ナリタタイシン(競走馬)

登録日:2023/08/21 Mon 06:34:55
更新日:2025/01/17 Fri 02:57:00
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その日、3強が生まれた 君はその斬脚を見たか

週刊100名馬No.37 ナリタタイシン 表紙より


ナリタタイシン(Narita Taishin)とは日本の元競走馬

メディアミックス作品『ウマ娘 プリティーダービー』にも登場しているが、そちらでの扱いは当該項目参照。
ナリタタイシン(ウマ娘 プリティーダービー)

目次

【データ】

誕生:1990年6月10日
死亡:2020年4月13日
享年:30歳
父:リヴリア
母:タイシンリリィ
母父:ラディガ
調教師:大久保正 (栗東)
主戦騎手:清水英次→武豊
馬主:山路秀則
生産者:川上悦夫
産地:新冠町
セリ取引価格:-
獲得賞金:3億5,170万円 (中央)
通算成績:15戦4勝 [4-6-1-4]
主な勝鞍:93'皐月賞

【誕生】

1990年6月10日生まれの鹿毛の牡馬。
父は仏米で通算41戦9勝の戦績を残し米国のGlを3勝したリヴリア*1
母のタイシンリリィは競走成績こそ25戦1勝というものだったが、近親に1980年のオークスを制覇したケイキロクが居り、娘のユーセイフェアリーが阪神牝馬特別(Glll)優勝をはじめ32戦5勝の成績を残している事から生産者の川上悦夫氏からは期待されていた*2

馬は「季節繁殖動物」――と言っても春~秋まで繁殖期なのだが(妊娠期間は11ヶ月程度)、競走馬に関してはもっぱら春に種付けを行う。
これは、競走馬が年齢によって出るレースを規定し、かつ生物的なピークとされる4歳時より前からレースに使われること、
その関係で競走馬は誕生日に関係なく1月1日*3に加齢する扱いである*4ことが要因。
つまり、出生が1月1日に近ければ近いほど、ピークに近く調教も進んだ状態で2~3歳時のレースを走れるのだ。6月では遅いと言わざるを得ないのである。
……まあ、その理屈とは別に遅生まれで春のクラシックを勝つ馬自体は割とおり、極端な例として5月21日生まれで春の二冠を獲ったネオユニヴァースとかもいるが。

そのうえサラブレッドの中でもかなり小さい部類で、身長170㎝とジョッキーとしては長身の部類の武豊が乗っかるとサラブレッドとは思えないほどのウマヒト比率。
競走馬の世界は決して大きいことが良いことではないものの、観戦する競馬ファンが「大丈夫かアレ」と心配したのも致し方なかった。

【戦歴】

1992年7月に札幌競馬場の新馬戦芝1000mでデビューするも6着。
休養を挟み、10月の福島競馬場で開催された芝1700mの未勝利戦で初勝利を挙げる。
続く条件戦3戦では勝ちこそできなかったものの2着2回と好走し、初重賞となるラジオたんぱ3歳ステークス*5で勝利。
3歳を6戦2勝という成績でクラシックシーズンを迎える。

1993年はシンザン記念から始動し2着。
続く弥生賞もウイニングチケットの2着につけ、皐月賞へ。
皐月賞当日は1番人気ウイニングチケット、2番人気ビワハヤヒデに次ぐ3番人気だったが、当時はまだタイシンを除いた「2強」と見られていた。
第1コーナーで最後方、最終コーナーでも12番手とかなり後ろの展開だったが、後に"鬼脚"と評され、上がり3Fをメンバー最速の34秒6の驚異の末脚が炸裂。ウイニングチケットとの競り合いに勝ったビワハヤヒデをクビ差差し切ってG1初制覇。
以後この3頭は「新・平成3強」及びそれぞれの名前の頭文字から「BNW」と呼ばれ、93年クラシック世代を代表する存在となった。

続く日本ダービーでは3番人気だったが、今度は「2強」ではなく「3強」として人気を分ける。
レースでは上がり3Fをメンバー最速の35秒9で追い込んだがウイニングチケットとビワハヤヒデを捉えきれず3着。
夏は7月の高松宮杯(2000mGⅡ)に出走し単勝2.2倍の1番人気。春のクラシック馬初出走に大きな期待が寄せられるも7番人気ロンシャンボーイの逃げ切りに2着、不満の残る結果だった。
秋は京都新聞杯から始動予定だったが、1週間前の追い切りで運動誘発性肺出血を発症。極度の疲労が原因であり、春の行使と調教がかなりこたえていた。
出走できずに菊花賞本番をぶっつけで挑むことになったが終始後方のまま17着と大敗を喫することになる。レース中に心房細動を発症したネーハイシーザーが18着であり、実質的なしんがり負け、ビワハヤヒデから9.4秒差という何故出走させたのかという競馬ファン・マスコミからの批判が殺到した。

古馬となった1994年は2月の目黒記念から始動。58.5kgの斤量を背負いながらも末脚を爆発させ、10頭ごぼう抜きという衝撃的な勝利を挙げた。皐月賞以来の勝利を挙げて続く天皇賞(春)へ出走する。
レースはビワハヤヒデとの一騎打ちの構図となり、第3コーナーから捲る奇策に出た。しかしスローペースに我慢しきれずやや暴走していたビワハヤヒデに1 1/4馬身届かずの2着。単勝130円と650円という格差通りの決着であった。
復活を果たしたかのように見えたナリタタイシンだが、これ以降は怪我や体調不良に悩まされることになり、宝塚記念の直前で右後脚に軽度の骨折が発覚し休養。
秋は京都大賞典から始動する予定だったが下痢に悩まされ出走を回避、天皇賞(秋)の直前には屈腱炎を発症するなど、結果1年以上を休養に充てざるを得なくなってしまう。

ビワハヤヒデもウイニングチケットも前年の天皇賞(秋)の後に引退し、BNWでただ1頭現役を続行。
1年1か月ぶりの復帰レースとして1995年の宝塚記念に出走、長らく手綱を握った武豊ではなく山田泰誠に乗り替わりであった。かつての"鬼脚"は見る影もなく16着、競争中止のライスシャワーを除くとしんがり負けである。高松宮杯への出走が予定されていたが、調整中に屈腱炎が再発、蓄積したダメージはもう回復することはないとされ、引退した。

【引退後】

引退後は総額2億円のシンジケートで種牡馬入り。
2年前に亡くなったリヴリアの後継種牡馬として期待された。
しかし地方の新潟ジュニアCを制したファヴォリートのみと活躍できず、2003年で種牡馬も引退。リヴリアの直系は断然することとなった。
逸話として、オーナーが小柄な馬体では種牡馬としての活躍は厳しいとし、種付け数のために奔走していた。2年後にナリタブライアンが種牡馬すると「人気がなかったタイシンに期待をかけてくれた方から、(ナリタ)ブライアンの株を持ってもらいたい」という意向を出したいう。

その後は日高の育成牧場で余生を過ごし、2020年4月13日に老衰のため30歳で死去。日々トレーニングを重ねる若駒たちを眺めながら負けじと牧場を駆け抜けたのが若さの秘訣だったとか。取材に来たデイリースポーツ記者の肩を「俺の写真を撮る前に許可取りしろよ!」と言わんばかりに甘嚙みしたエピソードも伝わっている。
同期のビワハヤヒデも後を追うように同年7月21日に30歳で亡くなったが、チケゾーは2023年の2月に没するまで元気に生き続けていた。
BNWのレースは引退後までずっと続いていたのかもしれない。

【創作作品での登場】

小柄で気が強く反抗的。というかネガティブ思考。
プライベートでは若干引きこもりがちのゲーマー。特に音ゲーには強いこだわりがある。

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最終更新:2025年01月17日 02:57

*1 2000年阪神JF、2001年桜花賞・秋華賞を制したテイエムオーシャンの母父でもある

*2 2番子のドーバーシチー、3番子のリリースマイルとも、中央競馬で3勝を挙げており、日本でデビューするサラブレッドのうち、中央競馬でデビューするのは4割程度で、1勝を挙げることができるのは、その中でも更に半分程度なので、タイシンリリィが残した繁殖成績は目を見張るものだった。

*3 季節が逆転する南半球の国々では7月1日や8月1日になる。

*4 普通に加齢させた場合、たとえば「4月1日開催の3歳限定のレース」で「4月2日生まれの3歳12ヶ月」と「4月1日生まれの3歳0ヶ月」が競うことになってしまう。一律加齢なら振れ幅は半年程度で済むわけである。

*5 現在のホープフルステークス