活しても、食糧は種をまいてすぐに出て来る代物ではない。

追い打ちのように1945年は天候不順で、国内の生産量まで落ち込んでしまった。

こうして日本は、戦時中よりひどい飢餓に陥ってしまった。

日本政府は、戦時中に制定された食糧管理法に基づき、農家が生産した食料品を自家用以外残らず買い上げ、食糧を国民全体に配給することにした。
この食糧管理法以外で勝手にやり取りされる食品類は、いわゆる「ヤミ米」としてほとんど違法になった。

こうすれば、生産された米は無駄にならず、買い占め行為も違法となって、飢餓から国民を守れる。
だが、実際にはそれだけのことをしても、当時政府が管理していた食料は底をついていた。

日本政府は連合国軍総司令部(GHQ)に食糧援助を懇願するが、つい先日まで戦っていた国から食糧援助を要求されて、はいそうですかと援助してくれる国などそうそうあるものではない。
ただでさえまだまだ反日感情が強い時期、日本人の飢餓は戦争を起こした日本の自己責任として片付けられてもおかしくないところだった。
『ララ物資』とよばれる、海外の日系民間人による援助物資も届けられたが、それでも足りるものではなかった。

こうして飢餓に陥った日本国内では、食糧を求めてデモが頻発。
日本が降伏するときですら目立った混乱が起きなかったにもかかわらず、飢餓に耐えかねた日本人が25万人もの規模でデモを起こしたことに、流石のGHQもビビった。
「日本に食糧入れないと反乱がおきる。反乱を鎮圧する兵の食糧を出すより今の日本に食糧を出す方が安上がりだ」
と強硬にアメリカ本国に半分脅迫のような説得をかけ、やっとのことで食糧援助が始まった。

だが、GHQ内部ですら食糧の輸入は日本のたかりだと言う者もおり、援助の手は決して力強いものではなかった。
また、日本はやっと手に入れた食糧と引き換えに、国内のヤミ米を徹底的に取り締まらなければならなくなった。
日本政府が食糧確保に緩い姿勢でいると、それを口実に簡単に輸入を止められかねないからだ。
それに、国が何もしなければ、国民全体が飢えている中で、金に物を言わせて食糧を買い占め、足許を見て高く売りつけるような商売を企むブローカーもでかねない。
国による食料品の統制はどうしても必要だったのだ。

一方の国民はどうだっただろうか。
食料管理と引き換えに配給される食糧はとても少なく、それすらしばしば止まってしまう状況。
とても生きていくのに足りるものではなく、東京の繁華街近辺ですら餓死者が転がる惨状を呈していた。
自宅菜園でイモなどの食料品を作ったり、野草や川の魚などを取っては食いつなぐ人たちも多かった。
また着物など物々交換に出す品物があれば、それと交換の形で農家に食糧を求めに行く人々もいた。
しかし、それができる人ばかりではない。

もう一つの食いつなぎ方法がヤミ米であった。
農家などがくすねていた食料品や、かき集めた残飯。
闇市に行けば食糧がそれなりにあったことから、食糧管理法の目を逃れたブローカーもいた可能性が高い。
当然、ぼったくり価格が横行していた。米など、政府の定めた公定価格の100倍以上の値段がつけられ、それすら命をつなぐためには出すしかなかった。
当の闇市の商売人すら、悪徳商売を試みようとした者ばかりではない。他の闇市の品物を買うには自分も値段を吊り上げなければならなかったのだ。



山口裁判官の立場


検察官ならば、さほど重くない犯罪者をお目こぼしする権限がある。
しかし、前記したように日本政府としてはヤミ米に厳しい姿勢を見せなければ、頼みの食糧輸入が切られかねない状況。
食うに困ってのヤミ米購入くらいはお目こぼししていた例が多かったようだが、お目こぼししたところで食糧が手に入るわけではないので、結局はまたヤミ米に手を出すしかない。
だが同じことを繰り返す犯罪者に対し、検察官もお目こぼしばかりしているわけにはいかない。

多くの裁判官も、ヤミ米なしでは生きていけない人がたくさんいることは解っていた。
それどころか、裁判官ですらヤミ米がないと生きていけなかった。裁判官だけ特別に配給を増やされていたわけではない。
しかし、裁判官は一般人以上に法律に従わなければならず、しかも裁判官は検察官と違って犯罪者をお目こぼしする権限はない。
「かわいそうだから」の感情だけでヤミ米を買ったり売ったりした者を許すことは、裁判官である限り許されない。

買わなきゃ死んでしまうのだから、そんな守りようのない法律を守らせるべきではないという主張もされた。
生存できないような食糧管理法違反による処罰は生存権を定めた憲法に違反すると、施行されたばかりの憲法で争われたケースもあった。*2
しかし、そういう言い訳を許せば、多くの犯罪者が無罪になってしまい、「日本政府は食糧確保に向き合っていない」とアメリカに評価されかねない。
アメリカの機嫌を損ねて輸入が止まってしまえば、更なる飢餓につながるリスクも高まってしまう。

山口裁判官も、こうした状況は分かっていたのだろう。
裁判官としてヤミ米を買っても無罪、と言うことは彼にもできず、結果として、山口裁判官は多くのヤミ米関係者を犯罪者として有罪とし、処罰を言い渡した。
山口裁判官の彼らに対しての判決は、温情判決が多かったという。
だが、温情判決であれ、有罪判決であることには変わらなかった。
そして、初犯なら執行猶予判決で釈放できるが、釈放された者は結局食料がないのでヤミ米を買うしかない。
そうして再犯者になれば、どんなに温情判決でも刑務所に収容させる以外の対応は取れなかった。


そして……


生前、山口裁判官から山口夫人は、

「裁判官として正しい裁判をしたい、経済犯を裁くのにヤミ米は食べられない。倒れて死ぬかもしれないけど良心を誤魔化すよりいい」

と聞かされたという。

こうして、山口裁判官はヤミ米を裁く身でありながら自分がヤミ米に手を染めることに良心的に耐え切れず、ヤミ米を拒否した。

しかも、山口裁判官は自分の僅かな配給食糧を子供にほとんど与え、自分はうっすーいおかゆで空腹を紛らわすだけであった。
見かねた友人が食料品を贈ろうとしても、「それはヤミ米だよね。私は食べません。」という反応であったとか。
畑でイモの生産を試みてはいたが、そんなにすぐに食糧はできるものではない。

そんな山口裁判官も、休みがあれば、まだしも野山に入って食料を取る可能性があったのかもしれない。
だが、山口裁判官は休みさえまともにとっていなかった。
そも、当時の裁判官の報酬はヤミ物資を買おうとしても買えない程度であり、栄養失調になる裁判官が続出していた。
あまりに安い報酬に多くの裁判官はやめてしまい、その分、残った裁判官は一人で多くの事件を抱えることになる。
彼が休めば、100人もの被告人が裁判が終わるまで留置場で閉じ込められたままになってしまう。
山口裁判官は追い詰められた。

1947年8月27日、山口裁判官はついに裁判所で倒れた。
9月1日に最後の判決を書き、故郷の佐賀に戻って療養に入った。療養に入った彼は、ヤミ米であっても出されたものは食べていたという。
自分が裁判官であるという強迫観念から自由になったのだろうか……。

しかし、山口裁判官の健康状態は手遅れで、この年の10月11日に山口裁判官は死亡した。
栄養失調に伴う肺結核であった。
「水清ければ魚棲まず」という言葉があるが、彼は逆に清い水の中でしか生きていけない人物で、僅かな濁りすら妥協出来ないほどに清廉すぎたのだ。
平和な世の中であれば貫き通せたであろう信念も、明日すらままならぬ嵐が吹き荒れる激動の環境ではあまりにも弱々しい。
まさに生まれる時代を間違えたとも言える人物でもあった。


死後の影響



彼の死は報じられ、大きな反響を呼んだ。

一部の新聞では、
食糧管理法が悪法であるが、国民である限りこれに従わないといけない。弁護士から「裁判官も検事もみんなヤミ米食ってる」と言われて心の中で泣いた。
と激しい文体で書いた山口裁判官の手記が報じられた。*3

当時の首相夫人は、「奥さんにもっとなにか工夫がなかったのか」と新聞紙上で発言した。
これを聞いた山口夫人は自分が悪いのかとノイローゼになってしまったという。
また、山口裁判官の対応があまりに杓子定規だったのでは、バカ正直すぎるのではと言う批判的な意見もあった。

他方、食糧管理法を始めとする法の在り方に対し、改めて批判の声が沸き上がった。
山口裁判官に同情的な声も決して少なくなく、一部から香典が送られたり、裁判官や法学者から山口の遺族に対しての支援が行われたりした。

山口裁判官の死後も、裁判所は食糧管理法で起訴される被告人を有罪とする判決を止めることはなかった。
だが、彼の死の翌年には、食料がようやく増産され、配給も増配・安定するようになり、闇市や飢餓も姿を消していったのだった……。



この事件が現代にもたらした一番大きな影響は、裁判官の待遇改善だろう。

奇しくも山口裁判官が倒れる4か月前に施行された日本国憲法で重視された「司法権の独立」
だが、それには裁判官が真っ当に生きていくために必要な報酬が保障されなければいけない。
報酬の増減をちらつかせて裁判官に圧力をかけることが許されたら、司法権の独立は成り立たない。
日本国憲法では裁判官の在任中の報酬の減額が禁止されている(憲法79条6項)が、減額するまでもなく最初から安いのでは全く意味がない。
あまりに低額な報酬は、一部の失敗国家で見られるような賄賂の横行を誘発する危険もある。

この件を聞きつけたGHQは、裁判官の報酬の改善を指示。
裁判官の報酬は在任中減額できないため、この時の待遇改善の効果は現在まで続いていると言えるだろう。*4



山口裁判官のヤミ米拒否について、wiki篭もりの皆様が自分なりに考えた上で追記修正をお願いいたします。

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最終更新:2024年07月25日 19:50

*1 若い男子はもちろん、田を耕す馬さえ徴用されている。

*2 後に最高裁の大法廷で食糧管理法は憲法に違反しないという判決が出たが、これは山口裁判官死後のことである。

*3 ただし、この手記には生前の言動との食い違いがあるため、本物かどうか疑われている。

*4 ただし、公務員一般の報酬を下げるのに伴って裁判官のそれも下げられたことはある。