アントニオ・サリエリ

登録日:2010/03/10(水) 14:05:47
更新日:2025/04/19 Sat 16:51:55
所要時間:約 3 分で読めます




アントニオ・サリエリ(1750年8月18日 - 1825年5月7日)とは、イタリア出身のオーストリアの作曲家である。

通称「モーツァルトを殺した男」


生涯

1750年、イタリアのレグナーゴで生まれる。

幼少の頃から音楽の才能を発揮し、1766年にはウィーンの宮廷に招かれた。
ウィーンではオペラと室内楽、宗教音楽によって成功し、1788年には宮廷楽長に就任する。

高い地位を獲得した彼は、ハイドンなどの著名な作曲家と交流し、
また教育者としてベートーヴェン、シューベルト、リスト、モーツァルトの息子フランツらを指導した。
また、ニューイヤーコンサートで有名なウィーン楽友協会の黄金ホールの設計に携わる。

晩年は痛風と視力低下、後述の身に覚えのない噂に悩まされる。


1825年、死没。


スキャンダル

サリエリについて最も有名なのは、オーストリアの作曲家・モーツァルトと対立したことである。

1820年代のウィーンでは、サリエリがモーツァルトの作品を盗作したり、モーツァルトを毒殺したという噂が流れた。
このスキャンダルを元に、劇詩「モーツァルトとサリエリ」が発表される。


しかしこれは、当時のウィーン音楽界におけるイタリア・オペラ派とドイツ・オペラ派の対立の中で、
長年宮廷楽長だったサリエリ(イタリア人)を陥れるためのものだったと言われる。


晩年、病身の彼はイタリアの作曲家・ロッシーニに「モーツァルトを本当に殺したのか?」と面と向かって尋ねられても、毅然とした態度で否定したり、
弟子のモシュレスに自らの無実を訴えたりした。

しかしますます疑念を抱かれてしまい、モシュレスには日記に「絶対あいつ毒殺したな」と書かれてしまう。


これらの事から、今日に至るまで彼は「モーツァルトを殺した男」と呼ばれる。


作品

現在、彼の作品はなかなか演奏されない。少ないながら、アルバムやオペラのDVDが発売されている。

【ダナオスの娘たち】
1784年、パリのオペラ座で初演されたオペラ。後述の「タラール」と共に、彼を人気作曲家にした作品。

【タラール】
同上。

他、多数のオペラ、室内楽、宗教音楽作品がある。


その他

経済的に成功した彼は音楽教育や慈善活動に熱心で、弟子からは一切の謝礼を取らず、才能ある弟子や生活に困る弟子には支援を惜しまなかった。
また、職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催した。有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどもしている。

イタリア出身の為、最後まで流暢なドイツ語が話せなかった。

モーツァルトは生前、「自分がウィーンで高い地位に付けないのはサリエリが邪魔しているから」と語っていた。

サリエリが巻き込まれたイタリア・オペラ派とドイツ・オペラ派の対立の原因は、ロッシーニのオペラが人気になったため。
そのロッシーニに前述の質問をされたサリエリは涙目である。

実際には、モーツァルトの曲がサリエリに評価されたり、サリエリ指揮で演奏されたことも多い。
モーツァルトの妻コンスタンツェが出席しなかったとすら言われるモーツァルトの葬儀にもサリエリは参列していたし、
生後4ヶ月で父を亡くしたモーツァルトの息子に指導をつけたのもサリエリだったのだ。


映画「アマデウス」はサリエリの噂を元に製作されている。


追記・修正お願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • サリエリ
  • アントニオ・サリエリ
  • 音楽
  • クラシック音楽
  • 作曲家
  • 音楽家
  • 悲運
  • 不遇
  • アマデウス
  • イタリア
  • Fateサーヴァントネタ元項目
  • 8月生まれ
  • 8月18日生まれ
  • 実在の人物
  • 故人
  • アントニオ
  • イタリア人
最終更新:2025年04月19日 16:51