ロマニー地区の通りは、昼前になると人の流れが緩やかになる。
朝の仕入れと昼の客の間、ほんのわずかな静けさが訪れる時間だ。
クエイルは、その時間帯が嫌いではなかった。
騒がしすぎず、だが完全に止まっているわけでもない。
どこか緩んだ空気の中で、人々はそれぞれの用事をこなしている。
――世界は、こういう場所で出来ているのかもしれない。
そんなことを考えながら、彼は足を止めた。
「また来てくれたんですね」
柔らかな声がした。
顔を上げると、小さな花屋の軒先。
店の前で、水差しを持った娘がこちらを見ていた。
「……近くを通ったので」
「三日連続ですよ?」
「偶然です」
「ふふっ」
娘は軽く笑い、花に水をやる。
年の頃はクエイルより少し下だろうか。
金色の髪は陽に透け、店先に並ぶ花と自然に馴染んでいた。
派手ではないが、よく整った顔立ちをしている。
それよりも印象的なのは、その落ち着いた物腰だ。
十一課の執務室とは、まるで別の世界にいる気がする。
「今日はお仕事ですか?」
「いえ……その」
クエイルは一拍置いた。
神職とは名乗ったものの、異端審問官である事は明かしていない。
‘お仕事’について、詳しく話したくはなかった。
「本当に、通りがかっただけです」
「そうなんですか」
娘は首を傾げる。
その時だった。
「……あれ?」
ふと、彼女の手が止まる。
「どうしました?」
「この花……」
娘は一本の花を摘み上げた。
淡い紫の花弁が、まだ柔らかく揺れている。
「咲く時期じゃないんです」
「時期、ですか」
「はい。もう少し後じゃないと咲かないはずで」
クエイルは花を受け取る。
慎重に観察する。
見た目には特に異常はない。
だが――
「……匂いが少し強いですね」
「分かります?」
「ええ」
*
確かに、通常より香りが濃い。
意図的に強められているような、不自然さがある。
「最近、こういうのが増えていて」
「増えている?」
「はい。他にも、少しずつ変なんです」
娘は店を見回す。
並ぶ花々はどれも美しく見える。
だが注意深く見れば、微妙に違っている。
咲くタイミング。
色の濃さ。
香り。
――揃いすぎている。
***
「きれいだけど、冬の花は、冬にみたいですよね」
その言い方に、クエイルは少しだけ感心する。
理屈ではなく、感性
それは、知識だけでは得られないものだ
***
「少し調べてみます。他の地区では、この花は咲いているのかを、確認しましょう」
「本当ですか?」
「はい」
クエイルは頷く。
任務ではない。
正式な依頼でもない。
だが――
こういう違和感を、放置していい理由はなかった。
***
「ありがとうございます、クエイルさん」
「仕事みたいなものですから」
「今日は“ちゃんと”仕事なんですね」
「普段から仕事しています」
無職と思われていたんじゃないだろうな
その懸念が顔に出たのか
娘はまた笑った。
「じゃあ、これ持っていってください」
「これは?」
「問題の花です。調べやすいでしょう?」
「……助かります」
受け取る。
その時、娘が一歩近づいた。
「香り、この距離で嗅ぐのがいいんですよ
顔を寄せる。
‐近い
「このくらいじゃないと分からないんです」
「……そうですか」
距離が近い。
明らかに近い。
だが、彼女にその自覚はないらしい。
繊細なまつ毛が、はっきりと分かる距離。
そして、柔らかうな唇…
***
「――クエイル」
背後から声がする。
「こんなところで何してるの?」
振り向くと、フェルメノが立っていた。
尼僧服の上に、白い上着を羽織った‘普段着’姿。
髪は造作に後方でまとめている。
「…どうして、ここに…」
「通りがかっただけ」
「……そうですか」
「それに、ここは私もいきつけだし」
ねっ、と言わんばかりに娘に視線を向ける
「ええ、昨日からいらして下しました。‘お友達になりましょう’っていってくれたんですよ」
屈託のない笑顔で応える。
何がいきつけだ。
嫌な予感しかしない。
***
「で?」
「花です」
「分かるわよ」
「異常がある可能性が」
「面白そうね」
フェルメノは即答した。
「行きましょうか」
「行くんですか」
「行くわよ」
「どこへ?」
「目星がついているんでしょ?」
「人任せですか?」
「まさか」
フェルメノは笑う
「信頼してるのよ」
そう言って、彼女は花屋の娘を見た。
「あなたも来る?」
「え?」
「ちょっと、何言っているんですか?」
娘は目を丸くする。
「えっと……いいんですか?」
「だめ?」
「いえ、行きたいです。けど…」
一瞬の迷い。
店の奥に視線を送る
「ああ、ごめん、ごめん」
フェルメノが場の空気を打ち消すように、手を振りながら謝る。
「お店を空けちゃう訳にはいかないわよね」
「そうですよ。そもそも…」
「店番にクエイル置いていくから」
「なぜ?」
「お気遣いありがとうございます。でも…」
娘が困ったように視線を落とす。
「分かってるわ、冗談よ。悪かったね」
「どうして、あういう言い方をしたんですか?
店を離れた後、隣を歩くフェルメノ問う。
「そんなの決まっているじゃない」
小さく、笑ってこたえる。
「楽しそうだから」
その瞬間、クエイルは理解した。
――ああ、これは
―‘いつものやつ’だ
***
「……分かりました。行きましょう」
諦めたように言う。
昼前の静かな通りに変化はない。
花の香りが、少しだけ強く漂う以外は。
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