登録日:2013/01/30 Wed 14:54:39
更新日:2025/09/10 Wed 00:13:41
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性能(M1891)
概要
ロシア帝国のセルゲイ・イヴァノヴィッチ・モシン少将が設計し1891年に採用されたボルトアクションライフル。
正式名称は1891年式3リニヤ小銃だが、1924年以降は基礎設計を行ったモシンの名を冠してモシン小銃と呼ばれる。
また、コンペに参加し採用時に設計提供したナガン社によりモシン・ナガンの俗称が付いている。
帝政ロシアの崩壊、ソビエト連邦成立、二度の世界大戦と激動の歴史を第一線で生き抜いた歴史の小さな証人。
狙撃型が今なおアフガンやクリミアで確認されており、ひたすらに鞭うたれる老兵とも言える。
1891年っていつ頃やねん、という人は参考までに…
1890年…第一回帝国議会開会(日本)、フロンティア消滅 西部開拓の終了(アメリカ)
1891年…シベリア鉄道起工
1894年…ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世が帝位に
歴史
M1891の採用と生産
クリミア戦争での敗北などを経てロシア帝国ではベルダン小銃ら単発ライフルを配備していたが、同時にウィンチェスター社のリピーター(連発銃)などの有用性にも注目していた。
1880年代に
マガジンとクリップ、そして無煙火薬がもたらされ、ライフル弾として実用的な威力の弾を連発できるようになるとロシアでもその波に乗り遅れぬようにと82年に試作委員会を設立。
70年代に弾薬面でかなりゴタゴタしたことから委員会はかなり慎重になっており、モシン大尉(当時)が試作したストック給弾式のものや他国のチューブ弾倉と8mm弾ではなくより洗練された弾と銃を求めた。
1887年にスイスのへぶらー教授とのやりとりにより7.6mm口径が最適と決定。
1889年にメンデレーエフ(周期表の人)がロシア国内でも十分な性能の無煙火薬を精製する方法を確立したため、それらと合わせて7.62mm弾を試作した。
薬室と薬莢の製造時の許容範囲を緩和するためにリムド式を採用。こうして7.62x54mmR弾が完成した。ボルトアクションの連射力の範疇では十分最適解といえる弾であった。
1889年、モシンは以前試作したベルダン小銃ベースの単発ライフルをもとにオスマントルコが採用していたマンリッヒャー式の装弾システムを組み合わせた試作モデルを提出。同年にナガン社もM1895ナガンリボルバーに次いでロシア制式銃器の座を得ようとコンペに参加した。
上記で弾薬と銃身は確定していたため双方ともその銃身に肉付けしていく形の試作を行い、2者の一騎打ちという様相となった。
ナガン社はドイツなどでコンペに敗れるなどかなり神経質となっており、かなり高品質な試作品を提出。それに対しモシン側は精度や品質こそ低いものの動作面などでは手抜かりのない出来であった。
品質の面もあり当初はナガン社のものが少々優勢であったものの、ベルダン小銃の生産技術を使用できる点や
ジャム発生率、シンプルさなどからモシン側を選ぶ運びとなった。
しかしながらナガン社の設計にも光るものはあるため、マガジン下部の開閉機構とクリップ装填に関する機構などを取り入れた最終試作品が完成した。
ナガン社は採用されなかった点に不満を示したため、採用した際に約束されていた報奨金を受け取る措置を得た後も「あれは我々が協力したのでモシンナガンである」と喧伝していた。2000年以降でもロシアではモシンナガンはパッとでは通じないらしい。
主に
トゥーラ造兵廠を主軸に
イジェフスクとセストロレツクの3拠点で製造が開始されたが、大量発注がかけられたためキャパオーバーしフランスのシャテルロー(MAC)にも発注した。
小改良を加えつつ1897年に50万丁を導入完了し、日露戦争開戦前に380万、第一次大戦までに各種累計452万の本銃が納入された。
形状や発射形式はいたって普通(10年近く吟味しただけはある)。ベルダン小銃を継承した独特のボルトアクション機構はモーゼル式が席巻する現代では独特である。
勿論いい点ばかりではなく、装填動作がスムーズでない点、全長が長すぎる点やリアサイトの距離目盛が帝政ロシア独自の"アルシン"という単位であった点も後年には難点に挙げられる。
1907年にカービンモデル、1910年には騎兵とコサック向けモデルも登場している。
M1891/30
ソ連に移り変わったのち小銃の更新を計画したものの、更新は取りやめ既存のM1891を改修することに決定。1924年に再度委員会が結成された。
更新を押しとどめたのは以下。概ねフェドロフ氏による意見である。
- 今後の自動小銃の発達に対してボルトアクション小銃は時代遅れなので同機能の新型に置き換えてもすぐ陳腐化すること
- かといって自動小銃の導入には弾(6.5mm有坂)も変更するべきであり、全部切り替えるには戦後と革命後の現状では厳しい
- モシン小銃は十分な性能を持っている。
こうして1930年に開発が完了したのがM1891/30である。騎兵向けの1910年モデルをベースとしている。
全長1232mm、重量3.96kgと軽量化。照尺もメートル法を採用した。機関部や口径は変わらず、シンプルな改良と言える。
また、狙撃用の3.5倍か4倍用のスコープを装着することが出来るため
狙撃銃としても使用できる。
狙撃銃とはいえ他国の例にもれず、ねじ式マウントとスコープと干渉しないようにボルトハンドルがL字になっているだけである。
新規製造分は米レミントン社等にも発注されたものの途中で輸送が打ち切られアメリカに接収された。
本来であればAVS-36やSVT-38/40など自動小銃を本命とし、6割ほど配備も進んでいたものの、結局動作や生産能力の問題が解決できず(6.5mm有坂も採用されず大粛清で国力もなく大祖国戦争も始まりさらに国力もなく)…
というわけで再度本銃やM1891を配備し大祖国戦争を乗り切った。
38年には07年製カービン相当のM1938が、44年には銃剣付きM1938といえるのM1944が生産されている。
終戦後は生産を停止。後継のSKSカービンや
AK-47への更新が始まり第一線から退く事になる。しかし、狙撃銃としては
ドラグノフ式狙撃銃の登場まで使用されていた。
その後は民間にわたり、コレクターアイテムや競技用・狩猟用として余生を過ごす個体もいた。
しかしながら生産期間が1891~1998年と長く、ロシア製造分のみで3700万挺と莫大な為、AK-47と同じように紛争地域でも稀に見かける事がある…
シモ・ヘイヘ そしてフィンランド兵の愛銃
フィンランドはロシア帝国科下の大公国であったため、ロシア帝国崩壊前後の独立時に国内に残されていたモシン小銃を採用し独自生産や改修を行っている。
その為、このモシン・ナガン系統のライフルは北欧の白い死神
シモ・ヘイヘ達の愛銃となった。
彼は当時の低品質なスコープを嫌い旧来の狩猟に準じたアイアンサイトでの狙撃を好み、そして多大なる戦果を上げている。
なお、モシン系列の小銃はフィンランドで改良と新規制案がなされ、2020年代でも軍にて現役のものが存在する(Tkiv 85。一応2020年に口径銃としてサコーのM23が選定された。)。フィンランド兵の愛銃でもあったと言えよう。
登場作品
遊戯銃としては海外や日本のKTWでエアガンとしてモデルアップされている。
「お買い上げありがとうございました~」
「よ~し俺も…」
パァン!
彼の代わりに追記・しゅうせ…
パァン!!
「…未熟者め」
- MGS2のときから麻酔狙撃銃はなぜか木製ストックの単発式だった -- 名無しさん (2016-07-28 02:37:38)
- ↑連射出来たら不殺プレイが容易になりすぎるからな(なお”マシン”・ナガン…) -- 名無しさん (2020-12-13 23:47:45)
- 敵から奪ったこれで狙撃してた猟兵がドイツの狙撃兵学校に行くことになり使ってたモシン・ナガンを譲った新人のその後を聞いて銃床に溝を彫ったり戦果がわかるようなものは一切身に付けないようにしたってあったな -- 名無しさん (2024-01-18 15:57:27)
- こちら情報量などの面からトゥーラ造兵廠に統合しようと思います。7/30めどとしていますので何かあればコメントをお願いいたします。 -- 名無しさん (2025-07-24 09:43:26)
最終更新:2025年09月10日 00:13