トキノミノル(競走馬)

登録日:2011/06/19(日) 15:52:18
更新日:2024/02/01 Thu 06:31:37
所要時間:約 6 分で読めます




1951年6月3日、東京競馬場
26頭の競走馬がゲートに並んだ
17万人を超える観客が、最高の4歳馬を決めるレースを見守る中
そして……

一頭の、これまで九戦無敗を誇る競走馬が、レースレコードでゴールを駆け抜けた

その歴史的瞬間を見届けた場内は、歓喜、興奮、そして無敗三冠への期待にうち震えた






その、僅か17日後









《幻の馬・トキノミノル》はこの世を去った……








トキノミノル(幼名:パーフェクト)は、かつて日本で一世を風靡した競走馬である。

1948.5.2 - 1951.6.20

  • 目次

概要


父:セフト
母:第二タイランツクヰーン
母父:Soldennis
生涯成績:10戦10勝
獲得賞金:425万7150円

『皐月賞』をデビュー以来無敗で勝ち取り、『日本ダービー(東京優駿)』をレコードタイムで優勝して、史上初の無敗の二冠馬となった。

生涯の競走成績は10戦10勝
しかも、その内レコード優勝なんと7回

騎手は、全レースに渡って岩下密政が務めた。
現代に残る記録として

半世紀を優に越える歴史をもつ戦後の中央競馬において、唯一、10走以上を戦って生涯無敗*1

また、皐月賞における単勝支持率73.3%は半世紀経っても日本一の座にある
(ちなみに歴代二位は、かのディープインパクトが記録した62.97%)

さらに珍記録として、トキノミノルにとって6戦目となる「朝日杯」から、最後となる「ダービー」までの5レースの間、全てのレースで二着馬に「イッセイ」という馬が入っている。
つまり、5レース連続で一着二着が同じコンビになっちゃった、ということ。
ちなみに、この「イッセイ」という馬、後の安田記念の初代優勝馬である。

第一回目の選考で『顕彰馬』に選出された中の一頭。
これは日本の競走馬における文字通り最大の名誉である。


「パーフェクト」なデビュー


今でこそ伝説的名馬として記録されている本馬であるが、デビュー前までは、さして注目を受けていたわけではなかった。
というか、馬主の永田雅一は冗談抜きでその存在を忘れていた。

先にも書いたが、この馬の幼名は「パーフェクト」という。
競走馬は、普通、競走馬名と呼ばれるものを付けなくてはならないのだが、永田氏はデビュー戦を前にしても付けようとしなかった。
この馬を買ったことを忘れていたのだ。

仕方なく、調教師の田中和一郎は「パーフェクト」の名前のまま出走することを決める。

はてさてレース当日。
新馬戦、芝の800である。
三頭立てで、本馬は二番人気、一番人気の馬とは結構な差があった。
発走直前には騎手の岩下氏を振り落とすなど気性の荒さを見せたが、その結末は……


パーフェクトは、二着馬に8馬身の差をつけ、なんと当時の日本レコードを更新して優勝した。
まさに名前通り完封、パーフェクトな勝利だった。

レース後、田中が永田へ勝利報告の電話をかけると、永田は田中に、「何だそれは?」と問い返したそうな。

ともあれ、ここに至って永田は遂に本馬を『トキノミノル』と名付けた。
永田が尊敬して止まない作家の菊池寛氏(彼も馬主だった)の冠名である『トキノ』を借用し、『菊池氏の夢と自らの夢が実る』のダブルミーニングであり、
実る『トキ』とはすなわち『ダービーを優勝する時』である。


クラシック戦線、己との戦い


さて、ここからトキノミノルは10連勝を達成していくことになるわけだが、その道は決して楽なものではなかったらしい。

トキノミノルと共に戦い続けた主戦騎手の岩下は
「一度でいいから四本脚で走らせたかった。いつも悪い膝を庇って三本脚で走って、七回もレコードで勝っているのだから、四本脚で走ったらどのくらい走るものか」と語っている。

また、デビュー前から脚部に不安を抱えていたと言われており、負担をかけること恐れて、追い切りをしたことは一度もなかったという証言もある。
そんな状態で先を見据えた計画を立てられるはずもなく、レースには常に引退と背中合わせの一発勝負同然の覚悟で臨んでいたという。


…………。
そこの首を傾げたあなた。
大丈夫です、あなたは正常です。
異常なのはこの馬です。


そして、先に書いたように圧倒的一番人気を背負ってトキノミノルは皐月賞を制すのだが……

ここで問題が起きた

厩舎へ戻ったトキノミノルは歩行異常をきたしており、さらには右前足に裂蹄を生じていたのだ。


東京優駿に向けての最終調整の時期に入ったが、なお脚部には不安があり、トキノミノルは軽い調教だけでレースに臨むことになる。

これらの不安材料は各マスコミから報じられ、田中は出走辞退も考えたらしい。
「出れば一番人気になるのは分かっているのだから、ファンに迷惑はかけられない」

しかし、競走前日になって状態の良化が見られ、当日の朝にはレースに出せるくらいに回復していた。
そんな馬鹿な

しかし、本格的な調教を出来なかったこともあり、関係者は皆、不安を抱いたままレースを迎えることになる。


そして当日、東京競馬場には7万人を超える観客が詰めかけ、それに対応するため競馬史上初めて内馬場が観客用に解放された。
不調が伝えられているトキノミノルだったが、それでも50%を超える圧倒的支持を受けた。

そして、いざレースがスタートすると、道中こそ、いつものように先頭を切って逃げるようなことはしなかったが、それでも向こう正面に入ってから先行勢を次々にかわしていくと、そのままゴールまで先頭で押し切り、二着馬のイッセイに1馬身余の差で優勝した。

これによってトキノミノルは、クリフジ以来史上二頭目の無敗の二冠馬となる。
また、当のクリフジが記録していたレースレコードを0.3秒短縮した。

言っておくが、この馬、これで不調である。

競走終了後、凱旋するトキノミノルにラチを破壊してファンが殺到し、そのままファンに囲まれての口取り撮影となった。



この時には既に、競馬ファンの関心はクラッシックの三冠目である『菊花賞』にあった。
また、馬主の永田(写真右)も、三冠を獲得すれば、アメリカ遠征を行うと発表していた。



そして、日本最高峰のレースを終えて17日後、トキノミノルは、破傷風に伴う敗血症で死んだ。
岩下騎手は別件で外出していたが、トキノミノルの容態悪化を知らされて府中へと駆けつけ、弱りきったトキノミノルに「どうした?どうした!」と声をかけた。すると相棒の声を聞いて安心したのか、トキノミノルは目を閉じたという。

幻になった名馬


日本の競馬ファン全てが、その早すぎる死を惜しんだ。
永田は獣医と調教師に「ダービーの賞金もみんな使え。レースに出れなくなってもいいから、命だけは助けてやってくれ」と頼み込み、ダービーの1着賞金ほぼ全額或いはそれ以上の金額を治療に投じ、岩下騎手と共に破傷風の血清を自身の車で小平の競走馬診療所まで受け取りに行ったという。

トキノミノルの死は一般紙でも取り上げられ、作家の吉屋信子から毎日新聞に次の追悼文が寄せられた。

「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーに勝つために生まれてきた幻の馬だ」

この『幻の馬』は、そのままトキノミノルの二つ名として受け入れられた、
そして彼の死から4年後、馬主の永田は当時自身が経営していた「大映」でトキノミノルをモチーフに映画『幻の馬』を制作している。

死後、1969年から、東京4歳ステークス(現:共同通信杯)の副題として「トキノミノル記念」が採用された。 
また、トキノミノルの病状は詳細に記録され、後の破傷風研究の進歩に貢献している。

現在、トキノミノルは、東京競馬場正門前の馬霊塔にて、安らかに眠っている。
もしかしたら、あの世で他の名馬と共に草原を駆けているのかもしれない……



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最終更新:2024年02月01日 06:31

*1 範囲を戦前・地方競馬まで広げても歴代4位。そのうち中央で勝っているのは11走無敗のクリフジのみ