登録日:2025/08/10 Sun 16:09:20
更新日:2025/08/10 Sun 18:42:02NEW!
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レゴブロックとはデンマーク発祥の子供向け玩具の総称である。
【概要】
世界初のプラスチック製のブロック玩具。
当然元祖な為、閲覧している人が「プラスチック製のブロック」と聞いて真っ先に思い浮かべるであろう「表面に突起が付いた長方形」の形をしている。
最も、時代の移り変わりから、次第に単なる正方形に囚われない形の物も続々と生まれているが。
切ったり貼ったりせずに思い通りに形を組み立てられるブロック玩具の楽しさもこれが発祥となっている。
パーツごとの互換性も高い為、使おうと思えばどんなパーツでも作品作りに使用することが出来る。
そんなレゴブロックだが、特筆すべき点として、後続のブロックにはない圧倒的な精度が上げられる。
誤差の許容範囲が「0.002ミリ以内」とされている程。
「30年前に発売されたブロックと現在のブロックが問題なく接続できる」といえば、その凄さが伝わるだろうか。
しかし良い所ばかりではなく、その圧倒的なまでの硬さの為「踏むと痛い」。
公式の映画でお産の痛みに例えられるレベルである。
片付けせずに踏んづけて痛みに悶えたり、カーチャンに叱られたりした人も多いのでは?
【主な種類】
3歳児以下向けのシリーズ。
その緻密な設計により、一見そうには見えないが通常のレゴと互換性を持つという特徴を持つ。
すこし大き目のブロックとして、成長してからも長く遊べる仕様となっている。
4歳児向けのシリーズ。
ミニフィグややや大きめのブロックが付いてくる、本格的に組み立て遊びを始める子供向けのシリーズ。
特にブランドやストーリーがあるわけではない、純粋に組み立て遊びを楽しむためのシリーズ。
可動用の関節の多さなどから、組み替え遊びを楽しむ場合でもオススメ。
こちらも組み立て遊びを楽しむための物だが、見どころのある組み立てを見せるクリエイターに比べると往年の「赤いバケツ」のような、特定の用途に拘ったパーツは抑えられ、想像力を活かした遊びを重点に置いたものとなっている。
これらの多くは特定のテーマに属しており、その中の世界観に沿った組み立てを楽しめる。
版権物の多くもこれらに属する。
2012年から展開開始した女児向けシリーズ。
他のテーマと違い、より実際の人間に近い「ミニドール」という規格のミニフィグが採用されているのが特徴。
ブランド名から察せられる通り、1万円越えが平気で出て来る高級路線のシリーズ。
値段に見合ったボリュームとクオリティから、2020年頃に登場したにも関わらずかなりの普及を見せている。
トイザらスなど、一部の大型玩具量販店でのみ取り扱われていたり、購入者特典などとしておまけに付いてくる小規模なセット。
名前通りポリ袋に梱包されているのが特徴。
コンビニ等で売っている場合もあり、安さも相まって気軽にレゴを初めてみたい人にはピッタリとなっている。
2025年からはSDGsの影響を受けてか紙袋に変更された。
【歴史】
黎明期
現在レゴブロックを発売しているレゴグループ(以下レゴ社)の始まりは、デンマークの南デンマーク地域にあるビルンに、後の創業者オーレ・キアク・クリスチャンセンが作った木工所から始まった。
1916年にビルンに開いた木工所で、オーレは地域の農家向けに、少数の見習い社員を雇い、家と家具を作って生活していた。
1924年、2人の幼い息子が木の削り屑に火をつけたために木工所が火事で焼失したが、オーレは災難にもめげず、木工所を大きくする機会だととらえてさらに仕事に励んだ。
しかし、まもなく世界恐慌が生活に影を落とすようになった。制作費を切り詰める方法を探すうち、設計支援として製品の縮小模型を作り始めた。このときに作った梯子やアイロン台の模型が、のちに玩具を作るきっかけとなる。
1932年、木工所を閉鎖することになり、その直後妻まで失ってしまったオーレ。
しかしへこたれず、余った木材から木製の玩具を作り始めるようになる。
加えて、息子の一人であるゴッドフレッド・カーク・クリスチャンセンが放課後に仕事を手伝ってくれるようになった。
自らが見極めた最高の木材で手作りした、当時最高品質の玩具。これがそこそこの成功を収め、噂を聞きつけたプレゼリシアからの卸売業者がやって来た。
「年末に向けて玩具を売りたい」と。
しかし不況は厳しく、その卸売業が破産してしまい、従業員を呼び戻してまで大量生産した玩具がだだ余りする事態に。
自ら売り込みをする形で何とか在庫は捌けたものの、殆どは物々交換という形で済まされる事になってしまい、思っていたよりは売れなかった。
1934年に社名を付ける事になり、オーレ自身が考えた「Leg Godt」()を縮めた「LEGO」という社名に決まった。
この時は気づいていなかったが、LEGOはラテン語で「私が作ります」とも読める。
1936年、まずまずの利益を出し始めたレゴ社。
フライス盤を導入するなど、更に効率を上げ始めたが、ゴッドフレッドの「玩具の塗装の上塗りの回数を減らす」というコストカット案は突っぱね、あまつさえ塗り直して再納品する事をした。
この一件から、ゴッドフレッドは「最高な物だけが十分と言える」と言う事を胸に刻むようになる。
30年代後半、レゴ社は利益を上げ始めた。
第二次世界大戦が開戦するという困難な時期ではあったが、それでも頑張り続けた。
しかし1942年、木工所が火事に遭い、図面等が全焼する悲劇に遭う物の、それでも挫けずに工場を再建した。
1946年になると、レゴ社に大きなターニングポイントが訪れる。
無事に再建され徐々に円滑に業務が進むようになった中、オーレは挑戦を求めデンマークに渡って来たばかりのプラスチック用金型成型機を購入する。
しばらくはブロック以外の物を作っていたが、見本市で貰ったプラ製の煉瓦が忘れられず、似たようなブロックを作り始める。
1954年、イギリス出張の帰りにゴッドフレッドはショッピングセンターの重役と玩具の未来について話した。
「今の玩具はダメ」「アイデアやシステムがない」と指摘され、ゴッドフレッドは考え始める。
想像性を育むような新しいシステムを…
かくして同年、初の「レゴ 遊びのシステム」が発売。
これは現在まで続くレゴブロックと同様に、家や車を作る事が出来る物であり、事実上元祖レゴブロックと言える物であった。
余談だが最初に作られたブロックの色は赤・青・黄・白・黒の5種類であり、緑は含まれていない。
これは「戦車などを作られて戦争を推奨しているように見える」という観点かららしいが、出典はハッキリしていない。
また、テクニックやバイオニクルではない通常のレゴの構造を「システム」と言う事があるのはここから取られた愛称である。
余りの人気から多数の国で販売が始まるが、ここである問題点に行きつく。
「持ち上げると崩れる」と。
そこからブロック同士を直接結合させる方法を考え始めるゴッドフレッド。
最終的にブロック内部の空洞にチューブのような円柱を造形する事で、表面の突起と噛み合い固定する「クラッチパワー」が完成。
完全に現代のレゴブロックと同じ構造になった。
しかし、この構造が完成した1958年にとうとう、オーレがこの世を去ってしまう。
更に3回目の火事に遭い、またしてもほぼ全ての木製玩具が焼失してしまう事態に。
これを機に一切の木製玩具の販売を辞め、レゴ社はレゴシステムのみを販売することに。
成長期
1961年、戦略が見事に成功し、レゴ社は押しも押されぬ立ち位置を築く。
父同様挑戦の為に、ビルンに自社専用の空港を築き、玩具の世界展開をやりやすくしたゴッドフレッド。
1964年には拡張され一般の空港としても使用されるようになったビルン空港。
しかし、取引相手は必ずと言っていいほど模型展示部を見たがるため、レゴ社の社員たちはてんてこ舞いであった。
展示場を構想し始めたゴッドフレッドだったが、次第にレゴで出来た遊園地「レゴランド」へと構想が発展する。
かくして1968年、当初の想定の倍となる「60万人」を受け入れる大人気テーマパークとなってスタートしたレゴランド。
他にも、1966年にはレゴの中で最も成功した製品の一つとされる「レゴトレイン」シリーズが発売し、1969年には1歳半以上の子ども向けの新システム「デュプロ(duplo)」が登場。
1970年には従業員数が900人を超える等、60年代は紛れもなくレゴ社の急成長の年だったと言っても過言ではない。
そこからは更なるマーケティングの拡大を目指し、1971年には女の子向けのドールハウスのセット、1972年には実際に水面に浮かばせられる船のセットなどが登場した。
同時期にゴッドフレッドの息子であるケルド・カーク・クリスチャンセンが、スイスとデンマークで経営学の学位を取得した後、同社の経営陣に加わった。
1974年には、当時最大の売れ筋商品となった「レゴ ファミリー」セットに、腕を動かせる人形が登場した。
同年には「ミニフィギュア」というお馴染みのレゴ人形の初期バージョンが発表された……が、腕が動かせる構造ではなくポケットに手を突っ込んだような造形であり、頭にも顔がプリントされていなかった。
レゴ製造工場は、米国コネチカット州エンフィールドに開設された。
1975年には後の「テクニック」シリーズに発展する「エキスパートシリーズ」が登場。
デュプロとは逆にレゴから卒業した人に向けた物である。
1978年にとうとう、我々が知る形である「ミニフィグ」が完成。
それまで横ばいだった売り上げは10年程右肩上がりになる人気を見せた。
1979年に、今尚人気なシリーズの1つである「宇宙」が登場。
宇宙飛行士のミニフィグは今尚代表的なフィグの一つであり、カラーバリエーションは多数。
また、この頃からケルドが社長に就任している。
1980年に、後の「レゴ ダクタ」となる教育製品部門が登場。
これはレゴブロックは有益な教材になると判断した教師たちによって、1960年代から進められていた教育的なレゴ製品を発展させたものであり、現在でも「レゴ エデュケーション」と名を変えて残り続けている。
1984年に代表的なシリーズの1つ、「お城」が登場。
中世ヨーロッパの世界観や、多数のパーツを積み重ねて城を築くのに憧れた人も多いのでは?
1989年にこれまた代表的な「海賊」こと「南海の勇者シリーズ」が登場。
義足を付けた「赤ひげ船長」に憧れた人が多数。
黒歴史
80年代後半から、レゴブロックの構造自体の特許切れが始まり、構造を丸パクリした互換品が大量に出回る事となった。
品質だけ見れば本家レゴブロックに遠く及ばないものの、本家にはない独創的なテーマを有したそれら互換品の魅力は、勝るとも劣らないものだった。
加えて、TVゲームなどの娯楽も台頭してきたことで、娯楽として低年齢層くらいにしか受け入れられなくなって来た事も挙げられる。
そこでレゴ社の打ち出した方針とは「脱ブロック」。
ゲーム展開やTV番組、教育方面・レゴランド事業の拡大など、簡単に言えばレゴそのものをブランド化して打ち出していくようなものであった。
レゴブロックその物もこれまでにない版権物「レゴ スターウォーズ」「レゴ ハリーポッター」や、4歳児向けの独自のミニフィグに異様に大振りなパーツを利用した「レゴ ジャックストーン」、独自のほぼ互換性を打ち切った「LEGO Galidor」「
レゴ バイオニクル」など、良くも悪くもこれまでにない商品が大量に投入されるようになる。
しかし版権物は当初こそ好評だったものの、映画を公開しない年は伸び悩むなど問題を抱えており、結果としてはこの時期の展開は殆どが失敗してしまう。
2004年にはバイオニクルくらいしかマトモに売れず、自己資本比率は5.9%と危険水域まで下がり、身売りの噂が流れるようになった程。
再生、そして現在へ
2004年になって、とうとうこの歪な体制にメスが入った。
レゴランドを外部企業に売却し、TVやゲーム事業も一部撤退。
ブロックのシリーズ自体も一部終了する、従業員も3分の1をリストラするなど、大幅な見直しを図った。
新たな方針は、当初の理念「子供たちに最高の物を」を継承する事。
一気に輝きを取り戻したレゴは怒涛の展開を続ける。
2011年はバイオニクルの終了と入れ替わりで「レゴ ニンジャゴー」が始動。
10周年を突破する大ヒットシリーズの始まりである。
2012年には従来のミニフィグと異なる、[リカちゃん人形>リカちゃん(人形)]のような「ミニドール」という全く新しい規格を利用した女児向け「レゴ フレンズ」が登場。
これまで「ステラ」「ベルビル」「クリキッツ」等、度々女児向け商品を開発しようとしては失敗してきたレゴだったが、ここにきてようやく定着を見せた。
2014年にはマテル社をも抜き、世界一の玩具会社となった。
【メディア展開】
流石に娯楽に溢れたこのご時世では玩具一本ではやっていけず、90年代に入ってからはメディア展開が盛んに行われるようになっていった。
2010年代からはこの流れが強まり、それまで避けられていたアニメ展開も盛んになっていった。以下は代表的な作品の一覧である。
追記・修正は大人になってもレゴで作品を作っている方か、
幼少期にレゴを踏んで悶絶した経験のある方にお願いします。
- マインドストームは載ってないん? -- 名無しさん (2025-08-10 18:42:02)
最終更新:2025年08月10日 18:42