カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバー

登録日:2010/03/12 (金) 00:51:
更新日:2025/04/19 Sat 16:52:05
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カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバー(1786年11月18日 - 1826年6月5日)とは、ドイツの作曲家・指揮者・ピアニスト。

名前はドイツ読み以外にウェーバーとも。

ドイツ・ロマン派のオペラ様式を完成させ、ワーグナーに影響を与えた作曲家として名高い。
また、オーケストラの編成を現在に近い形に直し、指揮棒を初めて使った人物としても知られる。


生涯

1786年、ドイツのオイティンに生まれた。小児麻痺で、片足が不自由だったといわれる。

父方の従姉はモーツァルトの妻・コンスタンツェだった。そのため、父親はヴェーバーをモーツァルトのような音楽家に育てたかったらしく、
劇団を結成してヴェーバーと共にドイツ・オーストリア全土を旅する。これは、モーツァルトの生い立ちと酷似する。

しかしヴェーバー少年、そんな父親の元ではモーツァルトのような神童にはならなかった。

9歳になってやっと正式な音楽教育を受け、1798年に初のオペラ「愛と酒の力」を作曲する。

1804年、ヴロツワフの歌劇場の指揮者となるが、父親の投機的な性格と自身の理想主義が災いして2年で辞める。しかも硝酸を誤飲してしまい、声を失う。

1813年にはプラハ歌劇場の芸術監督に就任、1817年にはザクセンの宮廷楽長に任命される。
当時の宮廷はイタリア・オペラが主流だったが、ヴェーバーはあえてドイツ・オペラを演奏しまくる。
結果、それは成功してヴェーバーの名を世に広めた。また、ピアニストとしても地位を確立する。

1821年、ベルリンにてオペラ「魔弾の射手」を初演すると大反響を呼び、ワーグナーやベルリオーズが作曲家を目指すきっかけとなる。

1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場から英語のオペラの作曲を依頼される。ヴェーバーは結核を患っていたが、家族を養う為に渡英して初演する。
初演は大成功したが病状は悪化、6月5日にロンドンにて客死する。

家族には病を隠していた。


作品

11歳で初めてのオペラを作曲し、「魔弾の射手」や「オベロン」などのオペラほか、「舞踏への勧誘」などの器楽曲も残す。

【魔弾の射手】
ドイツ民話を題材とし、射手の意のままに命中する魔弾(7発中1発は悪魔の望む場所に命中する)と、結婚前の若い猟師・マックスを主人公とするドイツオペラの傑作。
ナチスは国民的オペラである本作を頻繁に上演した。

【オベロン、または妖精王の誓い】
ヴィーラントの叙事詩『オベロン』を題材とし、『夏の夜の夢』など複数の作品の要素を織り込んだ作品。
名前が長いのでよく「オベロン」と略される。


その他

平野耕太の漫画「HELLSING」に登場する主人公に銃姦された女吸血鬼は、その能力から「魔弾の射手」と呼ばれる。
彼女は劇中、「魔弾の射手」の狩人の合唱を歌っている。


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最終更新:2025年04月19日 16:52